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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第十四話 九環再走

 九環再走の当日、探索者協会の帰還管理区画は、朝から普段とは違う空気になっていた。


 床には仮設の術式線が引かれ、壁際にはアークラインの医療機材が並んでいる。透明なケースに入った薬剤、魔力循環を測る測定器、精神汚染検査用の白い端末、緊急時に身体を固定するための簡易ベッド。協会職員も、アークラインの医療班も、余計な雑談をしていなかった。大きな声はない。だが、誰もが手元を確認し続けている。


 中央には、黒い仮封鎖ケースが置かれていた。人が一人入れそうな大きさで、表面には細い白い術式線が走り、角には青黒い金属の補強が入っている。正面の封鎖灯は青。今は安定。中に収められているのは、空骨鎖鎌の原型だった。完全修復ではない。欠けた刃には応急補強が入り、鎖の切れかけた箇所には封鎖環が取り付けられている。柄には仮の握り革が巻かれ、腰へ接続できる補助鎖も追加されていた。


 澪はケースの前にしゃがみ、封鎖灯を見ていた。


「本命武器を何本も持つ話ですが」


 装備開発主任の榊原透子が、ケースの横で端末を確認しながら言った。


「今は無理です」

「まだ何も言ってない」

「顔に出ています」

「出てた?」

「かなり」


 澪は少しだけ目を逸らした。


「本命が何本もあれば、撤退しなくていい」

「発想は分かります。ですが、今は無理です。理由は三つ。素材が足りない。封鎖ケースが足りない。天瀬さん自身が、複数本の九環武装を同時管理する訓練をしていない」

「二層以降なら?」

「正式所属後、素材確保、工房設備の増設、専用封鎖ケースの量産。それが揃えば検討できます」

「じゃあ、あとで」

「はい。今の予備装備は戦闘継続用ではなく、離脱と立て直し用です」

「分かってる」

「本当に?」

「たぶん」

「その返答が一番不安です」


 監視卓の前では、朱音がヘッドセットをつけていた。正式な帰還管理者ではない。協会監視室の補助枠だ。権限は限定されている。できるのは、澪への音声呼びかけ、状態確認、協会職員への緊急報告。配信遮断も撤退勧告も最終判断は協会側だ。それでも、澪が一番反応を返しやすい声として、朱音はここに座ることを認められた。


「澪、今は本命一本。予備は離脱用」

「うん」

「本命を失ったら、続行じゃなくて状況確認」

「状況次第」

「そこ、状況次第にしない」

「……分かった」


 朱音は怪しむように澪を見たが、それ以上は言わなかった。言いすぎると、澪は頷くだけになってしまう。大事なのは、現場で声が届くことだった。


 水瀬蓮は配信機材のチェックをしていた。今回は、前回までの簡易配信とは違う。アークライン所有の高深度対応追尾式ドローンが三機、協会の監視術式に接続されている。主機一、補助機二。映像は三十秒遅延。危険座標、未公開ルート、探索者個人情報、九環由来の危険術式反応は自動でぼかしが入る。だが、それ以外の映像品質は、一般探索者の配信機材とは比べものにならない。澪の動き、鎖の軌道、素材の表面、空膜の揺らぎまで、遠距離から鮮明に追える。


 神楽坂美冬は監視卓の後ろで、その設定を見ていた。今日は交渉の時とは違い、スーツの上に薄い協会認定防護ジャケットを羽織っている。アークライン副代表としてではなく、支援責任者としての顔だった。


「ドローンの自律回避は?」

「九環入口までは問題ありません。第九環内では空膜干渉により、主機の追尾を優先。補助機は距離を取り、映像補正と退路確認に回します」

「機体喪失は想定内ですか」

「はい。主機一機で四億七千万円ですが、今回は消耗品扱いです」

「高い」

「天瀬さん、そこに反応しますか」

「鎌より安い?」

「正式加工後の空骨鎖鎌よりは、たぶん安いです」

「なら大丈夫」

「大丈夫の基準がおかしいですね」


 黒瀬航は腕を組み、出発前のルート図を見ていた。第一層は一環ごとに広くなる。第一環から第五環までは、今の澪なら走れば三十分ほどで抜けられる。だが、第五環から先は環境が変わる。第六環、第七環、第八環と進むにつれて地形が広がり、空の裂け目が増え、接敵回避や索敵に時間がかかる。第九環入口まで、片道二時間前後。接敵が増えれば、さらにかかる。


