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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第十三話 返事

 七瀬家の昼食は、協会の会議室よりずっと静かだった。


 食卓には温かいうどんと、焼き魚と、小鉢が並んでいる。澪は席についてしばらく、湯気を見ていた。白い湯気。九環の白い空とは違う。揺れて、上へ逃げて、消えるだけのもの。箸を持つと、朱音の母が少しだけ笑った。


「先に食べていいのよ」

「うん」

「難しい話は、食べてから」

「分かった」


 澪はうどんを食べた。熱い。柔らかい。飲み込んでも胃が冷えない。骨喉犬の肉とも、九環の水とも違う。当たり前の食事だった。だからこそ、食べている途中で少しだけ手が止まった。自分の前に温かいものが置かれていることが、まだ時々、不思議になる。


 結衣は向かい側で、澪と朱音を交互に見ていた。学校は午後かららしく、制服のままだ。聞きたいことがある顔をしているが、母に目で止められている。父は食後のお茶を飲みながら、協会から持ち帰った資料の束を見ていた。表紙には《アークライン仮所属契約案》《九環再走配信・技術支援概要》《警備・住居支援案》とある。家の食卓に置くには、どれも物々しい文字だった。


 食事が終わってから、朱音は資料をテーブルの中央へ並べた。


「まず、今日決める必要があるのは一つだけ」

「九環再走支援」

「そう。仮所属契約は今日決めなくていい。年俸とか装備開発枠とか住居とかは後で確認。明日の正午までに返事が必要なのは、三日後の再走配信にアークラインの支援を入れるかどうか」

「支援だけなら、契約しなくてもいい」

「そう書いてある。水瀬さんも確認してた」


 父が資料の一枚を指で押さえた。


「支援内容は、配信遅延、医療班、仮封鎖ケース、警備窓口の初期対応。この四つだな」

「うん」

「所属を強制する条項はない」

「佐伯さんも言ってた」

「なら、支援だけ受けるのは現実的だと思う」


 澪は父を見た。


「受けていい?」

「俺が決めることではない。澪さんが決めることだ。ただ、七瀬家に関係する警備の話は、うちにも確認させてほしい」

「うん」

「住所や家族の行動までクランに渡すなら、範囲を決める必要がある」

「分かった」


 母は空いた皿を片付けず、テーブルについたままだった。普段ならすぐ台所へ戻る人が、今日は座っている。それだけで、この話が家の外だけのものではないのだと分かる。


「澪ちゃん」

「うん」

「支援を受けるのは、私は反対しないわ。危ないところへ行くなら、待っている医療の人がいた方がいいし、変な人が家に来るのも困るもの」

「ごめん」

「謝るより、決める前に教えてくれた方が助かるわ」

「教える」

「うん。それでいい」


 結衣がようやく口を開いた。


「九環って、またあの番犬いるの?」

「番犬は倒した」

「じゃあ安全?」

「安全ではない」

「だよね」


 澪は頷いた。九環の奥で何が起きているかは分からない。番犬が倒れたことで、空葬原が静かになっているかもしれない。別の個体がいるかもしれない。結局は行ってみないと分からないのだ。


 朱音はメモ帳を開いた。会議室で書いた文字がびっしり並んでいる。


「アークラインの支援だけ受ける場合、澪の負担は少ない。守秘義務はあるけど、機材情報や警備配置を外に出さないってだけ。普通の範囲」

「普通」

「でも、支援を受けると、アークラインが配信にも医療にも装備にも関わる。仮所属しなくても、世間からはかなり近い関係に見える」

「見えると困る?」

「他のクランからの勧誘が面倒になるかも」

「それは、もう面倒」

「たしかに」


 父が静かに言った。


「アークラインが一番条件を出せるなら、近く見られること自体は悪くない。問題は、澪さんが条件を理解しないまま流されることだ」

「流される?」

「鎌を三本作れると言われた時の顔を見たかったな」

「見ない方がいい」

「朱音がそう言うなら、相当だったんだろう」


 朱音は深く頷いた。


「相当だった」

「鎌三本」

「ほら、今も反応した」


 澪は少しだけ口を閉じた。鎌三本。正確には、本命一本、準本命一本、破損前提の簡易型二本。短鎌、投擲用鎖刃、骨杭、封鎖ケース。九環で武器が欠けた時、鎖が食われた時、足元を空膜に取られた時、もう一手増える。金額よりずっと分かりやすい。生き残る選択肢の数だからだ。


