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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第十二話 条件提示

 探索者協会の第七会議室は、普段使われる面談室とは違っていた。


 壁は白いが、窓はない。中央には長い机があり、机の上には録音機材と複数の端末が置かれている。入口の横には協会職員が二人立ち、廊下側にも警備がいた。国内最大手クラン《アークライン》との面会。しかも相手は、第一層第九環から単独で戻った澪だ。普通の勧誘面談で済むはずがなかった。


 ただし、澪の側に並ぶ人間は少なかった。


 学校関係者の席はない。久遠も藤堂も、ここにはいない。澪は九環失踪によって、すでに探索者高校を退学扱いになっている。元教師として心配することはできても、学校代表として契約交渉に同席する立場ではなかった。藤堂も同じだ。空骨鎖鎌の技術確認には関われる。だが、澪の所属契約に口を出す権限はない。


 協会側からは、契約管理担当が一人。水瀬蓮も同席しているが、彼は澪の代理人ではない。帰還記録、九環反応、配信管理に関わる協会職員として、質問に答えるためにいるだけだった。朱音は、澪が強く希望したために同席を認められた。生活支援者。現時点で澪が身を寄せている家の娘。正式な代理人ではない。だから、この会議室で最終的に返事をするのは、澪本人だった。


 それが、この面談の一番危ういところだった。


 向かい側には、アークラインの人間が四人座っていた。副代表の神楽坂美冬。高深度攻略部門長の黒瀬航。装備開発主任の榊原透子。法務担当の佐伯円。全員が静かだった。威圧しているわけではない。だが、動きに無駄がない。資料を出す、視線を合わせる、間を置く。その一つ一つで、交渉に慣れていることが分かる。


 澪は朱音の隣に座っていた。


 朱音は膝の上でメモ帳を開いている。スマートフォンではなく紙だった。水瀬に勧められたらしい。紙の方が、面談中に余計な通知が来ない。ペンを握る手に力が入っていた。


 神楽坂が最初に頭を下げた。


「本日は、協会立ち会いのもと、面会の機会をいただきありがとうございます」

「話を聞きます」


 澪は短く答えた。


「はい。こちらから提示する内容は二つです。一つ目は、三日後に予定されている九環再走配信への技術支援。二つ目は、天瀬澪さんの今後の活動に関する仮所属契約案です」


 朱音が小声で言った。


「聞くだけ」

「うん」

「返事は後」

「うん」


 神楽坂はそのやり取りを見ても、表情を変えなかった。


「その方針で問題ありません。むしろ、本日の即決はおすすめしません。天瀬さんは未成年で、なおかつ現時点では学籍、住居、保護管理の状況が未整理です。契約の前に確認すべき点が多くあります」


 協会の契約管理担当が端末を操作した。


「協会としても、本日の場は契約締結の場ではなく、条件提示と記録の場とします。天瀬澪さんの同意なく、契約書への署名、電子承認、口頭契約の成立は認めません」


 澪は首を傾げた。


「口で、はいって言ったら?」

「本日は成立扱いにしません」

「よかった」


 朱音が小さく息を吐いた。


「よかったって思うなら、変な返事しないで」

「難しい」

「難しくない」


 法務担当の佐伯が資料を開いた。柔らかい声だったが、言葉ははっきりしている。


「まず、九環再走配信への支援についてです。これは所属契約とは切り離した、単発の技術協力として提示します。天瀬さんがアークラインと所属契約を結ばない場合でも、支援を受けたことを理由に所属を強制する条項はありません」

「強制なし」

「はい。違約金もありません。ただし、当社が提供した機材、術式、医療情報、警備配置情報を第三者に公開しない守秘義務は発生します」

「普通?」

「通常の範囲です」


 朱音がすぐにメモを取った。


 水瀬は横から資料を確認していたが、口を挟まない。彼がこの場でできるのは、記録と確認だけだった。


「一つ目、高深度配信用の三十秒遅延配信システムです。映像内に危険なルート、未公開座標、探索者個人情報、九環由来の危険情報が映った場合、協会監視室または指定管理者が遮断できます」

