第二十九話 白鯨④ 決着
地上で、天瀬澪が第九環に落ちてから九ヶ月が経とうとしていた。
白鯨に飲まれてからだけでも、半年。季節は変わり、探索者高校の制服は冬服から春の準備へ移り、銀梯子の全滅配信は過去の事件として扱われ始めていた。けれど、終わってはいない。銀梯子の本部には、いまだに花が届く。志摩の最後の撤退命令を切り抜いた映像は、探索者向け講習の教材になった。残った事務職員と引退探索者たちは、クラン解散ではなく、調査協力と遺族対応のために看板を残すと発表した。強かった。判断も悪くなかった。だからこそ、九環へ行ってはいけない。その言葉だけが、声明の最後に残っていた。
五企業への制裁も続いていた。東雲素材流通は九環関連素材の取引資格を停止され、霧島解析工業は観測判断の甘さを協会監査に突かれ、央都装備製作と朱雀運送魔工は安全表示の審査で新規契約が止まった。北辰素材研究所は白鯨素材の医療転用を示唆した広報文を削除し、謝罪し、それでも裏でデータを欲しがっていると噂された。銀梯子は戻らない。企業は残る。その事実が、探索者たちの怒りを長く燃やしていた。
『【協会広報】第九環および関連領域への無許可接近は固く禁止されています』
『銀梯子の声明見た』
『あれ読んでまだ行く奴いるのか』
『いるから協会が毎日言ってる』
『志摩隊長、判断全部早かったよな』
『あれで駄目なら普通は無理』
『普通じゃない奴がいるから勘違いする』
『澪のこと言ってる?』
『澪を基準にするな』
『【公式】アークライン配信管理部:天瀬澪さんへの個人接触、素材取引勧誘、後追い探索誘導コメントは制限対象です』
『澪、まだ帰ってきてないんだよな』
『九ヶ月だぞ』
『白鯨に飲まれて半年』
『断片はまだある』
『三週間前の十二秒が最後?』
『生きてるって言ってくれ』
それでも、止まらない者はいた。
九環素材で一発逆転。銀梯子が二日も持ったなら、自分たちはもっと手前で拾えばいい。澪が配信で食べていた白脂片を少しでも手に入れれば、借金も人生も変わる。そんな言葉は、協会の警告より軽く、速く、暗い場所を流れた。第七環で倒れた配信者。第八環手前で空膜酔いを起こした未登録探索者。第九環外縁に向かう前に装備不備で拘束された三人組。大きな事件にならないだけで、馬鹿はまだ歩いていた。
アークライン観測室の席も、少し変わった。
朱音は毎日はいない。学校がある。実技がある。自分のパーティーがある。卒業までに越えなければならない壁もある。彼女は放課後と休日に来て、来られない日は録音と短い同期文を残す。遥は以前より静かに動くようになり、水瀬は学校側の端末から解析補助を飛ばす。九ヶ月は、待つ者たちの形も変えていた。
それでも、観測室の中央モニターには、同じ文字が残り続けている。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
ミナトはその文字を、もう何千回見たか分からなかった。
榊原は空骨鎖鎌の断片映像を並べている。最初は細い骨鎌だった。鐘骸鳥を越え、白鯨に飲まれ、白い圧膜をまとい、黒い骨質を抱き、刃元の形が変わっていく。修復ではない。成長でも足りない。あれは、戦闘と素材と澪の身体に合わせて、武器の側も別のものになろうとしている。
ユイカは空鐘袋の解析資料を開いていた。
「やっぱり、空鐘袋とインベントリの組み合わせが異常です」
ミナトが目元を押さえたまま答える。
「いまさらですか」
