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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第三十三話 お料理配信

 逆墓王の王国は崩れていた。


 玉座は砕け、墓標の城壁は白い霧へほどけ、軍勢だった骨片はもう兵の形を取れずに空へ散っている。地面と空の区別はまだ戻らない。白い墓標が上へ沈み、折れた王冠の欠片が横へ流れ、遠くでは白鯨の残骸が薄い膜になって消えかけていた。けれど、王がいた時のような悪意は薄い。墓標群を動かしていた命令は途切れ、霊体兵の冷たさも弱くなっている。完全に消えたわけではない。澪の胸の奥には、まだ半歩遅れた感覚が残っていた。手を握る。少し遅い。足を動かす。少し遅い。けれど、戻し方は覚えている。胸。骨。心臓。呼吸。ここ。そう確認すれば、身体はぎりぎり自分のものに戻る。


 遠くに座標が見えていた。


 《転移》レベル七。逆墓王の討伐報酬で上がったそれが、今まで見えなかった場所を見せている。鐘骸鳥が閉じた帰還の音。白鯨が飲み込んだ空膜の流れ。逆墓王が縫い止めていた魂の感覚。その三つが壊れたことで、地上側へ続く候補が細く浮かんでいた。協会の帰還管理区画か、アークラインの封鎖帰還室か、その近く。揺れている。薄い。少しでも目を離せば消えそうだった。けれど、見える。初めて、帰る場所が見える。


 帰れる。


 そう思った瞬間、身体の奥が空になった。


 魔力がない。短距離ならまだ飛べる。墓標の影から影へ移る程度なら、今の澪でもどうにかなる。だが、ここから地上へ戻るには足りない。距離だけではない。第九環の奥から、壊れた三つの領域の隙間を通り、自分の身体と鎌と空鐘袋をまとめて運ぶ。戦闘中の踏み替えとは別物だった。見えるのに届かない。届く場所にあるのに、腕が動かない。それに似ていた。


「足りない」


 声が配信に乗った。


『何が足りないの』

『魔力って言ってた』

『帰れるけど魔力ないってこと?』

『ここまで来てそれかよ』

『地上から送れないの?』

『無理だろ。第九環だぞ』

『誰かバッテリー持っていけ』

『いけるならとっくに行ってる』

『澪、もう少しだぞ』

『もう少しって言うな。届かないもう少しが一番怖い』

『【公式】アークライン配信管理部:現在、帰還座標に関する未確定情報が含まれます。危険な推測拡散はお控えください』

『公式の文章が焦ってる』

『そりゃ焦る』


 アークライン九環室は静まり返っていた。帰還できる可能性が初めて見えた。その直後に、魔力不足という言葉が届いた。ミナトの指が端末の上で止まる。佐伯は協会共有を開いたまま、何も言わなかった。榊原とユイカは、画面の奥で鎌の横に置かれた空鐘袋を見ている。朱音はマイクを握っていた。背中の羽はしまっている。けれど、肩の後ろに薄い白がにじんでいた。本人も気づいていない。声を出すか迷う。出せば澪の判断を乱すかもしれない。だが、黙って見ているには、距離が近すぎた。


 澪はインベントリを開いた。


 空鐘袋を出す。袋の口が、周囲の光を少しだけ歪める。中には三体分の素材がある。鐘骸鳥。墓喰白鯨。逆墓王。どれも食べ物ではない。料理と呼ぶには遠すぎる。普通の探索者なら触るだけで死ぬ。薬にするにも、封鎖工房、医療班、鑑定、精製、希釈、検査、その全部が必要なものだった。だが、澪には時間がない。座標は今見えている。逆墓王の王国が完全に崩れれば、また見失うかもしれない。


 澪には《調理》がある。


 《悪食》もある。


 白鯨の中で、食べなければ死んでいた。だから食べた。薬のようにし、毒のように飲み、身体を燃やすものに変えて生き残った。なら、今回も同じだった。帰るための魔力がない。なら、作るしかない。


