第二十八話 白鯨③
銀梯子の全滅は、翌朝には探索者業界全体を揺らしていた。
配信は企業側から切断されたが、遅かった。切断前の映像は保存され、切り抜かれ、拡散された。二日間の成功。三日目の番犬。小型と大型の取り巻き。十メートル級の本体。Lv103、二次進化済みの志摩が最後まで撤退を叫び、生命反応が黒くなる瞬間。それらは、綺麗な白い墓標群の映像と一緒に、何度も流れた。
協会は即日、五企業合同遠征に関わった企業への調査を発表した。
東雲素材流通は、九環関連素材の取引資格を一時停止。央都装備製作は、遠征装備の安全表示について審査。霧島解析工業は、観測値の「想定範囲内」という判断が問題視された。朱雀運送魔工は帰還補助装置の販売説明を精査され、北辰素材研究所は回収素材の医療転用を示唆した広報文を削除した。罰則はまだ確定していない。けれど、社名はもう配信画面に焼きついている。白い粉にまみれた東雲のロゴ。割れた封鎖コンテナ。あれ以上の宣伝はなかった。
『【協会広報】第九環関連素材の無許可回収、売買、後追い探索の勧誘行為について調査を開始しました』
『調査じゃなくて処罰しろ』
『銀梯子は帰ってこないんだぞ』
『企業だけ逃げるな』
『【企業公式】東雲素材流通:亡くなられた探索者の皆様に深く哀悼の意を表します』
『軽い』
『そのテンプレやめろ』
『【公式】黒鋼旅団:当面、第九環外縁への独自接近は行いません』
『黒鋼は最初から止めてた』
『【公式】蒼穹クラン:銀梯子の戦闘判断は高度でした。だからこそ、後追いは不可能です』
『強かったのに死んだ、が一番怖い』
『澪はその奥なんだよな』
『澪、まだ生きてるの?』
『断片待ち』
それでも、止まらない者はいた。
銀梯子の全滅から二日後、個人探索者三人組が第九環突入を宣言した。登録レベルは四十二、三十七、三十一。配信タイトルは《銀梯子の遺品回収》。協会職員が第五環入口で止めた。翌日、別の配信者が「外縁ではなく手前なら安全」と言って第八環へ向かい、空膜酔いで倒れて救助された。さらにその翌日、非公開で九環素材の買い取りを持ちかけた仲介業者が、アークライン配信管理部の通報で協会監査に入られた。
馬鹿は、利益の匂いがすると足が速い。
佐伯は、淡々と書類を増やした。
「後追い抑止、外部接触遮断、素材取引制限。全部まとめて協会へ出します」
「増えすぎです」
ミナトは目元を押さえた。
「銀梯子の映像を見て、まだ行こうとする人間がいる意味が分かりません」
「分かる必要はありません。止めるだけです」
「止まりますか」
「止まらない者はいます。だから記録を残します」
黒瀬は観測室の奥で腕を組んでいた。銀梯子の戦闘記録を何度も見返している。志摩の判断は悪くなかった。むしろ、かなり良かった。素材を捨てる判断も、撤退戦への切り替えも、取り巻きへの対応も、最後の足止めも、現場の探索者としてはほとんど正解に近い。
だから、全滅した。
正解を重ねてなお届かなかったことが、黒瀬の表情を硬くしていた。
「天瀬は、この番犬から素材を取った」
「はい」
榊原が答える。
「空骨鎖鎌の番犬前脚剥離骨板。形状から見て、同系統の前脚骨です」
「単独でか」
「単独で、死にかけながらでしょうね」
「だろうな」
ユイカは空鐘袋の解析資料を開いた。
「それと、澪さんのインベントリ保持もやはり大きいです。普通はあの環境で素材を抱えて戦えません。インベントリ持ちは探索者全体でも一割未満。実運用可能な容量持ちはもっと少ないです」
「三%前後という見方もあります」
水瀬が学校側回線から補足した。訓練の合間に、映像解析だけは手伝っている。
