第三十三話 お料理配信
逆墓王の王国は崩れていた。
玉座は砕け、墓標の城壁は白い霧へほどけ、軍勢だった骨片はもう兵の形を取れずに空へ散っている。地面と空の区別はまだ戻らない。白い墓標が上へ沈み、折れた王冠の欠片が横へ流れ、遠くでは白鯨の残骸が薄い膜になって消えかけていた。けれど、王がいた時のような悪意は薄い。墓標群を動かしていた命令は途切れ、霊体兵の冷たさも弱くなっている。完全に消えたわけではない。澪の胸の奥には、まだ半歩遅れた感覚が残っていた。手を握る。少し遅い。足を動かす。少し遅い。けれど、戻し方は覚えている。胸。骨。心臓。呼吸。ここ。そう確認すれば、身体はぎりぎり自分のものに戻る。
遠くに座標が見えていた。
《転移》レベル七。逆墓王の討伐報酬で上がったそれが、今まで見えなかった場所を見せている。鐘骸鳥が閉じた帰還の音。白鯨が飲み込んだ空膜の流れ。逆墓王が縫い止めていた魂の感覚。その三つが壊れたことで、地上側へ続く候補が細く浮かんでいた。協会の帰還管理区画か、アークラインの封鎖帰還室か、その近く。揺れている。薄い。少しでも目を離せば消えそうだった。けれど、見える。初めて、帰る場所が見える。
帰れる。
そう思った瞬間、身体の奥が空になった。
魔力がない。短距離ならまだ飛べる。墓標の影から影へ移る程度なら、今の澪でもどうにかなる。だが、ここから地上へ戻るには足りない。距離だけではない。第九環の奥から、壊れた三つの領域の隙間を通り、自分の身体と鎌と空鐘袋をまとめて運ぶ。戦闘中の踏み替えとは別物だった。見えるのに届かない。届く場所にあるのに、腕が動かない。それに似ていた。
「足りない」
声が配信に乗った。
『何が足りないの』
『魔力って言ってた』
『帰れるけど魔力ないってこと?』
『ここまで来てそれかよ』
『地上から送れないの?』
『無理だろ。第九環だぞ』
『誰かバッテリー持っていけ』
『いけるならとっくに行ってる』
『澪、もう少しだぞ』
『もう少しって言うな。届かないもう少しが一番怖い』
『【公式】アークライン配信管理部:現在、帰還座標に関する未確定情報が含まれます。危険な推測拡散はお控えください』
『公式の文章が焦ってる』
『そりゃ焦る』
アークライン九環室は静まり返っていた。帰還できる可能性が初めて見えた。その直後に、魔力不足という言葉が届いた。ミナトの指が端末の上で止まる。佐伯は協会共有を開いたまま、何も言わなかった。榊原とユイカは、画面の奥で鎌の横に置かれた空鐘袋を見ている。朱音はマイクを握っていた。背中の羽はしまっている。けれど、肩の後ろに薄い白がにじんでいた。本人も気づいていない。声を出すか迷う。出せば澪の判断を乱すかもしれない。だが、黙って見ているには、距離が近すぎた。
澪はインベントリを開いた。
空鐘袋を出す。袋の口が、周囲の光を少しだけ歪める。中には三体分の素材がある。鐘骸鳥。墓喰白鯨。逆墓王。どれも食べ物ではない。料理と呼ぶには遠すぎる。普通の探索者なら触るだけで死ぬ。薬にするにも、封鎖工房、医療班、鑑定、精製、希釈、検査、その全部が必要なものだった。だが、澪には時間がない。座標は今見えている。逆墓王の王国が完全に崩れれば、また見失うかもしれない。
澪には《調理》がある。
《悪食》もある。
白鯨の中で、食べなければ死んでいた。だから食べた。薬のようにし、毒のように飲み、身体を燃やすものに変えて生き残った。なら、今回も同じだった。帰るための魔力がない。なら、作るしかない。
「料理する」
その一言で、コメント欄が一瞬止まった。
『は?』
『料理?』
『今?』
『ここで?』
『何を?』
『三ボス素材?』
『待て待て待て』
『九環お料理配信始まって草』
『草じゃないが』
『料理タグ付けるな』
『もうこれ飯テロじゃなくて災害テロだろ』
『白鯨の中でも食ってたよな』
『あれ薬みたいなものだろ』
『逆墓王素材も食う気?』
『やめろ』
『でも魔力足りないって言った』
