第二十七話 後追い遠征
五企業合同九環素材回収遠征。その配信告知が流れたのは、澪が白鯨の内部へ飲まれてから地上時間で四日後だった。
探索者協会は、発表直後に警告を出した。第九環および白鯨航路残滓への接近禁止。未確認素材の回収禁止。断片配信を根拠にした後追い探索の自粛。アークラインも同じ内容を重ねた。黒鋼旅団、蒼穹クラン、白鷺医療魔工まで注意喚起を出した。だが、止まらなかった。止まる者なら、最初から配信告知など出さない。
遠征を主導したのは、中堅上位クラン《銀梯子》だった。
第三層までの攻略実績を持ち、隊長の志摩はLv103。二次進化済み。主力メンバーもLv80前後で揃えられている。弱いはずがなかった。一般探索者から見れば、十分すぎるほど高水準の遠征隊だ。けれど第五層は、かつてトップランカーを含む攻略隊が戻らなかったことで禁止区域に指定されている。第四層以降でさえ、国内最大手クランが協会監督下で慎重に触れる領域だ。第三層攻略者と、第九環で白鯨に飲まれてなお生存断片を返している澪との間には、レベルや装備だけでは埋まらない断絶があった。
その断絶を、配信を見ている多くの者は知らない。
背後には五つの企業がいた。東雲素材流通。央都装備製作。霧島解析工業。朱雀運送魔工。北辰素材研究所。公式発表では、目的は「危険領域外縁の観測」と「漂着素材の安全回収」だった。けれど、配信タイトルにはもっと分かりやすい言葉が並んでいた。
《九環素材回収遠征 白鯨航路の外縁へ》
配信開始時点の同時視聴者は、十二万人を超えていた。
『始まった』
『本当に行くんだ』
『協会がやめろって言ってたやつ』
『銀梯子ならワンチャンあるでしょ』
『隊長Lv103ってマジ?』
『二次進化済みは普通に化け物』
『主力Lv80前後でしょ。装備も企業製だし、外縁ならいけるのでは』
『澪が奥まで行きすぎてるだけ説』
『【公式】銀梯子:本遠征は十分な安全対策と撤退計画のもと実施します』
『ほら撤退計画あるなら大丈夫じゃね』
『【企業公式】東雲素材流通:危険領域への無謀な突入ではありません。外縁観測と漂着素材回収が目的です』
『素材回収って言っちゃってる』
『白鯨素材とか一欠片で人生変わるだろ』
『【協会広報】第九環および関連領域への後追い突入は推奨されません』
『協会はそりゃそう言う』
『責任取りたくないだけでは』
『【公式】黒鋼旅団:当クランは本遠征への参加・協力を行っていません』
『黒鋼慎重すぎ』
『でも銀梯子もプロだぞ』
《銀梯子》の遠征隊は十八名だった。
前衛六名、遊撃四名、後衛四名、観測二名、素材管理二名。平均レベルは八十前後。隊長の志摩だけが百を超えている。二次進化によって、彼の身体には灰色の角質装甲が薄く浮き、両腕には魔力を逃がす骨格紋が走っていた。種族は岩甲人。防御と踏破に向いた進化だ。第五層級の禁止領域へ踏み込むには足りない。だが、第一層第九環の外縁で観測だけを行うなら、届くかもしれない。そう思わせる程度には、彼らは強かった。
企業側の技術者は同行しない。遠征班に企業製の封鎖コンテナ、牽引ロープ、帰還補助札、簡易観測ドローンを持たせ、地上側から指示を出す。装備も新しい。盾は厚く、鎧は白鯨の圧力対策として補強され、全員の背中には企業ロゴ入りの帰還補助装置がついていた。
志摩はカメラに向けて短く言った。
「我々は天瀬澪の真似をしに行くわけではありません。目的は外縁観測と漂着素材の回収。危険と判断すれば即時撤退します」
声は落ち着いていた。落ち着いているから、悪かった。
