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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第二十四話 空鐘袋

 鐘骸鳥が砕けた後の空葬原は、しばらく音を失っていた。


 完全な無音ではない。澪の呼吸はある。鎌を握る手の震えもある。遠くで空膜が擦れる薄い音もある。だが、あれほど世界全体を支配していた鐘の残響が消えたせいで、何もかもが現実から少し浮いたように感じられた。白い墓標群は崩れた領域の名残をまとい、倒れた塔のように傾いている。地面に沈んだ星空は割れ、そこから青白い光が漏れていた。砕けた鐘核の粒子が雪のように降り、澪の肩と髪に積もる。綺麗だった。綺麗すぎて、さっきまでそこで殺されかけていたことが嘘みたいだった。


 澪は座ったまま、しばらく動かなかった。


 動けないわけではない。動けば動ける。肋骨はもう繋がり始めている。潰れかけた肺も膨らみ直し、血の味が少しずつ薄れている。けれど、身体の奥に残った鐘の響きだけは消えない。音ではなく、身体の座標を何度もずらされた記憶だった。右手の指を握る。遅れて痛みが来る。左手を開く。関節が少し引っかかる。再生はしている。だが、戻った肉体がすぐに元通り動くわけではない。神経が繋がり直すたび、薄い火花のような痛みが指先まで走った。


 空骨鎖鎌は、澪の膝の上にあった。


 刃元には鐘核片が沈み込み始めている。青白い欠片が骨の中へゆっくり馴染み、白い線の内側で小さな鐘のような模様になっていた。鎌は喋らない。けれど、前より静かだった。鐘骸鳥の音を食べたからか、周囲の音をわずかに吸うせいか、鎌の近くでは風の音まで薄くなる。澪は刃元を指で撫でた。冷たい。けれど、ただの金属や骨の冷たさではない。敵だったものの性質が、まだ刃の奥で動いているような冷たさだった。


「食べた?」


 鎌は答えない。

 ただ、刃元の鐘核片が一度だけ淡く光った。


「そっか」


 澪はそれだけ言って、立ち上がろうとした。膝が抜けた。身体が横へ傾く。咄嗟に鎌の柄を支えにして、倒れる前に止める。痛みはある。あるが、動ける。動けるなら、休む前にやることがある。


 ドロップ回収。


 鐘骸鳥の身体は、普通の魔物のように残っていなかった。胸の鐘核が砕けた瞬間から、翼も骨も領域と一緒にほどけ始めている。白い骨膜は光になり、墓標群に染み込み、空膜へ流れていた。全部は持っていけない。全部どころか、少し遅れれば何も残らない。


 澪は鎖を短く持ち、崩れた墓標群の中へ歩いた。


 足元には、鐘骸鳥の骨片がいくつか落ちていた。薄くて軽い。だが、触れると指先に鐘の残響が走る。澪は顔をしかめながら、それを拾った。胸核の外殻片。翼端の骨膜。喉の奥にあったらしい細い骨輪。空膜の糸が絡んだ白い羽根骨。どれも危険で、どれも高そうだった。


「持って帰る」

 配信は、まだ細く繋がっていた。


 途切れそうで途切れない。画面は白く揺れ、時折数秒単位で止まる。それでも、澪の姿はかろうじて映っていた。コメント欄は、討伐直後の熱が抜けきらないまま、別の種類の混乱に移っていた。