「指定管理者とは?」

「今回は協会監視室を主とします。補助として水瀬さん、七瀬朱音さんを候補にしています。ただし、七瀬さんには事前講習が必要です」


 朱音のペンが止まった。


「私もですか」

「天瀬さんが現在、最も反応を返しやすい相手だと聞いています。配信中に意識混濁、判断遅延、強い空膜干渉が見られた場合、声をかける役が必要です」

「声をかけるだけ?」

「初期権限はそれだけです。遮断や撤退勧告の最終権限は協会監視室になります」

「なら、分かります」


 澪が朱音を見た。


「声かけるの?」

「必要なら」

「返事できないかも」

「返事しなくてもいい。聞こえてるか確認する」

「うん」


 神楽坂は続けた。


「二つ目、高位医療班の待機。再走中は協会帰還管理区画に当社医療班を配置します。再生スキル持ちへの処置経験がある医師、魔力枯渇処置の専門員、精神汚染検査員を含みます」

「精神汚染も?」

「九環の環境反応を考えると、必要です」

「痛い検査?」

「基本的には非侵襲です。採血はあります」

「採血はいい」

「よかったです」


 榊原が資料の次ページを開いた。白衣ではなく、黒い作業ジャケットを着ている。指先には古い火傷の跡と細かい傷が残っていた。


「三つ目、空骨鎖鎌の仮封鎖ケースです。正式加工品ではありません。第六層研究品を基にした改修型で、九環素材の完全封鎖は保証できません。それでも、現在協会が使っている保管箱よりは携行向きです」

「持っていける?」

「条件付きです」

「条件」

「ケースから出すのは戦闘直前。暴走兆候が出たら即収納。鎌に引っ張られて深追いしない。破損時に拾いに戻らない」

「破損したら?」

「状況次第で放棄してください」

「嫌」

「嫌でもです」

「鎌、大事」

「天瀬さんの活動に必要な装備であることは理解しています。ただ、鎌を守るために天瀬さんが行動不能になれば、支援計画そのものが破綻します」

「二番」

「命が一番、鎌が二番という認識でよろしいですか」

「うん」

「では、行動基準として契約書に反映します」

「書くの?」

「書きます」


 朱音はメモ帳に「命一番、鎌二番」と書いた。書いたあと、少しだけ眉を寄せた。


「これ、契約書に入るの?」

「表現は変えます」

「ですよね」


 黒瀬航は、それまで腕を組んで黙っていた。高深度攻略部門長という肩書きにふさわしく、探索者の身体つきをしている。スーツを着ていても分かる。手の甲には古い傷跡があり、首筋にも薄い線が残っていた。


「攻略支援について説明する」


 黒瀬の声は低かった。


「アークラインから同行者は出さない。第九環で天瀬澪と同じ速度で動ける者がいない。無理に出せば足手まといになる」

「正直ですね」

「嘘をつく場面ではない」


 朱音は黒瀬を見た。


「では、攻略支援とは何ですか」

「事前情報整理、撤退基準の設定、配信監視、素材回収後の受け入れ、帰還後の医療処置。探索そのものは天瀬がやる。外側の失敗を減らすのがこちらの仕事だ」

「外側の失敗」

「配信が暴走する。素材目当ての探索者が後追いする。住所が割れる。装備業者が押しかける。帰還時に医療班が間に合わない。そういうものだ」

「なるほど」


 澪は少し考えた。


「後追い、止められる?」

「完全には無理だ。だが、警告映像、協会発表、配信遅延、クラン連名の注意喚起で減らせる」

「減らすだけ?」

「減らすだけでも意味はある。死者をゼロにすると言えるほど、第九環は甘くない」

「うん」


 澪はその答えに納得したようだった。きれいなことを言われるより、できることとできないことを分けられた方が分かりやすい。


 佐伯が資料の二部目を出した。


「次に、仮所属契約案です。これは本日の主題ですが、繰り返します。即決不要です」


 机の上に、厚い資料が置かれた。朱音のメモを取る手が一瞬止まった。水瀬は資料を見たが、口を挟まない。協会の契約管理担当も、ただ記録を取っている。澪は資料の厚さを見て、少しだけ目を細めた。