「料理する」


 その一言で、コメント欄が一瞬止まった。


『は?』

『料理?』

『今?』

『ここで?』

『何を?』

『三ボス素材?』

『待て待て待て』

『九環お料理配信始まって草』

『草じゃないが』

『料理タグ付けるな』

『もうこれ飯テロじゃなくて災害テロだろ』

『白鯨の中でも食ってたよな』

『あれ薬みたいなものだろ』

『逆墓王素材も食う気?』

『やめろ』

『でも魔力足りないって言った』

『料理して回復するつもり?』

『【公式】アークライン配信管理部:危険素材の模倣摂取は絶対にお控えください』

『公式が即出てきた』

『そりゃ出る』

『誰かスレ立てた?』

『もう立ってる。勢いヤバい』


 ミナトが正気に戻った。


「配信、切らないで。全記録。コメント制限を最大。協会へ共有。医療班と封鎖工房は待機継続。食品衛生とか言い出す部署は黙らせてください」

「法務で黙らせます」


 佐伯が即答した。


「これは食品ではありません。危険素材の緊急処理です。模倣防止文面を出します。企業、研究機関、海外クランのコメントも監視対象へ」

「もう来ています」


 遥が端末を見たまま言った。


「北辰素材研究所、海外二件、大手クラン四件、あと変な個人が大量です」

「変な個人は消して」

「消しています」

「速いですね」

「進化したので」


 榊原は顔を青くしていた。


「鎌をまな板にしないでください」

「言う相手が遠すぎます」

「それでも言いたいんです」

「映像保存しています」


 ユイカの声も震えている。


「三体分の素材反応が同時に出ています。鐘骸鳥の喉鐘骨、白鯨膜片、黒い重骨片、逆墓王の骨核片。混ぜるとどうなるか、誰も分かりません」

「分からないから、今やってほしくないんですが」

「澪さんは帰るためにやっています」


 黒瀬は画面を見たまま、低く言った。


「食って戻る気だ」


 朱音はマイクを握る。


『澪』

「うん」

『食べて、帰れる?』

「たぶん」

『たぶんは嫌』

「帰る」

『……分かった。見てる』


 澪は頷いた。


 空鐘袋の口を開く。まず、鐘骸鳥の喉鐘骨片を取り出す。白く薄い骨片。触れると音のない震えが指先へ伝わる。帰還を閉じ、距離を狂わせた鳥の骨。次に白鯨膜片。半透明で、青い光を含んでいる。薄いのに重い。白鯨の中で何度も澪を包み、焼き、凍らせ、溶かしかけた膜。さらに黒い重骨片。白鯨の奥で削った骨。重力魔法に馴染み、持つだけで腕が沈む。最後に逆墓王の骨核片。黒ではない。白でもない。見ていると胸の奥が冷える。魂を縫い止めていた王の欠片。


 並べる。


 食材ではない。


 料理でもない。


 澪は鎌を横へ置いた。刃元に白鯨膜片を当てる。刃の欠けた部分が、わずかに震える。鎌が欲しがっている。けれど、全部は食べさせない。帰るのは鎌ではなく、自分だ。


「少し」


 鎌にそう言って、澪は白鯨膜片を小さく削った。


 まず、喉鐘骨片を砕く。粉にする。音を外へ出さない骨粉。これで逆墓王素材の冷たさを少し抑える。次に白鯨膜片を薄く伸ばす。皮のように広げ、黒い重骨片の粉を包む。黒い重骨はそのままだと胃が沈む。沈むだけならいい。魔力回路まで引き込まれる。だから薄く包む。最後に逆墓王の骨核片を爪の先ほど削り、中央に置く。


 火がない。


 澪は白鯨の白い火を思い出す。刃に残っている。完全ではないが、鎌の刃元に少しだけ白い熱がある。普通の火ではない。焼くというより、素材の性質を表へ引き出す火。澪は鎌の背をゆっくり当てた。白鯨膜片が淡く透ける。喉鐘骨粉が震えを止める。黒い重骨粉が内側で沈み、逆墓王の骨核片が冷たく光った。


