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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第十六話 アークライン本部

 八十億円級の素材を持ち帰った翌日、澪は七瀬家の玄関で靴を履きながら、昨日より少し重いケースを背負っていた。


 中身は空骨鎖鎌ではない。鎌は協会の封鎖庫にある。今日持っているのは、着替えと、協会から渡された書類と、朱音の母が持たせてくれた小さな弁当だった。澪がアークライン本部で昼を食べると聞いても、母は念のためと言って包んでくれた。アークラインの食堂がどれだけ立派でも、澪が緊張して食べ損ねるかもしれないから、という理由だった。


 澪は弁当をリュックの中で一番安全な場所に入れた。封鎖パックではないが、扱いは九環素材より丁寧だった。


 朱音は制服姿で、玄関の横に立っていた。今日は同行しない。学校がある。昨日までの流れなら一緒に行きたがってもおかしくなかったが、朱音は朝から一度もそう言わなかった。代わりに、協会とアークラインの連絡先、法務窓口の初期設定、素材保管期限、契約書の確認項目を紙にまとめ、澪のリュックへ入れていた。


「今日は、アークライン本部で素材保管と装備図面の確認」

「うん」

「契約書には署名しない」

「うん」

「口で、いいよ、も言わない」

「うん」

「欲しい、は言ってもいいけど、決めない」

「欲しいはいい?」

「そこまで禁止すると喋れなくなるでしょ」

「分かった」


 朱音は澪の襟元を見た。探索装備ではなく、黒いパーカーと動きやすいパンツ。小柄で、顔だけ見れば、昨日九環から番犬素材を持ち帰った人間には見えない。だが、目の奥だけが違う。朝の光の中でも、澪の視線はどこか白い空を見ているように沈んでいた。


「澪」

「なに?」

「学校終わったら連絡する。そっちも、何かあったら連絡」

「うん」

「悪質配信者とか、変な業者とか、直接話しかけられても答えない」

「答えない」

「高額オファーも、その場で決めない」

「鎌を作れるか聞くのは?」

「聞いてもいい。でも決めない」

「うん」


 結衣がリビングから顔を出した。


「澪ちゃん、アークラインってすごいところ?」

「たぶん」

「美味しいご飯あるかな」

「確認する」

「そこ?」

「大事」


 朱音の母が玄関まで来て、澪の手に小さな包みをもう一つ持たせた。中には飴と、個包装の焼き菓子が入っている。


「疲れたら食べてね」

「うん」

「難しい話の時は、一度飲み物を飲むのよ」

「なんで?」

「少し間ができるから」

「分かった」

「即答しない練習ね」

「難しい」

「だから飴も入れておいたの」


 澪は包みを見て、少しだけ頷いた。


「契約用」

「そう。契約用」


 玄関の外には、アークラインの車が来ていた。派手ではない黒い車体。運転席には警備担当が一人、後部座席の前には協会職員が一人乗っている。完全なクラン単独移動ではなく、協会立ち会いの移送という扱いだった。澪は車に乗る前に振り返った。


「朱音先輩」

「なに?」

「学校、頑張って」

「澪に言われると不思議」

「学生だから」

「澪も本当は学生なんだけどね」

「退学扱い」

「そこは、後で考える」

「うん」


 車のドアが閉まった。


 朱音は車が見えなくなるまで玄関の前に立っていた。隣に来た結衣が、小さく言った。


「お姉ちゃん、行きたかった?」

「少し」

「行けばよかったのに」

「私は学校」

「真面目」

「澪が九環行くたびに全部ついて行ったら、私の方が止まるから」

「止まる?」

「学生も、探索者も」

「そっか」

「いずれ同じ場所に行く。そのために、今は学校」


 朱音はそう言って、鞄を肩にかけ直した。


 アークライン本部は、都心の高層ビル群の中でも目立つ建物だった。


 全面がガラス張りというわけではない。むしろ外観は黒と白の石材を基調にしていて、病院にも研究所にも見える。正面には大きな社名ではなく、小さく《ARKLINE》と刻まれているだけだった。だが、周囲の警備密度が違う。入口の前には制服警備員が二人。車寄せには認証ゲート。上空には小型ドローンが一定間隔で旋回している。探索者クランの本部というより、要塞を街の中に押し込めたような場所だった。


