第十八話 仮所属
澪が七瀬家へ戻った時、玄関の灯りはもう点いていた。
外は夕方を過ぎ、住宅街の道には薄い影が落ちている。アークラインの車は家の前まで直接乗りつけず、少し離れた場所で停まった。運転手と協会職員が周囲を確認し、問題がないことを確かめてから、澪を降ろす。派手な警護ではない。だが、昨日までとは明らかに違う。澪が八十億級の九環素材を持ち帰ったことで、この家もただの知人宅ではなくなってしまった。
澪はリュックを背負い直し、玄関の前で一度だけ振り返った。
「ありがとうございました」
「明日の予定は協会経由で共有します」
「うん」
車が静かに走り去る。
澪が玄関を開けると、すぐに結衣が顔を出した。今日は部屋着で、髪を横で小さく結んでいる。目が丸い。澪を見るなり、ぱっと表情が明るくなった。
「おかえり、澪ちゃん」
「ただいま」
「アークラインどうだった?」
「地下が広かった」
「地下?」
「工房があった」
「秘密基地みたい」
「うん。たぶん秘密基地」
結衣は楽しそうに笑った。
奥のリビングには、朱音と両親が揃っていた。朱音は制服から部屋着に着替えているが、テーブルの上にはすでに資料が並んでいる。父は仕事帰りなのか、シャツの袖をまくっていた。母は台所とリビングの間に立ち、鍋の火を見ながらこちらを気にしている。全員が待っていたのだと、澪にも分かった。
朱音が最初に言った。
「契約してない?」
「してない」
「口約束も?」
「してない」
「欲しいは?」
「言った」
「何を?」
「鎌。予備鉤。鳥」
「鳥は欲しいものじゃない」
「倒したい」
「余計に違う」
朱音は額を押さえたが、声には少し安心が混じっていた。
澪はリュックから樹脂製の先端鉤模型を取り出し、テーブルの上に置いた。黒い模型は、普通の家庭の食卓には明らかに似合わなかった。結衣が目を輝かせて身を乗り出す。
「なにこれ、かっこいい」
「鎌の先」
「触っていい?」
「模型だから」
「軽い!」
結衣が両手で持ち上げると、父も横から覗き込んだ。落ち着いた表情のままだが、目は少し真剣になる。
「これが、昨日失った部分の代わりか」
「うん。次は短くて厚い」
「理由は?」
「噛む。引っかける。支点にする。あと切り離しやすい」
「なるほど」
父は模型を結衣から受け取り、重さと形を確かめた。武器の専門家ではない。それでも、仕事で契約書や図面を見る人間らしく、形の意味を理解しようとしている。
「これを作るために、仮所属契約が必要になるわけだな」
「本加工は契約後」
「準備作業は?」
「始めていいって言った」
「素材を削らない範囲?」
「うん」
「それなら、今日決めていい範囲だと思う」
朱音が用意していた資料を一枚ずつ並べた。
「まず、今日確認するのは三つ。アークライン仮所属契約。七瀬家の法務窓口。素材の保管先」
「多い」
「多いけど、全部つながってる」
「うん」
母が鍋の火を弱め、リビングへ来た。手には湯呑みが五つ乗った盆がある。澪の前には、昨日と同じように温かいお茶が置かれた。
「澪ちゃん、先に飲んで」
「契約用?」
「そう。難しい話をする前のお茶」
「うん」
澪は両手で湯呑みを持ち、少しずつ飲んだ。甘いものではない。だが、熱が手のひらに残る。即答しないための時間。七瀬母のやり方だった。
朱音の父が、テーブルの上の資料を開いた。
「中立弁護士の確認結果も届いている。協会指定の外部弁護士だ。アークライン側の人間ではない」
「何て?」
「条件はかなり良い。ただし、澪さんの素材所有権、研究データの拒否権、配信チャンネルの所有権は契約書に明記させるべきだと書いてある」
「明記」
「曖昧にしないということだ」
「図は?」
「図もある」
父は苦笑しながら、別紙を広げた。
そこには、素材の所有権、加工権、保管責任、売却代行権が矢印で整理されていた。素材は澪のもの。協会は一時保管。アークラインは契約後、共同封鎖庫で保管し、加工する権利を持つ。ただし、売却や研究利用には澪の同意が必要。素材を使った装備は、部位ごとに所有権と使用権を整理する。装備開発枠で作られたものは澪専用使用を前提とし、契約解除時には精算協議。
澪はしばらく図を見ていた。
「素材は私」
「そう」
「鎌も使える」