「厚い」

「薄い契約書ほど危険です」

「そうなの?」

「条件が書かれていないということですから」


 神楽坂は一枚目を開いた。


「アークラインは、天瀬澪さんに対し、高深度特別探索者としての仮所属契約を提案します。期間は一年。更新は双方合意。あなたは現在、探索者高校を退学扱いになっています。そのため、学生探索者向けの保護契約ではなく、協会監督下の未成年探索者契約として設計します」

「学生じゃない」

「はい。現時点では」

「戻れる?」

「学籍復旧は当社の管轄外です。ただし、必要であれば弁護士、協会、学校側との調整窓口を用意できます」

「学校、行く必要ある?」

「契約上はありません。社会生活上は、選択肢を残した方がいいと考えます」


 朱音が静かに言った。


「そこは後で考えよう」

「うん」


 神楽坂は続けた。


「仮所属契約は、長期専属ではありません。まず一年で実績と相性を見る形です。三十日前通知で解除可能。重大な契約違反がない限り、違約金は発生しません。ただし、当社が負担した装備加工費のうち、天瀬さん個人の所有物として残るものについては、精算協議が必要です」

「装備は私の?」

「使用権は保証します。所有権は素材の出所と加工費負担によって分かれます」

「難しい」

「後で図にします」

「図がいい」


 朱音がすぐに書いた。


「所有権、図で確認」


 神楽坂は淡々と進めた。


「報酬について。基本年俸は二億四千万円。月割支給。ただし未成年者保護規定により、一定割合は信託口座へ入ります」

「二億」

「四千万」

「多い?」

「多いです」


 朱音の声が少し裏返った。水瀬の指も一瞬止まった。協会担当者は顔を変えなかったが、記録用端末に何かを打ち込んだ。澪は資料を眺めていた。大きい数字だとは分かる。だが、それで何ができるのか、すぐには想像できなかった。プリンなら大量に買える。七瀬家の食費も払える。高い家も借りられる。そこまでは分かる。けれど、九環でその金額を抱えていても、空葬鼠の歯は止まらない。


「成果報酬は別です。九環由来素材の売却益については、鑑定費、加工費、税務処理、保管費を差し引いた後、天瀬さん八割、アークライン二割。アークラインが直接買い取る場合は、第三者評価を二社以上入れます」

「八割」

「はい」

「九環素材、一回で年俸超える?」

「可能性は高いです」


 神楽坂は隠さなかった。


「年俸は、天瀬さんを安く買うための数字ではありません。活動の最低保証です。当社が本当に必要としているのは、九環素材の継続取得、攻略情報、装備開発への適合データです」

「じゃあ、お金は本体じゃない」

「はい」

「分かりやすい」


 黒瀬が頷いた。


「天瀬が九環素材を一度まともに持ち帰れば、年俸分は回収できる可能性がある。問題は、その前に何かが壊れることだ」

「何か」

「武器。身体。配信。住所。契約。どれか一つ壊れれば計画は止まる」

「だから外側を固める?」

「そうだ」


 澪は少しだけ目を細めた。


「お金より、予備の鎌が欲しい」


 会議室が一瞬だけ静かになった。


 朱音が小さく息を吸った。


「澪」

「返事じゃない」

「今の、かなり返事に近い」

「欲しいものを言っただけ」


 神楽坂は表情を変えず、資料を一枚めくった。


「その場合、年俸とは別に、九環対応武装の開発枠を設定できます」

「開発枠?」

「はい。空骨鎖鎌の正式加工とは別に、予備武装を複数開発するための枠です。短鎌、予備鎖鎌、投擲用鎖刃、骨杭、携行封鎖ケース、応急補修素材。天瀬さんの戦闘記録に合わせて設計します」

