第二十話 鐘骸鳥①
空骨鎖鎌の第一改修が終わった朝、アークライン地下封鎖工房の空気は、いつもより明らかに重かった。
第一作業室の中央には、黒い封鎖ケースが置かれている。仮運用型より厚く、長く、表面には白銀の細い線が血管のように走っていた。四隅には番犬前脚剥離骨板から削り出された固定爪が組み込まれ、ケース全体が、ただ武器を収める箱ではなく、内側のものと同じ呼吸をしているように見える。周囲の作業灯は青白く、床には何重もの術式線が刻まれ、透明な防護壁の向こうでは榊原透子と御影ユイカを含む装備開発部の技術者たちが、最後の測定値を見ていた。
観測室には、神楽坂美冬、佐伯円、黒瀬航、白峰セレス、火野アカリ、藍沢ミナトが揃っていた。朱音もいる。学校には協会を通じて正式な欠席連絡が出され、今日だけは帰還管理補助として監視席に入ることを許されていた。澪一人の探索に対して、この人数は明らかに過剰だった。けれど、今日だけは例外だった。
ミナトは端末を操作しながら、観測室の面々へ一度だけ視線を向けた。
「念のため確認します。本日の監視体制は通常ではありません。空骨鎖鎌第一改修型の初運用、仮所属後初の九環探索、鐘骸鳥との初接触、深層時間補正の配信テスト、帰還誘導の再検証、素材回収時の封鎖工房即応。これが重なった異例案件です。次回以降、全員が毎回ここにいるとは思わないでください」
「そりゃそうだ。毎回呼ばれたら、こっちの訓練が止まる」
「火野さんは、今日も見学ではありません。戦闘判断補助です」
「分かってるよ。見るだけで済む相手じゃないだろ」
「私は、鎌が壊れるかどうかを見るためにいます」
「主任、それは言い方が悪いです。第一改修型の耐久評価です」
「同じことです」
「私は配信と危険コメントの管理です。すでに待機欄の時点で治安が悪いです」
「澪には見せないで」
「もちろんです。見せる価値のあるコメントだけ残します」
「そんなのある?」
「少しは」
朱音は画面の向こうに立つ澪から目を逸らさなかった。
澪は黒い探索用インナーの上に軽い防刃ジャケットを羽織り、腰には短剣と骨杭、背中には小さなリュックを固定している。首にはアークライン仮所属証。小柄な身体は、工房の灯りの下では余計に細く見えた。けれど、封鎖ケースへ向ける目だけは、眠たげな少女のものではなかった。長い間失くしていた手足が戻ってくるのを待つような、静かで暗い集中があった。
榊原がマイクを入れた。
「天瀬さん。第一改修型《空骨鎖鎌》の引き渡し前確認を行います。これは完成形ではありません。第一層第九環への再突入、および鐘骸鳥との接触を想定した第一改修型です」
「うん」
「番犬前脚剥離骨板は、刃元、先端鉤、制御環、封鎖ケース固定爪へ分割使用。白銀墓標核片は鎖の固定性と墓標反応の安定化に使用。空膜獣牙は補助刃。空膜皮膜は握りと魔力接続部に薄く張っています」
「うん」
「先端鉤は本命が一つ、予備が一つ。予備は長時間戦闘を続けるためのものではなく、離脱と姿勢回復用です」
「分かった」
「切り離し機構は三段階です。自動切断、手動切断、外部封鎖。外部封鎖は監視室側からも一部介入可能ですが、九環では通信遅延と映像断片化が起こります。最後は天瀬さん自身の判断になります」
「うん」
朱音がマイクを握った。
「澪」
「うん」
「鐘骸鳥は確認対象。討伐目標じゃない。位置が悪い、鎌の反応が悪い、通信が乱れる、帰還札が不安定。このどれかが出たら撤退候補」
「撤退候補」
「危なかったら撤退」
「うん」
「あと、当てたいだけで踏み込まない」
「一回は当てる」
「それが踏み込むってことだから言ってるの」
「でも、見ないと分からない」
「一つ見たら戻る」
「一つ見たら戻る」
「本当に?」
「覚えた」
朱音はまだ不安そうだったが、それ以上は言えなかった。澪の言葉は危うい。だが、完全に間違いではない。第九環のボス級個体は、記録と映像だけでは分からない。攻撃が通るのか、鎌が耐えるのか、相手が何を起点に殺しに来るのか。それは、実際に届かせなければ見えない部分がある。