『料理して回復するつもり?』
『【公式】アークライン配信管理部:危険素材の模倣摂取は絶対にお控えください』
『公式が即出てきた』
『そりゃ出る』
『誰かスレ立てた?』
『もう立ってる。勢いヤバい』
ミナトが正気に戻った。
「配信、切らないで。全記録。コメント制限を最大。協会へ共有。医療班と封鎖工房は待機継続。食品衛生とか言い出す部署は黙らせてください」
「法務で黙らせます」
佐伯が即答した。
「これは食品ではありません。危険素材の緊急処理です。模倣防止文面を出します。企業、研究機関、海外クランのコメントも監視対象へ」
「もう来ています」
遥が端末を見たまま言った。
「北辰素材研究所、海外二件、大手クラン四件、あと変な個人が大量です」
「変な個人は消して」
「消しています」
「速いですね」
「進化したので」
榊原は顔を青くしていた。
「鎌をまな板にしないでください」
「言う相手が遠すぎます」
「それでも言いたいんです」
「映像保存しています」
ユイカの声も震えている。
「三体分の素材反応が同時に出ています。鐘骸鳥の喉鐘骨、白鯨膜片、黒い重骨片、逆墓王の骨核片。混ぜるとどうなるか、誰も分かりません」
「分からないから、今やってほしくないんですが」
「澪さんは帰るためにやっています」
黒瀬は画面を見たまま、低く言った。
「食って戻る気だ」
朱音はマイクを握る。
『澪』
「うん」
『食べて、帰れる?』
「たぶん」
『たぶんは嫌』
「帰る」
『……分かった。見てる』
澪は頷いた。
空鐘袋の口を開く。まず、鐘骸鳥の喉鐘骨片を取り出す。白く薄い骨片。触れると音のない震えが指先へ伝わる。帰還を閉じ、距離を狂わせた鳥の骨。次に白鯨膜片。半透明で、青い光を含んでいる。薄いのに重い。白鯨の中で何度も澪を包み、焼き、凍らせ、溶かしかけた膜。さらに黒い重骨片。白鯨の奥で削った骨。重力魔法に馴染み、持つだけで腕が沈む。最後に逆墓王の骨核片。黒ではない。白でもない。見ていると胸の奥が冷える。魂を縫い止めていた王の欠片。
並べる。
食材ではない。
料理でもない。
澪は鎌を横へ置いた。刃元に白鯨膜片を当てる。刃の欠けた部分が、わずかに震える。鎌が欲しがっている。けれど、全部は食べさせない。帰るのは鎌ではなく、自分だ。
「少し」
鎌にそう言って、澪は白鯨膜片を小さく削った。
まず、喉鐘骨片を砕く。粉にする。音を外へ出さない骨粉。これで逆墓王素材の冷たさを少し抑える。次に白鯨膜片を薄く伸ばす。皮のように広げ、黒い重骨片の粉を包む。黒い重骨はそのままだと胃が沈む。沈むだけならいい。魔力回路まで引き込まれる。だから薄く包む。最後に逆墓王の骨核片を爪の先ほど削り、中央に置く。
火がない。
澪は白鯨の白い火を思い出す。刃に残っている。完全ではないが、鎌の刃元に少しだけ白い熱がある。普通の火ではない。焼くというより、素材の性質を表へ引き出す火。澪は鎌の背をゆっくり当てた。白鯨膜片が淡く透ける。喉鐘骨粉が震えを止める。黒い重骨粉が内側で沈み、逆墓王の骨核片が冷たく光った。
匂いはない。
食欲もない。
ただ、身体がそれを必要だと分かっている。
『ほんとに料理してる』
『いや料理かこれ?』
『素材処理じゃない?』
『調理スキルってこういうのもありなのか』
『鐘骸鳥粉で魂干渉を抑えてる?』
『白鯨膜が胃の保護材になってるっぽい』
『黒い重骨片を魔力燃料にしてるのか』
『逆墓王骨核は最後だろ普通』
『指示厨いて草』
『先に白鯨膜を焼けって言っただろ』
『お前は何者なんだよ』
『【公式】黒鋼旅団:模倣不可。必要耐性が多すぎます』
『【海外クラン公式】Valkyrie Gate:Is this cooking?』
『海外勢困惑してて草』
『俺らも困惑してる』
『【企業公式】北辰素材研究所:その配合比率について正式な共同研究を――』
『今じゃない』
『【公式】アークライン配信管理部:研究打診・素材取引コメントは制限対象です』