「何個作れる?」

「初年度は、予算上限二十億円まで」

「二十億」

「上限です。九環素材の加工設備を新設する必要があるため、実際には武器そのものより、加工環境に費用がかかります」

「鎌、三本いける?」

「本命一本、準本命一本、破損前提の簡易型を二本。素材が足りれば可能です」

「欲しい」


 朱音が澪の袖を掴んだ。


「返事は後」

「でも、鎌三本」

「後」

「予備があると九環で無茶できる」

「無茶するために作るんじゃない」

「無茶しないため?」

「そう」


 榊原が口を開いた。


「七瀬さんの言う通りです。予備武器は深追い用ではなく、離脱用です。本命が噛まれた時、鎖が空膜に取られた時、刃が欠けた時に、戦闘を続けるためではなく、距離を作って撤退判断まで持たせるために使います」

「撤退用」

「はい。九環で本命武器一本だけは危険です。天瀬さんの戦闘は鎖鎌への依存度が高い。武器喪失時の選択肢が少なすぎます」

「短剣と短杭」

「足りません」

「足りないか」

「足りません」


 榊原は即答した。


「予備鎖鎌は最低二本。短鎌が左右一本ずつ。投擲用鎖刃が六本。骨杭は一セット十二本。封鎖ケースは携行用、保管用、輸送用で別管理。これでようやく最低限です」

「最低限」

「はい。九環に行くなら」

「いい」

「澪」

「返事は後」

「自分で言ったからね」


 神楽坂は淡々と補足した。


「九環対応武装開発枠は、年俸とは別です。天瀬さん個人に現金で支払うものではありません。装備開発、加工、封鎖、補修、保管に用途を限定します」

「それでいい」

「また返事になってる」

「難しい」


 朱音は小さく頭を抱えた。


 佐伯が資料を戻した。


「配信についても確認します。チャンネル《九環》の所有権は天瀬さんに残します。当社は配信管理、スポンサー調整、危険情報の遮断、収益化支援を行います。管理手数料は配信純収益の一割」

「チャンネル取らない?」

「取りません。取ろうとする企業とは契約しない方がいいです」

「そこ、自分で言うんですね」

「言います。信頼を得るには、業界の危険な条件も説明する必要があります」


 佐伯が補足した。


「ただし、違法行為、公序良俗違反、協会規定違反、意図的な危険扇動があった場合、アークラインは配信支援を停止できます」

「危険扇動?」

「視聴者に九環突入を煽るような行為です」

「しない」

「はい。天瀬さんはしないと思います」


 次に出されたのは、住居と警備の資料だった。


 朱音の手が止まった。澪も資料を見た。


「現在、天瀬さんの滞在先として七瀬家が注目される可能性があります。報道、勧誘、個人接触、素材目的の接近、悪質な配信者。これらを避けるため、三段階の支援案を提示します」


 佐伯がページをめくった。


「第一段階。七瀬家への直接訪問、郵送物、取材依頼、契約打診をアークライン法務窓口へ集約。住所情報の拡散監視。悪質な接触があった場合の警告書送付」

「法務窓口」

「はい」

「第二段階。協会移動時の警備車両、または協会職員との共同動線確保。これは天瀬さんだけでなく、七瀬朱音さん、ご家族も対象にできます」

「家族も」

「本人同意が必要です」

「第三段階。一時滞在用のクラン管理レジデンス提供。高層物件、二十四時間警備、地下駐車場、協会への直通車両導線あり。七瀬家全員での一時移動も可能ですし、天瀬さん単独の住居としても使えます」


 澪が顔を上げた。


「高い家?」

「一般的には、かなり高額な物件です」

「広い?」

「間取りはいくつかあります」

「七瀬家も入れる?」

「希望があれば」

「家賃は?」

「仮所属契約中は、クラン負担の福利厚生扱いにできます。ただし、家族全員の長期居住となる場合は別途契約が必要です」

「買える?」

「購入も不可能ではありませんが、今すぐ決める話ではありません」


 朱音が澪の腕を掴んだ。


「今すぐ決めない」

「聞いただけ」

「今、買えるか聞いた」

「聞いただけ」

「顔が聞いただけじゃなかった」

「難しい」


 神楽坂はわずかに笑った。


「住居支援は、契約の主目的ではありません。最優先は安全確保と情報遮断です。高額物件を渡して好感を買う、という提案ではないことは明確にしておきます」

「そういうのもあるんですか」

「あります」

「怖いですね」

「はい。だから契約書に目的と期間を書きます」


 朱音は神楽坂の言い方を聞いて、少しだけ警戒を緩めた。甘い言葉を使わない。情に訴えすぎない。できること、できないこと、費用、期間、所有権。それを順番に出してくる。最大手らしい圧はあるが、雑な勧誘ではなかった。