黒瀬が低く言った。
「一撃確認は必要だ。ただし、届かせることと倒し切ることは違う」
「分かってる」
「お前は分かっていて二撃目を欲しがる」
「……」
「そこを朱音が止める。今日はそういう探索だ」
セレスは静かに澪を見ていた。
「鐘骸鳥が音と位置をずらす個体なら、初撃の失敗も情報になります。ですが、失敗を取り返そうとした瞬間に、次の罠へ入る可能性があります」
「セレスさんなら?」
「距離を取ります。見えない音は信用しません」
「私は近い方が分かる」
「ええ。だから、あなたは近づくのでしょう」
アカリが腕を組んだまま、少しだけ笑った。
「澪、初見殺しを一つ見たら、一度戻しな。あんたなら二つ目も見たくなるだろうけど、そこが一番危ない」
「うん」
「返事はいい。足で守りな」
「分かった」
封鎖ケースが開いた。
中から現れた空骨鎖鎌は、以前よりも短く、重く、静かだった。刃元は厚く、白い番犬骨板が黒い金属の奥へ深く組み込まれている。外縁には空膜獣牙を削り出した補助刃が薄く重なり、光を受けると青白く揺れる。鎖は細く見えるが、節ごとに白銀墓標核片を含んだ制御環が入り、魔力を流す前から落ち着いた重みを持っていた。先端鉤は尖りすぎていない。刺して終わる形ではなく、敵や地形に深く掛け、支点を作るための形だった。
澪の指が柄に触れる。
握りの内側に張られた空膜皮膜が、彼女の魔力に反応して薄く震えた。手の甲に青白い線が走り、鎖の制御環が一つずつ光る。拒絶ではない。暴走でもない。重い。けれど、どこへ重いのかが分かる。どこへ落とせば刃が入り、どこへ掛ければ鎖が支点になるか。その感覚が、手首から肘、肩、背骨へ流れ込んでくる。
澪は鎌を持ち上げた。
「いい」
「使用者同期率、想定値より高いです。制御環、正常。先端鉤の固定反応も安定しています。……すごい。本当に、持った瞬間に落ち着きました」
「落ち着いたというより、天瀬さん以外を相手にしていないだけです。他の探索者が握れば、腕か魔力回路が先に負けます」
「私用」
「はい。完全にあなた用です」
澪は鎖を短く持ち、作業室の範囲内で先端鉤を低く走らせた。鉤は床すれすれで止まり、戻す時にわずかな抵抗を手首へ残した。地形や敵へ深く掛ければ外れにくい。だが、外れにくいということは、外す判断が遅れた時に自分を引くということでもある。
澪はその重さを覚えた。
「戻り、少し重い」
「支点を作る力を上げた分です。引けば素直に戻る武器ではありません。掛けた場所と、外すタイミングを間違えれば、天瀬さんの身体が持っていかれます」
「澪、今の覚えて」
「覚えた」
「深く掛けすぎない。無理に引かない。外れないなら切り離す」
「うん」
「鎌が二番、命が一番」
「……うん」
「間があった」
「命が一番」
「よし」
その一時間後、チャンネル《九環》は予告なしで配信を開始した。
タイトルは短い。
『第一層第九環 鐘骸鳥確認』
配信画面には最初から注記が出ていた。第八環以降、映像・音声に深層時間補正が入る可能性あり。探索者体感と地上側の配信時刻に数分から数時間のズレが生じる場合あり。模倣探索禁止。九環突入禁止。未成年探索者および関係者への接触禁止。
それでも、コメント欄は開始直後から荒れ始めた。
『きた』
『急に始まった』
『鐘骸鳥って何』
『九環ボス候補だろ』
『確認って書いてあるけど絶対やるやつ』
『鎌できた?』
『深層時間補正の注記ある』
『Lv65でLv80見に行くの普通におかしい』
『帰れ』
『まだ何もしてないのに帰れで草』
『アークライン案件乙』
『案件で九環行く奴がいるかよ』
『どうせ編集だろ』
『深層時間補正知らない新規多すぎ』
『最近変なの増えたな』
『澪ちゃん顔が良すぎて話入ってこない』