「いまさらですが、いまさらだから怖いんです。インベントリ持ちは探索者全体でも一割未満。実運用容量を考えれば、もっと少ない。そこに空鐘袋を入れて危険素材ごと持ち歩くなんて、普通の運搬理論から外れています」
「物流会社なら即採用ですね」
「冗談に聞こえないんですよ」
黒瀬は何も言わず、ただ座っていた。
ーーー 九ヶ月。
探索者としては、長すぎる遭難。
だが、生存断片はある。なら死亡扱いにはできない。契約も閉じられない。素材も精算できない。葬儀もできない。待つしかない。待つ、という行為は、戦闘よりもずっと精神を削る。
その日、画面が白く点滅した。
ミナトが椅子から跳ねるように身を起こす。
「断片、来ます」
観測室の空気が変わった。
佐伯が外部回線を閉じる。榊原とユイカが映像記録を起動する。黒瀬が立つ。セレスが目を細め、アカリが拳を握る。朱音はいない。探索者高校の実技中だった。ミナトは迷わず、学校側緊急共有に信号を投げた。
白い画面が割れる。
映ったのは、白鯨の中だった。
青い光の脈が、世界の中心のように走っている。白い骨の森は崩れ、黒い圧骨が天井とも床ともつかない方向へ伸び、半透明の膜が何層にも重なっていた。その中央に、澪がいた。小さかった。あまりにも小さかった。巨大な白鯨の内部で、鎖一本を頼りに吊られ、鎌を持ち、全身を白い圧膜と黒い血で汚している。髪は短くなっていた。焼け、削れ、切れたのだろう。探索ジャケットはほとんど原形がなく、鐘骸鳥の翼骨膜と白鯨の膜片を継ぎ接ぎしたものを肩や腰に巻いている。肌の上には、白い空膜の薄い膜がところどころ固まり、防具のように張りついていた。
顔色は悪い。
だが、目は死んでいない。
澪の前方に、巨大な青い核があった。
心臓ではない。胃でもない。白鯨の内部を巡る魔力と圧と空膜が、一度そこへ集まって、また全身へ流れている。青い星を骨と膜で包んだようなもの。外側には黒い圧骨が何重にも絡み、内側では白い光が脈打っていた。白鯨の核。あるいは、白鯨を白鯨として泳がせている航路の中心。
澪はそこへ向かっていた。
『映った!』
『澪!』
『生きてる!』
『髪短くなってる』
『装備どうなってるの』
『あれ素材巻いてる?』
『言い方気をつけろ』
『ミナトさん見てるぞ』
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『はやい』
『核?』
『白鯨の心臓?』
『心臓って感じじゃない』
『綺麗すぎる』
『怖いのに綺麗』
『絶景だけど絶対行きたくない』
『半年だぞ』
『白鯨に飲まれて半年だぞ』
『澪、まだ戦ってる』
澪は動いた。
以前の澪は、一撃を重く使っていた。支点を作る。隙を見つける。深く入れる。抜く。その一撃で、状況を変える。だが、今の澪は違った。
鎌が入るが浅い。すぐ抜き鎖を返す。
石突きで黒い骨を打つ。
短距離《転移》で角度を変える。
鎌を戻さず、鎖の中間を足場にして身体を回す。
二撃目。
三撃目。
四撃目。
黒い圧骨の表面を削る。深くは入れない。深く入れれば白鯨の膜が包んで止める。なら、浅く、速く、何度も入れる。削る。剥がす。白鯨の修復が始まる前に、別の角度から同じ場所へ重ねる。鎌の刃、鎖の張り、石突き、膝、短杭、転移、空中での反転。すべてが繋がっていた。連撃だった。だが、ただの連打ではない。一本目で膜を裂く。二本目で圧を逃がす。三本目で黒骨を露出させる。四本目で鎌へ食わせる。五本目で身体を逃がす。
白鯨の核が脈打つ。
重力。
全方向から来る。
