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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第十五話 八十億円

 帰還管理区画の床は、澪の血で少し汚れていた。


 量としては多くない。九環の中で受けた傷のほとんどは、帰還するまでに塞がっている。裂けた腹も、砕けた肋骨も、潰れかけた肺も、表面だけ見ればもう大きな異常は残っていない。だが、医療班の端末に映る数値は穏やかではなかった。魔力循環の一部に遅れがあり、胸部の再生履歴に空膜干渉の跡が残っている。左腕の神経反応も一度乱れていたらしく、指先を動かすたびに、澪はほんの少しだけ眉を寄せた。


 アークラインの医師は、澪を簡易ベッドへ座らせたまま、慎重に検査を進めていた。澪は仮封鎖ケースへ片手を置いている。医療班が離すように言っても、完全には離さなかった。ケースの中の空骨鎖鎌は先端鉤を一つ失い、封鎖灯は青へ戻りきらず、青と白の間で薄く明滅している。澪の状態より、鎌の方が気になっているような顔だった。


「天瀬さん、深呼吸をお願いします」

「鎌、壊れてる?」

「先に呼吸です」

「鎌」

「鎌は榊原主任が見ています」

「うん」


 澪は言われた通りに息を吸った。胸の奥で、まだ薄い痛みが走る。肺そのものは戻っている。だが、空膜に裂かれた場所は、再生してもすぐには馴染まない。呼吸のたびに、肺の内側で白い薄膜が剥がれるような違和感があった。


 朱音は少し離れた位置で立っていた。医療班の邪魔にならないように、床に貼られた黄色い線の外側にいる。両手は強く握られていた。さっきまで監視卓で声を出していた人間と同じとは思えないほど、今は静かだった。


 医師が端末を見た。


「血圧、安定。魔力循環は遅延あり。胸部再生痕は強いですが、心臓への直接損傷はありません」

「心臓は避けた」

「避けたというより、衝撃位置がずれたように見えます」

「たぶん、ずらした」

「意図的に?」

「踏まれる前に、少しだけ」


 医師の手が止まった。


「前脚の衝撃を、受ける前にずらしたんですか」

「全部は無理」

「全部ずらせたら検査どころではありません」


 朱音が小さく息を吐いた。


「本当に、さらっと変なこと言う」

「変?」

「変」

「そう」


 澪は納得したのかしていないのか分からない顔で、また仮封鎖ケースを見た。


 榊原はケースの前にしゃがみ込んでいた。手袋を二重にし、携帯端末をケースへ接続している。ケースの内部映像が小さな画面に映っていた。空骨鎖鎌の主鎖は戻っている。だが、先端鉤はない。切り離し機構は正常に動作した。問題は、その切り離した鉤を番犬由来の骨に食われたことだった。


「主任、鎌は?」

「生きています。先端鉤を失っただけです。ただし、番犬由来素材に一度噛み込んだ影響で、鎖の先端部に反応残滓があります」

「直る?」

「直します」

「よかった」

「ただ、今回の素材を使えば、直すどころでは済みません」


 澪の目が少しだけ動いた。


「強くなる?」

「なります。正しく加工できれば」

「正しく」

「はい。間違えれば工房ごと死にます」


 澪は少し考えた。


「工房は死なない方がいい」

「当然です」


 榊原は真顔で返した。


 封鎖パックは、別室の危険素材査定室へ運び込まれていた。帰還直後に澪が持ち帰ったものは、すべて協会とアークラインの共同記録下で開封される。素材を入れた封鎖パックには個別番号が振られ、誰が触れたか、何秒開けたか、どの測定器で反応を見たかまで記録される。九環素材は、ただ高いだけではない。扱いを誤れば、査定室そのものが九環の環境反応を持つ危険物になる。


 水瀬は査定室の厚いガラス越しに、開封作業を見ていた。神楽坂と黒瀬もその場にいる。朱音は澪の検査が終わるまで帰還区画を離れないつもりだったが、澪が小さく言った。


「素材、見たい」

「検査が先」

「見たい」

「澪」

「座って見る」

「……医療班の許可が出たら」


 医師は困った顔をしたが、最終的には移動用の椅子を使うことを条件に許可した。澪は歩ける。走れと言われれば、たぶん走る。だが、今の状態で勝手に歩き回らせるより、椅子へ座らせて移動させた方がましだと判断された。