『その冷たい目で無視されたい勢、もういるだろ』
『↑キモいから帰れ』
『鎌になりたいとか言ってる奴いて草』
『未成年相手に距離感バグるな』
『今コメント消えた?』
『ミナトさん仕事早い』
『朱音さんコメント欄見ないで』
『七瀬家の話する奴は即通報でいい』
『九環行けば澪に会える?』
『↑会える前に死ぬ定期』
ミナトは無表情でフィルタを一段上げた。
「本当に、最近変なのが増えましたね」
「澪には見せないで」
「見せません。危険コメント、距離感異常コメント、関係者詮索は削除します」
「距離感異常コメントって何」
「朱音さんは知らない方がいいです」
「……分かった」
澪は第一層ゲートを抜けた。
第一環から第四環までは移動に近かった。空の欠片が水面のように草原へ浮かび、淡い光を含んだ花が風に揺れる。低位の魔物は澪の気配を察して遠ざかり、遠くで薄羽蜻蜓が空の破片の間を渡っていた。配信に映る景色は穏やかで、視聴者の一部はここが同じ第一層だということを忘れかける。だが、第五環を越え、第六環へ入る頃には、空の青に少しずつ白い異物が混じり始めた。
第七環で風が裂ける。
第八環で距離がずれる。
配信画面の端に、深層時間補正の表示が小さく出た。軽微。地上側では二分ほど映像が止まったが、澪の体感では十秒にも満たない。画面が戻った時、澪は白い裂け目の縁に立っていた。空膜に反射した光が足元の草を青白く染め、遠くの墓標の影が空へ向かって伸びている。
『今飛んだ?』
『二分止まった』
『澪側だと一瞬っぽい』
『これが時間補正か』
『絶景なんだけど不安になる』
『怖いのに綺麗』
『九環前でこれかよ』
『朱音さんこれを待つのきついだろ』
『帰れ派だけど景色は見たい』
『見たいけど帰れ』
『ワイなら五環で帰ってる』
『お前は一環で帰るだろ』
澪はコメントを見ていない。
八環の奥、九環境界へ近づくにつれて、音が薄くなった。風は吹いているのに草の揺れる音が遅れ、近いはずの墓標が遠く、遠いはずの空膜がすぐ目の前にある。澪は速度を落とし、腰から空骨鎖鎌を抜いた。鎌が外気に触れた瞬間、配信映像の端が白く滲む。
朱音の声が優先同期で入る。
『澪、地上側で四分遅れ。まだ許容内』
「うん」
『九環へ入ったら、こっちの声が遅れるかも』
「分かった」
『音が変でも、私が黙ったわけじゃないからね』
「うん」
『無理なら戻る』
「うん」
『鐘骸鳥が見えても、位置が悪ければ撤退』
「うん」
『一つ見たら戻す』
「覚えてる」
白い境界線を越える。
第一層第九環《空葬原》。
そこは、息を呑むほど綺麗だった。
空は白く、けれどただ白いだけではない。青の名残、銀の薄膜、淡い虹色の欠片が、裂けた空の縁に幾層にも重なっている。無数の墓標が大地に突き刺さり、その表面には磨かれた骨のような光沢があった。地面は雪原のように淡く、踏むたびに白い粒子が舞い上がる。空膜は薄い布のように揺れ、そこへ光が当たるたび、墓標群全体が水底の宮殿のように輝いた。死後の庭園。滅びた世界の聖堂。そんな言葉が似合うほど、空葬原は圧倒的だった。
けれど、その美しさの奥に、殺意が沈んでいる。
墓標の一本一本が、近づく者の距離感を狂わせる。空の裂け目は景色ではなく刃であり、白い地面は安全な足場ではない。美しいからこそ、目が奪われる。目を奪われた瞬間、足を置く場所を間違える。
澪は立ち止まり、ほんの少しだけ目を細めた。
「綺麗」
その一言は、配信にも乗った。
『綺麗って言った』
『分かるけど帰れ』
『いやこれは綺麗だわ』
『怖いのにめちゃくちゃ綺麗』
『絶景すぎる』
『第一層の景色じゃない』
『行きたくなる気持ち少し分かってしまった』
『分かるな危険』
『澪が惹かれる理由これか』
『でも死ぬぞ』
『九環、綺麗すぎて逆に悪意ある』
『アークラインこれ観光化しろ』
『↑死者出るからやめろ』
『未成年にこんな景色見せたらそりゃ狂う』
『澪は元からだろ』