自分たちなら引き際を間違えない。そう信じている声だった。
遠征隊は第一層を進んだ。
第一環から第五環までは、問題にならなかった。第六環で速度が落ち、第七環で観測ドローンを二機失い、第八環で後衛の一人が軽度の空膜酔いを起こした。それでも、進んだ。撤退基準には達していない、と企業側が判断した。映像には、遠くで白い空が割れる景色が映っていた。美しい。白く、青く、静かで、ひどく澄んでいる。
第九環外縁に入ったのは、配信開始から六時間後だった。
白い墓標群。沈んだ星空。空膜の裂け目。鐘骸鳥の領域が崩れた後に残った、白い粉のような残骸。遠くには、白鯨が通った航路の傷があった。空に海の流れだけが残っている。そこだけ景色が歪み、墓標が根元から斜めに傾いていた。
志摩が手を上げる。
「停止。外縁観測開始」
隊員たちは訓練通りに散った。
前衛が盾を構え、後衛が結界を張り、観測班が杭を打つ。素材管理班が封鎖コンテナを開いた。ドローンが白い粉を拡大する。霧島解析工業の地上オペレーターが興奮を隠しきれない声で言った。
『白鯨航路残滓と思われます。採取可能距離です。三番、五番コンテナを前へ』
志摩は一瞬だけ迷った。
「安全確認は」
『空膜圧は上限内。放射魔力、許容値。採取してください』
素材管理班の二人が前へ出た。
白い粉に封鎖スコップを差し込む。粉は軽く見えた。だが、スコップを持った隊員の腕が沈んだ。重い。白い雪のように見えて、鉛より重い。二人がかりでコンテナへ移す。コンテナの封鎖術式が青く点灯した。
『取れた』
『いけるじゃん』
『本当に素材あるのか』
『これだけでいくらだ?』
『Lv100超え隊長いると安定感あるな』
『第九環でも外縁ならいける説』
『【企業公式】東雲素材流通:白鯨航路残滓の初回封鎖に成功』
『成功きた』
『これ歴史的成果では』
『【公式】アークライン配信管理部:該当素材の性質は未確定です。後追い採取は重大な危険を伴います』
『アークライン来た』
『そりゃ自分とこの澪以外に取られたくないんだろ』
『陰謀論やめろ』
『でもアークラインも素材欲しいだろうしな』
『澪は奥、銀梯子は外縁。別物じゃね?』
初日は、成功に見えた。
遠征隊は白鯨航路残滓を四コンテナ分回収した。空膜苔に似た白い藻を少量。墓標片を十二個。白鯨のものかどうか分からない、半透明の膜片を三枚。負傷者は二名。どちらも軽傷。第九環外縁の滞在時間は三時間四十二分。志摩は予定より三十分早く撤収を決め、隊を第八環側の仮設安全域まで戻した。
夜の報告配信で、企業側の表情は明るかった。
『一日目成功では?』
『普通に帰ってきた』
『協会警告しすぎだった?』
『いや危険なのは危険だろ』
『でも銀梯子すごいな』
『白鯨素材、実在確認だけでヤバい』
『【企業公式】北辰素材研究所:回収素材の一部から高密度再生因子に類似する反応を確認しました』
『再生因子!?』
『医療革命くる?』
『【公式】白鷺医療魔工:未確認素材の医療転用には長期検証が必要です。現段階での効能断定は危険です』
『白鷺が釘刺してる』
『でも夢あるな』
『澪が食ってたのもこれ系か?』
『あいつは基準にするな』
二日目も、遠征は続いた。
協会は再度警告を出した。アークラインも、白鯨航路残滓は時間差で性質が変化する可能性があると注意喚起した。だが、初日の成功が空気を変えていた。視聴者は、映像を見ている。銀梯子は戻った。素材も取った。負傷者も軽傷で済んだ。なら、外縁なら行けるのではないか。白鯨本体に突っ込まなければいいのではないか。そういう言葉が増えていく。