 査定室の前に着くと、最初に白銀墓標核片が開封された。


 封鎖パックの中から出てきたそれは、配信で見るよりずっと白かった。骨ではない。石でもない。金属でもない。表面には細い年輪のような筋があり、奥から青白い光が透けている。査定員が小さな器具で表面をなぞると、音が鳴った。金属音ではなく、鐘のような音だった。水瀬の端末に、反応値が並ぶ。


「白銀墓標核片。危険度B+からA-へ修正の可能性。空膜固定性が高いです」

「用途は?」

「骨杭、投擲鎖刃、封鎖ケース内部固定具。少量なら補修材にも使えます」

「売れる?」

「売れます。ただし、売るより加工用に残すべきです」


 澪は頷いた。


「残す」

「まだ全部残すと言わない」

「残す」

「澪」


 朱音が横から止めたが、澪の視線はもう次の封鎖パックへ移っていた。


 空膜獣の牙は、薄い透明感のある白い牙だった。根元だけ青く、先端へ行くほど光を通さなくなる。二本並ぶと、短剣の刃に見える。皮膜は畳まれているのに、時々、自分で空気を吸うように膨らんだ。喉核は小さい。親指の爪ほどしかない。だが、測定器を近づけると、端末の音が一瞬乱れた。


「空膜獣牙、危険度A-。鎖刃、短剣、空膜切断補助に向いています」

「空膜皮膜、危険度B。インナー、防具裏打ち、ドローン外装にも転用可能」

「空膜獣喉核、危険度A。音響遅延、距離ずれ、通信補正の研究対象です」


 水瀬の声が淡々としている。だが、目は少しだけ熱を持っていた。協会職員として抑えているだけで、研究者としては興味を隠しきれていない。


 榊原は喉核を見て、低く言った。


「これ、朱音さんの監視音声にも使えるかもしれません」

「私の?」

「音声遅延の補正です。九環では呼びかけが遅れる。これを通信補助具に組み込めれば、遅延を完全に消せなくても、ズレを読みやすくできる可能性があります」

「そんな使い方もあるんですか」

「あります。素材としてはかなり良い」


 澪は喉核を見た。


「朱音先輩用?」

「勝手に決めない」

「でも、声が早くなる」

「それは助かるけど」

「じゃあ残す」

「だから、全部残す前提で話を進めないの」


 神楽坂が静かに言った。


「実際、今回の素材は売却より装備転用の価値が高いです。即金化すれば大きな額になりますが、天瀬さんの戦闘能力と安全性を上げる方が、長期的な価値は上です」

「ほら」

「澪、嬉しそうにしない」


 最後に、番犬前脚剥離骨板が開封された。


 査定室の空気が変わった。実際に温度が下がったわけではない。だが、ガラス越しに見ているだけで、白い骨板の周囲だけ、光が遅れているように見えた。大きさは、澪の上半身ほどある。厚みは均一ではなく、片側は刃のように薄く、反対側は盾のように分厚い。表面には、番犬の毛並みを思わせる細い溝があり、その溝の奥に青白い結晶が点々と残っていた。


 封鎖パックから出された瞬間、査定室の警告灯が白く光った。


 査定員の一人がすぐに補助封鎖を重ねる。骨板は動かない。だが、室内の観測ドローンが一機、ゆっくりと高度を落とした。空間認識が乱れたらしい。榊原の表情が真剣になった。


