第二十六話 白鯨②
場面は変わって白鯨の腹の中です。
白鯨の口内に入った瞬間、上下の感覚が消えた。
飲み込まれた、という言葉とは少し違う。喉を通る感覚はない。胃へ落ちる感覚もない。澪の身体は白い空膜の奔流に巻かれ、星の浮いた海へ投げ込まれた。そこは生物の腹の中でありながら、空だった。頭上にも足元にも青白い星雲があり、遠くには砕けた墓標群が漂っている。水はない。だが、息を吸うと肺の奥に冷たい液体が入ってくるような圧がある。壁は肉ではなく、半透明の白い膜だった。膜の向こうを、巨大な血管のような光がゆっくり流れている。
澪は回転しながら鎌を振った。
刃は白鯨の口内に入れたまま、まだ外れていない。鎖が張る。身体が一気に引かれ、肩が外れそうになる。澪は腕で耐えず、背中と腰を丸めた。鎖を身体に沿わせ、衝撃を逃がす。遅れて、空膜の流れが澪の身体を横から叩いた。骨が鳴る。肺が潰れる。再生が始まる。始まった場所へ、また圧が入る。
息ができない。
水ではないのに、溺れる。
澪は鎌の柄を握り、刃の位置を探った。深く入りすぎている。抜けない。白鯨の内側の空膜は柔らかいくせに、刃を離さない。噛んでいるわけではない。膜そのものが刃を包み、押し潰すように固定していた。澪は鎖を緩め、無理に引くのをやめた。
引けば折れる。なら、斬る。
澪は短く息を吐き、鎌の柄を捻った。刃元に沈んだ鐘核片が小さく震える。鐘骸鳥の音では切れない。だが、音の輪郭で白鯨の膜の薄い場所を拾うことはできる。鎌を押す。捻る。引かない。膜の抵抗が一瞬だけ抜けたところへ、刃を滑らせる。
白い膜が裂けた。鎌が戻る。
同時に、裂け目から白い液体のような魔力が噴き出した。澪は避けきれず、右頬から肩まで浴びた。熱い。冷たい。重い。属性が一定しない。皮膚が焼け、凍り、次に沈む。澪は歯を食いしばり、頬の肉が戻り始める感覚を無視した。
「中、広い」
声が変に響いた。
白鯨の腹の中には、音の返りがない。自分の声が遠くで薄く伸び、白い膜に吸われる。配信が繋がっているかは分からない。たぶん切れている。だが、視界の端にかすかな配信補助マーカーが点滅していた。完全な沈黙ではない。どこかで、地上側が拾おうとしている。
澪は近くの漂流墓標へ鎖を掛けた。
墓標はゆっくり流れている。流れの先には、暗い星の渦があった。白鯨の胃か、別の航路か、分からない。そこへ近づくほど、空膜の圧が強くなる。墓標の表面が削れ、白い粉になって渦へ吸われていく。墓喰白鯨。外側で墓標を食っていた。内側では、食った墓標を空膜と魔力に戻しているらしい。
澪は支点にした墓標へ足をつけた。沈む。
墓標なのに、濡れた肉の上に立ったみたいに柔らかい。足首まで沈んだ瞬間、白い粒子が肌へ入ってきた。異物感。精神汚染ではない。白鯨の消化だ。墓標と同じように、澪の身体も素材としてほどこうとしている。
澪は足を抜いた。
皮膚が薄く剥がれる。血は出ない。血が出る前に、表面が白く溶けた。再生が追いつき、足の形が戻る。痛い。足裏の神経が繋がり直すたび、視界が揺れる。
「地面、駄目」
澪は鎖を張り、身体を浮かせた。
足場を踏まない。壁も長く触らない。墓標は支点にするが、立たない。鎌と鎖だけで移動する。外より難しい。外は地面があった。今は全方向が流れている。落ちる場所もない。だが、流される先はある。そこへ行けば、たぶん戻れない。
空腹が来た。
早すぎる。さっき白脂片を食べたばかりだ。けれど、再生と圧力耐性に身体が勝手に燃料を使っている。喉が乾く。腹の奥が冷たい。魔力も減っている。白鯨の内部は、ただいるだけで削られる場所だった。