「そう。ただし、加工費やアークラインの設備費が絡むから、契約解除時は話し合いが必要」
「売らない」
「売らない場合でも、保管費と加工費は発生する」
「高い?」
「かなり高い」
「仮所属なら?」
「武装開発枠に入る」
澪は頷いた。
「じゃあ仮所属」
「早い」
「鎌が作れる」
「だから、もう少し確認」
朱音はすぐに止めた。
澪は湯呑みをもう一度持った。飲む。間を作る。
結衣が横から小さく言った。
「澪ちゃん、お茶飲んでる時だけ大人しい」
「契約用」
「お母さんすごい」
「でしょ」
母は困ったように笑った。
話は七瀬家の法務窓口に移った。
アークラインから提示された内容は、物理警備ではなく、まず接触窓口の正式化だった。七瀬家への取材、郵送物、匿名連絡、写真買い取り、澪に関する問い合わせ、素材交渉、配信出演依頼。これらを家族が直接受けず、協会とアークライン法務へ転送する仕組みだ。住所を新たに外部へ渡すわけではない。むしろ、すでに見え始めた接触を集約し、記録するためのものだった。
父は資料を読み終え、母へ視線を向けた。
「これは受けた方がいいと思う」
「私もそう思うわ。今日みたいに結衣へ変な連絡が来るなら、家だけで対応するのは怖いもの」
「結衣は?」
「私は、変な人から連絡来ない方がいい」
「当然だな」
結衣は少し頬を膨らませた。
「でも、学校で聞かれたらどうしよう」
「答えない」
「お姉ちゃん、そればっかり」
「本当に答えないのが一番」
「澪ちゃんのこと、友達に聞かれたら?」
「同居してるわけじゃないって言えばいい」
「してないけど、よくいるよ」
「そこも言わない」
「難しい」
「澪みたいなこと言わない」
澪は結衣を見た。
「難しいよね」
「うん」
「でも言わない」
「分かった」
朱音は結衣の頭を軽く撫でた。
母が静かに言った。
「澪ちゃん」
「うん」
「うちは、澪ちゃんが来るのは嫌じゃないの。ご飯も食べに来ていいし、困った時は来てもいい。でも、知らない人が結衣や朱音に連絡してくるのは違うと思う」
「うん」
「だから、窓口はお願いしましょう」
「ありがとう」
「謝らなくていいのよ」
「今、謝ってない」
「顔が謝ってたわ」
「難しい」
母は柔らかく笑った。
父が法務窓口の同意書へ署名した。母も続く。朱音は自分に関わる範囲だけ同意し、結衣については保護者同意の形になった。物理警備はまだ入れない。家の前に人を立たせるのは、近所への影響もある。だが、郵送物と匿名連絡、取材依頼は明日から窓口へ回される。
その直後、朱音のスマートフォンが震えた。
アークライン法務窓口からの通知だった。
『東雲素材流通関連会社への警告書送付完了。協会調査開始済み。天瀬澪氏および七瀬家関係者への直接接触禁止を通達しました。』
さらに、協会公式の更新も来ていた。
『未成年探索者への高危険度素材直接買い取り打診について、協会は関係企業への聞き取りを開始しました。』
『対象探索者および関係者への追加接触が確認された場合、登録事業者資格の停止を含む措置を検討します。』
朱音が画面を澪に見せた。
「動き早い」
「ざまぁ?」
「そう言いたくなる気持ちは分かる」
「言わない?」
「家では言っていい」
「ざまぁ」
「小声でね」
結衣が吹き出した。
「澪ちゃんが言うとなんか面白い」
「ざまぁ」
「もう一回言った」
「気に入った?」
「少し」
「澪、変な言葉覚えない」
朱音が止めたが、父も母も少し笑っていた。
ネット上でも、騒ぎは広がっていた。朱音が見せてくれたコメント欄には、三億提示をした業者への嘲笑と、協会調査への反応が並んでいる。
『登録停止まで行ったら草』
『三億業者、完全に踏み抜いたな』
『八十億級を三億は強欲すぎる』
『ざまぁ』
『未成年相手ならいけると思ったんだろうな』
『アークライン法務と協会同時に動かしたの面白すぎる』
『澪本人はたぶん鎌の図面見てる』
『鎌が作れないならいらない、が強すぎる』
『素材業者より澪の方が価値分かってる説』
『東雲系、前から評判悪かったからな』
父はコメントを少しだけ見て、静かに画面を伏せた。
「こういう騒ぎは、見すぎない方がいい」
「なんで?」
「気分が引っ張られる。必要な情報だけ窓口からもらえばいい」