「これは、工房に入れる前に専用治具が必要です」

「加工できる?」

「できます。できるようにします。ただ、今の設備にそのまま乗せると、測定器が先に壊れます」

「鎌にできる?」

「刃にできます。芯材にもできます。先端鉤にもできます。ですが、全部には使えません。素材の向きがあります」

「向き」

「番犬の前脚外装です。踏み下ろす、支える、空膜を割る。そういう性質が強い。刃だけに使うと、素材の良さを殺す可能性があります」

「じゃあ、どこ?」

「鎌の刃元。鎖の先端鉤。あとは、封鎖ケースの固定爪。個人的には、準本命用の中核にも回したい」

「足りる?」

「足りません」

「もっと欲しい」

「取りに行く話は後です」


 朱音が即座に言った。


「絶対に後」

「うん」

「今すぐ次とか言わない」

「今日は行かない」

「今日は、じゃなくて」

「明日も行かない」

「明後日も」

「……たぶん」

「澪」

「行かない」


 黒瀬が小さく笑った。


「七瀬がいなければ、今夜にでも行きそうだな」

「行かない」

「ケースがないからか」

「うん」

「否定理由がそこなのは問題だ」


 査定は夕方まで続いた。


 正式な金額はまだ出ない。九環素材は、危険度、加工可能性、前例、買い手、保管費、税務処理、協会規定で評価が揺れる。特に番犬前脚剥離骨板は、売買記録がほとんどない。第一層九環ボス由来素材。それも完全討伐後の確定報酬ではなく、跡地から切り出した外装片。扱いとしては、ボス素材であり、環境素材でもあり、危険物でもある。値段をつける側も慎重にならざるを得なかった。


 それでも、仮概算は出た。


 水瀬は端末の数字を何度も確認した後、協会担当者と神楽坂に確認を取った。それから、澪たちの方へ向き直った。


「正式査定ではありません。あくまで危険度と用途、過去の類似素材、アークライン側の加工評価を合わせた仮概算です」

「うん」

「総評価額は、七十二億から八十六億円の範囲。中心値で、八十億円級です」


 朱音は黙った。


 澪は少し首を傾げた。


「八十億」

「はい」

「鎌、何本?」

「その換算は難しいです」

「本命は?」

「正式加工の中核には十分。ただし、加工費は別です」

「売ったら?」

「即売却可能分だけなら、十億から十五億円前後。全素材を売却すれば数字上は大きいですが、番犬素材を市場に出すこと自体が危険ですし、装備転用価値を考えると推奨しません」

「じゃあ、売らない」

「そう言うと思いました」


 榊原が少しだけ笑った。


 神楽坂は机の上に新しい資料を置いた。


「ここから先は、契約の話になります」

「今?」

「今すぐ署名しろという話ではありません。ただ、素材の保管期限があります。協会の一時保管だけでは、七十二時間を超える長期封鎖に追加手続きが必要です。アークラインで共同保管する場合も、所有権、加工権、研究利用、保管費、警備責任を明確にしなければなりません」

「難しい」

「難しいです。ですが、今日持ち帰った素材は、難しいまま放置できる額ではありません」

「鎌にするには?」

「仮所属契約、または個別加工委託契約が必要です。どちらも選べます」

「仮所属じゃなくても、鎌にできる?」

「できます。ただし、個別委託の場合、加工費、封鎖ケース、医療支援、警備、配信管理は別契約になります。費用もかなり大きくなります」

「仮所属だと?」

「武装開発枠に組み込めます。素材の所有権は天瀬さん側に残し、アークラインは加工権と優先管理権を持つ形が現実的です」

「所有権、残る?」

「残します。そこを曖昧にするつもりはありません」

「図は?」

「作ります」

「図がいい」


 朱音はようやく声を出した。


「返事は後です」

「はい。今日この場での契約成立は求めません」

「ただ、保管だけは決めないとまずいんですよね」

「その通りです」


 佐伯円が資料を開いた。今日も落ち着いた声だった。


「本日中に決める必要があるのは、素材の一時保管先です。選択肢は三つ。協会の高危険素材庫に七十二時間限定で保管する。アークラインの共同封鎖庫へ、協会立ち会いで移送する。三つ目は、協会競売管理へ回す。ただし三つ目は、天瀬さんの意向と今回の素材性質を考えるとおすすめしません」