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『何が消えたんだ』
『見なくていいやつ』
澪は包んだ素材を手に取った。
小さい。
それなのに重い。
口へ入れる。
舌が冷えた。次に焼けた。喉が震えた。鐘骸鳥の骨粉が音を殺す。白鯨膜片が胃の奥で広がる。黒い重骨片が身体を沈める。逆墓王の骨核片が胸の奥を冷やす。飲み込んだ瞬間、身体の内側で何かがぶつかり合った。音、重さ、冷たさ、白い熱。全部が混ざる。胃ではない。魔力回路でもない。もっと広い場所で、身体全体が食べたものを処理しようとしていた。
澪は膝をついた。
吐きそうになる。
吐かない。
胃が戻る。喉が戻る。舌が戻る。焼けた感覚が消え、冷たさが遠くなり、代わりに魔力が少しだけ戻る。ほんの少し。足りない。帰還にはまだ届かない。
「足りない」
もう一つ作る。
今度は比率を変える。喉鐘骨粉を多めにする。逆墓王骨核片を減らす。白鯨膜片を厚くする。黒い重骨片は粉にして、中心ではなく外側へ散らす。白い火を弱く当てる。焦がさない。焦げると身体が拒む。白鯨の中で学んだ。薬っぽいものは食べられる。武器に近いものは食べると壊れる。だから、少しだけ食べ物に寄せる。
食べる。
今度は沈まない。
喉が震える。胸が冷える。だが、戻る。魔力が増える。少し。まだ足りない。
『二個目いった』
『食レポしろ』
『する余裕あるわけないだろ』
『薬っぽいって言いそう』
『あったな白鯨腹内食レポ』
『あれ食レポ扱いすんな』
『澪ちゃんの手料理食べたい』
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『消えるの速い』
『ミナト仕事してる』
『どうせ編集だろ』
『まだアンチいるのかよ』
『不自然に都合よすぎる』
『第九環に都合よさなんてあったか?』
『編集なら十一ヶ月も遭難させるな』
『火力草』
三つ目。
逆墓王の骨核片を、さらに細かく削る。粉にすると危ない。空気に溶ける。魂の冷たさが周囲へ広がる。澪は息を止め、白鯨膜片の上へ落とす。喉鐘骨粉で閉じる。黒い重骨片で重さを付ける。鎌の背で軽く押す。丸める。白い火で炙る。
食べる。
胸の奥が、一瞬止まった。
朱音が息を呑む音が九環室に響いた。
澪の視界が暗くなる。魂が身体から離れかける。魂異常耐性が動く。精神汚染耐性が軋む。悪食が、食べたものを無理やり燃料へ変える。再生が喉と胃と魔力回路を繋ぎ直す。身体強化レベル十が、崩れかけた姿勢を保つ。澪は鎌の柄を握り、胸を打った。
一度。
二度。
三度。
「ここ」
魔力が戻る。今度は、はっきりと。
地上への座標が少し太く見えた。消えかけていた光が、もう一度はっきりする。まだ足りない。けれど、届きそうになっている。
『今のやばかった』
『一瞬死んだかと思った』
『胸打った』
『魂戻してる?』
『魂異常耐性ないと無理だろこれ』
『そもそも悪食ないと一口目で死ぬ』
『解説勢助かる』
『助からない。怖い』
『【海外クラン公式】North Crown:We request immediate medical disclosure after recovery.』
『海外も研究目線になってきた』
『国際問題だろこれ』
『澪タソのスプーンになりたいぉ』
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『かなりヤバいのいるぞ!』
『澪もよぉやるわ』
澪は空鐘袋を見た。
もう一つ。
最後にする。
鐘骸鳥の喉鐘骨片を薄く削る。白鯨膜片を二枚重ねる。黒い重骨片を砕く。逆墓王の骨核片をほんの少し。さらに、王冠墓標片を爪で削る。白い粉が落ちる。これを入れると、帰還座標に触れやすくなる気がした。理屈ではない。身体がそう感じている。
澪は小さく息を吐いた。
「最後」
白い火を当てる。
素材が淡く光る。
食べる。
音が消える。
重さが消える。
冷たさが消える。