「澪さんはインベントリに空鐘袋を格納している。袋自体が封鎖と空間拡張を持つため、危険素材を抱えたまま戦闘負荷を減らせます。物流会社なら喉から手が出る人材ですね」
「本人は興味なさそうですが」
ミナトが言う。
「でしょうね」
水瀬の声は淡々としていた。
「澪さんにとって、運搬能力は稼ぐ手段ではなく、拾ったものを持ち帰る手段です」
その頃、澪は白鯨の腹の奥で、拾ったものを持ち帰るために死にかけていた。
白鯨内部の空は、何度も形を変えた。
最初は星の海だった。次に、白い骨の森になった。いまは、巨大な氷の洞窟に近い。上下はまだ曖昧だが、壁に見えるものがある。床に見えるものもある。どちらも信用できない。踏めば沈む。触れれば消化される。空膜の奥を、青い光が脈のように走っている。そのたび、圧が来る。
澪は黒い骨を支点に、鎖を三本分の動きで使っていた。
一本しかない。だが、支点を変えれば三本に見える。投げる、掛ける、外す。戻る前に次の支点へ送る。鎖術Lv8の感覚が、澪の呼吸より先に手を動かしていた。白鯨の内部では地面がない。地面がないから、鎖が足だった。鎌が手だった。黒い骨、白い膜、漂流墓標、氷結した血管、削れた空膜。使えるものは全部使う。
圧が来た。今度は横から。
澪は身体を折った。避けるのではない。薄くなる。圧が通る隙間に身体を合わせる。胸が潰れる。肺の奥で空気が消える。吐き切っていたので、破裂しない。肋骨は何本か軋んだ。だが、折れたままではない。傷口の奥で骨の形が戻り始める。
次に氷。
壁から伸びる。見えてからでは遅い。気配は冷たさではなく、音のなさで来る。澪は鎌を投げた。先端鉤が氷の根元へ掛かる。引く。氷が伸びる方向から身体を外す。左足首が凍った。動かす。裂ける。再生する。神経が繋がり直す痛みで、視界が白く跳ねる。
雷。
空膜の脈を走る。鎖へ来る。澪は鎖を離した。離した鎖が雷を流し、青く光る。離しっぱなしにはしない。雷が抜けた瞬間、柄を蹴って戻す。鎖が手元へ返る。遅ければ失う。早ければ焼ける。ちょうどいい瞬間だけがある。
火。
白い火。燃やすのではなく、形をほどく。ジャケットの残った端が消えた。髪の先も少し消えた。澪は顔をしかめた。
「服、減る」
問題はそこではない。
だが、問題だった。
防具はもうほとんど役に立たない。肌が見える場所が増えるほど、空膜消化が入る。澪はインベントリから鐘骸鳥の翼骨膜を少し出し、破れた肩に巻いた。布ではない。硬い。動きにくい。けれど、空膜の残響を少しだけ弾く。空鐘袋はすぐ戻す。出しっぱなしにしない。白鯨の内部は、持ち物にも触れてくる。
腹が鳴った。
痛みとは違う。
燃料切れの合図だった。
澪は黒い骨の陰へ入り、身体を鎖で固定した。数秒の休憩。休憩と呼ぶには短すぎる。だが、今はそれで十分だった。インベントリから空鐘袋を取り出す。白脂片。空膜苔。さっき削った黒い骨片の粉。白鯨の内壁から削れた半透明の膜。
鑑定する。
【墓喰白鯨の黒圧骨片】
【分類】高位素材
【状態】圧力蓄積・空膜消化反応
【用途】圧力耐性薬・重力干渉材・武器補強材
【注意】未加工摂取危険
「危険ばっかり」
澪は短く言った。
白脂片を薄く削る。空膜苔で包む。黒圧骨片は粉にして、ほんの少しだけ混ぜる。多いと駄目だ。身体の中で圧が暴れる。少なすぎると意味がない。調理スキルが、境目をぼんやり教える。料理というより毒の調整だった。
熱源は白い火を使う。
内壁の隙間から噴いた白火へ、墓標片を近づける。近すぎると消える。遠すぎると生のまま。澪は鎖で身体を吊ったまま、片手で墓標片を回した。白脂が縮む。空膜苔が黒くなる。黒圧骨の粉が青白く光り、一瞬だけ重くなった。
食べる。ーーー まずい。