「五環まで転移は使うな」

「早い」

「早いから使うな。配信で見せるものじゃない。ルート短縮も能力開示も、今やる必要はない」

「コソ練用?」

「表現はともかく、非公開探索用だ」

「分かった」


 黒瀬は短く頷いた。


「途中の素材も拾うな。高く見えても無視しろ。今日は九環状態確認、装備試験、可能な範囲での九環素材回収だ」

「番犬は?」

「分からん」

「分からない?」

「お前が倒した後、あの場所がどうなっているかは誰も見ていない。一般論としてダンジョンボスは戻る。だが、今この瞬間、空葬の番犬が完全に戻っているのか、残骸だけなのか、再構成途中なのか、そもそも跡地が変質しているのかは現地確認しないと分からない」

「見て決める」

「そうだ。完全体がいるならやるな。残骸や剥離骨板が取れるなら短時間で取れ。前脚一本を丸ごとは無理だと思え」

「一部でもいい」

「欲張るな」

「難しい」

「そこは難しくない」


 配信開始前の待機画面には、すでに異常な数の視聴予約がついていた。タイトルは、水瀬が慎重に調整したものだ。


『第一層第九環・再走装備試験 ※協会監視・三十秒遅延あり』


 コメント欄は、開始前から流れている。


『本当に九環行くのか』

『遅延あり助かる』

『アークラインのドローン映像ってマジ?』

『画質すでに映画なんだが』

『協会監視ありって書いてあるの怖い』

『九環帰還者の再走とか歴史でしょ』

『素材業界の人間全員見てそう』

『無理するな』

『帰ってこい』

『頼むから帰ってこい』


 澪はコメント欄を見て、少しだけ首を傾げた。


「同じコメント多い」

「読むのは今だけ。潜ったら見ない」

「うん」

「コメントより魔物を見る」

「それは見る」

「そこは信用してる」


 出発前の確認が終わると、澪は空骨鎖鎌を仮封鎖ケースへ戻した。九環へ入るまでは出さない。腰には通常鎖鎌、短剣、短杭。背中には小さなリュック。インベントリは大きく空けてある。素材を入れるためだった。ただし、危険素材はインベントリへ直接入れない。アークライン製の封鎖パックに入れ、封鎖表示を確認してから収納する。そうしないと、内部で空膜反応が広がる可能性があると榊原が言った。


 澪はゲート前で振り返った。


「朱音先輩」

「なに?」

「声、聞こえたら返事する」

「聞こえなくても言う」

「うん」

「無理だと思ったら、こっちから止める」

「止まれる時は止まる」

「止まれない時は?」

「止まれる場所まで行く」

「よし」


 配信開始ボタンが押された。


 画面に澪の姿が映る。黒い探索装備。腰の鎖鎌。背中のリュック。横に置かれた仮封鎖ケース。少し上空には、黒い小型ドローンが静かに浮いている。レンズの周囲に青い細線が走り、澪の動きに合わせて、音もなく角度を変えた。


『始まった』

『画質良すぎ』

『ドローン高そう』

『ケースでかい』

『アークライン本気じゃん』

『澪ちゃん目線じゃなくて追尾映像なの見やすい』

『これが大手の機材か』

『いやこの子これから九環行くんだよな?』

『頼むから無事で』


 澪はカメラを見なかった。ただ、ゲートの向こうを見ていた。


「第一層。九環まで行く」


 それだけ言って、澪は走り出した。


 第一環から第五環までは、配信で見れば異常な速度だった。


 澪にとっては軽いランニングに近い。息は乱れない。足音は一定で、地面の凹凸をほとんど踏まない。ドローンは斜め上から澪を追い、時折、進行方向の地形を映した。草地、白い水路、空を映す浅い池、浮いた石橋、低い魔物の影。澪は戦わない。避ける。曲がる。跳ぶ。短い鎖で枝を掴み、身体を引き寄せ、速度を落とさず次の道へ抜ける。