 朱音はアークラインから渡された装備候補一覧をテーブルに置いた。白い紙に、九つの装備案が描かれている。予備鎖鎌、簡易型鎖鎌、双短鎌、投擲鎖刃、骨杭セット、九環封鎖ケース、応急補修キット、予備短剣、空膜対策インナー。それぞれに用途説明が添えられていた。


イメージ図

挿絵(By みてみん)


 結衣が身を乗り出した。


「かっこいい」

「分かる」

「澪ちゃん、こういうの好きでしょ」

「好き」

「即答だ」


 澪は一覧を見た。最初に目が行くのは、やはり鎖鎌だった。予備鎖鎌は準本命。刃は小さめだが、空膜に引っ掛ける補強があり、鎖の先端には牽引用の鉤がついている。簡易型は破損前提。軽く、封鎖処理も最低限で、刃が欠けても足止めに使える設計らしい。双短鎌は、鎖が使えない狭い場所で使う。投擲鎖刃は、投げて絡め、止めて、切るためのもの。骨杭は地面や敵に打ち込み、拘束や足場、罠に使う。


 榊原の説明が資料に残っていた。

 予備武器は深追い用ではない。離脱用。

 澪はその一文を指でなぞった。本命武器を数本用意したらいいのでは?と思い飲み込む。


「離脱用」

「そう。無茶するためじゃない」

「無茶しないため」

「そう」

「でも、使う時はたぶん無茶してる」

「それは言わないで」


 母が一覧を見ながら、小さく息を吐いた。


「普通の女の子の持ち物じゃないわね」

「普通ではない」

「そうね。でも、これがあった方が生き残れるなら、必要なのね」

「うん」


 母は否定しなかった。怖がってはいる。心配もしている。けれど、必要なものを必要だと認めてくれる。その反応が、澪には少し不思議だった。


 父は別の資料を見ていた。


「仮所属契約の方は、すぐ決めない方がいい。年俸や装備枠は魅力的だが、研究データの範囲、素材の優先権、配信管理権、住居支援の条件。確認するところが多い」

「はい」

「朱音も、家族警備の話は別で確認しよう」

「うん」

「住所情報をどこまで渡すか。警備車両を使う場合の記録。郵送物の転送先。取材対応。全部、線引きがいる」

「お父さん、詳しいね」

「会社の契約書よりは物騒だが、見るところは似ている」


 澪は父を見た。


「手伝ってくれる?」

「俺で分かる範囲なら」

「ありがとう」

「ただし、最終的に決めるのは澪さんだ。ここは間違えない方がいい」

「うん」


 結衣が小さく手を上げた。


「私は?」

「結衣は宿題」

「えー」

「でも、変な人が来たらすぐ親か協会に連絡」

「それはする」

「知らない配信者に話しかけられても答えない」

「答えない」

「澪ちゃんの写真とか、勝手に送らない」

「送らないよ」

「あと、学校で聞かれても」

「言わない」

「よし」

「私も管理対象なの?」

「うん」

「なんか大変」


 朱音は結衣の頭を軽く撫でた。


「大変だけど、巻き込まれないために先に決める」

「澪ちゃん、有名人?」

「たぶん」

「たぶんじゃないと思う」


 澪はスマートフォンを取り出した。チャンネル《九環》の登録者数は、さらに増えている。コメント欄は流れが速すぎて読みにくい。協会発表の切り抜き、九環帰還記録への考察、アークラインの車が協会に来たという目撃情報。すでに面談があったことまで、ぼかした形で広がっていた。