二日目、遠征隊は前日より少し奥へ入った。
志摩は慎重だった。観測杭を二重に打ち、撤退ルートを三本確保し、帰還補助装置は起動前点検だけに留めた。危険な判断ではない。むしろ、普通なら堅実な判断だった。だが、企業側は前日より前のめりだった。
『白膜片反応、前方二十メートル。回収可能です』
「撤退ルートを維持できる範囲までだ」
『了解。十メートル前進で十分です』
十メートル。
その十メートルで、映像の白さが変わった。
空膜の裂け目が近くなる。墓標群の影が長く伸びる。遠くで、海鳴りのような音がした。白鯨はいない。けれど、航路の傷は昨日より深く見えた。
素材管理班が白膜片を拾った。
薄い。透明で、星が透けている。封鎖コンテナに入れると、コンテナの重さが一気に増えた。二人がかりで持ち上げる。持ち上がる。持ち上がった。成功した。
『おお』
『綺麗』
『これは売れる』
『売れるとかいう次元か?』
『これで二日連続成功じゃん』
『銀梯子、評価上がるな』
『【企業公式】東雲素材流通:白膜片の封鎖回収に成功しました』
『東雲ウキウキで草』
『【協会広報】第九環外縁での継続滞在は危険度が上昇します。速やかな撤退を推奨します』
『また協会』
『撤退推奨しか言わんな』
『でも昨日もそれで帰れたしな』
『【公式】黒鋼旅団:順調に見える時ほど撤退判断を早めるべきです』
『黒鋼は慎重』
『慎重だから生き残ってるんだろ』
『銀梯子もちゃんと撤退してるから大丈夫そう』
二日目も、銀梯子は戻った。
負傷者は三名。空膜酔い一名。右腕の皮膚剥離一名。結界担当の魔力枯渇一名。どれも処置可能。素材は前日より多い。白鯨航路残滓、白膜片、空膜藻、白い墓標核片。どれも高値がつく。企業側は「外縁限定回収プロトコル」の有効性を発表し、配信はさらに伸びた。
三日目の同時視聴者は、三十八万人を超えていた。
『今日も見る』
『なんだかんだ安定してる』
『三日連続成功なら本物だな』
『銀梯子、名前売れたな』
『外縁だけなら企業遠征の時代くる?』
『澪みたいに単独で奥に行くのは異常だけど、チームなら外縁はいけるのかも』
『【協会広報】第九環関連領域への継続接触は危険度が累積します。三日目以降の突入は特に推奨されません』
『危険度が累積って何』
『疲労のこと?』
『素材の汚染とか?』
『よく分からん』
『【公式】アークライン配信管理部:白鯨航路残滓は静的な地形ではありません。滞在・採取・搬出の影響で反応が変化する可能性があります』
『難しい言い方するな』
『つまり怒るってこと?』
『残滓が怒るは草』
『でも九環ならありそう』
三日目、志摩は出発前に言った。
「本日で外縁調査を終了する。予定採取量に達した時点で撤退。深追いはしない」
正しい判断だった。
遠征隊は前日までのルートを辿った。第八環の安全域から、第九環外縁へ。観測杭は残っていた。撤退ルートも見えている。白膜片の採取地点も、昨日と同じように白く光っていた。すべてが順調に見えた。
違ったのは、墓標の根元に残った傷だった。
足跡ではない。
抉れた前脚痕。二本の長い爪が、白い墓標を斜めに削っている。深い。鋭い。しかも、そこだけ墓標が妙に新しかった。古い傷跡ではない。ついさっき、そこを何かが通ったように、白い粉がまだ宙に浮いていた。
観測班がそれを見つけた。
「隊長、爪痕です」
「いつのものだ」
「分かりません。ただ、昨日の映像にはありません」
志摩の表情が変わった。