澪の身体が潰れかける。だが、以前より沈まない。身体の軸が勝手に斜めになる。骨が圧を逃がし、筋肉が潰れる前に形を変える。痛みはある。あるはずだ。だが、澪の動きは止まらない。痛みを無視しているのではない。遠くへ置いている。今必要な情報だけが残っている。
氷魔法が足元から伸びる。
澪は踏まない。鎖を踏む。鎖の張力で身体を浮かせ、氷の根元へ鎌を入れる。割らない。切り離す。氷が伸びる力を、次の移動に使う。
雷の閃光が鎖へ走る。
澪は鎖を離さない。離さず、魔力を一瞬だけ逆に流す。雷が鎖を通り、刃元の白鯨膜へ逃げる。完全には逃がせない。右手が焼ける。指が痙攣する。それでも鎌は落ちない。焼けた皮膚の奥で、肉が戻り始める。
火。それも白い火。
澪は空鐘袋を出さない。出せば焼かれる。食料も素材も、いまはインベントリの奥だ。白火の中で、澪は鎌を回す。刃についた黒い骨粉と白鯨膜が焦げ、奇妙な匂いがした。食べ物ではない。だが、澪の身体はそれを食べ物に近いものとして認識していた。
闇。意識が沈む。
澪は自分の腕を鎌の柄で打った。痛み。遠い。だが、位置は戻る。自分の腕。自分の鎌。自分の身体。まだ動く。
青い核の外殻が、少しずつ削れていく。
コメント欄が追いつかない。
『速い』
『動き変わってない?』
『連撃してる』
『前と違う』
『一撃じゃなくて削ってる』
『鎌の軌道見えない』
『今、転移挟んだ?』
『挟んだ』
『何回攻撃してるんだ』
『白鯨の核、削れてる?』
『澪、痛くないのか』
『痛くないわけないだろ』
『でも止まらない』
『【公式】黒鋼旅団:鎖鎌運用が以前の断片と別物です。連撃時の支点変更速度が異常』
『黒鋼が実況してる』
『【企業公式】央都装備製作:空骨鎖鎌の構造変化を確認。白鯨由来素材による自己補強の可能性』
『企業黙って見てろ』
『【公式】アークライン配信管理部:素材取引・解析依頼コメントは制限中です』
『ミナトさん忙しい』
探索者高校の実技棟にも、同じ映像が出ていた。
朱音は槍を構えたまま、画面を見ていた。久遠は止めなかった。止めるな、とも言わなかった。朱音はもう止まらない。映像の中の澪は、九ヶ月前の澪ではない。細く、壊れそうで、しかしどこか別の強さをまとっている。綺麗な場所で、綺麗ではない方法で生き延びてきた姿だった。
遥が小さく呟いた。
「動き、増えてる」
「うん」
「澪ちゃん、あんなに連続で入れるタイプだったっけ」
「違う」
水瀬の声が硬い。
「身体能力が上がっている。鎌の扱いだけじゃない。転移後の姿勢制御、空中での加速、着地しない連撃。以前の断片より明らかに速い」
「白鯨の中で、何食べたんだろうね」
「聞きたくない」
「私も」
朱音は何も言わず、アプリを開いた。
録音ではない。
今回は、短い生音声が通った。
『澪』
観測室でミナトが即座に拾い、優先同期へ乗せる。
『澪、見てる』
届くかは分からない。
だが、映像の中で、澪の目が一瞬だけ動いた。
青い核へ向けたまま、ほんの少しだけ。
「うん」
声が拾われた。
コメント欄が爆発する。
『届いた!』
『朱音さんの声届いた!』
『うんって言った』
『九ヶ月越しのうん』
『泣く』
『泣くな戦闘中だ』
『澪、見てるぞ』
『帰ってこい』
『帰ってこい』
白鯨の核が、大きく脈打った。
怒った。
いや、恐れた。
白鯨の内部全体が反転する。黒い圧骨が軋み、白い膜が閉じ、青い核の外殻が何重にも重なる。澪を遠ざけるための防御。核へ届かせないための最後の収縮。白鯨の質量が、内部へ向いて落ちる。外から押すのではない。内側へ潰す。澪の周囲の空間が狭くなる。鎖を伸ばす余裕がなくなる。支点が消える。黒い骨が膜に飲まれていく。