 澪は車を降り、建物を見上げた。


「高い」

「地下の方が広いですよ」


 迎えに来た神楽坂美冬が言った。今日もスーツ姿だが、胸元にはアークラインの小さなバッジがついている。隣には法務担当の佐伯円もいた。二人とも、昨日の疲れを表に出していない。


「地下?」

「封鎖工房、素材保管庫、装備試験場があります。天瀬さんが見るのは、そちらが中心になります」

「工房」

「はい」

「鎌は?」

「協会からの移送手続きが終わり次第、地下封鎖工房へ入ります。本日は素材保管の確認と、第一改修案の説明です」

「図面」

「用意しています」


 澪の目が少し明るくなった。


 神楽坂はその反応を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。


 入口へ向かう途中、歩道の向こうで誰かが声を上げた。


「天瀬澪さんですか! 昨日の番犬素材について一言お願いします!」


 若い男がスマートフォンを掲げて走ってきた。服装は普通だが、胸元に小型カメラをつけている。悪質配信者だろう。昨日から協会前やアークライン本部周辺に何人か集まっていると、朱音から聞いていた。


 澪は足を止めなかった。


 警備員が一歩で間に入った。男の進路が塞がれる。さらに別の警備員が横から近づき、男のスマートフォンの向きを下げさせた。


「ここは私有地です。撮影を停止してください」

「いや、公共の関心があるでしょう! 八十億素材ですよ!」

「撮影を停止してください」

「本人に聞いてるだけですって! 澪さん、番犬の足、また取りに行くんですか!」


 澪は少しだけ男を見た。


 神楽坂が穏やかに言った。


「天瀬さん。答えなくて結構です」

「うん」


 澪はそれだけで建物へ入った。


 男の声は、ガラス扉の向こうで急に遠くなった。遮音が効いている。ロビーへ入ると、外のざわめきはほとんど聞こえなかった。


 ロビーは広かった。床は白い石。天井は高く、壁には探索記録の写真や、古い装備が展示されている。華やかではないが、どれも本物だと分かる。折れた大剣。焦げた盾。透明なケースに入った魔物の角。大型モニターには、所属探索者の活動情報と、協会からの注意文が交互に流れていた。


 その中に、昨日の澪の配信に関する注意文もあった。


『第九環への無許可侵入、模倣探索を禁じます。』

『本映像の危険区域、座標情報、素材詳細は安全上の理由により一部加工されています。』

『天瀬澪氏への直接取材、素材買取交渉、住所特定行為はお控えください。』


 澪は最後の一文を見た。


「住所特定」

「昨夜から、いくつか動きがありました」

「七瀬家?」

「現時点で実害はありません。住所情報の拡散監視と、悪質接触の窓口化は開始しています」

「朱音先輩、知ってる?」

「七瀬さんとご家族には、協会経由で共有済みです」

「うん」


 ロビーの奥に、三人の少女が立っていた。


 一人目は、澪が最初に見てもすぐ分かるほど、人間離れした美しさをしていた。背は高く、姿勢がまっすぐで、腰まで届く淡い銀髪が白い照明を受けて柔らかく光っている。耳は長く尖り、肌は雪のように白い。だが、病的な白さではない。薄く光を含んだ樹皮のように、静かな生命感がある。瞳は淡い翡翠色で、視線が動くたび、森の奥で葉が揺れるような深い色を見せた。存在進化でエルフ種になった探索者だと、澪はすぐに思った。髪の内側には、ごく細い葉脈のような緑の光が走っている。立っているだけで、周囲の空気が少し澄んだように見える。


 二人目は、赤みを帯びた黒髪を高い位置でまとめ、額の片側から短い黒角が一本だけ出ている。肌は健康的な褐色で、目は琥珀色。肩から腕にかけて赤い紋様が薄く走っており、呼吸に合わせてかすかに明滅していた。鬼種。小柄ではないが、無駄な筋肉のつき方ではない。しなやかで、近づけば熱が伝わりそうな身体をしている。笑っていないのに、戦う前の獣のような明るさがあった。


 三人目は、外套のような白い作業ジャケットを着ていた。薄紫の髪を顎のあたりで切りそろえ、丸い眼鏡の奥の瞳には水晶の断面のような多角形の光が浮かんでいる。指先の爪は透明で、細かい工具を扱うためか、一本一本が丁寧に整えられていた。腰には工具ベルト。首には小型端末。戦闘者というより工房の人間だが、魔力の流れは普通ではない。存在進化で晶工種になった技術者だろう。