「撤収準備」
『まだ採取地点手前です』
「撤収準備だ。近くにいる可能性がある」
企業側の声が一瞬止まった。
『了解。ですが、観測だけでも』
「観測班、爪痕を記録。素材管理班は下がれ。前衛、盾を上げろ」
志摩の判断は早い。早かった。
それでも、番犬はすでに見ていた。
最初に消えたのは、観測ドローンだった。
画面の左上に浮いていたドローン映像が、一瞬で白く乱れる。何かが跳んだ。速すぎて見えない。次の瞬間、ドローンが二つに割れて落ちた。割れた断面に、白い骨のような爪痕が残っていた。
前衛が盾を構える。墓標群の奥で、白いものが動いた。
犬に似ている。だが、犬ではない。
白銀の骨板と、青黒い空膜で組まれた巨体。四足で立っているのに、全高は十メートル近い。遠くにいるはずなのに、前衛の盾列が小さく見えた。頭部には目がない。代わりに、額から喉へかけて青白い裂け目が走っている。前脚が異様に長い。爪というより、鎌だった。白い前脚骨が外側へ剥き出しになり、踏み込むたび墓標を薄く削る。背中には、砕けた墓標の破片がたてがみのように並び、その上に星空のような光が瞬いていた。
巨大な番犬。かつて澪が戦い、前脚骨板を剥ぎ取った個体と同じ型。再び第九環に形を得た、門を守る獣だった。ただし、番犬は一匹では来なかった。その足元で、小さな影がいくつも動いた。
鳥ほどの大きさの犬型魔物が十匹。細く、軽く、白い翼骨のような前脚を持つ。走るというより、地面を跳ねる。墓標の陰から陰へ、白い閃きになって移動している。
さらに、その後ろに馬ほどの大きさの犬型魔物が十匹。こちらは骨板が厚く、背中に墓標片を背負い、喉の裂け目が青く光っていた。動きは小型より遅い。だが、一歩ごとに地面が沈む。
番犬本体は、動かない。奥から、ただ見下ろしていた。
誰かが、かすれた声で呟く。
「番犬……」
その声を、配信が拾った。
『番犬?』
『でか』
『十メートルくらいない?』
『いや取り巻きいる』
『小さいの何匹いるんだ』
『小さい犬みたいなの十匹くらい?』
『でかい方もいるぞ』
『馬サイズの犬も十匹くらい見える』
『本体に近づく前に取り巻き抜ける必要あるのか』
『澪の鎌素材に番犬骨板ってなかった?』
『これと同じ型?』
『【公式】アークライン配信管理部:前脚骨板型の第九環魔物および眷属個体を確認。交戦は推奨されません。即時撤退してください』
『交戦非推奨きた』
『でも取り巻きなら倒せるんじゃない?』
『隊長Lv103だぞ』
『前衛固めろ』
『本体は動いてないし、撤退戦ならいけるかも』
志摩は叫んだ。
「撤退戦! 本体を見るな! 小型を落として道を作れ!」
正しい。
番犬本体へ届こうとすれば終わる。なら、取り巻きを削り、撤退路だけを開く。遠征隊はすぐに動いた。前衛が盾を円形に組み、後衛が結界を張る。遊撃が左右へ散る。観測班と素材管理班が中央へ下がる。高水準の隊だ。崩れない。初動は速い。
最初に来たのは、小型だった。
鳥ほどの大きさ。だが、速い。白い影が墓標の隙間を跳ね、盾列の下へ潜ろうとする。前衛が盾を低く落とす。間に合う。一匹が盾に弾かれ、空中で姿勢を崩した。遊撃の短剣がそこへ入る。首の裂け目を切る。小型が砕けた。白い骨片が散る。
一匹目。
コメント欄が沸いた。
『倒した!』
『小型はいける』
『さすが銀梯子』
『一匹落としたぞ』
『本体は無理でも取り巻きなら戦える』
『いいぞ』
『【企業公式】央都装備製作:防圧盾、小型個体の突撃を防御確認』
『企業実況するな』