 配信開始から三十二分で、第五環境界を越えた。


『速すぎない?』

『これで軽く走ってるだけ?』

『五環まで三十分ってどういう身体してんの』

『ドローン追いついてるのもやばい』

『一般探索者の一日分を朝ランみたいに抜けてる』

『でもここから広くなるんだよな』

『九環までまだ遠い』


 第六環から先は、速度が少し落ちた。


 地形が広がる。空の欠片が大きくなり、白い風が時々、横から吹く。澪は足を止める回数を増やした。戦うためではなく、見つからないためだ。第六環の雲喉狐は、群れで追われると時間を食う。第七環の硝子草蛇は、踏み抜くと足を裂く。第八環の風裂きは、見えない刃を空中へ残す。澪はそれらを避けながら進んだ。配信ではルート情報を隠すために背景の一部へ自動ぼかしが入る。それでも、ドローン映像は美しかった。澪の背中の向こうで、第一層の空が少しずつ壊れていく様子が、異様なほど鮮明に映っていた。


 途中、白骸鳥の下位個体が一度だけ上空を旋回した。澪は足を止め、ドローンも高度を落とす。澪は戦わなかった。岩陰へ入り、鳥が離れるのを待った。三分。動かない。呼吸も小さい。やがて鳥影が消えると、澪は何事もなかったように走り出した。


『今の鳥、普通に上位探索者案件じゃない?』

『戦わない判断できるの偉い』

『素材拾わないのもったいなく見える』

『いや九環行く前に消耗したら終わる』

『画質いいせいで怖さ増してる』

『ドローンのズームすご』

『澪ちゃん、配信映えとか一切考えてなくて草』

『そこがいい』


 第九環入口に着いたのは、配信開始から二時間十七分後だった。


 空が低くなる。地面の白さが変わる。音が遅れる。第八環まで届いていた普通のダンジョンの気配が、そこで急に途切れる。ドローンの映像補正が一瞬だけ乱れ、画面の端に白いノイズが走った。補助機が距離を取り、主機が澪の斜め後ろへつく。


 澪は足を止め、腰の通常鎖鎌をしまった。仮封鎖ケースを地面に置く。封鎖灯は青。まだ安定している。


「九環入口」


 澪の声が配信に乗った。三十秒遅れて、コメント欄が跳ねた。


『来た』

『空気違いすぎ』

『なまら綺麗』

『画質良いのにノイズ入るの怖い』

『ここから九環か……美しい』

『協会監視付きでも怖い』

『もっと景色見せて!』

『このコメントは消去されました』

『頼むから無茶しないで』


コメントは恐怖7割、絶景を見ての感想2割、変なの1割程で推移していた。

 澪は仮封鎖ケースの認証を通した。ケースが低く鳴る。固定具が外れ、空骨鎖鎌が姿を見せる。九環の白い空を前にした瞬間、刃の奥の青白い光が少しだけ濃くなった。鎖が震える。澪の指が柄を握る。


 朱音の声が通信に入った。


『澪、封鎖灯は白寄り。警告域じゃないけど、反応上がってる』

「分かった」

『鎌に引っ張られないで』

「うん」


 澪は九環へ足を踏み入れた。


 音が遅れた。足元が薄く鳴り、その音が背後から返ってくる。白い地面。砕けた墓標。群青の混ざった空。前に来た時と同じようで、少し違う。番犬を倒した時に崩れたはずの墓標の一部が、別の位置に倒れている。空膜の流れも変わっていた。だが、それが修復なのか、崩壊なのか、別の反応なのかは分からない。澪は立ち止まり、空骨鎖鎌の鎖を少しだけ垂らした。鎖の先端が白い地面に触れる。小さな波紋が広がった。


「空膜、前と違う」

『厚い?』

「場所による。戻ってるところと、薄いところがある」

『番犬反応は?』

「まだ分からない」


 水瀬が解析値を読んだ。


「空膜反応、入口付近で過去記録比一三〇パーセント前後。ただし乱れが大きいです。番犬由来か、九環環境の自然変化かは不明」

「現地判断だね」

「はい」


 澪は進んだ。中央へ直進しない。墓標群の外縁をなぞるように歩く。目的は九環の状態確認、空骨鎖鎌の動作確認、可能な範囲での素材回収。番犬がいるかどうかは分からない。だから確認する。完全体がいれば戦わない。残骸や剥離骨板が取れるなら取る。澪の判断は、最初からそこにあった。


 最初の素材は、白銀墓標の欠片だった。


 大きさは腕ほど。地面から斜めに突き出た墓標の根元に、薄く剥がれた部分がある。澪は鎌で直接切らず、骨杭を一本打ち込んだ。墓標が低く鳴る。音が遅れて返ってくる。澪は音が戻る前に鎖を掛け、角度を変えて引いた。剥離片がゆっくり外れる。白い粉が舞い、空膜が糸のように伸びた。