 匂いはない。


 食欲もない。


 ただ、身体がそれを必要だと分かっている。


『ほんとに料理してる』

『いや料理かこれ?』

『素材処理じゃない?』

『調理スキルってこういうのもありなのか』

『鐘骸鳥粉で魂干渉を抑えてる?』

『白鯨膜が胃の保護材になってるっぽい』

『黒い重骨片を魔力燃料にしてるのか』

『逆墓王骨核は最後だろ普通』

『指示厨いて草』

『先に白鯨膜を焼けって言っただろ』

『お前は何者なんだよ』

『【公式】黒鋼旅団:模倣不可。必要耐性が多すぎます』

『【海外クラン公式】Valkyrie Gate:Is this cooking?』

『海外勢困惑してて草』

『俺らも困惑してる』

『【企業公式】北辰素材研究所:その配合比率について正式な共同研究を――』

『今じゃない』

『【公式】アークライン配信管理部:研究打診・素材取引コメントは制限対象です』

このコメントは削除されました。

『何が消えたんだ』

『見なくていいやつ』


 澪は包んだ素材を手に取った。


 小さい。


 それなのに重い。


 口へ入れる。


 舌が冷えた。次に焼けた。喉が震えた。鐘骸鳥の骨粉が音を殺す。白鯨膜片が胃の奥で広がる。黒い重骨片が身体を沈める。逆墓王の骨核片が胸の奥を冷やす。飲み込んだ瞬間、身体の内側で何かがぶつかり合った。音、重さ、冷たさ、白い熱。全部が混ざる。胃ではない。魔力回路でもない。もっと広い場所で、身体全体が食べたものを処理しようとしていた。


 澪は膝をついた。

 吐きそうになる。

 吐かない。


 胃が戻る。喉が戻る。舌が戻る。焼けた感覚が消え、冷たさが遠くなり、代わりに魔力が少しだけ戻る。ほんの少し。足りない。帰還にはまだ届かない。


「足りない」


 もう一つ作る。


 今度は比率を変える。喉鐘骨粉を多めにする。逆墓王骨核片を減らす。白鯨膜片を厚くする。黒い重骨片は粉にして、中心ではなく外側へ散らす。白い火を弱く当てる。焦がさない。焦げると身体が拒む。白鯨の中で学んだ。薬っぽいものは食べられる。武器に近いものは食べると壊れる。だから、少しだけ食べ物に寄せる。


 食べる。

 今度は沈まない。


 喉が震える。胸が冷える。だが、戻る。魔力が増える。少し。まだ足りない。


『二個目いった』

『食レポしろ』

『する余裕あるわけないだろ』

『薬っぽいって言いそう』

『あったな白鯨腹内食レポ』

『あれ食レポ扱いすんな』

『澪ちゃんの手料理食べたい』

このコメントは削除されました。

『消えるの速い』

『ミナト仕事してる』

『どうせ編集だろ』

『まだアンチいるのかよ』

『不自然に都合よすぎる』

『第九環に都合よさなんてあったか?』

『編集なら十一ヶ月も遭難させるな』

『火力草』


 三つ目。


 逆墓王の骨核片を、さらに細かく削る。粉にすると危ない。空気に溶ける。魂の冷たさが周囲へ広がる。澪は息を止め、白鯨膜片の上へ落とす。喉鐘骨粉で閉じる。黒い重骨片で重さを付ける。鎌の背で軽く押す。丸める。白い火で炙る。


 食べる。

 胸の奥が、一瞬止まった。

 朱音が息を呑む音が九環室に響いた。


 澪の視界が暗くなる。魂が身体から離れかける。魂異常耐性が動く。精神汚染耐性が軋む。悪食が、食べたものを無理やり燃料へ変える。再生が喉と胃と魔力回路を繋ぎ直す。身体強化レベル十が、崩れかけた姿勢を保つ。澪は鎌の柄を握り、胸を打った。


 一度。


 二度。


 三度。


「ここ」


 魔力が戻る。今度は、はっきりと。


 地上への座標が少し太く見えた。消えかけていた光が、もう一度はっきりする。まだ足りない。けれど、届きそうになっている。


『今のやばかった』

『一瞬死んだかと思った』

『胸打った』

『魂戻してる?』

『魂異常耐性ないと無理だろこれ』

『そもそも悪食ないと一口目で死ぬ』

『解説勢助かる』

『助からない。怖い』

『【海外クラン公式】North Crown:We request immediate medical disclosure after recovery.』

『海外も研究目線になってきた』

『国際問題だろこれ』

『澪タソのスプーンになりたいぉ』

このコメントは削除されました。

『かなりヤバいのいるぞ!』

『澪もよぉやるわ』


 澪は空鐘袋を見た。

 もう一つ。

 最後にする。


 鐘骸鳥の喉鐘骨片を薄く削る。白鯨膜片を二枚重ねる。黒い重骨片を砕く。逆墓王の骨核片をほんの少し。さらに、王冠墓標片を爪で削る。白い粉が落ちる。これを入れると、帰還座標に触れやすくなる気がした。理屈ではない。身体がそう感じている。