澪はインベントリを開いた。
空鐘袋を取り出す。
中から、黒圧骨片の粉、白脂片、空膜苔、白鯨の膜片を出す。戦闘中。核の前。食べている場合ではない。だが、食べなければ、次の圧で潰れる。澪は迷わない。白脂片をそのままでは食べない。黒圧骨粉を直接飲まない。空膜苔で包み、鐘骨片で残響を抜く。加熱する時間はない。白い火を刃にまとわせ、鎌の背で一瞬だけ炙る。
食べる。
喉が拒む。
飲み込む。
胃が沈む。
骨が重くなる。
筋肉が熱くなる。
魔力回路が痛む。
痛みは遠い。
澪は鎌を握る。
「足りる」
何が足りるのか、自分でも分かっていない。
ただ、身体が動く。
圧が来る。高威力の重力魔法が澪に襲い掛かる。
今度は潰れなかった。
いや、潰れている。皮膚の奥、骨の表面、肺の端。細かく壊れている。だが、壊れたそばから、白鯨の素材で補うように戻っていく。肉体が白鯨の中で生きる形を覚えている。食べたものが燃料になり、毒になり、補強材になり、痛みを遠ざける。
澪は前へ出て鎌を入れる。抜く。転移。鎖を返す。短杭を打つ。鎌を戻す。膝で黒い骨を押す。身体を反転。鎌を縦に入れる。横へ裂く。を高速で繰り返す。
白鯨の膜が閉じる前に、石突きで外殻を打つ。
連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。連撃。
青い核の外殻が割れる。
白鯨の内部から、声にならない海鳴りが響いた。白い膜が暴れ、黒い骨が澪を刺そうと伸びる。澪は避けない。全部は避けられない。一本が腹を貫く。一本が右肩を裂く。一本が太腿を固定する。澪は鎌を離さない。固定された太腿を、身体ごと捻る。肉が裂ける。骨が見える。痛みは遠い。血は出る。出ても動く。
鎌の刃が、核の内側へ届いた。
深い。
初めて、深く入った。
白鯨の核が鎌を包む。逃がさない。折ろうとする。潰そうとする。以前なら、ここで鎌を失っていた。だが、今の鎌は違う。鐘骸鳥の鐘核片が音の輪郭を作り、白鯨の圧膜が潰れを逃がし、黒圧骨片が刃元を支える。鎌が、白鯨の核を食べ始めた。
澪も、空鐘袋から最後の白脂片を取り出した。
核から剥がれた青白い欠片が、近くに浮いている。
危険。
未加工摂取危険。たぶん、そんな表示が出ている。
核片を空膜苔で包む。黒圧骨粉を少し。白火で炙る。形だけの調理。ほとんど儀式。ほとんど毒。澪はそれを口に入れた。
舌が消えたような感覚。
次に戻る。
喉が焼ける。
次に戻る。
胃が重く沈む。
次に、身体の奥で何かが開いた。
澪は名前を知らない。
ただ、白鯨の核の流れが分かった。
青い光の中心。白い圧の通り道。黒い骨の支え。そこを断てば、白鯨は泳げない。食えない。戻れない。
身体を転移させる。鎌は核の中。澪の身体だけが核の側面へ移る。鎖が核の内側を斜めに通る。支点ができる。白鯨の核そのものを支点にする。狂った選択だった。だが、澪にはそれしかなかった。
ただひたすら連撃を繰り返している。
青い光が割れる。
澪は空中で身体を反転し、石突きを核の亀裂へ打ち込んだ。
一撃。
終わらない。
二撃。
まだ。
三撃。
白い膜が閉じようとする。
四撃。
黒い骨が折れる。
五撃。
鎌の刃が核の奥へ沈む。
六撃目で、青い光が砕けた。
その刹那、白鯨が鳴いた。
外側の海鳴りではない。内側から、空膜と墓標と星を全部震わせるような声だった。白い巨体が、遠い外側で暴れる気配がする。内部の空がひっくり返り、白い膜が裂け、星の海が崩れる。澪は吹き飛ばされた。鎌は手にある。鎖が手首に絡む。今度は澪が巻いたのか、鎌が巻いたのか分からない。