挿絵(By みてみん)


 神楽坂が紹介した。


「アークライン所属、高深度攻略部最上位班の白峰セレス。種族はエルフ種です」

「白峰セレスです」


 銀髪の少女が静かに頭を下げた。声は澄んでいるが、柔らかすぎない。きれいな刃物を布で包んだような声だった。


「同じく最上位班、火野アカリ。鬼種です」

「火野アカリ。よろしく」


 角の少女はにっと笑った。笑うと、琥珀色の瞳の奥が燃えるように明るくなった。


「装備開発部、御影ユイカ。晶工種。榊原主任の下で、空骨鎖鎌の第一改修補助に入ります」

「御影ユイカです! 昨日の番犬前脚剥離骨板、映像で見ました! 本物を、この目で、できればケース越しでいいので、なるべく近くで見たいです!」


 最後だけ勢いが違った。


 澪は少し考えた。


「ケース越しなら」

「本当ですか!」

「私のじゃない。まだ協会」

「あ、そうでした。所有権は天瀬さん、保管は協会、加工は未契約。理解しています。触りません。見ます。測ります。記録します。許可された範囲で」

「早口」

「すみません」


 ユイカは頬を赤くしたが、目の輝きは消えなかった。


 セレスは澪を見ていた。表情は穏やかだが、目は観察している。九環から戻った少女。番犬素材を持ち帰った探索者。画面で見た相手が、実際には小柄で、黒いパーカーを着て、朱音の母が持たせた弁当を背負っている。その落差を測っているようだった。


「映像を見ました」

「うん」

「綺麗な戦い方ではありませんでした」

「うん」

「でも、目が離せませんでした」

「そう」

「怖くはないのですか。九環が」

「怖い」

「そうは見えません」

「綺麗だから」

「怖くて、綺麗?」

「うん」


 セレスはしばらく黙った。


 それから、ほんの少しだけ目を細めた。


「そうですか」


 それだけだった。だが、最初よりも声の温度が変わっていた。落ちたわけではない。簡単に懐いたわけでもない。けれど、澪という探索者を、単なる話題の新人ではなく、見るべき相手として認識したのは確かだった。


 アカリは遠慮なく澪の周囲を一周した。


「ちっさいね」

「うん」

「これで番犬の足を剥がしたの?」

「足全部じゃない」

「剥離骨板」

「うん」

「いいね。そういう訂正するんだ」


 アカリは楽しそうに笑った。


「私、あの場面であと一歩行くと思った」

「行けた」

「行かなかった」

「朱音先輩が言ったから」

「声で止まるタイプか」

「止まれる時は」

「ふうん」


 アカリはそこで少しだけ真面目な顔になった。


「止まれるのは強いよ。止まれない強いやつ、結構死んでるから」


 澪はアカリを見た。


「あなたは?」

「私は止まるの下手」

「じゃあ危ない」

「言うね」

「うん」

「気に入った」


 神楽坂が咳払いをした。


「火野さん。今日は顔合わせです」

「分かってますよ、副代表」

「分かっている顔ではありません」

「大丈夫です。戦いません」

「当たり前です」


 ロビーを抜け、エレベーターへ向かう途中、佐伯の端末が鳴った。彼女は画面を確認し、表情を変えずに神楽坂へ見せた。


「また直接オファーです」

「どこから?」

「素材商社の分社名義です。天瀬さん個人の公開連絡先に送られています」

「未成年への直接交渉ですね」

「はい」


 澪も画面を覗いた。


 文面は丁寧だった。だが、中身はひどかった。危険素材の保管には莫大な費用がかかる。未成年である澪が管理するには負担が大きい。当社が特別に即金三億円で買い取る。今後の素材も優先的に取引したい。相談だけでもどうか。そんな内容だった。


「三億」

「安いです」


 佐伯が即答した。


「八十億って言ってた」

「はい。しかも全量ではなく、番犬素材を含む主要素材に対する一括打診です。極めて不適切です」

「三億で鎌作れる?」

「無理です」

「じゃあいらない」

「判断が早くて助かります」


 セレスが静かに画面を見た。


「相変わらずですね」

「知ってるところ?」

「若い探索者の素材を安く買うことで有名です。合法と違法の境目を歩くのが上手い」

「今回は境目を踏み越えています」


 佐伯の声は変わらない。だが、目だけが少し冷たくなった。


「協会へ通報し、当社法務から警告を送ります。天瀬さん、返信しないでください」

「しない」

「念のため、その連絡先への窓口は当社と協会で遮断します」

「うん」


 その日のうちに、その件は表へ出た。アークラインが名前を伏せたまま注意喚起を投稿し、協会も未成年探索者への直接買取交渉について調査中と発表した。すると、配信コメントと掲示板はすぐに騒ぎ始めた。