澪はインベントリを開いた。
空鐘袋を取り出す。袋の口を少しだけ開き、中から空膜苔と白脂片の削り残しを出した。空鐘袋は無事だ。袋の内側で鐘骸鳥の喉鐘骨が静かに震え、白鯨内部の圧を少しだけ鈍らせている。便利だった。拾ってよかった。
澪は墓標片を足場にせず、鎖で身体を吊ったまま、片手で白脂片を削った。
薄く。中心は駄目。外側だけ。空膜苔で包む。鐘骨片で残響を抜く。加熱はできない。だが、白鯨の内壁から漏れる魔力の熱を使えば、表面だけ処理できる。危険だ。近づきすぎれば消化される。離れすぎれば生のままになる。
澪は鎌の柄で内壁を軽く叩き、白い魔力が染み出す場所を探した。
そこへ墓標片を近づける。じゅ、と音がした。空膜苔が縮む。白脂片が薄く透ける。生命残響が少し抜ける。澪は匂いを嗅いだ。匂いはない。だが、食べられる方の無臭だった。
食べる。胃が沈む。身体が重くなる。
次に、圧に押された骨の奥が少しだけ楽になった。味はない。まずいというより、食べ物に見せかけた薬だった。澪は眉を寄せたまま、残りを空鐘袋に戻す。
「薬っぽい」
その声を、配信が拾った。
地上側で映像が戻ったのは、わずか二十七秒だった。画面は暗く、白い膜と星のような光が歪んでいる。澪の姿は上下逆に映り、鎖で吊られながら何かを食べていた。配信補正はほとんど機能していない。音声も遅れる。それでも、コメント欄は一瞬で跳ねた。
『映った!』
『生きてる!』
『中!?』
『白鯨の中かこれ』
『上下どうなってる』
『また食ってる』
『薬っぽいって言った?』
『食べ物の感想じゃない』
『いや薬なら正解なのか?』
『顔色悪すぎ』
『鎖で吊られてるのやばい』
『地面踏んでない?』
『踏めないんじゃないか』
『【協会広報】第九環および関連領域への後追い突入は絶対にお控えください』
『公式来た』
『言われなくても行かねえよ』
『行こうとしてる奴がいるから公式が来てるんだろ』
『【公式】黒鋼旅団:白鯨内部と思われる領域を確認。当クランは接近調査を行いません』
『黒鋼ですら行かない宣言』
『【企業公式】北辰素材研究所:白脂片の未加工摂取は極めて危険です。絶対に真似しないでください』
『真似できる場所にいない』
『真似したら死ぬ』
『【公式】アークライン配信管理部:危険な買い取り打診、個人接触、後追い誘導コメントは削除対象です』
『さっきから企業多くない?』
『素材価値が見えた瞬間に湧いてる』
『澪ちゃんに食べられたい』
このコメントは削除されました。
『はやい』
『ミナトさん仕事してる』
観測室では、ミナトが二十七秒の映像を即座に保存し、複製を三系統に流した。
「生存確認。白鯨内部、もしくは内部空膜航路。本人、食料または薬効素材の加工摂取を継続」
「怪我は」
「外見上、右頬、左肩、足裏、胸部に損傷痕。再生中。ただし映像が短すぎます」
「白鯨内部で長時間持つと思うか」
「普通なら持ちません」
「天瀬なら」
「持っているから映っています」
ミナトの声は硬かった。
榊原は鎌の映像を見ていた。刃元の色が変わっている。鐘骸鳥の白い線に、淡い青と銀が混ざり始めていた。白鯨の魔力を受けた箇所だ。鎌が傷んでいるのか、取り込んでいるのか、判断が難しい。
「刃が圧に反応しています」
「壊れそうか」
「壊れそうです。ですが、壊れながら変わっています」
「最悪だな」
「最高でもあります」
ユイカが小さく言った。
「澪さん、白鯨の中で素材加工しています。あの袋がなかったら、もう持ち物が全部汚染されてます」
「空鐘袋の封鎖性能が想定以上です」