青い核が割れる。割れた中心から、白い光が溢れる。その光の中で、澪の視界に文字が浮かんだ。
【墓喰白鯨を討伐しました】
【討伐報酬】
《レベルが上昇しました》
《Lv71 → Lv78》
《スキルオーブ《身体強化》を吸収しました》
《身体強化をレベルが上昇します。》
澪はしばらく、それを見ていた。
呼吸ができない。
けれど、死んではいない。
白鯨の内部が崩れ始める。壁が溶け、空が落ち、墓標片が流れ込む。白い巨体が、内側からほどけていく。素材。大量の素材。黒圧骨、白脂、圧膜、核片、空膜血、墓標化した神経束。持って帰れるだけ持って帰る。澪はふらつきながら、インベントリから空鐘袋を出した。
袋の口を開く。
入れる。大量の素材をゆっくりだが確実に入れていく。まだ入る。
澪は笑わない。ただ、手を動かす。白鯨の死骸が崩れる前に、使えるものを入れる。空鐘袋の内側で鐘骸鳥の喉鐘骨が震え、白鯨素材の圧を押し殺す。袋が重くなる。外見は変わらない。インベントリへ戻す。もう一度出す。入れる。戻す。
「持って帰る」
配信は、その声を拾った。
地上側では、画面が白く乱れていた。白鯨の核が砕ける瞬間、澪が吹き飛ぶ瞬間、そして素材を拾い始める瞬間だけが、断続的に映っていた。コメント欄は、言葉になっていない。
『討伐?』
『今、倒した?』
『白鯨の中で何か割れた』
『澪、生きてる?』
『動いてる』
『素材拾ってる』
『この状況で拾ってる』
『澪だ』
『澪だわ』
『持って帰るって言った』
『帰ってこい』
『素材より帰ってこい』
『でも拾えるなら拾え』
『いや帰れ』
『分からん』
『【公式】アークライン配信管理部:白鯨内部構造の崩壊を確認。映像保存中』
『【企業公式】北辰素材研究所:白鯨核片と思われる高位素材を確認』
『今企業コメントするな』
『【公式】アークライン配信管理部:素材取引コメントは制限中です』
『ミナトさんほんと大変』
『朱音さん見てる?』
『見てるよな』
『澪、帰ってこい』
探索者高校の実技棟で、朱音は画面の前に立っていた。
訓練中だった。
だが、もう槍は下げていた。
白い画面の中で、澪が何かを拾っている。倒れそうな身体で、白鯨の死骸の中から素材を拾っている。九ヶ月。九ヶ月だ。澪はまだ、変なところで澪のままだった。
朱音は笑いそうになり、泣きそうになり、結局どちらにもならなかった。
マイクを握る。
『澪』
ミナトが拾う。
優先同期。
『澪、聞こえてたら、返事はいらない』
朱音の声が震えた。
『帰ってきたら、ご飯作るから』
白い画面の中で、澪の手が一瞬止まった。
「調理、ある」
『使わない』
朱音は即答した。
『今度は、私が作る』
澪は少しだけ目を細めた。
「うん」
白鯨の内部が崩れた。
澪の足元が消える。黒い骨が砕け、白い膜が空へほどける。青い核の残光が、星のように散る。澪は空鐘袋をインベントリへ戻し、鎌を握った。帰還札はない。帰還誘導も不安定。白鯨の中から出ても、第九環のどこへ放り出されるか分からない。
それでも、白鯨は死んだ。
白い鯨の巨体が、空膜の海へ沈んでいく。
その奥に、逆さの墓標群が見えた。
地面ではなく、空に墓が立っている。上下の反転した白い王国。王冠のような骨の塔。重力の向きが場所ごとに違い、砕けた白鯨の骨が空へ落ちていく。遠くで、巨大な何かが椅子に座っているように見えた。
澪はそれを見た。
「次」
声は小さかった。
だが、配信は拾った。
そこで、映像が切れた。