『八十億級素材に三億提示した業者いるってマジ?』

『買い叩きにも程がある』

『未成年に直DMは終わってる』

『ざまぁ待ったなし』

『どこの業者か特定されそう』

『アークライン法務が出てきた時点で詰み』

『三億で番犬素材買えると思ったの草』

『澪ちゃん、三億で鎌作れる?って聞いてそう』

『作れないならいらないって言いそう』

『実際言ってそうで草』


 エレベーターが地下へ向かって下り始める。


 澪はコメントを見ていない。代わりに、エレベーターの階数表示を見ていた。地下三階。地下四階。地下五階。下へ行くほど、壁の材質が変わる。白い内装から、金属と黒い石材へ。空気の匂いも変わった。消毒液と、油と、乾いた魔力の匂い。澪の目が少しだけ鋭くなる。


「工房の匂い」

「分かりますか」

「うん」

「ここから先は、アークライン封鎖工房です」


 扉が開いた。


 地下封鎖工房は、澪が想像していたよりずっと広かった。天井が高く、中央に大型の作業台がいくつも並び、それぞれ透明な防護壁で区切られている。壁際には封鎖ケース、測定器、素材保管用の筒、巨大な炉のような装置が並んでいた。普通の鍛冶場ではない。鉄を打つ場所ではなく、素材の性質を殺さず、暴走させず、武器として形にする場所だった。


 榊原透子が作業台の前で待っていた。黒い作業ジャケットの袖をまくり、髪を後ろでまとめている。彼女の周りには数人の技術者がいて、その中にはユイカと同じように目を輝かせている者もいれば、番犬素材という言葉を聞くだけで胃が痛そうな顔をしている者もいた。


「来ましたね」

「図面」

「挨拶より先ですか」

「図面」

「はい。用意しています」


 榊原は大きな端末へ図面を表示した。


 空骨鎖鎌・第一改修案。


 現在の仮修復型を基に、番犬前脚剥離骨板を刃元と先端鉤の中核へ使用する。白銀墓標核片で鎖の固定性を高め、空膜獣牙を補助刃として組み込む。空膜皮膜は柄の内側と握りの裏に薄く張り、澪の魔力と鎌の反応を緩やかに繋ぐ。空膜獣喉核は通信補助具へ回すため、鎌には使わない。先端鉤は切り離し機構を改良し、失っても主鎖が暴れないよう制御環を追加する。


 澪は図面を見たまま動かなくなった。


 榊原が説明を続ける。


「これは完成形ではありません。第一層九環ボス戦に向けた第一改修です。耐久、空膜への食い込み、切り離し後の安定性を優先します。火力だけを上げると、天瀬さんが鎌に引っ張られる」

「本命?」

「本命です。ただし、第一段階」

「準本命は?」

「素材が足りません。番犬骨板の一部を残せば芯だけは作れますが、本命の完成度が落ちます」

「本命優先」

「でしょうね」


 ユイカが横から端末を操作した。


「こちらが予備案です。番犬素材を使わず、墓標核片と空膜獣牙を中心にした簡易準本命。九環対応は限定的ですが、鎌を失った時に三十秒から一分、離脱行動を支える想定です」