『でも装備効いてるのは事実』
『撤退路作れれば勝ち』
二匹目、三匹目も落ちた。
後衛の氷魔法が小型の脚を止め、遊撃が仕留める。志摩は動かない。中央で全体を見ている。馬ほどの大型が前へ出た瞬間、志摩が剣を振る。岩を断つ重い斬撃。大型の前脚に入る。骨板が割れ、大型が傾いた。前衛二人が押し込み、槍役が喉裂けを貫く。大型が倒れた。
一匹、道連れにした。
いける。そう見えた。
『大型も倒した!』
『戦えてるじゃん』
『本体さえ動かなければ撤退できる』
『隊長強い』
『Lv103は伊達じゃない』
『これなら数匹落として下がれる』
『【公式】黒鋼旅団:取り巻き個体を撃破しても本体の行動条件が変化する可能性があります。撤退を優先してください』
『黒鋼まだ言ってる』
『撤退戦だから合ってるだろ』
『でも今のところ銀梯子すごいぞ』
番犬本体が、前脚を一歩だけ動かした。それだけだった。地面が沈んだ。
十メートル級の巨体が、白い墓標群へ重さを流す。直接踏まれていない。距離もある。それなのに、遠征隊の足元が一斉に揺れた。小型がその揺れに合わせて跳ぶ。大型が低く突っ込む。隊列の隙間が、ほんの少し開いた。
その隙間へ、小型が入った。速い。
前衛が盾を下げる。間に合わない。小型の前脚骨が、盾の裏へ入る。前衛の腿が裂ける。倒れない。だが、足が止まる。大型がそこへぶつかった。盾ごと前衛が後ろへ押される。結界に当たる。結界が歪む。小型が三匹、歪んだ結界の上を走った。
「上だ!」
遊撃が叫ぶ。上。犬型魔物が上から来た。
白い小型が、結界を足場にして跳ねる。後衛の頭上へ落ちる。魔法使いの一人が防壁を出す。小型の爪が防壁に食い込む。止まった。隣の後衛が雷を撃つ。小型が痙攣する。落ちる。そこへ大型の吠え声が入った。
低い。骨が揺れる。
雷を撃った後衛の手が止まる。小型の死骸を避けようとした前衛の膝が落ちる。大型の一匹が体当たりを入れた。盾がひしゃげ、前衛の身体が結界へ叩きつけられる。鎧は残った。中の骨が折れた。
最初の死者。生命反応が一つ黒くなる。
『あ』
『一人落ちた?』
『生命反応消えた』
『でも小型三匹、大型一匹倒してる』
『数は減ってる』
『いけるのか?』
『いや隊列崩れた』
『本体まだ何もしてないぞ』
『一歩動いただけでこれ?』
『【公式】アークライン配信管理部:本体番犬の質量干渉を確認。撤退してください』
『本体まだ遠いのに干渉してるのか』
『取り巻きが合わせてくるのやばい』
志摩が前へ出た。
岩甲人の装甲が腕に浮く。剣を両手で握る。大型が二匹、同時に来る。左は盾役が止める。右を志摩が受ける。剣と前脚骨がぶつかる。白い粉が散る。志摩の骨格紋が赤く光る。大型の力は重い。だが、止められる。志摩は踏み込み、首へ剣を入れた。骨板が割れる。大型が倒れる。
二匹目。
遊撃が小型をもう一匹仕留めた。
四匹目。
遠征隊は、確かに強かった。だが、取り巻きはまだ多い。小型六。大型八。番犬本体一。番犬本体の喉裂けが、青く光った。志摩が顔を上げる。
「全員、伏せろ!」
特殊攻撃。墓標反転。
白い墓標群が、一斉に内側から開いた。花のように。刃のように。地面が割れ、撤退路に白い骨の壁が生える。小型はその壁を走る。大型は壁の陰へ消える。遠征隊の視界が切られた。隊列の左右が分断される。
観測班が叫ぶ。
「左側、見えません!」
「壁を壊せ!」
後衛が火球を撃つ。墓標壁が砕ける。砕けた破片が止まった。空中で止まり、逆向きに飛ぶ。反射ではない。墓標そのものを使った返し。破片が後衛の肩、腹、脚へ入る。三人が同時に倒れる。致命傷ではない。だが、詠唱が止まった。