というより、身体が拒む。喉の途中で止まりそうになる。澪は水の代わりに、内壁から落ちた青い雫を一滴だけ舐めた。舌が痺れる。飲み込む。胃の奥が沈む。次に、骨の内側が少しだけ硬くなったような感覚が来る。
「効く」
良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
少なくとも、次の圧で即座に潰れにくくなる。
配信が戻ったのは、その瞬間だった。
映像は十二秒だけ。澪は白い骨の陰に吊られ、片手で何かを食べていた。頬は削れたまま戻りきらず、左肩には鐘骸鳥の翼骨膜が雑に巻かれている。鎌の刃元は青白く、白鯨の膜片が絡み、鎖の一部は白い火に焼かれて細くなっていた。
『映った!』
『生きてる!』
『また食ってる』
『今度は何食ったんだ』
『顔色悪すぎ』
『肩に巻いてるの鐘骸鳥の素材?』
『服なくなってない?』
『言い方気をつけろ』
『ミナトさん出番です』
このコメントは削除されました。
『はやい』
『【公式】アークライン配信管理部:性的・危険誘導・素材取引コメントは削除対象です』
『生きてるだけでいい』
『さっき銀梯子の配信見た後だと、これがどれだけおかしいか分かる』
『澪、今どこにいるの』
『白鯨の中だろ』
『これが白鯨の中?』
『綺麗すぎて怖い』
『怖いのに綺麗』
『絶景だけど絶対行きたくない』
『【企業公式】北辰素材研究所:黒色骨粉の摂取は極めて危険です。絶対に模倣しないでください』
『模倣できる場所にいない』
『九環に料理配信しに行く馬鹿が出るから言ってるんだろ』
『やめろ本当に出そう』
観測室で、ミナトが映像を保存した。
「十二秒。生存確認。状態は悪化。装備損耗、空骨鎖鎌の白鯨素材反応増加。本人、黒色骨片らしき素材を加工摂取」
「また食ったのか」
黒瀬が低く言う。
「食わなければ持たないのでしょう」
セレスが静かに言った。
「食べることで、あの場所に少しずつ合わせている」
「人間のやることじゃないね」
アカリは笑わなかった。
榊原は鎌の拡大映像を見ている。
「鎌が細くなっています」
「損耗ですか」
「損耗です。ただし、白鯨の膜を取り込んで補っている。刃元の構造が変わっています。鐘骸鳥の鐘核片の外側に、白鯨由来の圧膜が重なっている」
「壊れますか」
「普通ならもう壊れています」
「普通じゃない方は」
「澪さんが使い続ける限り、壊れながら進みます」
佐伯の端末には、銀梯子関連の通知がまだ増えていた。
遺族対応。企業聴取。後追い防止。素材取引凍結。クラン公式声明。協会の緊急会見。全部、地上の話だ。白鯨の中には届かない。
白鯨の中で、澪は十二秒の配信復旧に気づかないまま、黒い骨の先へ進んだ。
進むほど、内部は狭くなった。
狭いといっても、人間の感覚では広い。空間そのものは体育館より大きい。だが、白鯨の中としては狭い。流れが集まっている。圧も強い。氷も火も雷も、ここでは脈のように規則を持ち始めていた。白鯨の外側で受けた雑な魔法ではない。内部の循環。心臓に近いのかもしれない。
澪は黒い骨を辿った。
骨は一本ではなかった。枝分かれしている。白い膜の中を、黒い骨格が網のように走っている。その一部は折れ、白鯨の内壁に取り込まれ、また別の部分は星のように光っている。白鯨自身の骨か、食った墓標の変質か、分からない。だが、支点になる。削れば素材にもなる。
少しだけ削る。
空鐘袋へ入れる。
すぐインベントリに戻す。
澪はそれを繰り返した。
欲張ると死ぬ。少なすぎても、持ち帰る価値が減る。澪はその境目を、驚くほど真剣に考えていた。銀梯子の全滅も、企業の制裁も知らない。だが、素材を持ち帰る大変さは知っている。重さ。汚染。封鎖。干渉。戦闘中の邪魔。普通の探索者が持てる量など限られる。澪はインベントリがある。空鐘袋もある。それでも、白鯨の中では足りないと感じ始めていた。