暗い画面に戻る。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
澪は白鯨の残骸から投げ出され、逆さの墓標王国へ落ちていた。
落ちながら、ようやくステータスを開いた。
【名前】天瀬 澪
【種族】境界人
【レベル】Lv78 UP
【所属】アークライン仮所属/チャンネル《九環》
【状態】重度魔力消耗・空膜残響・白鯨内圧汚染・感覚鈍化・帰還不可状態継続中
【ユニークスキル】
《適応》
《悪食》NEW
【通常スキル】
《身体強化》Lv10 UP
《身体操作》Lv7 UP
《魔力操作》Lv8
《魔力強化》Lv7 UP
《魔力感知》Lv7 UP
《格闘術》Lv7 UP
《短剣術》Lv5
《鎖術》Lv9 UP
《投擲》Lv7 UP
《再生》Lv9
《状態異常耐性》Lv7 UP
《精神汚染耐性》Lv6 UP
《魔法抵抗》Lv7 NEW
《衝撃耐性》Lv5 NEW
《消化耐性》Lv6 NEW
《飢餓耐性》Lv5 NEW
《痛覚鈍化》Lv6 NEW
《空膜耐性》Lv7 UP
《空間把握》Lv8 UP
《転移》Lv5 UP
《空中機動》Lv6 NEW
《素材加工》Lv5 NEW
《調理》Lv6 UP
【装備】
《空骨鎖鎌・白鯨喰い変質中》
・鐘骸鳥骨質、同化完了
・鐘核片、安定化
・白鯨圧膜、同化中
・黒圧骨片、刃元へ統合中
・白鯨核片、微量吸収
・音響干渉への限定耐性を保持
・距離干渉への反応補正を保持
・圧力干渉への反応補正を獲得
・重力干渉への微弱補正を獲得
・自動修復反応、強化
・対白鯨特性、形成中
・危険度:測定不能
【所持特殊収納】
《空鐘袋》
・鐘骸鳥由来の空間収納嚢
・白鯨素材を大量封鎖中
・内部圧力上昇中
・長期保管危険
澪は落ちながら、ステータスを見た。
増えている。
とても増えている。
特に、見覚えのないユニークスキルがあった。
「悪食」
声に出して、少し考えた。
白鯨の内圧で潰れ、白鯨の脂を食べ、白鯨の骨を削り、白鯨の核片を飲み込んだ半年。食べなければ死んでいた。だから食べた。そうしたら、スキルになった。それだけのことのように思えた。
もう一つ、目に入る。
「身体強化、レベル十……」
身体が妙に軽い理由が、少しだけ分かった。
ただ軽いのではない。力の置き場所が分かる。落ちながら、どこを動かせば姿勢が変わるのか分かる。鎌の重さが手首ではなく背中へ通り、背中から腰へ落ち、腰から脚へ抜ける。まだ足場はない。だが、足場がなくても身体の使い方が分かる。
澪は鎌を振った。
鎖が伸びる。逆さの墓標へ先端鉤が掛かる。
落下の勢いを殺す。殺しすぎない。身体を横へ流す。九ヶ月前なら肩が抜けていた。今は違う。衝撃が身体の中を通り、逃げる。痛みは遠い。だが、情報は残る。
澪は空中で一度、身体を回した。鎌が戻る。次の墓標へ掛かる。流れるように移動する。
逆さの墓標王国が近づく。
遠くの玉座で、何かが顔を上げた。
王冠のような骨。
巨大な腕。
逆さに立つ墓標の海。
澪は息を吐いた。
「休みたい」
誰も答えない。
逆墓王の領域が、澪を迎え入れた。
《Tips》
墓喰白鯨の攻略方法。
特になし。
圧倒的な物量と、無尽蔵の魔法攻撃を放つ。1層9環の災害として出会ったら死を待つのみ。
他のフロアボスと戦闘を行い消耗している際に、最上級探索者数百名の大規模レイド戦であれば可能性はあるかもしれません。
また、全盛期の剣聖であれば有効打を与えることが可能であろう。
白鯨戦決着しました。
空を飛ぶ大災害です。