澪は鎌の鎖を一節だけ地面へ垂らした。制御環が白い地面に触れ、微かな振動を柄へ返す。音ではなく、地面の震え。墓標の奥で何かが鳴る前の、ほんの小さな圧力。澪はそれを拾いながら、墓標群の間を進んだ。
鐘の音がした。
一度目は遠く。二度目は近く。三度目は、耳ではなく歯の奥に響いた。
澪は立ち止まる。
「いた」
帰還管理室の空気が張り詰めた。ミナトが映像補正をかけ、セレスが目を細め、アカリが腕を組み直す。黒瀬は黙ったまま、画面右下の深層時間補正値を見ていた。地上側遅延、十二分。まだ異常値ではない。だが、九環へ入ってから伸び方が早い。
白い墓標群の奥で、布のような影が揺れた。
次に見えたのは、骨の翼だった。
巨大な鳥。羽毛ではなく、薄い骨板と空膜の層でできた翼。胸の中心は空洞で、肋骨のような白い枠が鐘の形に組まれている。頭部には嘴があるが、目はない。翼を動かすたびに鐘が鳴る。だが、音の位置と本体の位置が一致しない。右から聞こえた音が左の墓標を震わせ、正面から響いた鐘が背後の空膜を揺らす。
イメージ図
鑑定表示が、澪の視界に浮かぶ。
「鐘骸鳥。Lv80」
コメントが跳ねた。
『Lv80!?』
『やっぱりボスじゃん』
『澪Lv65だよな?』
『帰れ帰れ帰れ』
『確認完了!撤退!』
『ここで戦うのは無理』
『アークライン止めろ』
『止められるならここまで来てない定期』
『Lv詐称してない?』
『鑑定ログ出てないから分からん』
『どうせアークライン補正だろ』
『補正でLv80倒せるなら誰も苦労しないんだよなぁ』
『鐘骸鳥、見た目綺麗すぎる』
『綺麗だけど無理』
『これ倒すとかじゃなくて災害だろ』
『澪ちゃん逃げて』
『逃げてって言っても見てる時点で俺らも最悪』
朱音がマイクを握る。
『澪、見えてる?』
「見えてる」
『音は追わない』
「追わない」
『位置は?』
「悪くない。墓標が多い」
『支点にする気?』
「うん」
『一つ見たら戻す』
「うん」
鐘骸鳥が翼を広げた。
鐘が鳴る。
澪は動かなかった。動かないことを選んだ。音は正面から来た。だが、鎖を通して手首へ返った振動は左後ろだった。次の瞬間、澪の左後ろの墓標が内側から砕ける。破片が白い雨のように散り、頬をかすめた。動いていれば、胸を裂かれていた。
観測室で、アカリが低く息を吐いた。
「初手から殺しに来てるね」
「警告ではありませんね。音の方向を信じた者を、別方向から壊す。遠距離型でも接近型でも、初見なら足を止め損ねます」
「美人な鳥なのに、やることがえげつないじゃないか」
二度目の鐘。
澪は右へ跳んだ。足元が割れる。いや、割れたのは足元に見えていた場所ではない。半歩先の地面だった。澪は鎌の柄を墓標へ当て、跳躍の角度を変える。白い破片が膝の下を抜けた。傷は浅い。だが、危険は傷の深さではない。立つ場所を一つ間違えれば、裂け目へ落ちる。聞く音を一つ間違えれば、見えていない方向から墓標が砕ける。
澪は鎖を投げた。
狙いは鐘骸鳥本体ではない。鳥の足元にある白い墓標。先端鉤が墓標の縁へ掛かり、深く入る。澪は引く。墓標が傾く。鐘骸鳥の足場がわずかに沈む。初めて、鳥の輪郭が乱れた。
澪は踏み込んだ。
鎌刃が届く距離まで、一息で入る。だが、鐘骸鳥が三度目の鐘を鳴らした瞬間、澪の視界の中で距離が伸びた。届くはずの刃が、届かない。近いはずの胸郭が、半歩奥へずれる。空振りではない。空間そのものが引き延ばされている。
澪は即座に鎖を離した。
次の瞬間、伸びた距離が戻る。遅れて戻った空間が、刃の軌道を横から押し潰した。鎖を握ったままだったら、手首から肩まで持っていかれていた。
澪は地面を転がり、墓標の影へ入る。
左手が震えている。鎖を離す判断が半拍遅れていれば、左腕は使えなくなっていた。外傷はない。だが、手の中に残った感覚がはっきり言っている。今のは、当たっていないのではない。相手が「届く距離」を奪った。