 黒瀬が澪を見た。


「天瀬澪。こちらからも聞く」

「うん」

「お前が欲しいのは何だ。金額か、装備か、探索権限か、住居か」

「鎌」

「次は」

「九環へ行く許可」

「次は」

「素材の保管」

「次は」

「七瀬家に変な人が来ないこと」

「次は」

「ご飯」

「ご飯?」

「探索後、食べるもの」

「医療班の食事管理に入れておく」

「うん」


 朱音が小さく息を吐いた。


「最後だけ急に生活感」

「大事」

「大事だけど」


 神楽坂は資料を閉じなかった。まだ終わっていないということだ。


「こちらから見た条件も伝えます」

「うん」

「アークラインが必要としているのは、九環の攻略情報、素材、配信による社会的影響、そして天瀬さん自身の成長データです」

「私のデータ」

「はい。身体データ、スキル成長、再生の負荷、存在進化後の変化。あなたはまだ二次進化前です。レベル百到達後の変化は、当社としても非常に重要な研究対象になります」

「二次進化」

「進化の壁を越えると、全ステータスが大きく変化します。天瀬さんの場合、九環適性と再生能力を持ったまま二次進化に入る。評価額を通常の探索者と同じ式で出せません」

「実験される?」

「本人が拒否した検査は行いません。拘束もありません。医療情報は本人同意なく外部共有しません。研究利用も匿名化が前提です」

「本当?」

「契約書に書きます」

「書いて」

「書きます」


 水瀬がようやく口を挟んだ。


「検査拒否権、研究利用範囲、匿名化、第三者提供制限。協会側でも確認します」

「お願いします」

「もちろんです」


 その一言で、澪は少しだけ理解した。アークラインは丁寧だ。条件も良い。けれど、これは澪を助けたいだけの話ではない。向こうも欲しいものがある。九環の情報。素材。配信の影響力。澪の身体がどう変わったか。鎌を使える澪そのもの。だから、年俸も装備費も警備も出す。


 それは悪いことではない。だが、安くはない。


 朱音が小声で言った。


「澪」

「うん」

「今、かなり頷きそうだった」

「うん」

「返事は?」

「後」

「よし」


 神楽坂は静かに頷いた。


「本日の回答は不要です。協会、七瀬さん、ご家族、必要であれば弁護士の確認を経て判断してください。ただし、三日後の九環再走支援については、準備時間の都合上、明日の正午までに可否をいただきたいです」

「所属は後でも、支援だけ先に受けられる?」

「受けられます。その場合、支援内容は限定されます。医療班、配信遅延、仮封鎖ケース、警備窓口の初期対応まで。正式な装備加工、年俸、素材配分、住居支援、武装開発枠は仮所属契約後です」