『アークライン車両いたってマジ?』

『もう囲い込み始まってる?』

『九環素材なら当然だろ』

『他クラン何してんだ』

『未成年相手に大人が群がるの怖い』

『でも装備と医療ないと死ぬだろ』

『次の配信いつ?』

『九環行くな』

『行くなら遅延入れろ』

『帰ってこい』


 澪は最後の短いコメントを見て、しばらく指を止めた。似た言葉が多かった。応援より、行くなより、最近はそれが増えている。帰ってこい。知らない人の言葉だ。だが、ただの文字なのに、妙に残る。


 朱音が画面を覗き込んだ。


「また増えてるね」

「うん」

「配信遅延は入れた方がいい」

「うん」

「コメントはリアルタイムで見ない」

「見ない」

「絶対?」

「戦闘中は見ない」

「それでいい」


 午後、澪と朱音は協会へ返答するための文面を作った。といっても、澪が長い文章を書くと変になるので、朱音と父が整えた。内容は簡単だった。九環再走配信への単発技術支援は受ける。仮所属契約は保留。住居支援、警備支援、武装開発枠、研究データの扱いは追加説明を求める。七瀬家に関する支援は、家族全員の同意を得るまで実施しない。ただし、住所拡散監視と悪質接触の窓口化については初期対応を希望する。


 澪は文面を読んだ。


「長い」

「必要なことは書いた」

「私なら、支援は受ける。契約は後。って書く」

「それだと足りない」

「難しい」

「契約は難しいものなの」


 父が最後に文面を確認し、朱音が水瀬へ送った。数分後、水瀬から返信が来た。


『受領しました。協会側で確認後、アークラインへ正式転送します。内容は妥当です』


 さらに少し遅れて、アークラインの法務担当、佐伯からも協会経由で返信が届いた。


『九環再走配信への単発技術支援受諾、確認しました。仮所属契約は保留として扱います。明日午前、仮封鎖ケースおよび配信遅延機材を協会へ搬入します。七瀬家に関する警備支援は、住所拡散監視および法務窓口の初期対応に限定し、家族同意のない物理警備は実施しません』


 朱音はそれを読んで、ようやく肩の力を抜いた。


「よし。まずは支援だけ」

「鎌ケース来る?」

「明日ね」

「楽しみ」

「九環再走の準備だからね。おもちゃじゃないからね」

「分かってる」

「本当に?」

「封鎖ケースはおもちゃじゃない」

「そこだけ?」


 澪は小さく頷いた。たぶん冗談ではなく、本気だった。


 その日の夕方、協会から追加資料が届いた。アークラインの機材搬入予定、医療班の構成、配信遅延システムの権限設定、仮封鎖ケースの取り扱い、九環再走時の撤退基準案。朱音はそれを読み、水瀬から送られた帰還管理補助講習の資料も開いた。文字が多い。図も多い。三十秒遅延、映像遮断、音声呼びかけ、魔力反応低下、意識混濁判定。見るだけで頭が痛くなる。


 澪は横から覗き込んだ。


「朱音先輩、難しそう」

「難しいよ」

「やめる?」

「やめない」

「なんで?」

「澪が九環で変な動きをした時、誰かが止めないといけないから」

「止まらないかも」

「止まらなくても、声はかける」

「うん」


 朱音は画面を見ながら、少しだけ眉を寄せた。


「それに、澪が戻った後、誰が何を確認するかも大事みたい」

「何を?」

「意識あるか。自分の名前が言えるか。痛みの位置が分かるか。再生が暴走してないか。空膜反応が残ってないか」

「大変」

「大変だよ。だから、九環行くならちゃんと戻ってきて」

「うん」

「戻った後の確認ができないと、私の講習が無駄になる」

「それは困る」

「でしょ」


 澪は少しだけ考えた。


「じゃあ、戻る」

「よし」

「講習のため」

「理由はちょっと変だけど、よし」


 夜、七瀬家のリビングには資料が広がっていた。テーブルの端には、装備候補一覧。中央には支援受諾の控え。朱音の前には帰還管理講習の資料。父の前には契約書の確認メモ。母は台所から温かいお茶を持ってきて、全員の前に置いた。