「もっと、入る?」
空鐘袋は答えない。
だが、袋の口の骨輪がわずかに震えた。鐘骸鳥の喉鐘骨が内側で鳴る。音は外へ出ない。袋の内側だけで、小さな鐘が回る。
まだ入る。澪はそう判断した。その時、白鯨の内部が脈打った。
大きい。
今までの圧とは違う。全体が動いている。白鯨が外側で何かを飲み込んだのか、体勢を変えたのか。黒い骨がしなる。鎖が張る。澪はすぐに身体を低くする。低く、という概念も怪しい。だが、流れに逆らわない姿勢にする。
白い海が、奥から逆流した。水ではない。魔力でもない。
消化中の墓標、空膜、白鯨の血、氷片、星屑のような魔力結晶。それらが混ざった奔流だった。澪は黒い骨へ鎌を掛け、身体を固定する。固定しすぎない。流れが強すぎる。固定すれば、身体だけが引き裂かれる。鎖を滑らせ、少しずつ流される。
氷片が来る。
肩を裂く。
星屑が来る。
皮膚に入り、魔力回路を焼く。
白い血が来る。
服を溶かし、肌を消化する。
墓標片が来る。
腹に入る。抜ける。再生が追う。追いつかない。澪は鎌を離しそうになった。指が痺れる。握力が落ちる。空骨鎖鎌が手元で震えた。鎖が、澪の手首へ一巻きだけ勝手に絡んだ。
澪は目を細める。
「勝手に……」
鎌は答えない。
だが、離れなかった。
流れがさらに強くなる。黒い骨が一本折れた。支点が消える。澪の身体が白い奔流へ投げ出される。転移。短距離。失敗すれば内壁へ埋まる。だが、使わなければ流れの奥へ行く。澪は鎖の張りを目印に、折れた骨の影から別の骨の影へ飛んだ。
視界が切れる。
白。
次に、黒い骨の影。
転移先の空膜に、肘から先が半分めり込む。肉が引かれる。骨がずれる。澪は迷わず鎌の石突きで左肘を叩いた。関節を外す。肉を裂く。腕を抜く。痛みが遅れて来る。喉が鳴る。声は出さない。腕の形が戻り始めるまで待てない。右手一本で鎌を回収する。
圧が来る。何度も味わった重力魔法だ。正面から来たそれを澪は避けられなかった。
胸が潰れた。
肺が完全に空になる。肋骨が内側へ入る。心臓が一拍止まった。視界が黒くなる。再生が始まる。始まる前に、もう一度圧が入る。身体の奥で、戻りかけた骨がまた曲がる。痛みが形を失う。熱いのか冷たいのか分からない。
傷口の奥で肉が戻り始める。折れた肋骨の形が組み直される。潰れた肺が薄く膨らむ。心臓が、遅れて一度だけ強く打つ。神経が繋がり直す。痛みが戻る。戻った痛みで、意識が繋がる。
澪は咳き込んだ。血ではなく、白い液体が出た。
白鯨の内部の魔力だった。肺の中へ入っていたらしい。澪はそれを吐き、呼吸を取り戻す。半分だけ。十分。
「まだ」
声は掠れていた。
黒い骨の奥に、青い光が見えた。
今までの脈とは違う。規則正しい。大きい。心臓ではないかもしれない。核でもないかもしれない。だが、白鯨の内部で、すべての流れが一度そこを通っている。そこへ行けば、何か分かる。弱点かもしれない。出口かもしれない。もっと危険な場所かもしれない。
澪は鎌を握った。
鎖が、手首からほどける。
今度は勝手に動かない。
ただ、次の支点を探すように、刃がわずかに青白く傾いた。
澪はそれを見た。
「そっち?」
答えはない。
けれど、澪は進んだ。
白鯨の奥で、青い光が脈打つ。
そのたびに、圧が来る。
そのたびに、澪の身体は壊れ、戻り、少しだけ白鯨の中での壊れ方を覚えていった。
地上側の画面は、また黒いままだった。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
誰もいない暗い画面の向こうで、澪はまだ進んでいた。