 澪は小さく息を吐いた。


「最後」


 白い火を当てる。

 素材が淡く光る。

 食べる。

 音が消える。

 重さが消える。

 冷たさが消える。

 次に、全部が戻る。

 身体の奥で、何かが開いた。


【ユニークスキル《不老》を獲得しました】


 文字が浮かんだ。

 澪はそれを見た。

 少し考えた。


「ユニークスキル……不老?」


 声に出した。


 配信が拾った。


 九環室の空気が止まった。


『は?』

『今なんて?』

『不老?』

『不老って言った?』

『ユニーク?』

『聞き間違い?』

『不老!?』

『おいおいおい』

『三ボス食ったから?』

『鐘骸鳥、白鯨、逆墓王を料理して食ったら不老?』

『当たり前みたいに言うな』

『いや三体が三体だから分かるの嫌だ』

『老い止まるの?』

『……不老?』

『ンゴゴゴゴぉンゴ!』

『世界変わるぞ』

『今の配信で流れたのまずくない?』

『【公式】アークライン配信管理部:現在確認中です。未確定情報の拡散はお控えください』

『未確定じゃないだろ澪が言った』

『ログは見えてない』

『でも言った』

『不老素材ってこと?』

『白鯨だけでもやばいのに三ボス料理とか無理だろ』

『【企業公式】北辰素材研究所:不老効果に関する共同研究を正式に――』

このコメントは削除されました。

『企業消されたw』

『笑えない』

『買取いくらだよ』

『値段つけられん』

『一部だけで国の予算吹っ飛ぶだろ』

『【公式】黒鋼旅団:落ち着いてください。模倣は不可能です』

『黒鋼も落ち着けてないだろ』

『どうせアークラインの宣伝』

『アンチの脳、逆墓王に吸われた?』

『草』


 ミナトはコメント制限をさらに強めた。


「不老関連ワード、荒れます。制限します」

「制限しても無理です」


 佐伯の声が硬い。


「協会、政府窓口、医療機関へ即時共有。未確定として扱います。ですが、素材価値の想定を最上位に引き上げます」

「最上位?」

「不老効果が見込めるなら、一部だけで数兆円です。全部の値段は、今は考えない方がいい」

「数兆……一部で?」


 ユイカの声が裏返る。


 榊原は画面の中の空鐘袋を見た。


「あれ、まだほとんど残っていますよ」

「考えない方がいいと言いました」


 黒瀬が低く息を吐いた。


「金の話は帰ってからだ」

「帰ってきた瞬間から金の話になります」

「だから法務がいるんだろ」

「はい。嫌になるほど」


 朱音は画面を見ていた。


 不老。


 言葉の重さは分かる。世界が変わる。医療が変わる。探索者の寿命が変わる。国家が動く。企業が群がる。けれど、朱音にとって今必要なことは一つだけだった。澪が帰ること。目の前で、あの小さな身体が、三体のボス素材を食べてまで帰ろうとしていること。


『澪』

「うん」

『帰れる?』


 澪は座標を見た。


 見える。


 今なら、届く。


「帰れる」


 九環室が一斉に動いた。ミナトが帰還管理を最大段階へ切り替える。水瀬が座標の揺れを拾う。佐伯が協会へ短く指示を出す。榊原とユイカが封鎖ケースの準備を完了させる。遥が外部通信を遮断し、不審なアクセスを弾く。黒瀬が医療班へ走れと命じる。アカリとセレスが通路に出る。


 澪は空鐘袋を閉じた。インベントリへ戻す。鎌を握る。鎌は少し重くなっていた。刃元に三体の名残がある。鐘骸鳥の静かな震え。白鯨膜片の光。逆墓王骨の冷たさ。そこに、澪が食べたものと同じ反応がうっすら残っている。武器も、澪も、少しだけ別のものになっていた。


 ステータスを開く。


【名前】天瀬 澪

【種族】境界人

【レベル】Lv83

【所属】アークライン仮所属/チャンネル《九環》

【状態】重度損傷・魔力回復中・魂異常残留・帰還座標捕捉


【ユニークスキル】

《適応》

《悪食》

《不老》NEW


【通常スキル】

《転移》Lv7 UP

《魂異常耐性》Lv6 UP

《調理》Lv7 UP

《素材加工》Lv6 UP


 澪はそれだけ見て、閉じた。


 長く見る余裕はない。


 座標が揺れている。


 帰る。


 澪は鎌の鎖を手首へ巻いた。空鐘袋はインベントリにある。三体分の素材もある。食べた。生きた。魔力は戻った。帰る場所は見える。


『澪』


 朱音の声。


『こっち』


 澪は目を閉じた。


 見える。


 白い帰還管理区画。封鎖室。待っている人。朱音の声。ご飯。大盛り。


「うん」


 《転移》を使う。


 短距離ではない。


 逃げるためでも、避けるためでもない。


 帰るための転移。


 身体が白く沈む。第九環の墓標が遠ざかる。鐘の残響が背後へ流れる。白鯨の空膜がほどける。逆墓王の冷たさが剥がれる。座標がぶれる。澪は鎖を握る。鎌が手首を締める。行ける。まだ行ける。魂が遅れる。胸を探す。骨。心臓。呼吸。ここ。朱音の声。こっち。