「鐘骸鳥、かなりいいものを落としましたね」
「本人に伝えられるなら、まず素手で触るなと言いたいですが」
佐伯は外部コメント制限を更新していた。画面の横には、買い取り希望、共同研究希望、素材提供依頼、後追い配信企画の通報が次々に積まれていく。
「後追い宣言が増えています」
「まだ?」
「はい。白鯨内部映像を見て、逆に価値があると判断した者がいます」
「馬鹿か」
「馬鹿でも、死ねば協会とこちらの責任を問われます」
「止めろ」
「止めています」
黒瀬は短く言い、モニターから目を離さなかった。
白鯨の内部で、澪は映像が戻ったことに気づいていなかった。
それどころではない。
暗い星の渦が、さっきより近い。流れが強くなっている。墓標群が次々に砕け、白い粉になって渦へ消える。澪は鎖を三点に張り、身体を中央に吊っていた。だが、支点がもたない。墓標は削れる。内壁は動く。空膜は裂けると魔力を噴く。どれも長く使えない。
白鯨の内部で、青い光が走った。
電撃。
空膜の血管のような光が、壁から壁へ跳ねる。澪は鎖を外した。金属ではない。だが、鎖は魔力を通す。支点にしていた墓標ごと電撃が走り、白い光が鎖へ伝わる。澪は空中で身体を丸め、鎌を引き寄せる。電撃が背中をかすめた。筋肉が跳ねる。心臓が一拍ずれる。息が止まる。
次に、炎。
白い炎だった。熱いのに、色が薄い。空膜を燃やす炎。普通の火ではない。澪の髪の先が焼け、ジャケットの端が消える。燃えるのではなく、白くほどける。澪は内壁から剥がれた墓標片を盾にする。盾は三秒で崩れた。
「火もある」
澪は短く言った。
水、氷、光、闇、重力、雷、火。多い。多すぎる。白鯨はそれぞれの属性を器用に使っているのではない。食ったもの、通った領域、蓄えた魔力をそのまま吐き出している。だから分類が雑で、威力だけが大きい。技ではない。災害の在庫だった。
澪は内壁へ鎌を刺した。
今度は深く入れない。浅く掛ける。支点にするだけ。空膜が鎌を包もうとした瞬間、刃を外す。白鯨の膜は、一度触れたものを覚える。長く触れると沈む。短く触れて、外す。鐘骸鳥の時と同じではないが、考え方は近い。相手の規則を読む。規則が読めないなら、何度も触れて、死なない範囲で覚える。
死なない範囲。その境界が、白鯨の中ではやけに薄かった。圧が来た。
今度は全方向からだった。上も下もない場所で、身体の外側すべてから押される。肺が潰れる。目の奥が痛む。耳から血が出た。澪は息を吐き切った。残した空気があると潰れる。吐いて、身体を小さくする。鎖を巻く。鎌を胸へ寄せる。骨が歪む。戻る。歪む。戻る。再生が痛みを追いかける。
視界の端に、ログが出た気がした。澪は見なかった。今見るものではない。
渦を見る。支点を見る。白鯨の膜の薄い場所を見る。
圧が抜けた瞬間、澪は転移した。
距離は短い。白い墓標片の影から、内壁の裂け目の横へ。移動直後、身体が傾く。空中に上下がないせいで、転移後の姿勢が安定しない。澪は鎖を投げ、支点を作り、身体を回す。遅れれば、渦に吸われる。
鎖が張る。戻る。その瞬間、澪は見つけた。
白鯨の内壁に、黒い骨のようなものが埋まっていた。
白い膜の中に、一本だけ黒い。長い。墓標ではない。骨でもない。白鯨が食った何かの残骸か、白鯨自身の核に近いものか。周囲の空膜の流れが、そこだけ乱れている。星の渦へ向かう流れも、黒い骨の周囲では少し弱い。
支点になる。
澪は鎌を投げた。