「鎌の仮ケースは?」

「支援だけでも提供します」

「じゃあ、それは欲しい」

「澪」

「返事じゃない。欲しいだけ」

「欲しいって言ったらほぼ返事なの」

「難しい」


 神楽坂はその様子を見て、資料の一枚を澪の前へ滑らせた。


「天瀬さんには、これだけ確認してください」

「何?」

「九環再走の目的です。配信のために行くのか、素材のために行くのか、装備確認のために行くのか。目的が曖昧だと、支援側は撤退基準を設定できません」

「全部」

「優先順位が必要です」

「優先順位」

「はい」


 澪は少し考えた。


「一番は、鎌が九環で使えるか見る」

「二番は」

「九環の今の状態を見る」

「三番は」

「素材。取れそうなら」

「配信は」

「記録。あと、勝手に話を作られないように」

「深度目標は」

「第九環入口から中央手前。番犬跡地までは行かない」

「なぜ」

「今の鎌だと無理」

「正しい判断です」


 黒瀬が初めて少しだけ表情を緩めた。


「無理を無理と言えるなら、支援計画は組める」

「無理なのに行く時もある」

「それは組めない」

「じゃあ、今回は行かない」

「それでいい」


 面談は一時間半で終わった。


 終わる頃には、朱音のメモ帳は文字でいっぱいになっていた。水瀬のタブレットには確認項目が並び、協会担当者の録音機材には最初から最後までの会話が残っている。澪は最初より少し疲れた顔をしていた。戦闘とは違う疲れ方だった。


 神楽坂は最後に立ち上がり、もう一度頭を下げた。


「本日はありがとうございました。回答は急ぎません。ただ、九環再走支援のみ、明日正午までにお願いします」

「うん」

「それと、天瀬さん」

「何?」

「資料を一人で読んで、一人で決めないでください」

「アークラインの人もそれ言うの?」

「言います。判断を誤られると、こちらも困ります」

「分かった」


 朱音が横で小さく笑った。


「全員に言われてるね」

「難しい」


 会議室を出ると、協会の廊下は朝よりもさらにざわついていた。面談の内容は外に漏れていないはずだが、アークラインの車が来た時点で十分だった。ロビーの探索者たちが、澪を見る。誰かが小声で話す。端末を向けようとして、協会職員に止められる。


 澪はその視線を気にしていないように歩いた。だが、朱音には分かった。気にしていないのではなく、反応の仕方が分からないだけだ。


 エレベーターの前で、澪が言った。


「朱音先輩」

「なに?」

「二億四千万って、プリン何個?」

「急に何?」

「分からない」

「分からなくていいよ」

「高い家も買える?」

「だから今はその話しない」

「でも、七瀬家に変な人が来るなら、警備ある方がいい」

「それはそう」

「高い家なら警備ある」

「発想が直線すぎる」

「違う?」

「違わないけど、順番がある」


 朱音はメモ帳を閉じた。


「まず、九環再走支援を受けるかどうか。次に、仮所属契約を受けるかどうか。住居や警備は、その後」

「うん」

「あと、うちの家のことは、私とお父さんとお母さんにも決める権利がある」

「うん」

「澪が勝手に買わない」

「買わない」

「本当に?」

「たぶん」

「そこは絶対」

「絶対、勝手には買わない」

「よし」


 水瀬が後ろから言った。


「今の発言は記録した方がよさそうですね」

「しなくていい」

「冗談です」

「水瀬、冗談言うの?」

「たまに」


 協会の外へ出ると、昼の光が眩しかった。ロビーのざわめきが背中に残っている。アークラインの黒い車はもう見えない。代わりに、朱音のスマートフォンが震えた。母からだった。


『今日のお昼、二人とも家で食べる? それとも外で済ませる?』


 朱音は画面を澪に見せた。


「どうする?」

「帰って食べる」

「即答」

「協会のご飯より、七瀬家のご飯の方がいい」

「それ、お母さん喜ぶよ」

「じゃあ言って」

「自分で言いなさい」

「難しい」

「契約よりは簡単」


 澪は少し考え、朱音のスマートフォンを借りて短く打った。


『帰って食べたいです』


 すぐに返事が来た。


『了解。温かいの作って待ってます』


 澪はその画面を見て、しばらく黙っていた。


 契約書は重い。条件も多い。九環は三日後に迫っている。アークラインは本気で、協会も動き始めている。学籍は失われたままで、住む場所もまだ借り物だ。澪の周囲は、昨日までとは違う速度で変わっていく。


 それでも、昼ご飯は温かいものが出る。


 澪はスマートフォンを朱音に返した。


「契約、後で読む」

「うん」

「ご飯、先」

「それは正しい」


 朱音は笑った。


 二人は協会の階段を下り、昼の街へ出た。

普通はクランなどに入らないで自由に無双系を書きますが、長いものに巻かれようと思います。

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