 白い光が弾けた。


 アークライン封鎖帰還室の中央で、警報が鳴った。


『帰還反応を検出しました』

『対象識別:天瀬澪』

『状態:重度損傷』

『特殊素材反応:多数』

『警告:封鎖不能素材を検出』

『警告:魂干渉残留を検出』

『警告:装備危険度測定不能』

『警告:ユニークスキル反応変化』


 光の中から、澪が落ちた。


 着地ではない。落下だった。鎌が床へ刺さり、鎖が手首を支える。空鐘袋は出ていない。インベントリにある。だが、それでも封鎖室の術式板が悲鳴を上げた。床の白い陣が割れかけ、天井の封鎖結界が震え、医療班が一瞬だけ足を止める。澪は顔を上げた。目の焦点が合っていない。髪は短く乱れ、服はほとんど素材の継ぎ接ぎで、身体のあちこちに白い膜と墓標骨が張りついている。けれど、生きている。


 朱音は封鎖境界の外にいた。


 研修生制服のまま、マイクを握ったまま。背中の羽はしまっているはずだった。けれど、抑えきれなかったのか、白い光の輪郭が肩の後ろに薄く浮かんでいた。光輪も一瞬だけ頭上へ出かけ、すぐに消える。澪はそれを見た。ぼんやりと見た。


「朱音先輩、白い」


 朱音の顔が歪んだ。


「澪」


 封鎖担当が止めるより早く、朱音は一歩前に出た。黒瀬が止めようとして、止めなかった。医療班が動く。封鎖工房が警告を出す。佐伯が何かを言う。全部、遠い。朱音は封鎖境界のぎりぎりで膝をついた。


「澪、こっち見て」

「うん」

「帰ってきたよ」

「帰った」

「うん。帰ってきた」

「ご飯」

「作る。大盛り」

「眠い」

「寝ていい」


 澪は鎌から手を離そうとして、離せなかった。鎖が手首に絡んでいる。榊原が慌てて近づき、封鎖手袋越しに鎖へ触れる。鎌は一瞬だけ抵抗した。けれど、朱音の声がした。


「澪を離して」


 鎌が緩んだ。


 澪の身体が前へ傾く。医療班が支えようとした。その前に、朱音が腕を伸ばした。完全に触れるには封鎖手順が必要だった。それでも、澪は朱音の方へ倒れた。白い羽の輪郭が一瞬だけ広がる。光が柔らかく包む。朱音は澪を受け止めた。強くは抱かない。壊れそうだったから。けれど、離さない。


 澪は額を朱音の胸元へ押しつけた。


「……あったかい」


 朱音は息を呑んだ。


「うん」

「天使?」

「たぶん」

「ふわふわ?」

「あとで」

「ご飯」

「あとで」

「眠い」

「寝て」

「うん」


 澪はそのまま意識を落とした。


 十一ヶ月続いた帰還不能事案は、その瞬間、帰還事案に変わった。


 配信はまだ切れていなかった。封鎖室の映像は制限され、澪の状態詳細も隠された。それでも、帰還したことだけは伝わった。朱音に受け止められたことも、ぼんやりと映った。コメント欄はもう制御しきれなかった。


『帰った』

『帰ってきた』

『澪、帰ってきた』

『朱音さん!』

『抱きしめた?』

『天使?』

『朱音さん羽見えた?』

『見えた』

『澪があったかいって言った』

『泣く』

『泣くな無理』

『不老って何だったんだよ』

『帰ってきたから今はいい』

『いやよくない。世界変わる』

『でも今は帰還祝いでいいだろ』

『おかえり』

『おかえり澪』

『【公式】アークライン配信管理部:天瀬澪さんの帰還を確認しました。現在、医療処置および封鎖確認を最優先で実施しています。詳細な状態、素材、スキルに関する情報は確認後に発表します』