先端鉤が黒い骨へ掛かる。今までとは違う手応え。硬い。沈まない。白鯨の内部で初めて、まともな支点だった。澪は鎖を引き、身体を黒い骨へ寄せる。途中で氷の針が来る。肩に入る。無視。光が来る。目を閉じる。闇が来る。空鐘袋の喉鐘骨を袋越しに叩く。重力が来る。鎖を二重に巻く。
黒い骨に辿り着いた。
そこは、流れが弱かった。
澪は黒い骨の陰に身体を滑り込ませた。ようやく、数秒だけ息ができた。息ができるというより、肺を潰されない時間があった。澪はその数秒で、空鐘袋から残りの白脂苔焼きを出して食べた。味はさらに悪くなっていた。だが、身体は受け入れた。
黒い骨の表面を見る。
削れる。削れば素材になる。澪は鎌を当てた。
「少し、取る」
今やることではない。
だが、今しかできない。
黒い骨の表面を薄く削る。硬い。鎌の刃が少し鳴る。白鯨の内部にあるものだから、白鯨素材だろう。空鐘袋へ入れたい。持って帰りたい。使えるかもしれない。食べられるかもしれない。鎌が欲しがるかもしれない。
削った瞬間、白鯨が震えた。
内部の星空が一斉に揺れる。
遠くの渦が広がる。
黒い骨の奥から、低い鳴き声が響いた。
白鯨の外側で聞いた海鳴りよりも、近い。腹の中から鳴る、巨大な生物の怒り。澪は削った黒い欠片を空鐘袋へ押し込み、袋ごとインベントリに戻した。
「怒った」
白鯨の内部が、反転した。
上が下になる。下が横になる。横が奥になる。澪の身体が支点から剥がれかける。鎖を巻き直す。黒い骨が軋む。支点ごと動いている。渦が近づく。白い炎が後ろから来る。氷の針が前から来る。重力が横から来る。
澪は鎌を握り直した。
黒い骨を支点に、内壁の裂け目へ向かって跳ぶ。逃げるのではない。奥へ行く。白鯨が怒るなら、黒い骨は重要なものだ。重要なものなら、道がある。道があるなら、奥に何かある。
空膜が裂ける。白い海が開く。澪はその中へ、鎖ごと引き込まれた。
その瞬間、配信がもう一度だけ戻った。
映ったのは、白い星空の腹の中で、黒い骨を支点に飛ぶ澪の背中だった。鎌の刃元は青白く変色し、鎖には白鯨の膜片が絡んでいる。澪の右頬は半分戻りきっておらず、左腕は動きが遅い。それでも、前へ出ていた。
『また映った!』
『中で移動してる』
『黒いの何?』
『白鯨の骨?』
『削った? 今削ったよな?』
『素材回収してる場合か!?』
『澪だから回収する』
『【企業公式】北辰素材研究所:黒色骨状素材を確認。危険度不明、直接接触は非推奨です』
『非推奨しかない』
『【公式】蒼穹クラン:内部航路は通常探索領域ではありません。後追いは自殺行為です』
『公式が強い言葉使ってる』
『【公式】黒鋼旅団:あれを支点にできる鎖術がおかしい』
『黒鋼が引いてる』
『【企業公式】東雲素材流通:黒色骨状素材の査定について』
このコメントは削除されました。
『また消された』
『東雲しつこい』
『【公式】アークライン配信管理部:素材取引に関するコメントは制限中です』
『澪、奥に行ってない?』
『逃げてるんじゃなくて進んでる』
『なんで進むんだよ』
『澪だから』
『生きて帰れ』
映像はそこで途切れた。次に残ったのは、暗い画面と、深層干渉の文字だけだった。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
探索者高校の実技棟では、朱音がその断片を見ていた。
今度は槍先が乱れなかった。
白鯨の中で、澪は前へ進んでいる。なら、自分も止まれない。朱音は踏み込み、槍を突き出した。穂先に残る白金の光が、さっきより長く伸びた。
久遠はそれを見て、何も言わなかった。
言わないまま、次の標的を起動した。
澪は白鯨の奥へ消えた。
地上では、断片だけが増えていく。