 封鎖パックを開く。剥離片を入れる。パックの口が閉じると、表面に青い文字が浮かんだ。


《白銀墓標核片・危険度B+》


 水瀬が呟いた。


「初回から良い部位です。骨杭、投擲鎖刃、空膜固定具に使えます」

「査定は?」

「後です。今は記録だけ」

「うん」


 配信コメントが遅れて反応した。


『今の何?』

『封鎖パックの表示見えた』

『B+?』

『墓標核片って出てた?』

『素材業者が今立ち上がった音した』

『初手からやばそう』

『澪ちゃん手慣れすぎ』

『これ普通に剥がしたら死ぬやつ?』


 二つ目の素材は、簡単ではなかった。


 白い膜の下に、細長い影がいた。空膜獣。以前、澪の足元を沈めかけたものと同じ系統だが、少し小さい。小さいと言っても、人一人を丸ごと呑める口がある。澪は足を止め、鎖を短く持った。逃げてもいい。だが、空膜獣の牙と皮膜は鎖刃とインナーに使える。今後の装備開発には必要な素材だった。


 空膜獣が動いた。


 地面が盛り上がる前に、澪は横へ跳んだ。口が足元から出る。白い歯が閉じる。澪の左足の外側をかすめ、肉が裂けた。傷口の奥で再生が始まり、皮膚がすぐに閉じる。力の戻りは早い。だが、痛みは残る。澪は着地と同時に鎖を投げた。空骨鎖鎌の鉤が、空膜の縁に食い込む。


 空膜獣が沈もうとした。


 澪は引かない。鎖を近くの墓標へ巻く。獣が沈む力で、自分の身体を持っていかれないよう固定する。空膜が伸び、悲鳴のような音が遅れて響く。獣の胴が半分露出した。澪は鎌を入れた。刃が滑らない。九環素材の骨が、同じ九環の膜へ食い込む。以前より入る。だが、浅い。


 獣の尾が跳ねた。


 澪の腹を横から裂いた。インナーごと皮膚と筋肉が開き、内側が熱を持つ。再生が始まる。澪は退かない。心臓ではない。数秒で塞がる。だが、衝撃で息が乱れた。獣の口がもう一度開く。今度は腰を狙っている。


 朱音の声が飛んだ。


『澪、右。沈む』


 澪は考える前に右へ跳んだ。さっきまで腰があった場所を、空膜獣の口が閉じた。鎖を引く。鎌を深く入れる。刃の補強骨がきしんだ。榊原の声が監視卓から低く漏れる。


「無理な角度です。刃が持たない」

『澪、刃に負荷。角度変えて』


「うん」


 澪は鎌を抜かず、柄の向きを変えた。引くのではなく、押し込んで捻る。空膜獣の身体が硬直した。そこへ短杭を二本、口の奥へ投げ込む。一本は弾かれた。もう一本が奥に入る。獣が大きく震え、白い膜から半分だけ身体を出したまま動かなくなった。


 澪はすぐに素材を剥がさなかった。周囲を見る。音を聞く。遅れて戻ってくる足音の中に、別の音が混ざっていないか確認する。安全ではない。だが、数十秒ならある。


 牙を二本。皮膜を一枚。喉元の小さな核を一つ。封鎖パックへ入れる。


《空膜獣牙・危険度A-》


《空膜皮膜・危険度B》


《空膜獣喉核・危険度A》


 配信コメントが荒れた。


『今腹裂けなかった?』

『再生早すぎる』

『でも痛そう』

『朱音さんの声で避けた?』

『監視側めちゃくちゃ仕事してる』

『空膜獣牙A-って見えた』

『素材表示が全部怖い』

『この画質で見る九環戦闘やばい』

『これでまだ入口寄りなの?』


 澪は少しだけ息を吐いた。腹の傷はもう閉じている。だが、内側に熱が残る。魔力消費は小さくない。空膜獣一体でこれだ。九環の敵は、相変わらず軽くない。


 中央手前へ近づくにつれ、墓標の並びが不自然になっていった。


 それは、事前に予測していたリポップ兆候ではなかった。少なくとも、澪にはそう見えた。倒れていた墓標の一部が、以前とは違う角度で刺さっている。折れた白い柱の根元に、新しい膜が張っている。番犬が崩れた時の爪痕のような窪みも残っている。だが、その周囲だけ、空膜の色が薄い青を帯びていた。