『回収始めた』

『この状況で素材拾うのか』

『いや拾うだろ』

『命より素材か?』

『命があるうちに素材拾ってるんだよ』

『鐘骸鳥の素材とか値段つくの?』

『値段つかない側だろ』

『危険素材すぎる』

『拾い方が雑で怖い』

『手で触っていいやつなの?』

『良くはないだろ』

『澪だから触れてるだけ説』

『鎌も素材食ってるし本人も素材拾ってるし九環怖い』

『帰ってこいって言いたいけど帰還札ないんだよな』

『白鯨の影、まだ奥にいる?』

『見えてる。近づいてない?』

『素材拾ってる場合じゃないのでは』

『でも拾わないとたぶん消える』


 観測室では、ミナトが映像を保存しながら顔をしかめていた。


「素手で鐘骸鳥素材を拾っています」

「止められるか」

「止められません」

「なら記録しろ」


 黒瀬の声は低かった。


 榊原はすでに工房用の封鎖リストを作り始めている。ユイカは画面に映る素材の形状を拡大し、興奮と恐怖が混ざった顔で端末を操作していた。


「喉鐘骨です。あれ、多分すごいです。音響干渉の中核素材です。あ、今拾った薄い膜、翼骨膜です。あれも欲しいです。全部欲しいです」

「欲しいではなく、危険度を付けなさい」

「危険度A以上。喉鐘骨はSかもしれません」

「なら、素手で触るなという話です」

「澪さんに言ってください」

「言って届くなら、もう言っています」


 佐伯は別の画面で外部問い合わせの一覧を見ていた。


「すでに素材買い取りの打診が来ています」

「早すぎる」

「映像に映った時点で動く企業はあります。こちらで全件止めます」

「止めて」

「止めます。所有権は取得者である天瀬さん側、管理は協会およびアークラインの封鎖協議対象。少なくとも、今ここで外部が触る話ではありません」


 朱音は黙って画面を見ていた。


 澪が拾っている。拾えている。なら、まだ動ける。そう思おうとしても、画面の端に映る白鯨の影が気になって仕方なかった。白い空膜の奥、海のない空を泳ぐ巨大な影。近づいているのか、空間が歪んでそう見えるだけなのか、地上側では判断できない。けれど、澪は気づいている。気づいていて、素材を拾っている。


 澪は崩れた墓標の根元で、妙なものを見つけた。

 袋だった。


 布の袋ではない。革でもない。骨膜を何枚も重ね、内側に青白い空膜を縫い込んだような小さな嚢。口の部分には細い骨輪があり、触れると音もなく開いた。見た目は腰に吊るせる程度の大きさしかない。だが、袋の内側は暗く、底が見えなかった。澪は少し考え、近くの小さな骨片を入れた。


 落ちる音がしない。

 袋の形も変わらない。


 もう一つ入れる。変わらない。三つ目を入れる。変わらない。澪は首を傾げ、鐘骸鳥の翼骨膜を折り畳んで押し込んだ。入った。見た目より明らかに大きいものが、抵抗なく中へ消えた。


「袋」


 朱音が画面の前で小さく息を呑む。


「今、袋って言った?」

「言いました。新規ドロップの可能性があります」


 ミナトが映像を拡大する。


「外見サイズと収納量が一致していません。空間収納系と思われます。鐘骸鳥由来なら、距離干渉や音響遮断を利用した収納嚢の可能性があります」

「このタイミングで収納系ドロップか」

「最悪で最高ですね」


 榊原が呟く。


「危険素材を収納できるならありがたい。ですが、危険素材を収納できる袋そのものが危険素材です」

「主任、今そこを悩む段階じゃないです」

「悩む段階です。あとで全部こちらに来るのですから」


 澪は袋の口を覗き込んだ。


 底はない。いや、底が遠い。袋の内側で小さな鐘の残響が回っている。入れた骨片の気配はあるが、音はしない。魔力反応も薄い。危険素材を隠す機能があるのかもしれない。便利だ。とても便利だ。怪しい。とても怪しい。


 澪は袋を腰に結び、拾った素材を次々と入れ始めた。


 喉鐘骨、骨輪、鐘核外殻、翼骨膜、墓標鐘の破片、空膜糸、白い羽根骨。素手で触ると指先が痺れるものは、破れた探索ジャケットの切れ端や空膜布で包んでから入れた。袋の中はまだ余裕がある。澪は少し嬉しそうに見えた。


「入る」


 コメント欄がざわつく。


『袋だ』

『収納袋?』

『この状況で便利アイテム入手してる』

『鐘骸鳥ドロップ?』

『絶対やばい袋』

『中で素材暴れないのか』

『澪、普通に使ってるけど鑑定した?』

『してない顔だな』

『まず入るか試すの澪らしい』

『高そう』

『高いどころじゃないだろ』

『素材回収効率上がったな』

『白鯨素材も詰める気か?』

『やめろと言いたいけどやるんだろうな』

『やるだろうな』


 澪は袋を腰に吊るし、次に周囲を見回した。


 食べ物を探すためだった。


 鐘骸鳥を倒した。素材を拾った。袋も手に入れた。だが、帰れない。帰還札は焼けた。外側から引くこともできない。白鯨は近づいている。身体は再生しているが、再生には魔力と栄養がいる。魔力だけで肉体を戻し続ければ、いずれ空になる。何か食べなければならない。