次に、全部が戻る。
身体の奥で、何かが開いた。
【ユニークスキル《不老》を獲得しました】
文字が浮かんだ。
澪はそれを見た。
少し考えた。
「ユニークスキル……不老?」
声に出した。
配信が拾った。
九環室の空気が止まった。
『は?』
『今なんて?』
『不老?』
『不老って言った?』
『ユニーク?』
『聞き間違い?』
『不老!?』
『おいおいおい』
『三ボス食ったから?』
『鐘骸鳥、白鯨、逆墓王を料理して食ったら不老?』
『当たり前みたいに言うな』
『いや三体が三体だから分かるの嫌だ』
『老い止まるの?』
『……不老?』
『ンゴゴゴゴぉンゴ!』
『世界変わるぞ』
『今の配信で流れたのまずくない?』
『【公式】アークライン配信管理部:現在確認中です。未確定情報の拡散はお控えください』
『未確定じゃないだろ澪が言った』
『ログは見えてない』
『でも言った』
『不老素材ってこと?』
『白鯨だけでもやばいのに三ボス料理とか無理だろ』
『【企業公式】北辰素材研究所:不老効果に関する共同研究を正式に――』
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『企業消されたw』
『笑えない』
『買取いくらだよ』
『値段つけられん』
『一部だけで国の予算吹っ飛ぶだろ』
『【公式】黒鋼旅団:落ち着いてください。模倣は不可能です』
『黒鋼も落ち着けてないだろ』
『どうせアークラインの宣伝』
『アンチの脳、逆墓王に吸われた?』
『草』
ミナトはコメント制限をさらに強めた。
「不老関連ワード、荒れます。制限します」
「制限しても無理です」
佐伯の声が硬い。
「協会、政府窓口、医療機関へ即時共有。未確定として扱います。ですが、素材価値の想定を最上位に引き上げます」
「最上位?」
「不老効果が見込めるなら、一部だけで数兆円です。全部の値段は、今は考えない方がいい」
「数兆……一部で?」
ユイカの声が裏返る。
榊原は画面の中の空鐘袋を見た。
「あれ、まだほとんど残っていますよ」
「考えない方がいいと言いました」
黒瀬が低く息を吐いた。
「金の話は帰ってからだ」
「帰ってきた瞬間から金の話になります」
「だから法務がいるんだろ」
「はい。嫌になるほど」
朱音は画面を見ていた。
不老。
言葉の重さは分かる。世界が変わる。医療が変わる。探索者の寿命が変わる。国家が動く。企業が群がる。けれど、朱音にとって今必要なことは一つだけだった。澪が帰ること。目の前で、あの小さな身体が、三体のボス素材を食べてまで帰ろうとしていること。
『澪』
「うん」
『帰れる?』
澪は座標を見た。
見える。
今なら、届く。
「帰れる」
九環室が一斉に動いた。ミナトが帰還管理を最大段階へ切り替える。水瀬が座標の揺れを拾う。佐伯が協会へ短く指示を出す。榊原とユイカが封鎖ケースの準備を完了させる。遥が外部通信を遮断し、不審なアクセスを弾く。黒瀬が医療班へ走れと命じる。アカリとセレスが通路に出る。
澪は空鐘袋を閉じた。インベントリへ戻す。鎌を握る。鎌は少し重くなっていた。刃元に三体の名残がある。鐘骸鳥の静かな震え。白鯨膜片の光。逆墓王骨の冷たさ。そこに、澪が食べたものと同じ反応がうっすら残っている。武器も、澪も、少しだけ別のものになっていた。
ステータスを開く。
【名前】天瀬 澪
【種族】境界人
【レベル】Lv83
【所属】アークライン仮所属/チャンネル《九環》
【状態】重度損傷・魔力回復中・魂異常残留・帰還座標捕捉
【ユニークスキル】
《適応》
《悪食》
《不老》NEW
【通常スキル】
《転移》Lv7 UP
《魂異常耐性》Lv6 UP
《調理》Lv7 UP
《素材加工》Lv6 UP
澪はそれだけ見て、閉じた。
長く見る余裕はない。
座標が揺れている。
帰る。
澪は鎌の鎖を手首へ巻いた。空鐘袋はインベントリにある。三体分の素材もある。食べた。生きた。魔力は戻った。帰る場所は見える。
『澪』