 澪は足を止めた。


「変」

『何が?』

「ここ、前に番犬が倒れた場所に近い。でも、戻ってるのか、残ってるのか、分からない」


 ドローンが高度を上げる。補助機が横へ回り込み、墓標群の奥を映した。画面の一部に自動ぼかしが入る。座標と地形情報を隠すためだ。それでも、白い骨のようなものが地面から半分出ているのは分かった。


 水瀬が解析値を読み上げた。


「空膜反応、入口比一九〇パーセント。低周波振動あり。ただし、継続的な上昇ではありません。断続的です」

「番犬か?」

「不明です。番犬素材の残滓、再構成前段階、または別の九環反応の可能性があります」


 黒瀬の声が通信に入った。


『天瀬、見える範囲で確認しろ。完全体の影があるなら退け』

「完全体はいない」

『断定できるか』

「足だけ。たぶん、足の一部」

『動いているか』

「まだ」


 白い墓標の奥、地面が少しだけ盛り上がっている。そこには、以前番犬が崩れた時の残骸があったはずだった。だが今は、白い骨片がまとまり、前脚の外装のような形で残っていた。新しく生えたのか、崩れた骨が空膜に固定されただけなのかは分からない。爪の一本は、地面から半分だけ出ている。太い。澪の胴ほどもある。根元には青白い結晶が絡み、周囲の墓標核から細い空膜糸が伸びていた。


 澪の目が少しだけ変わった。


「取れる」

『澪』

「足、一本は無理。でも爪と剥離骨板なら取れる」

『危険域だよ』

「動いてない」

『動いてなくても番犬由来だよ』

「勝ったことある」

『今回は装備試験』

「素材も回収」

『澪』


 監視卓の空気が固まった。


 朱音は止めたい。止めるべきだと分かっている。だが、澪の声は恐怖で鈍っていない。欲で乱れてもいない。見えている。取れるか、取れないか。その判断をしている。九環を知らない人間の無茶ではない。九環で番犬を倒して戻った探索者の判断だった。


 黒瀬が短く言った。


『二十秒だ』

「黒瀬さん」

『七瀬、完全に止めればたぶん別の角度で行く。条件を切れ』

「……二十秒。爪一本か骨板一枚。二つ目はなし」

「うん」

『動いたら即中止』

「うん」

『鎌が引っかかったら即切り離し』

「うん」

『封鎖パックが赤になったら即放棄』

「白なら?」

『白なら入れて閉じる』

「分かった」


 澪は走った。


 ドローンが追う。補助機が一機、横へ回り込む。配信映像は、澪の背中と、前方の白い前脚骨を同時に映した。青白い結晶が脈打ち、墓標の影が澪の方へ伸びる。九環の空気が低く鳴った。音は遅れている。だが、映像だけで異常が分かる。


 澪は空骨鎖鎌を前脚骨へ直接入れなかった。刃が食いつきすぎると、番犬側に鎌を持っていかれる。まず短杭を三本、爪の根元へ打つ。一本目は弾かれた。二本目が浅く入る。三本目が結晶の隙間に噛んだ。澪は鎖を墓標へ回し、支点を作る。爪を引くのではなく、周囲の剥離骨板を浮かせる。


 骨が鳴った。


 それは、動いたというより、眠っていたものが呼吸を思い出したような音だった。澪の左腕の皮膚が細かく裂け、肩口から血が散った。傷口の奥で肉が戻り始める。骨板の表面に走った裂け目が、すぐ塞がろうとする。ダンジョンが修復しているのか、番犬素材が形を保とうとしているのかは分からない。澪は考えず、鎖の角度を変えた。


『十秒』


 朱音の声が届く。


 澪は鎖を引き、身体ごと後ろへ倒れ込むように力をかけた。骨板が浮いた。青白い膜が糸を引く。爪ではない。だが、前脚外装の一部。番犬素材としては十分に大物だった。澪は封鎖パックを開く。骨板が重い。片手で持てる大きさではない。鎖で吊り、空骨鎖鎌の柄を支点にして、無理やりパックの口へ押し込む。