「競売はしない」

「では、協会保管か、アークライン共同封鎖庫です」

「鎌にするなら?」

「アークライン共同封鎖庫の方が加工準備は早いです。ただし、その分、契約条件の確認が必要になります」

「朱音先輩」

「私は、まず協会保管がいいと思う」

「なんで?」

「時間を買うため。七十二時間あるなら、その間に契約書を読める。お父さんにも見てもらえるし、必要なら弁護士も入れられる」

「鎌、遅くなる?」

「三日くらい」

「長い」

「長くない」

「長い」

「八十億の契約を三日で確認できるなら短い」

「そうなの?」

「そうなの」


 神楽坂は朱音を見た。


「妥当です。アークラインとしては共同封鎖庫への移送を希望しますが、天瀬さん側が協会保管を選ぶことに異議はありません」

「嫌じゃない?」

「嫌ではありません。焦らせて判断を誤られる方が困ります」

「分かった」

「ただし、七十二時間以内に次の保管先を決める必要があります。協会保管の延長は、費用と審査が跳ね上がります」

「費用」

「九環素材ですから」

「高い?」

「高いです」

「いくら?」

「概算で、一日数千万円からです」

「保管だけで?」

「保管だけで」


 澪は少し考えた。


「鎌にした方がいい」

「それはそう」

「早く」

「だから、契約を読むの」


 朱音は額を押さえた。


 その頃、配信の切り抜きはすでに広がり始めていた。協会が危険部分を遮断したにもかかわらず、映像は十分すぎるほど鮮明だった。アークラインの追尾ドローンが撮った九環の空、澪の走破速度、空膜獣との戦闘、番犬由来素材の奪取、鎌の切り離し、朱音の呼びかけ。どれも、これまでの澪の配信とは違う見え方をしていた。粗い映像ではなく、戦闘の細部まで見える。そのせいで、視聴者はようやく理解し始めていた。澪がどれだけ危ない場所にいて、どれだけ平然と動いていたかを。


 配信終了後のコメント欄は、まだ流れていた。


『八十億級ってマジ?』

『公式じゃないけど水瀬さんの声入ってたよな』

『番犬素材って言った?』

『第一層九環ボス素材とか前例あるの?』

『澪ちゃん売らないって即答してて草』

『鎌にするのか』

『そりゃ鎌にするだろ』

『アークラインこれ逃がしたら終わりでは』

『朱音さんの止め方がプロだった』

『帰還管理補助って何者?』

『ただの先輩じゃないの?』

『ただの先輩が九環帰還に関わってるのバグ』

『協会の注意文読め』

『真似するなって何回言われたら分かるんだ』

『真似できるやついないだろ』

『九環が綺麗すぎて怖かった』

『あの画質で見ても意味分からない動きしてた』

『二次進化前でこれ?』

『Lv64って本当なの?』


 協会公式アカウントも、すぐに注意文を出した。


『本日の配信は、協会監視、三十秒遅延、高深度医療班待機、専用機材支援のもと実施されています。第九環への無許可侵入および模倣探索を固く禁じます。』

『第九環で確認された素材、魔物、環境反応について、協会発表前の断定的な情報拡散はお控えください。』

『本配信の一部映像は、安全上の理由により自動遮断および加工が行われています。未加工映像の公開予定はありません。』


 アークライン公式も短く投稿した。


『本日の支援は、探索者協会立ち会いのもと実施された単発技術支援です。天瀬澪氏との所属契約締結を意味するものではありません。』

『九環由来素材の危険性を踏まえ、無許可の接触、取材、売買交渉、追跡行為はお控えください。』

『当社は、協会および関係者と連携し、危険素材の安全管理に協力します。』


 朱音はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。


「関係者って、うちも入ってるよね」

「たぶん」

「家に変な人来そう」

「窓口」

「そう。窓口を早めに動かそう」

「アークライン?」

「法務窓口だけ。物理警備はまだ決めない」

「うん」


 澪はスマートフォンの画面を見ていた。コメントの速度は速い。だが、戦闘中と違って、今なら読める。帰ってきた。売らないのか。鎌にするのか。八十億。二次進化前。朱音さん。アークライン。番犬素材。単語だけが流れていく。