 問題は、ここが第九環だということだった。


 普通の食べ物などあるはずがない。白い墓標の隙間には、空膜の光を吸う苔のようなものが生えている。墓標の割れ目には半透明の根が絡み、空の青を含んだ雫を垂らしていた。遠くには、鐘骸鳥の領域が崩れたことで露出した小さな白い肉片のようなものもある。食べ物か毒か素材か、判別が難しい。普通なら触らない。普通なら、そもそも食べようと思わない。


 澪は空膜苔を摘んだ。

 鑑定する。


【空膜苔】

【分類】九環植物素材

【状態】微弱な空膜汚染

【用途】薬効素材・魔力補給材・食用非推奨


 食用非推奨。


 澪は少し考えた。


「非推奨」


 朱音の目が細くなる。


「澪、何を見て非推奨って言ったの」

「食べる気ですね」


 ミナトが即答した。


「止めて」

「音声、届くか分かりません」

「止めて」


 朱音はマイクを握った。


『澪、変なもの食べないで』


 遅延がある。届くか分からない。届いても、澪が聞くかは分からない。


 澪は聞こえたのか、少しだけ顔を上げた。


「変じゃない」


 コメント欄が即座に反応する。


『変だよ』

『どう見ても変だよ』

『食用非推奨って見えた顔してたぞ』

『朱音さんの声届いた?』

『変じゃないは変なもの食べる奴の台詞』

『やめろ』

『いや食わないと死ぬのか』

『九環サバイバル始まった』

『調理スキル出番か?』

『まさかの調理回』

『鐘骸鳥ドロップ調理、ここで活きるのか』


 澪は空膜苔をそのまま口に入れようとして、少し止まった。


 調理。


 さっき手に入れたばかりの、妙に場違いなスキル。食べ物がある場所ならともかく、第九環の墓標の上で何を調理しろというのかと思っていた。けれど、今は食べる必要がある。食用非推奨を、食用に近づける必要がある。


 澪は近くの平たい墓標片を拾い、そこに空膜苔を置いた。鐘骸鳥の骨片で削る。青い汁が出る。匂いは薄い。草というより、冷たい空気の匂いだった。澪は空骨鎖鎌の鐘骨片を近づけた。音が薄くなる。苔の中に混ざっていた空膜の残響が少し抜ける。


 鑑定する。


【空膜苔】

【状態】空膜汚染、軽減

【食用】加工後、少量摂取可


 澪は頷いた。


「いける」


 朱音が額を押さえた。


「いけない」

「いけるって言いましたね」

「言ったけど、いけない」


 澪はさらに白い根を少し削り、苔と混ぜた。鐘骸鳥の墓標鐘片を熱源代わりに使う。熱というより、振動で水分を飛ばすような処理だった。青白い苔が薄く縮み、乾いた紙のようになる。澪はそれを半分に折り、少しだけ口に入れた。


 味は、薄い。


 苦くも甘くもない。口の中に冷たい風が広がる。喉を通る時、胃ではなく肺の奥が少し冷えた。食べ物として正しいのかは分からない。だが、吐くほどではない。魔力がわずかに戻る。身体が拒絶していない。なら、食べられる。


「意外と、いける」


 コメント欄がまた爆発する。


『食った』

『食ったぞ』

『九環の苔を食った』

『意外といけるじゃないんだよ』

『朱音さん泣くぞ』

『調理スキル仕事してて草』

『食用非推奨を加工して食ってる?』

『サバイバル力高すぎる』

『いや普通死ぬだろ』

『普通なら食べる前に鑑定で諦める』

『澪、諦めない方向がおかしい』

『でも食べないと動けないんだよな』

『調理がハズレじゃなくなった瞬間』

『鐘骸鳥さん、まさかの置き土産が命綱』


 朱音は深く息を吐いた。


『帰ってきたら、ちゃんとしたもの食べて』


 澪は二枚目の苔を焼きながら答えた。


「うん」


 その返事が届いた時、観測室の空気がほんの少しだけ緩んだ。


 けれど、緩んだのは一瞬だった。

 空膜の奥で、低い音が鳴った。


 鐘ではない。もっと重く、深く、遠い音。海鳴りに似ている。だが、ここに海はない。白い鯨の影が、さっきより大きくなっていた。空膜の海を泳いでいる。そう表現するしかない動きだった。巨体が空の薄布を押し分け、そのたびに地面の星空が波打つ。墓標群が沈み、浮き、遠近が狂う。鐘骸鳥のように音で距離を操っているのではない。存在そのものの大きさで、空間を押している。