その瞬間、小型が入る。
白い閃きが二つ。
素材管理班の一人が倒れた。喉に白い線。血が遅れて出る。観測班の一人が腕を持っていかれた。悲鳴。通信が割れる。
『急に崩れた』
『墓標が壁になった』
『破片戻ってきたぞ』
『特殊攻撃だろこれ』
『取り巻きが壁使ってる』
『小型速すぎる』
『本体に近づくどころじゃない』
『【公式】黒鋼旅団:墓標操作を確認。視界分断後の包囲に注意』
『注意ってもう包囲されてる』
『撤退路どこ』
志摩は叫んだ。
「素材を捨てろ! 軽くしろ!」
今度は、誰も迷わなかった。
封鎖コンテナが捨てられる。白膜片が入ったケースも捨てる。二日分の成果。企業側の声が一瞬だけ乱れた。
『待ってください、回収済み素材の一部は』
「黙れ!」
志摩の声が通信を潰した。
「命が先だ!」
コメント欄が荒れる。
『隊長正しい』
『企業黙れ』
『今素材の話するな』
『【企業公式】東雲素材流通:安全確保を最優先してください』
『今さら』
『昨日まで成功成功言ってたのに』
『でも現場判断は隊長がまとも』
『その隊長でも押されてる』
捨てた素材へ、大型の一匹が向かった。
素材を回収するためではない。踏み砕くためだった。封鎖コンテナを前脚で割り、白い粉を地面へ戻す。番犬本体は動かない。ただ奥で見ている。取り巻きたちは、持ち出されたものを戻し、侵入者を削る。役割があった。狩りではなく、処理だった。
その処理の中で、銀梯子はなお抵抗した。
遊撃の一人が小型を二匹まとめて誘導し、墓標壁へ叩きつけた。短剣を一本捨て、ワイヤーを首へ絡める。小型二匹が絡まり、後衛の氷魔法で固まる。志摩の一撃がそこへ落ちた。二匹が砕ける。
小型、残り四。
大型、残り八。
遠征隊、残り十二。
戦えている。
だが、削れる速度が違う。
大型三匹が同時に動いた。
正面、左、後ろ。墓標壁の陰から来る。前衛が正面を止める。遊撃が左を止める。後ろは、誰も間に合わない。素材管理班の少女が振り返る。馬ほどの大型犬が、低い姿勢で迫っている。喉裂けが青く光り、前脚骨が空膜を裂く。
志摩は間に合わない。
前衛の一人が、盾を捨てて走った。
間に入る。
大型の突進を、身体で受けた。
盾はない。鎧だけ。防圧鎧が光る。次の瞬間、鎧ごと胸が沈んだ。大型の質量が、前衛の身体を押し潰す。彼はそれでも腕を回し、大型の首に短い杭を打ち込んだ。爆裂杭。青白い火が内部で弾ける。大型が倒れる。
前衛も倒れた。
道連れ。
生命反応が二つ同時に黒くなった。
『道連れにした』
『前衛すげえ』
『でも一人減った』
『大型あと七?』
『小型あと四?』
『数えてる場合じゃない』
『いや数えないと分からん』
『本体まだ無傷だぞ』
『これ取り巻き戦なんだよな』
『番犬本体に届いてない』
志摩は息を荒くした。
撤退路はまだ遠い。遠ざかっている。墓標反転で距離が伸びている。昨日までの道が、今日は別物になっていた。帰還補助札は使えない。番犬の骨振動で帰還輪が割れる可能性が高い。物理撤退しかない。だが、物理撤退のための隊列が、もう保てない。
番犬本体が、二歩目を踏んだ。
巨大な前脚が、白い墓標群へ沈む。
質量攻撃。
地面が傾く。
小型が一斉に跳ぶ。
大型が低く構える。
隊列が、崩れた。
後衛の一人が転ぶ。小型がそこへ入る。隣の後衛が杖で払う。小型の骨板が割れる。だが、別の小型が横から来た。首に白い線が走る。声が止まる。