朱音の声が入る。
『澪、今のは何?』
「距離を伸ばされた」
『撤退候補』
「まだ一つ目」
『それを一つ目に数えるなら、次は戻す』
「うん」
澪は息を整えた。
鐘骸鳥は追ってこない。上空の墓標に留まり、翼をゆっくり動かしている。余裕ではない。あれは待っている。澪が音を聞き間違えるのを。鎖を掛ける場所を誤るのを。距離が戻る瞬間を読み違えるのを。一度でも間違えれば、浅い傷では済まない。腕を失う、足場を失う、帰還の姿勢を失う。そのどれかが起きれば、九環では終わる。
澪は口の中の血を舌先で確かめた。
怖い。
分かっている。怖い。番犬とは違う。番犬は圧倒的だった。踏み潰す力、裂く力、追い込む速度があった。鐘骸鳥は違う。こちらの判断を、少しずつ間違った場所へ置き換えてくる。殺意が薄いのではない。殺すまでの道筋が静かすぎる。
澪は笑っていなかった。
けれど、目は逸らさなかった。
空骨鎖鎌の鎖をもう一度地面へ垂らす。音ではなく振動。映像ではなく空膜の押され方。見えている鳥影ではなく、墓標が先に震える場所。情報を一つずつ切り分ける。足りない。足りないが、使えるものはある。
四度目の鐘。
澪は前へ出た。今度は鎖を投げない。墓標を踏み、低く潜り、空膜の揺れが小さい場所だけを選んで進む。鐘骸鳥の翼が動く。距離が伸びる前兆。澪は伸びる場所へ行かず、横の墓標へ短剣を刺して身体を固定する。目の前の空間が引き延ばされ、すぐに戻る。戻った瞬間、澪は短剣を抜き、鎌を振るった。
刃が鐘骸鳥の翼端へ届いた。
浅い。
骨板一枚を削っただけ。だが、当たった。補助刃が薄い空膜を裂き、白い破片が飛ぶ。鐘骸鳥の鐘核が初めて不規則に揺れた。
澪はすぐに下がろうとした。
その瞬間、鐘骸鳥が鳴いた。
鐘ではない。鳴き声でもない。墓標群の下から、何十もの小さな鐘が一斉に応えるように響いた。地面が鳴る。空膜が鳴る。澪が鎖を垂らして拾っていた振動そのものが、すべて鐘の音で塗り潰される。
情報が死んだ。
澪は一瞬、完全に位置を見失った。
右も左も、前も後ろも、すべてが同じ振動で満ちる。音を捨て、振動を拾う戦い方を選んだ。その振動を、鐘骸鳥が潰した。澪の判断材料が一つ消える。敵の攻撃が強いのではない。こちらの足場を、考え方ごと奪われた。
朱音の声が割れながら入る。
『澪、戻って! 今のは駄目!』
「分かってる」
澪は帰還札を取り出した。
撤退判断。早い。けれど、正しい。朱音も、アカリも、セレスも、黒瀬も、誰も止めなかった。今の鐘骸鳥は、澪の一つ目の対抗手段を見て、それを潰した。次の対抗策がないまま続ければ、死ぬ。
澪は帰還札へ魔力を流す。
札が光る。
その瞬間、鐘骸鳥が胸の鐘を一度だけ鳴らした。
帰還札の光が、白く歪んだ。
術式が起動しない。正確には、起動しかけた帰還の音が、鐘の音に上書きされた。帰還座標が一瞬浮かび、すぐに崩れる。札の表面に走った青い文字が白い線へ変わり、端から灰になった。
澪は燃えた札を見た。
「帰れない」
帰還管理室が凍りついた。
ミナトが即座に叫ぶ。
「帰還札、失敗! 地上側誘導、同期しません! 鐘骸鳥の音響干渉が帰還術式へ入っています!」
「澪、予備札!」
「使う」
澪は二枚目を出す。
だが、鐘骸鳥は待っていた。今度は鳥ではなく、周囲の墓標が鳴った。白い柱の中から低い音が響き、空葬原の一角に円形の領域が浮かび上がる。墓標同士が音で繋がり、透明な輪のようなものが空間に走った。そこに入った瞬間から、帰還札の術式音が歪む。二枚目の札も、光る前に沈黙した。
澪は札を捨てた。
朱音の声が震える。
『澪、聞こえる? 澪!』
「聞こえる」
『すぐ離れて! その円の外!』
「外、どこ?」
『映像が飛んでる。待って、今補正するから』
配信画面は乱れていた。鐘の音が入るたび、映像が数秒ずつ白く飛ぶ。コメント欄は悲鳴と煽りと混乱で埋まっていく。
『帰還失敗!?』
『札燃えたぞ』
『やばいやばいやばい』