 澪は食べかけの空膜苔を袋に入れた。

 それから、鎌を持った。


 白鯨はまだ遠い。遠いはずだった。だが、白い背中の一部が空膜の裂け目から覗いただけで、視界の半分が埋まる。大きすぎる。魔物というより、地形だった。鐘骸鳥が美しい骨の鳥なら、白鯨は空に浮かぶ白い大陸だった。皮膚の表面には墓標のような突起が並び、透明な鰭には星空が透けている。目は見えない。だが、見られている感覚はあった。海の底から、こちらの体温だけを探されているような感覚。


 鑑定の表示が、澪の視界に一瞬遅れて浮かぶ。


【墓喰白鯨 Lv80】


 澪は表示を見て、少しだけ息を吐いた。


「白鯨」


 その声を、配信が拾った。


『白鯨って言った』

『鑑定した?』

『Lvいくつだよ』

『見えないの怖すぎる』

『鐘骸鳥と同格以上だろ』

『でかすぎ』

『遠近感バグってる』

『これ戦うサイズじゃない』

『帰れ』

『帰れない』

『食ってる場合じゃなかった』

『いや食ったから動けるんだろ』

『白鯨、綺麗だけど無理』

『絶景だけど絶対行きたくない』

『澪が見たがる理由、少し分かるの嫌だ』

『分かるな。戻ってこい』


 白鯨が動いた。


 それだけで、空葬原の地面が傾いた。


 地震ではない。地面そのものが、水面のように押された。澪は足を開き、膝を落とす。鎌の先端鉤を墓標へ掛ける。鎖術Lv8の感覚が、ほとんど考える前に支点を選ぶ。どの墓標が根を張っていて、どれが空膜に浮いていて、どれが折れるか。鎖の張りだけで分かる。生涯を鎖鎌に費やした者のような動きが、澪の身体に馴染んでいた。だが、それでも白鯨の圧は大きすぎた。


 空膜の海が押し寄せる。


 水ではない。だが、波だった。半透明の膜が重なり、白い光を含んだ巨大な壁になって迫る。澪は転移しようとして、やめた。座標が遠すぎる。波そのものが空間を押している。飛べば、押された先の空膜に埋まる。


 鎖を引く。

 墓標を支点に、身体を横へ流す。

 波が通る。

 触れただけで、身体が重くなった。


 空膜の圧力が、皮膚ではなく骨の奥へ入る。肺が縮み、血流が一瞬止まる。鐘骸鳥とは違う。これはずれではない。純粋な圧だ。圧倒的な質量の余波。澪は歯を食いしばり、鎌の柄を握り直した。


 吐きそうだった。

 けれど、吐くものはあまりない。

 さっき食べた空膜苔が、胃の中で冷たく残っている。


「重い」


 白鯨が、空膜の向こうでゆっくり口を開いた。

 口の内側に、星が見えた。

 次の瞬間、青白い魔力が一点に集まり始める。

 ミナトが叫んだ。


「高密度魔力反応!」

「種類は?」

「水、氷、光、重力。混ざっています。こんなの分類できません」

「防げるのか」

「防ぐ以前に、直撃範囲が広すぎます」


 朱音はマイクを握った。


 細かな指示は出さない。出しても間に合わない。澪が判断するしかない。だから、朱音は一言だけ言った。


『澪、生きて』


 澪は白鯨を見上げた。

 光が大きくなる。


 白く、青く、冷たく、重い。空膜を押し潰しながら降りてくる魔力の塊。回避先は少ない。支点はある。鎖は張れる。転移は一度だけなら使えるかもしれない。鎌は鐘骸鳥の音には少し強くなった。だが、白鯨の圧にはまだ何も覚えていない。


 なら、覚えさせるしかない。

 澪は鎌を構えた。

 白鯨の魔力砲が、空葬原へ落ちた。

 配信は、その光に飲まれる直前まで繋がっていた。


『でかい』

『無理無理無理』

『逃げろ』

『逃げ場ない』

『朱音さんの声届いた?』

『澪、鎌構えた』

『受ける気か!?』

『受けるな!!』

『白鯨やばすぎる』

『これ一話で倒す敵じゃない』

『生きて』

『生きてくれ』


 白い光が画面を埋める。

 音が消える。

 深層干渉の表示が、また配信欄に浮かんだ。


『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』


 観測室に、白い残光だけが残った。

 朱音は画面を見つめたまま、マイクから手を離さなかった。

 白鯨戦は、始まったばかりだった。

白鯨戦始まりました

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