遊撃が大型の背へ乗る。短剣を喉裂けへ突き込む。大型が暴れる。遊撃は離れない。大型が墓標壁へ身体を叩きつける。遊撃の身体が壁と骨板の間で潰れる。だが、短剣は深く入った。大型の喉裂けが消え、大型が崩れた。
道連れ。
大型、残り六。
遠征隊、残り八。
『削ってる』
『ちゃんと削ってる』
『でも減り方がきつい』
『銀梯子、めちゃくちゃ強いんだよ』
『強いからここまで持ってる』
『でも本体がまだ見てるだけ』
『あの十メートルのやつ、一回も殴ってない』
『それが絶望なんだが』
『【公式】蒼穹クラン:取り巻き戦で消耗した時点で撤退不能です。追加突入は絶対にしないでください』
『もう誰も行かないだろ』
『分からん。二日成功を見て行けると思った奴らがいる』
志摩は決断した。
「散開。三班に分かれて撤退。俺が中央を止める」
「隊長、それは」
「命令だ」
全員で固まれば囲まれる。散れば誰かは抜けるかもしれない。正しいかは分からない。だが、もうそれしかなかった。
残り八人が三方向へ分かれた。
番犬本体の喉が光った。
青白い裂け目が、空葬原の星を吸う。
小型も大型も、一斉に止まった。
志摩が叫ぶ。
「耳を塞ぐな! 骨に来る!」
吠え声。
骨が揺れる。
全員の足が止まった。筋肉ではない。骨格そのものを掴まれる感覚。膝が逆に震え、歯が鳴り、視界が揺れる。小型は動く。大型も動く。番犬の眷属には効いていない。むしろ、その声を合図にしていた。
左班が潰れた。
大型二匹に挟まれた。前衛が一匹を杭で爆破し、道連れにする。だが、もう一匹が後衛を持っていく。小型が残りに群がる。生命反応が三つ消える。
右班は撤退境界まであと少しだった。
素材管理班の少女がいた。彼女は封鎖ケースを全部捨て、帰還補助装置も外し、ただ走っていた。遊撃が一人ついている。小型が追う。遊撃が振り返り、小型に短剣を投げる。一匹落とす。もう一匹が来る。遊撃は自分から前へ出た。
「行け!」
少女は走る。
遊撃が小型を抱え込み、墓標壁へ叩きつけた。小型の前脚骨が遊撃の腹へ入る。遊撃は笑ったように見えた。爆裂札が光る。小型と一緒に白い火へ消えた。
小型、残り一。
少女は撤退境界へ手を伸ばす。
ーー 届く。
その瞬間、墓標反転。
白い墓標が、境界の手前で花のように開いた。刃のように。道が遠ざかる。数歩だった距離が、届かない距離になる。少女は止まれなかった。墓標の刃が彼女の前に立つ。衝突。身体が跳ね返る。そこへ大型が来た。
志摩が見た。見てしまった。少女が振り返る。
声は届かない。
大型の前脚が、静かに上がった。
映像がぶれた。
音だけが入った。
短い、濡れた音。
残り一人。
志摩。
中央で、志摩は立っていた。
小型も大型も、もう彼の周囲には少ない。小型一匹。大型三匹。番犬本体一。取り巻きの半数近くを、銀梯子は道連れにした。弱くはない。無謀だけではなかった。実力はあった。判断も、何度も正しかった。
それでも、本体には届かなかった。
志摩は折れた剣を拾った。
片腕は動かない。胸の装甲は割れ、片膝は崩れている。骨格紋は赤を通り越して黒く焼けていた。息をするたび、血が口から落ちる。
番犬本体が、初めて近づいた。
一歩。
地面が沈む。
二歩。
志摩の膝が揺れる。
三歩。
十メートル級の白銀の頭部が、彼の前へ下りてくる。目はない。だが、見ている。額から喉へ走る青白い裂け目が、静かに開いた。そこに、星が見えた。
志摩は剣を構えた。
「撤退、しろ」
誰に言ったのかもう、撤退する者はいなかった。
番犬の前脚が、静かに上がった。