「短い」

「九環で一分持つ予備武器は、普通に考えると異常です」

「そうなの?」

「そうです」


 アカリが図面を見て、感心したように口笛を吹いた。


「これ、本当に第一段階? 普通にクランの最上位装備より尖ってない?」

「尖っています。扱える人間が天瀬さんしかいません」

「だよね。私が持ったらたぶん腕ごと持っていかれる」

「火野さんなら、腕が先に殴り返すでしょう」

「褒めてます?」

「半分」


 セレスは黙って図面を見ていた。


 彼女の視線は、刃ではなく鎖の方に向いている。細い翡翠色の瞳が、鎖の節と制御環の位置を追っていた。


「鎖を武器としてだけでなく、移動と姿勢制御に使うのですね」

「うん」

「弓では届かない場所へ、身体ごと入る」

「入る」

「危険ですね」

「でも早い」

「ええ。だから危険です」


 セレスはそこで、澪を見た。


「私なら、そこまで入りません」

「弓?」

「はい」

「遠くから?」

「遠くから。見える場所から。退路を残して」

「いいと思う」

「あなたは?」

「近い方が、分かる」

「何が?」

「どこを切るか」

「……そうですか」


 セレスはまた少し黙った。澪の答えを、綺麗とも無謀とも言わなかった。ただ、理解しようとしている顔だった。


 神楽坂が話を戻した。


「この第一改修は、仮所属契約前でも個別加工委託として進められます。ただし、加工費、素材保管費、医療支援、警備、配信管理が別立てになります」

「仮所属なら?」

「武装開発枠へ組み込めます。素材所有権は天瀬さん側に残したまま、加工権と優先管理権を当社が持つ形です」

「朱音先輩に聞く」

「はい。七瀬さんとご家族、必要なら弁護士にも確認してください」

「うん」


 佐伯が新しい資料を出した。


「それと、先ほどの三億買取業者以外にも、他クランから正式オファーが届いています」

「いくら?」

「最大で年俸十億円」

「十億」

「ただし、装備加工は外部工房紹介、九環素材の保管は協会依存、医療支援は提携病院紹介、配信管理は共同チャンネル化が条件です」

「鎌は?」

「作れない可能性が高いです」

「いらない」

「まだ全文を読んでいませんが」

「鎌がない」

「はい」


 アカリが腹を抱えて笑いかけて、神楽坂の視線で口を閉じた。


 だが、肩が揺れていた。


「年俸十億を一秒で切った」

「鎌がない」

「最高」


 セレスも、ほんのわずかに微笑んだ。


「分かりやすい基準ですね」

「分かりやすい方がいい」

「そうですね」


 神楽坂はその反応を見ても、慌てなかった。むしろ、澪が金額だけで動かないことを確認したようだった。


「では、他クランオファーについては、法務側で一覧化し、条件比較表を作ります」

「図?」

「はい。図にします」

「図がいい」


 榊原が作業台の横に置かれた小さな箱を開けた。中には、空骨鎖鎌の先端鉤の試作模型が入っている。実物ではない。樹脂と低位魔鉱で作った模型だ。澪はそれを手に取った。


 指に馴染む。


 まだ軽い。九環の重さはない。だが、形は分かる。番犬前脚剥離骨板を使った先端鉤は、前より少し短く、厚くなる。刺すより噛む形。空膜に引っ掛けるだけでなく、踏み下ろす性質を利用して、引いた時に対象を固定する。榊原の説明を聞く前に、澪はその用途をなんとなく理解した。


「これ、逃げにくい」

「敵がですか」

「敵も、私も」

「正解です。だから切り離し機構を強くします」

「もう一個いる」

「予備鉤ですね」

「うん」

「作ります。予算が通れば」

「通す」

「契約が必要です」

「難しい」

「そうです」


 澪は模型を見たまま、少しだけ唇を尖らせた。


 その表情を見て、ユイカが小さく息を呑んだ。たぶん、鎌の模型を見て不満そうにしている少女があまりにも自然で、同時に奇妙だったのだろう。八十億素材を持ち帰り、年俸十億を鎌がないという理由で切り、今は試作鉤の予備を欲しがっている。美しいとか可愛いとかの前に、価値観が装備へ向きすぎている。


 ユイカは端末を抱え直し、小声で言った。


「……変な人ですね」

「私?」

「はい」

「よく言われる」

「でも、素材を飾らないところは好きです」

「素材は使うもの」

「はい。そこが、とても良いです」


 ユイカの頬が少し赤かった。だが、それは恋というより、同じ方向を見ている相手を見つけた技術者の熱だった。澪はその違いを分かっているのかいないのか、模型の先端を指でなぞっていた。