朱音の声。
『こっち』
澪は目を閉じた。
見える。
白い帰還管理区画。封鎖室。待っている人。朱音の声。ご飯。大盛り。
「うん」
《転移》を使う。
短距離ではない。
逃げるためでも、避けるためでもない。
帰るための転移。
身体が白く沈む。第九環の墓標が遠ざかる。鐘の残響が背後へ流れる。白鯨の空膜がほどける。逆墓王の冷たさが剥がれる。座標がぶれる。澪は鎖を握る。鎌が手首を締める。行ける。まだ行ける。魂が遅れる。胸を探す。骨。心臓。呼吸。ここ。朱音の声。こっち。
白い光が弾けた。
アークライン封鎖帰還室の中央で、警報が鳴った。
『帰還反応を検出しました』
『対象識別:天瀬澪』
『状態:重度損傷』
『特殊素材反応:多数』
『警告:封鎖不能素材を検出』
『警告:魂干渉残留を検出』
『警告:装備危険度測定不能』
『警告:ユニークスキル反応変化』
光の中から、澪が落ちた。
着地ではない。落下だった。鎌が床へ刺さり、鎖が手首を支える。空鐘袋は出ていない。インベントリにある。だが、それでも封鎖室の術式板が悲鳴を上げた。床の白い陣が割れかけ、天井の封鎖結界が震え、医療班が一瞬だけ足を止める。澪は顔を上げた。目の焦点が合っていない。髪は短く乱れ、服はほとんど素材の継ぎ接ぎで、身体のあちこちに白い膜と墓標骨が張りついている。けれど、生きている。
朱音は封鎖境界の外にいた。
研修生制服のまま、マイクを握ったまま。背中の羽はしまっているはずだった。けれど、抑えきれなかったのか、白い光の輪郭が肩の後ろに薄く浮かんでいた。光輪も一瞬だけ頭上へ出かけ、すぐに消える。澪はそれを見た。ぼんやりと見た。
「朱音先輩、白い」
朱音の顔が歪んだ。
「澪」
封鎖担当が止めるより早く、朱音は一歩前に出た。黒瀬が止めようとして、止めなかった。医療班が動く。封鎖工房が警告を出す。佐伯が何かを言う。全部、遠い。朱音は封鎖境界のぎりぎりで膝をついた。
「澪、こっち見て」
「うん」
「帰ってきたよ」
「帰った」
「うん。帰ってきた」
「ご飯」
「作る。大盛り」
「眠い」
「寝ていい」
澪は鎌から手を離そうとして、離せなかった。鎖が手首に絡んでいる。榊原が慌てて近づき、封鎖手袋越しに鎖へ触れる。鎌は一瞬だけ抵抗した。けれど、朱音の声がした。
「澪を離して」
鎌が緩んだ。
澪の身体が前へ傾く。医療班が支えようとした。その前に、朱音が腕を伸ばした。完全に触れるには封鎖手順が必要だった。それでも、澪は朱音の方へ倒れた。白い羽の輪郭が一瞬だけ広がる。光が柔らかく包む。朱音は澪を受け止めた。強くは抱かない。壊れそうだったから。けれど、離さない。
澪は額を朱音の胸元へ押しつけた。
「……あったかい」
朱音は息を呑んだ。
「うん」
「天使?」
「たぶん」
「ふわふわ?」
「あとで」
「ご飯」
「あとで」
「眠い」
「寝て」
「うん」
澪はそのまま意識を落とした。
十一ヶ月続いた帰還不能事案は、その瞬間、帰還事案に変わった。
配信はまだ切れていなかった。封鎖室の映像は制限され、澪の状態詳細も隠された。それでも、帰還したことだけは伝わった。朱音に受け止められたことも、ぼんやりと映った。コメント欄はもう制御しきれなかった。
『帰った』
『帰ってきた』
『澪、帰ってきた』
『朱音さん!』
『抱きしめた?』
『天使?』
『朱音さん羽見えた?』
『見えた』
『澪があったかいって言った』
『泣く』
『泣くな無理』
『不老って何だったんだよ』
『帰ってきたから今はいい』
『いやよくない。世界変わる』
『でも今は帰還祝いでいいだろ』
『おかえり』
『おかえり澪』
『【公式】アークライン配信管理部:天瀬澪さんの帰還を確認しました。現在、医療処置および封鎖確認を最優先で実施しています。詳細な状態、素材、スキルに関する情報は確認後に発表します』
『公式もお疲れ』
『おかえり』
『本当におかえり』
三日後。