 澪は装備候補一覧をもう一度見ていた。


 予備鎖鎌。簡易型鎖鎌。双短鎌。投擲鎖刃。骨杭セット。封鎖ケース。応急補修キット。予備短剣。空膜対策インナー。


 どれも欲しい。全部欲しい。だが、全部を今すぐ持てるわけではない。九環素材がいる。加工設備がいる。金がいる。契約がいる。外側の準備がいる。


 九環では、ただ強ければいいわけではなかった。穴蔵が必要だった。骨を削る時間が必要だった。壊れた鎌を直す素材が必要だった。戻ってくる床が必要だった。今の澪にとって、アークラインの支援は、その外側を作るものだった。


 朱音が資料から顔を上げた。


「澪、明日は協会で仮封鎖ケースの確認。私は講習。午後に配信設定。明後日は装備合わせと軽い実地確認」

「うん」

「勝手に潜らない」

「潜らない」

「第六環も」

「潜らない」

「訓練場は?」

「相談する」

「よし」


 結衣が横で笑った。


「お姉ちゃん、完全に管理係だ」

「管理係じゃない」

「帰還管理補助って書いてあるよ」

「それは協会用語」

「かっこいい」

「かっこよくない」

「澪ちゃんはどう思う?」

「助かる」

「ほら、助かるって」

「そういう問題じゃない」


 朱音は少し照れたように資料へ視線を戻した。


 澪は帰る鈴を指先で転がした。ころん、と小さく鳴る。九環の音ではない。ここで鳴って、ここで消える音だった。臭い言葉にする必要はなかった。今ここに食器があり、資料があり、面倒な契約書があり、朱音が講習資料に文句を言っている。それだけで十分だった。


 翌朝、協会の搬入口にアークラインの輸送車が入った。


 黒い車体の横に、小さく《ARKLINE MATERIAL SECURITY》と書かれている。派手さはない。だが、車両の周囲には協会警備員がつき、搬入口のシャッターは一時封鎖されていた。中から降ろされたのは、人が一人入れそうなほど頑丈な黒いケースだった。角には白い金属の補強が入り、表面には細かい術式線が走っている。


 澪は搬入口のガラス越しにそれを見た。


「大きい」

「空骨鎖鎌用の仮封鎖ケースだそうです」

「かっこいい」

「感想が子ども」

「でも、かっこいい」

「まあ、分かる」


 水瀬が隣で資料を見ながら言った。


「ケース単体で推定価格一億二千万円。仮運用型でこれです」

「高い」

「正式品はさらに上です」

「壊したら?」

「壊さないでください」

「努力する」


 朱音がすかさず言った。


「努力じゃなくて、壊さない」

「九環次第」

「そういうところ」


 ケースが協会職員とアークラインの技術者によって封鎖室へ運ばれていく。澪はその後ろ姿を見ながら、少しだけ指を動かした。鎌はまだ封鎖庫の中だ。ケースが来て、配信機材が来て、医療班が来る。九環へ行くための外側が、少しずつ形になっていく。


 明後日、澪はもう一度、第九環へ入る。


 番犬のいた空葬原へ。

 ただし、今度は穴蔵だけではない。

 外には、機材と医療班と講習資料を抱えた朱音がいる。


 澪はそれを考えて、黒いケースから目を離さなかった。


「朱音先輩」

「なに?」

「明後日、見てて」

「見るよ」

「声、聞こえたら返事する」

「聞こえなくても、こっちは言う」

「うん」


 搬入口の奥で、黒いケースの封鎖灯が青く点いた。


 九環再走まで、あと二日だった。

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