『五秒』


 骨板が入った。


 封鎖パックの表面が白く点滅し、赤へ傾きかける。澪は迷わず補助封鎖札を二枚貼った。表示が揺れ、白で止まる。


《番犬前脚剥離骨板・危険度S》


 監視卓が一瞬、静かになった。


 配信映像では、危険表示の一部にぼかしが入った。それでも、文字の輪郭は見えた。コメント欄は三十秒後に爆発するだろう。だが、その前に九環が反応した。


 墓標が一斉に澪の方を向いた。


 それは番犬が完全に戻ったというより、番犬の一部を奪われた九環が、奪った相手を認識したような反応だった。前脚骨がわずかに持ち上がる。まだ身体はない。頭もない。だが、踏み下ろすだけの形はできていた。


 澪は封鎖パックをインベントリへ入れ、鎖を引いた。空骨鎖鎌が動かない。先端の鉤が、番犬の骨に噛んでいた。鎌が素材へ食いつき、離れようとしない。榊原が言っていた。鎌に引っ張られるな。深追いするな。切り離し機構をためらうな。


 澪は一瞬だけ迷った。


 鎌は二番。


 朱音の声が飛んだ。


『澪、切り離して』


 澪は腰の補助鎖に手をかけ、強制分離の封鎖環を引いた。空骨鎖鎌の先端鉤が切り離され、番犬の骨に食われたまま残る。柄と主鎖は戻った。鎌が軽くなる。澪は仮封鎖ケースを開き、鎌を叩き込むように収納した。封鎖灯が白く点滅する。警告域。だが、閉じた。


 前脚骨が地面へ下りた。


 衝撃が来た。


 澪の身体が浮いた。胸の奥を直接殴られたような感覚が走る。肺が裂け、肋骨が砕ける。心臓は外れた。傷口の奥で再生が始まる。だが、空膜干渉で遅い。澪は地面に叩きつけられ、数歩分転がった。意識が白くなる。遠くで、ドローンの主機が姿勢を崩した。補助機が映像を引き継ぐ。


 朱音の声が聞こえた。


『澪、返事』


 澪は息を吸った。肺がまだ完全ではない。声がかすれる。


「取った」

『返事がそれなの本当にやめて』

「戻る」

『走って』


 澪は走った。


 背後で墓標が鳴る。空が遅れて裂ける。足元の白い膜が追ってくる。通常の帰還札は使わない。九環の中では信用できない。第九環入口まで戻る。そこから協会の回収術式に乗る。決めた手順を崩さない。鎌はケース内。素材は封鎖パック内。番犬前脚剥離骨板。白銀墓標核片。空膜獣牙。喉核。皮膜。胸核周辺結晶は取れなかった。爪も丸ごとは取れなかった。だが、前脚外装の一部は取った。


 配信コメントが遅れて爆発した。


『今Sって出た?』

『番犬って見えた』

『番犬素材!?』

『いや待って今の残骸?』

『動いてなかった?』

『足持って帰ろうとしてるの草じゃないんだよ』

『朱音さんの声なかったら行き過ぎてた』

『鎌切り離した?』

『判断早すぎ』

『心臓止まるかと思った』

『ドローン一機死んだ?』

『これで装備試験なの狂ってる』

『帰ってこい』

『本当に帰ってこい』


 澪はコメントを見ない。走る。足元が一瞬沈む。空膜獣ではない。九環そのものが足を掴んでいる。澪は短鎌を抜き、足元の膜を切る。切れ味は浅いが、隙間はできる。そこへ足を入れ、身体を前へ出す。第九環入口の白さが見えてきた。


 朱音の声が近くなった。


『あと八十メートル。右の墓標、倒れる』


 澪は右を見ず、左へ跳んだ。背後で墓標が倒れ、白い破片が飛ぶ。肩に刺さる。傷が開く。すぐ再生が始まる。止まらない。


『あと四十』


「見えた」

『転移は使わない』

「使わない」

『そのまま走って』


 澪は最後の数歩を走り抜けた。


 第九環の境界を越えた瞬間、音が戻った。遅れていた足音が一斉に追いつき、耳の奥で重なった。澪は膝をついた。封鎖ケースを抱えたまま、肩で息をする。胸の奥はまだ痛い。肺の再生は終わっているが、空膜干渉の痺れが残っている。