澪はまだ医療封鎖区画にいた。寝て、検査され、起きて、食べて、また寝る。魂異常の残りが完全には抜けず、右腕の神経も遅れている。けれど、命はある。身体は戻る。老いについての検査は、まだ結論が出ない。ただ、細胞年齢、魔力回路の劣化反応、骨の再生状態、どれも通常の探索者とは違う数字を出していた。佐伯はそれを見て、頭痛を押さえた。医療班は興奮しすぎて、アカリに部屋の外へ出された。
その日の午後、協会とアークラインの合同査定が行われた。
査定といっても、机の上に素材を並べて値札を付けるような話ではない。国家管理級、医療転用候補、存在進化補助候補、不老効果研究候補、封鎖対象、持ち出し禁止候補。分類だけで数時間かかった。空鐘袋の中身は、全部出せない。出せば部屋が壊れる。だから澪が少しずつ取り出し、榊原とユイカが封鎖し、協会鑑定士が泣きそうな顔で記録した。
鐘骸鳥の喉鐘骨片。白鯨膜片。白鯨核片。黒い重骨片。逆墓王骨核片。王冠墓標片。玉座白骨片。その他各種素材が大量にある。途中で倒した一般モンスターのものを含めれば数え切れないほどだ。
三体素材料理の残滓。
その中で、協会がどうしても譲ってほしいと言ったものがあった。不老効果の研究に関わる可能性がある、ごく少量の三種混合残滓。澪が帰還前に食べた料理の焦げ片に近いものだった。食材ではない。薬でもない。けれど、不老のユニークスキル発現に関わった可能性がある。医療、探索者寿命、損傷回復、存在進化研究。どの分野も、目の色を変えるには十分だった。
佐伯が資料を置いた。
「天瀬さん。これは売却を強制するものではありません」
「うん」
「協会とアークラインからの正式な依頼です。三ボス由来混合残滓の一部、白鯨核片の微量、逆墓王骨核片の微量、鐘骸鳥喉鐘骨粉の微量。すべて、研究・医療転用・安全基準策定のためです」
「鎌の分は?」
「残します」
「料理の分は?」
「残します」
「朱音先輩のご飯の分は?」
「それは普通のご飯を食べてください」
「うん」
神楽坂が静かに続けた。
「概算ですが、この一部だけで数兆円規模になります」
「数兆」
「はい」
「全部は?」
「値段をつける段階ではありません。正直に言えば、天文学的な数字になります」
「天文」
「星の数ほど、という意味ではありません」
「知ってる」
澪は少しだけ嫌そうな顔をした。
「売るの、少しだけ」
「はい。少しだけで構いません」
「頼まれた分だけ」
「それで十分です」
「鎌に使う」
「残りは天瀬さんの所有物として封鎖保管します」
「空鐘袋も?」
「空鐘袋ごと、専用保管区画を作ります」
「持ってたい」
「……わかりました。持っていてください。ただし、開ける時は連絡してください」
「面倒」
「世界が壊れないためです」
「なら、仕方ない」
朱音は隣で聞いていた。白い研修生制服の袖を軽く握っている。澪は椅子に座り、毛布をかけられ、片手で温かいお茶を持っていた。三日前まで第九環で三体のボスを食べていた人間には見えない。けれど、見た目がどうであれ、机の上には数兆円という言葉が普通に置かれている。
澪はお茶を飲んだ。
「数兆円あれば、ご飯大盛りいける?」
「一生分以上」
「不老でも?」
「不老でも」
朱音が答える。
澪は少し考えた。
「じゃあ、少し売る」
佐伯が深く息を吐いた。
「ありがとうございます。契約書は分かりやすくします」
「図も」
「図も付けます」
「あと、料理」
「次の話ですね」
神楽坂が言って、少しだけ笑った。
澪は首を傾げる。
「配信?」
「世界中が待っています」
「危ない」
「だから、管理下でやります。模倣禁止、素材量制限、医療班待機、封鎖工房待機、朱音さんの普通のご飯付き」
「普通のご飯」
「大盛りです」
澪は朱音を見た。
「作る?」
「作る」
「なら、やる」
こうして、チャンネル《九環》の次回配信予定欄に、誰も予想していなかった文字が並ぶことになった。
お料理配信。
ついに不老となりました。
これで合法ロ……げんふげふん。
次の話は本日の12時に追加投稿します。