『確認だけじゃなかったのかよ』
『確認しに行ったら帰還封じられたんだろ』
『普通に終わった』
『終わったとか言うな』
『朱音さんの声震えてる』
『アークライン何とかしろ』
『九環ボス、綺麗なのにやることエグすぎ』
『配信切れ、見てられん』
『切ったらもっと怖いだろ』
『これ編集じゃないの?』
『編集なら朱音さんの声あんなにならん』
『ミナトさんコメント消してる?』
『変なコメント流してる場合じゃない』
『澪ちゃん頼むから戻って』
『今の状況でまだ見たい奴いる?』
『いるから視聴者数増えてるんだよなぁ』
『最悪だろ俺ら』
黒瀬が低い声で言った。
「落ち着け。まだ終わっていない。帰還封じの領域なら、外周がある」
「映像補正、追いつきません。地上側遅延、二十六分。補正中。澪さんの位置、推定で領域内。外周は……駄目です。鐘のたびに変わっています」
「出口を固定していないのですね」
「ああ。出口を探して走るほど奥に寄せられるってことかい」
「可能性が高いです」
朱音はマイクを握り直した。
『澪、走らない。出口を追わない。まず今いる場所を固定して』
「うん」
澪は鎖を墓標へ掛けた。
だが、振動はもう信用できない。鎖を掛けた墓標が本当にそこにあるのか、音がずらした位置なのか、分からない。澪は鎌を引かず、ただ自分の身体が流されない程度に鎖を張る。鐘骸鳥は空の上で翼を閉じていた。攻撃してこない。いや、これが攻撃なのだ。焦らせ、走らせ、帰還札を消耗させ、地形を信じられなくさせる。戦闘そのものを始める前に、澪の選択肢を削っている。
澪は息を吸った。
冷たい空気が肺に入る。
怖い。
だが、怖いだけなら前へ出られる。問題は、何を信じるかだった。音は駄目。振動も潰された。視界はずれる。帰還札は使えない。朱音の声は届くが、遅れる。鎌はある。身体もある。魔力も残っている。まだ終わっていない。
その時、遠くで別の音がした。
鐘ではない。
低く、長い、海の底から響くような声。空葬原には海などない。だが、白い墓標群のさらに奥で、巨大な何かが空膜の下を泳ぐように影を伸ばした。地面の上ではない。空の裂け目の向こう側。そこに、白い鯨の輪郭が一瞬だけ浮かぶ。
帰還管理室で、ユイカが小さく息を呑んだ。
「別反応……墓喰白鯨候補の反応です。まだ遠いです。でも、鐘の領域に引かれています」
「最悪だね」
アカリは笑わなかった。
「澪、聞こえるかい。長引かせるな。鳥だけじゃなくなる」
澪は遠くの影を見た。
「白鯨」
朱音の声が入る。
『見なくていい! 今は鳥! 出口!』
「うん」
『澪、私の声だけ拾って。今から、地上側で見える墓標のズレを読む。こっちの指示は遅れるけど、何もないよりまし』
「分かった」
『勝とうとしない。まず領域の外へ出る』
「領域の外」
『そう。倒すのは後。今は出る』
澪は空骨鎖鎌を構え直した。
鐘骸鳥は、まだ遠くにいる。だが、もうただの確認ではない。帰還札は二枚失敗した。領域は閉じた。外周は鐘のたびにずれる。遠くでは墓喰白鯨の影が動き、地上側の映像は断片化している。
鐘骸鳥を倒すには、足りない。
逃げるにも、足りない。
だから、ここから削るしかない。相手の能力を一つずつ。自分の選択肢を一つずつ。死なない場所を選び続け、間違ったら終わる白い墓標群の中で、澪は最初の一歩を踏み出した。
鐘が鳴る。
今度は、澪は音を聞かなかった。
朱音の声が遅れて届く。
『右じゃない、左前。三本目の墓標の影』
澪は一瞬だけ迷い、左前へ飛んだ。
直後、右側の地面が静かに消えた。爆発ではない。裂ける音もない。ただ、そこにあったはずの白い地面が、空膜の向こうへ抜け落ちた。
澪の足先が、ぎりぎりで残る。
朱音の息を呑む音が聞こえた。
澪は鎌を持ち直し、白い鳥を見上げた。
「一つ、見えた」
それは勝利ではない。反撃でもない。
ただ、まだ死んでいないというだけの一歩だった。