『公式もお疲れ』

『おかえり』

『本当におかえり』


 三日後。


 澪はまだ医療封鎖区画にいた。寝て、検査され、起きて、食べて、また寝る。魂異常の残りが完全には抜けず、右腕の神経も遅れている。けれど、命はある。身体は戻る。老いについての検査は、まだ結論が出ない。ただ、細胞年齢、魔力回路の劣化反応、骨の再生状態、どれも通常の探索者とは違う数字を出していた。佐伯はそれを見て、頭痛を押さえた。医療班は興奮しすぎて、アカリに部屋の外へ出された。


 その日の午後、協会とアークラインの合同査定が行われた。


 査定といっても、机の上に素材を並べて値札を付けるような話ではない。国家管理級、医療転用候補、存在進化補助候補、不老効果研究候補、封鎖対象、持ち出し禁止候補。分類だけで数時間かかった。空鐘袋の中身は、全部出せない。出せば部屋が壊れる。だから澪が少しずつ取り出し、榊原とユイカが封鎖し、協会鑑定士が泣きそうな顔で記録した。


 鐘骸鳥の喉鐘骨片。白鯨膜片。白鯨核片。黒い重骨片。逆墓王骨核片。王冠墓標片。玉座白骨片。その他各種素材が大量にある。途中で倒した一般モンスターのものを含めれば数え切れないほどだ。


 三体素材料理の残滓。


 その中で、協会がどうしても譲ってほしいと言ったものがあった。不老効果の研究に関わる可能性がある、ごく少量の三種混合残滓。澪が帰還前に食べた料理の焦げ片に近いものだった。食材ではない。薬でもない。けれど、不老のユニークスキル発現に関わった可能性がある。医療、探索者寿命、損傷回復、存在進化研究。どの分野も、目の色を変えるには十分だった。


 佐伯が資料を置いた。


「天瀬さん。これは売却を強制するものではありません」

「うん」

「協会とアークラインからの正式な依頼です。三ボス由来混合残滓の一部、白鯨核片の微量、逆墓王骨核片の微量、鐘骸鳥喉鐘骨粉の微量。すべて、研究・医療転用・安全基準策定のためです」

「鎌の分は?」

「残します」

「料理の分は?」

「残します」

「朱音先輩のご飯の分は?」

「それは普通のご飯を食べてください」

「うん」


 神楽坂が静かに続けた。


「概算ですが、この一部だけで数兆円規模になります」

「数兆」

「はい」

「全部は?」

「値段をつける段階ではありません。正直に言えば、天文学的な数字になります」

「天文」

「星の数ほど、という意味ではありません」

「知ってる」


 澪は少しだけ嫌そうな顔をした。


「売るの、少しだけ」

「はい。少しだけで構いません」

「頼まれた分だけ」

「それで十分です」

「鎌に使う」

「残りは天瀬さんの所有物として封鎖保管します」

「空鐘袋も?」

「空鐘袋ごと、専用保管区画を作ります」

「持ってたい」

「……わかりました。持っていてください。ただし、開ける時は連絡してください」

「面倒」

「世界が壊れないためです」

「なら、仕方ない」


 朱音は隣で聞いていた。白い研修生制服の袖を軽く握っている。澪は椅子に座り、毛布をかけられ、片手で温かいお茶を持っていた。三日前まで第九環で三体のボスを食べていた人間には見えない。けれど、見た目がどうであれ、机の上には数兆円という言葉が普通に置かれている。


 澪はお茶を飲んだ。


「数兆円あれば、ご飯大盛りいける?」

「一生分以上」

「不老でも?」

「不老でも」


 朱音が答える。


 澪は少し考えた。


「じゃあ、少し売る」


 佐伯が深く息を吐いた。


「ありがとうございます。契約書は分かりやすくします」

「図も」

「図も付けます」

「あと、料理」

「次の話ですね」


 神楽坂が言って、少しだけ笑った。

 澪は首を傾げる。


「配信?」

「世界中が待っています」

「危ない」

「だから、管理下でやります。模倣禁止、素材量制限、医療班待機、封鎖工房待機、朱音さんの普通のご飯付き」

「普通のご飯」

「大盛りです」


 澪は朱音を見た。


「作る?」

「作る」

「なら、やる」


 こうして、チャンネル《九環》の次回配信予定欄に、誰も予想していなかった文字が並ぶことになった。


 お料理配信。

ついに不老となりました。

これで合法ロ……げんふげふん。


次の話は本日の12時に追加投稿します。


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