 その中で、澪は一つのコメントに指を止めた。


『番犬の足、次はもっと大きいの持って帰りそう』


 澪は少しだけ考えた。


「次は爪」

「澪」

「言っただけ」

「今のは絶対に言っただけじゃない」

「爪、欲しい」

「欲しいのは分かる。でも次の前に契約、装備加工、ケース、医療、警備」

「多い」

「多いよ。八十億持って帰ったんだから」

「持って帰ったのは骨」

「その骨が八十億級なの」


 朱音が疲れたように息を吐いた。


 神楽坂はそのやり取りを見て、静かに口を開いた。


「天瀬さん」

「うん」

「次の九環探索は、契約と装備方針が決まるまで許可されないと思ってください」

「協会が?」

「協会も、アークラインも、七瀬さんも、同じ意見になるでしょう」

「朱音先輩も?」

「なる」

「うん」

「不満ですか」

「少し」

「その不満は、装備図面に向けてください。素材はあります。次は、どう使うかです」

「図面」

「はい。空骨鎖鎌の正式加工案、準本命鎖鎌案、短鎌、投擲鎖刃、骨杭、封鎖ケース。全部、今回の素材を前提に引き直します」

「見たい」

「明日、榊原主任が持ってきます」

「明日」

「はい」

「じゃあ、今日は我慢する」


 朱音が隣で小さく笑った。


「図面で止まるの、澪らしい」

「図面、大事」

「うん。大事」


 夜になって、素材は協会の高危険素材庫へ移された。七十二時間限定の一時保管。移送には協会職員四人、アークラインの封鎖技術者二人、警備員六人がついた。番犬前脚剥離骨板の入った封鎖箱だけは、さらに別の黒い搬送ケースに入れられた。ケースの封鎖灯は青ではなく、薄い白を保っている。完全に安定しているわけではない。


 澪はそれをガラス越しに見送った。


「鎌になる」

「なるといいね」

「なる」

「うん。なる」


 朱音は否定しなかった。


 医療検査の結果、澪のレベルは上がっていなかった。経験値に相当する成長反応は確認されたが、閾値には届いていない。Lv64のまま。アークラインの医療担当は、その結果を見てむしろ安心した。第一層九環素材の適正帯を外していない。素材回収の価値は、まだ高いまま維持されている。


 澪はレベルより、素材保管票を見ていた。


 番犬前脚剥離骨板。

 白銀墓標核片。

 空膜獣牙。

 空膜皮膜。

 空膜獣喉核。

 小型墓標片、複数。

 空膜糸、微量。

 破損した空骨鎖鎌先端鉤、未回収。


 最後の項目を見て、澪は少しだけ眉を寄せた。


「先端鉤、置いてきた」

「切り離したから戻れた」

「うん」

「偉かったよ」

「でも、番犬の骨に刺さってる」

「それ、回収しに行く理由にしない」

「……」

「澪」

「しない」

「今の間が怖い」


 帰還管理区画の明かりが、少しずつ落とされていく。医療班はまだ残っている。協会職員も、アークラインの人間も、全員が疲れていた。だが、空気は朝とは違っていた。朝は準備の緊張だった。今は、数字と素材と映像が現実になった後の重さがある。


 澪は椅子に座ったまま、朱音から渡された温かい飲み物を持っていた。紙コップの中身は甘いココアだった。採血の後に渡されたものだ。澪はそれを少しずつ飲みながら、封鎖庫へ続く扉を見ていた。


「八十億」

「やっと反応した?」

「違う」

「何?」

「八十億でも、まだ鎌一本」

「たぶんね」

「二層以降、本命を何本も持つには、もっといる」

「今から二層以降の心配?」

「うん」

「まず第一層の契約」

「うん」


 澪は紙コップを両手で持ったまま、小さく頷いた。


 九環再走は終わった。

 レベルは上がらなかった。

 だが、八十億円級の素材が残った。

 そして、素材は金ではなく、次の武器になる。


 澪は封鎖庫の扉を見つめたまま、静かに言った。


「明日、図面見る」


 朱音は笑った。


「まず寝なさい」

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