画面右上の生命反応表示が、ひとつだけ残っている。
志摩。
次の瞬間、それも黒くなった。
《遠征隊生命反応 全喪失》
コメント欄が止まった。
数秒、誰も何も打たなかった。
その静寂の後、公式コメントだけが流れた。
『【協会広報】現在、当該遠征隊の生命反応消失を確認しています。追加突入は絶対に行わないでください』
『【公式】アークライン配信管理部:本件に関する未確認情報、個人情報、後追い誘導、素材取引コメントを制限します』
『【公式】黒鋼旅団:救助目的であっても第九環外縁への突入は推奨しません。救助対象が増えるだけです』
『【公式】蒼穹クラン:全探索者へ。今は動くな。情報を待て』
それから、一般コメントが戻った。
『全滅?』
『嘘だろ』
『十八人いたよな』
『Lv100超えいたよな』
『二日目まで順調だったじゃん』
『番犬本体に届いてない』
『取り巻きで終わった』
『でも何匹か倒してた』
『強かったよ銀梯子』
『強かったのに死んだ』
『小型と大型だけであれかよ』
『あの十メートルの本体、最後までほぼ何もしてない』
『澪はこれと戦ったのか』
『澪、何と戦ってるんだよ』
『やっぱり後追いなんて無理だった』
『企業は責任取れ』
『素材狙いで人死なせたのか』
『銀梯子、好きだったのに』
『隊長、最後まで撤退しろって言ってた』
『もう遅い』
『見てられない』
『でも見ないと分からなかった』
『九環は行く場所じゃない』
『澪はなんで生きてるんだ』
配信ドローンは、まだ浮いていた。
白い墓標群の中で、番犬の取り巻きたちは散らばった素材を踏み砕いていた。白鯨航路残滓は地面へ戻り、白膜片は空膜の裂け目へ吸い込まれる。封鎖コンテナは爪で割られ、企業ロゴは白い粉にまみれていた。東雲素材流通のロゴが、ひどくはっきり映っている。
番犬本体は、最後にドローンを見た。
目はない。
だが、見た。
白い前脚骨が、画面の前へ迫る。
次の瞬間、配信が企業側から切断された。
黒い画面。
無音。
そして、終了表示。
《配信は終了しました》
アークライン観測室では、誰もすぐには喋らなかった。
ミナトは映像保存を終え、協会への提出用に複製した。佐伯はすでに法務回線を開いている。黒瀬は画面を見たまま、低く言った。
「二日持った分、余計に悪い」
それだけだった。
探索者高校では、朱音が訓練場の端でその速報を見た。
《五企業合同遠征隊、生命反応全喪失》
槍を握る手に力が入る。
怒りなのか、恐怖なのか、分からなかった。澪は、あれより深い場所にいる。あの白い鯨の中にいる。Lv103の二次進化者を含む十八人を、番犬の取り巻きが殺し切った領域の、さらに奥で、まだ戦っている。
遥は笑わなかった。
水瀬も、何も言わなかった。
久遠が静かに言った。
「見るなとは言わん。だが、止まるな」
朱音は目を閉じた。
短く息を吸う。
吐く。
「はい」
槍を構える。
穂先に、白金の光が滲んだ。
地上で十八人が死んだことを、澪は知らない。
白鯨の腹の奥で、澪は黒い骨を削り、鎌を支点に、次の流れへ身体を投げていた。誰かの欲で開いた配信も、二日分の成功で膨らんだ期待も、三日目に消えた命も、そこまでは届かない。
届くのは、圧と、痛みと、白い星の海だけだった。
平均レベルが80ですし、高レベルメンバーでもボスは出現します。しかしドロップ率や経験値は著しく低下します。また、スキルオーブは倒せたとしてもドロップしません。
中堅クランですが、インベントリもちは1人もいません。大体大手クランに引き抜かれます。