「九環と似てる」
「ん?」
「全部見ようとすると死ぬ」
「……極端だが、たぶん合っている」
次は、仮所属契約だった。
テーブルの空気が少し変わった。七瀬家の窓口は、家族の問題だった。だが、仮所属は澪自身の今後を決めるものだ。期間一年。高深度特別探索者。年俸二億四千万円。成果報酬別。素材所有権は澪側。配信チャンネル《九環》の所有権も澪。アークラインは配信管理、素材保管、装備加工、医療、警備、法務、売却代行の支援を行う。研究データは匿名化と本人同意が前提。拒否権あり。
そして、武装開発枠。
初期提示の二十億円から、条件は更新されていた。昨日の八十億級素材を受け、アークラインは初年度の九環対応武装開発枠を五十億円まで拡張する案を出していた。年俸の大幅増ではない。澪が最も反応するところへ、まっすぐに条件を上げてきた形だった。
朱音が資料を読み上げる。
「空骨鎖鎌・第一改修、本命武器として優先。準本命鎖鎌の芯材設計開始。投擲鎖刃、骨杭セット、封鎖ケース正式型、空膜対策インナー、通信補助具の開発枠を含む」
「通信補助具」
「私用だね」
「朱音先輩用」
「私だけじゃないと思うけど」
「朱音先輩の声、届きやすくなる」
「……うん」
朱音は少しだけ視線を落とした。
「でも、私は学生だから。毎回、監視室には入れないよ」
「うん」
「学校もある。自分の探索もある」
「うん」
「澪のために全部止めるつもりはない」
「止めないで」
「そこは分かってるんだ」
「朱音先輩が止まると困る」
「私が?」
「うん」
「どう困るの?」
「朱音先輩が朱音先輩じゃなくなる」
「……そう」
朱音は一瞬、言葉を失った。
母が静かに微笑み、父は何も言わずに茶を飲んだ。結衣は二人を見比べて、少しだけ口元を緩めている。
澪は資料へ視線を戻した。
「だから、毎回じゃなくていい」
「うん」
「でも、鳥の時は声が欲しい」
「鐘骸鳥?」
「うん」
「通信補助具が間に合うなら?」
「うん」
「学校と相談」
「うん」
父が仮所属契約書を閉じた。
「俺は、この条件なら受けてもいいと思う」
「お父さん」
「もちろん、最後は澪さんが決めることだ。だが、個別契約で全てを組むより、仮所属で一年、条件を明確にして支援を受けた方が安全だと思う」
「理由は?」
「金額ではない。むしろ金額は大きすぎて、家だけでは守れない。素材も、配信も、医療も、法務も、全部専門家が必要だ」
「うん」
「それに、澪さんが欲しい鎌を作れる場所は、今のところアークラインしかない」
「うん」
母も頷いた。
「私も、同じ意見よ。もちろん心配だけど、心配だからこそ、ちゃんとした場所で見てもらった方がいいと思う」
「うん」
「ご飯を食べに来るのは、契約してもしなくても変わらないからね」
「来ていい?」
「いいわよ」
「うん」
結衣が手を上げた。
「私は、澪ちゃんが鎌作れるならいいと思う」
「理由それ?」
「だって澪ちゃん、鎌ないとしょんぼりするもん」
「しょんぼり」
「してたよ、模型見てる時」
「してない」
「してた」
「難しい」
朱音が最後に口を開いた。
「私も、仮所属でいいと思う」
「うん」
「ただし条件。契約書に、素材所有権、配信チャンネル所有権、研究拒否権、七瀬家への直接接触禁止、通信補助具の開発範囲、全部入れる」
「うん」
「九環探索は、事前計画制。勝手に行かない」
「コソ練は?」
「コソ練は、九環じゃない場所」
「転移は?」
「非公開訓練で相談」
「うん」
「あと、鳥を倒しに行くのは、鎌の第一改修が終わってから」
「分かった」
「本当に?」
「鳥は鎌の後」
「よし」
澪は湯呑みを置いた。
契約用のお茶は、もう少し冷めていた。即答ではない。朱音に聞いた。父に聞いた。母に聞いた。結衣にも聞いた。弁護士の確認も入った。図も見た。鎌の模型もある。七瀬家の窓口も動いた。三億業者は法務に刺された。条件は、澪が欲しいものに近い。
だから、澪は短く言った。
「アークラインに入る」
「仮所属ね」
「仮所属」
「一年」
「一年」
「嫌なら?」
「辞める」
「違約金は?」
「重大違反なければなし」
「素材は?」
「私」
「チャンネルは?」
「私」
「研究は?」
「嫌なら断る」
「九環は?」