 榊原は端末に次の図面を出した。


「次に、第一層九環ボス戦を想定した改修計画です。対象候補は三体」

「ボス」

「はい。現時点で、天瀬さんが次に狙える可能性がある個体です。ただし、いずれも推定Lv80。番犬とは性質が違います」


 画面に三つの簡易シルエットが表示された。


「名称は正式確定ではありません。鑑定表示が取れれば、それを優先します。過去記録と九環反応からの仮称は、鐘骸鳥、墓喰白鯨、逆墓王」

「鐘骸鳥」

「音と距離ズレの個体と推定。空膜獣喉核の上位素材が取れれば、七瀬さんの通信補助具にも使えます」

「朱音先輩用」

「はい」

「最初、これ」

「決めるのが早い」


 神楽坂が言った。


「ただ、合理的ではあります。通信補助具が完成すれば、以後の九環探索全体の安全性が上がります」

「じゃあ、これ」

「まだ決定ではありません」

「候補」

「はい。候補です」


 澪は鳥のシルエットを見た。


 鑑定すれば、名前とレベルが出る。探索者なら誰でも持っている初期能力。だが、戦闘中にそれを読み、必要な情報だけを声に出すかどうかは探索者次第だ。澪はたぶん、いつものように呟くだろう。


 それを聞いた配信の向こうが騒ぐところまで、ミナトという配信管理部の少女がいたなら頭を抱えただろう。今日はまだ会っていないが、神楽坂の話では、澪のチャンネル担当候補も後で来るらしい。


 アカリが拳を鳴らした。


「私、見学したい」

「火野さん」

「同行じゃなくて監視室。駄目?」

「検討します」

「セレスも見たいでしょ」

「興味はあります」

「ほら」

「興味と参加希望は違います」


 セレスは静かに返したが、視線は鳥のシルエットから離れていなかった。


 澪はその横顔を見た。銀髪の内側に葉脈のような光が走っている。エルフ種。弓を使う高位探索者。遠くから、見える場所から、退路を残して戦う人。澪とは違う。違うから、たぶん強い。


「セレスさん」

「はい」

「鳥、撃てる?」

「見えれば」

「見えない時は?」

「見える位置まで下がります」

「私は近づく」

「知っています」


 セレスは少しだけ笑った。


「だから、見てみたいのです」


 澪は頷いた。


 この時点で、誰かが澪に落ちたわけではない。セレスも、アカリも、ユイカも、それぞれの距離で澪を見ているだけだ。けれど、昨日まで画面の中の異常な探索者だった少女が、今、同じ工房で図面を見て、鎌の予備鉤を欲しがり、九環ボスの順番を考えている。その現実が、彼女たちの中に小さな熱を残していた。


 榊原は最後に、空骨鎖鎌第一改修案の承認欄を表示した。


「第一改修自体は、素材所有権を天瀬さん側に残したまま、協会一時保管の範囲で準備作業だけ進められます。本加工は契約後です」

「準備はできる?」

「できます。素材の採寸、封鎖治具の設計、先端鉤の模型制作、鎖制御環の調整。今日から入れます」

「やって」

「正式承認は?」

「朱音先輩に聞く」

「では、準備作業のみ開始で記録します」


 佐伯が頷いた。


「契約上も問題ありません。素材を加工しない範囲の設計準備です」

「鎌、早くなる?」

「早くなります」

「じゃあ、やって」


 澪はそこで、母から持たされた包みを思い出した。リュックから飴を取り出し、口に入れる。甘い。少し間ができる。母が言っていた通りだった。


 神楽坂がそれに気づいて、静かに言った。


「判断前に間を置くためですか」

「契約用」

「良い習慣です」

「七瀬母がくれた」

「では、お礼を言わないといけませんね」

「うん」


 地下封鎖工房の奥で、作業灯が灯った。技術者たちが動き始める。まだ本加工ではない。だが、図面が現実へ降り始めた。番犬前脚剥離骨板は協会封鎖庫にある。空骨鎖鎌は移送待ち。契約は未署名。外では悪質配信者が警備に止められ、素材業者は法務に刺され、他クランの年俸十億は鎌がないという理由で切られた。


 澪は大きな画面に映る鐘骸鳥のシルエットを見ていた。


 次の九環ボス。推定Lv80。

 音と距離をずらす鳥。

 倒せば、朱音の声を届きやすくできるかもしれない。


 澪は小さく呟いた。


「最初は鳥」


 誰も反対しなかった。


 ただ、セレスが静かに息を吸い、アカリが楽しそうに笑い、ユイカが端末に新しい項目を追加した。


 空骨鎖鎌・第一改修。

 対鐘骸鳥戦想定。

 通信補助具素材回収優先。

家族写真 イメージ図

挿絵(By みてみん)

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