 協会の回収術式が発動した。


 白い光が足元に広がり、澪の身体を包む。今度は《転移》ではない。準備された回収術式。座標も、出口も、医療班も揃っている。


 次の瞬間、澪は協会の帰還管理区画に戻っていた。


 床に膝をついたまま、仮封鎖ケースを抱えている。医療班が駆け寄る。朱音は監視卓から立ち上がっていたが、職員に止められた。澪は顔を上げ、朱音の方を見た。


「戻った」


 朱音はその場で大きく息を吐いた。


「見れば分かる」


 声が少し震えていた。


 水瀬が封鎖パックの反応を確認し、目を見開いた。


「番犬前脚剥離骨板、危険度S。白銀墓標核片、空膜獣牙、空膜獣喉核、空膜皮膜。ほかにも複数。総評価はまだ出せません」

「高い?」

「高いです。非常に」

「鎌に使える?」

「使えます。おそらく、今回の素材の中核です」

「じゃあ売らない」

「まだ査定前です」

「鎌にする」


 榊原が封鎖ケースを見ながら、低く笑った。


「その判断が一番高いです」


 医療班が澪の魔力反応を測り、採血の準備を始める。澪は少し嫌そうにしたが、抵抗はしなかった。配信はすでに終了画面へ切り替わっている。タイトルの下には、協会からの注意文が表示されていた。


『本配信は協会監視下で実施されています。第九環への無許可侵入、模倣探索を禁じます。』


 コメント欄の最後に、何度も同じ言葉が流れていた。


『帰ってきた』

『帰ってきた』

『帰ってきた』

『生きてる』

『本当に帰ってきた』

『番犬素材持って帰ったのやばすぎる』

『これで二次進化前って嘘だろ』

『アークライン絶対逃がさないだろ』

『朱音さん必要すぎる』

『鎌にするって言った?』

『売らないのかよ』

『いや鎌にした方が高いのか』


 黒瀬は配信画面を見ていた。危険な部分は一部遮断されていたが、それでも十分だった。走破、九環戦闘、素材回収、番犬由来素材の奪取、切り離し判断、帰還。すべてが映った。


「九環適性だけじゃないな」

「何がですか」


 神楽坂が聞いた。


「止まれる。あの場面で鎌の先を捨てた」

「七瀬さんの声も効きました」

「ああ。管理補助として想定以上だ」


 朱音はその言葉を聞いていなかった。監視卓から許可が出ると、澪の近くまで来た。医療班の邪魔にならない位置で止まる。澪は床に座ったまま、封鎖ケースに片手を置いていた。


「澪」

「うん」

「爪一本か骨板一枚って言ったよね」

「骨板一枚」

「二つ目はなしって言ったよね」

「一枚」

「鎌が引っかかったよね」

「切った」

「偉い」

「鎌、少し失くした」

「命一番、鎌二番」

「うん」


 朱音はそこで、やっと笑った。


「よくできました」

「子どもみたい」

「今はそれでいい」


 水瀬の端末が短く鳴った。素材の仮評価が、危険度と用途から概算で出始めている。正式査定ではない。だが、数字は異常だった。番犬前脚剥離骨板だけで、既存の第一層九環素材取引記録をいくつか塗り替える可能性がある。空膜獣素材、墓標核片、その他の小片まで含めれば、総評価はさらに跳ねる。


 水瀬は一度だけ神楽坂を見た。


「仮概算です」

「構いません」

「総評価額、八十億円級に届く可能性があります」

「即売却分は」

「一部のみです。大半は装備転用推奨。特に番犬前脚剥離骨板は、売るより加工した方が価値が高い」

「でしょうね」


 澪はその数字にはあまり反応しなかった。八十億という音より、番犬の骨板が鎌になる可能性の方が分かりやすい。


「榊原さん」

「はい」

「本命、強くなる?」

「なります」

「予備は?」

「素材配分次第ですが、準本命一本の中核には使えるかもしれません」

「じゃあ、売らない」

「はい。その判断が一番高いです」


 採血針が澪の腕に入った。澪は少しだけ眉を寄せた。


 帰還管理区画の奥で、仮封鎖ケースの封鎖灯が青へ戻っていく。完全ではない。中の空骨鎖鎌は、先端鉤を一つ失っている。それでも、鎌は小さく鳴っていた。九環の素材を持ち帰ったことを喜んでいるようにも、次を待っているようにも聞こえた。


 澪はその音を聞きながら、目を閉じた。


 九環再走は終わった。


 レベルは、ほとんど上がっていない。

 けれど、装備の未来は大きく変わった。

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