「勝手に行かない」
「よし」
朱音は深く息を吐いた。
その日の夜、協会立ち会いのもと、電子署名ではなく、紙の契約書が用意された。未成年契約のため、協会担当者、外部弁護士、アークライン法務、七瀬家の立ち会い記録が残される。澪の法的保護管理の問題はまだ完全には整理されていないが、探索者としての仮所属契約は協会監督下で成立可能だった。
アークライン側からは、神楽坂と佐伯がオンラインで参加した。画面の向こうで、二人とも静かに頭を下げる。
「天瀬澪さん。改めて確認します。本契約は一年間の高深度特別探索者・仮所属契約です。長期専属ではありません」
「うん」
「素材所有権は天瀬さんに残ります」
「うん」
「チャンネル《九環》の所有権も天瀬さんに残ります」
「うん」
「研究利用には本人同意が必要です」
「うん」
「九環対応武装開発枠は、初年度上限五十億円。空骨鎖鎌第一改修を最優先案件とします」
「うん」
「七瀬家への直接接触は、本人およびご家族の同意なく行いません。連絡は法務窓口を通します」
「うん」
「質問はありますか」
「鎌、いつ?」
「明日から本加工準備。素材移送後、最短で七日以内に第一改修完了予定です」
「早い」
「早くします」
「じゃあ、大丈夫」
朱音が小さく笑った。
「最後まで鎌だったね」
「大事」
「分かってる」
澪は契約書へ署名した。
天瀬澪。
細い字だった。少し癖がある。前世の文字ではない。この世界の名前。この世界の契約。この世界で作る鎌のための署名。
署名が終わると、神楽坂は画面越しに深く頭を下げた。
「ようこそ、アークラインへ。天瀬澪さん」
「うん」
「明日から、あなたの素材と装備は当社の最優先管理案件になります」
「鎌」
「はい。鎌です」
佐伯が補足した。
「また、三億買い取り業者については、協会調査が正式に開始されました。今後、天瀬さんへ直接接触した場合は、契約窓口への妨害として扱います」
「ざまぁ?」
「法務担当としては、やはりその表現は使いません」
「でも?」
「結果的には、そうなる可能性が高いです」
「うん」
結衣が横で小さく笑った。
その後、アークライン公式が短い発表を出した。
『アークラインは、探索者協会監督下において、天瀬澪氏と一年間の高深度特別探索者・仮所属契約を締結しました。』
『チャンネル《九環》および取得素材の所有権は、天瀬氏本人に帰属します。』
『当社は、九環由来素材の安全管理、装備開発、医療、法務、配信管理に関する支援を行います。』
『未成年探索者および関係者への無許可接触、取材、素材買い取り交渉はお控えください。』
コメント欄は、すぐに流れた。
『アークライン入りきた』
『まあそうなる』
『素材所有権残してるの強い』
『チャンネルも取られてないの安心した』
『年俸より装備目当てだろ』
『絶対そう』
『鎌作れるところ選んだだけ説』
『三億業者、完全敗北』
『ざまぁ』
『他クランの年俸十億オファーどうなった?』
『鎌作れなくて切られたらしい』
『草』
『判断基準が鎌なの好き』
『次は鳥って何?』
『九環ボス行く気か?』
『まだ休め』
澪はそのコメントを、朱音のスマートフォン越しに少しだけ見た。
「次は鳥」
「今日は契約したばっかり」
「うん」
「七日後、鎌」
「うん」
「その後、準備」
「うん」
「すぐ行かない」
「鳥は逃げない?」
「逃げないでしょ、たぶん」
「ダンジョンだし」
「そう。ダンジョンだから」
朱音はそう言って、澪の前に夕飯の茶碗を置いた。母が作った温かい味噌汁と、焼き魚と、煮物。契約が終わっても、食卓は普通だった。数字も、素材も、アークラインも、九環も、ここでは一度横に置かれる。
澪は箸を持った。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
母が穏やかに笑う。
父は契約書の控えを封筒へ入れ、結衣はコメント欄を見て笑い、朱音は澪がちゃんと食べ始めたことを確認してから、自分の箸を取った。
アークライン仮所属。
空骨鎖鎌第一改修。
七瀬家法務窓口。
三億業者への協会調査。
次の九環ボス、鐘骸鳥。
やることは増えた。
けれど、澪の前には温かいご飯があった。
だから今は、食べることにした。




