第十一話 大手クラン
協会の発表は、その日の昼に出た。
内容は短かった。第一層第九環《空葬原》からの単独帰還者について。対象は探索者高校所属、天瀬澪。帰還時の推定到達深度は第一層第九環。帰還時レベルは六十四。未分類の存在進化反応を確認。未登録スキルの取得を確認。戦闘記録および帰還映像は安全上の理由により一部非公開。第九環への無許可接近、模倣探索、単独深部侵入を強く禁ずる。
それだけだった。
それだけで、探索者界隈はひっくり返った。
協会のロビーにある大型モニターには、公式発表が流れ続けていた。澪はそれを見上げながら、結衣にもらった飴を口の中で転がしていた。甘い。発表の文章は硬い。周囲の視線は刺さる。だが、飴は普通に甘かった。
『九環単独帰還、公式確定』
『Lv64って一年生の数字じゃない』
『存在進化済み? 一次進化ってこと?』
『未分類って何』
『九環に行くなって書いてあるのに、絶対行くやつ出るだろ』
『やめろ。死ぬぞ』
『九環の帰還映像見たい』
『非公開ってことは相当やばい』
『昨日の配信、あれでまだ第六環外縁なんだよな?』
『九環って何が出るの』
『アークライン、動くんじゃない?』
澪のチャンネル《九環》の登録者数は、午前中だけで桁が変わった。通知欄は読み切れない。応援、疑い、恐怖、素材業者、配信切り抜き、考察、勝手な解説、勝手な心配。朱音はそれを横で見て、眉間を揉んでいた。
「すごいことになってる」
「うん」
「うん、じゃなくて。澪、自分のことだよ」
「知ってる」
「本当に?」
「たぶん」
朱音はため息をついた。肩の怪我は昨日より楽になっているが、動かすとまだ痛む。今日は戦う予定ではない。協会の帰還管理講習、澪の《転移》の基礎測定、藤堂による仮装備確認。それだけで一日が埋まる。
水瀬は午前からずっとタブレットを操作していた。メールも通知も止まらないらしい。紙の資料まで増えている。
「天瀬さん宛ての問い合わせは、現時点で協会経由だけでも百二十件を超えました」
「多い?」
「多いです。かなり」
「全部読むの?」
「読みません。一次選別します。素材業者、配信事務所、個人勧誘、研究機関、宗教団体、自称支援者、自称婚約者、自称前世の仲間などは弾きます」
「最後の何」
「もう来ています」
「怖い」
「はい。かなり怖いです」
朱音は顔をしかめた。
「澪、知らない人からの連絡は絶対に開かないで」
「分かった」
「変な契約もしない」
「しない」
「無料で装備直しますって言われても?」
「怪しい」
「白楼工房なら?」
「水瀬に聞く」
「アークラインなら?」
「朱音先輩に聞く」
「よし」
水瀬が小さく頷いた。
「その判断は正しいです。特にアークラインは、今日中に正式な接触をしてくる可能性があります」
「国内最大手なんだよね」
「はい。探索者数、攻略実績、研究部門、医療部門、装備開発、配信管理、法務支援、いずれも国内最高水準です。高深度探索者の保護契約にも実績があります」
「保護契約?」
「強い探索者を囲い込む、と言い換える人もいます」
「囲うの?」
「言い方を柔らかくすれば、活動に必要な安全と資源を提供する代わりに、成果物や配信、攻略情報の一部を共有する契約です」
「鎌、直せる?」
「候補としては最有力です」
「じゃあ、話は聞く」
「本当に分かりやすいですね」
午前の終わり、澪は協会地下の訓練区画へ移動した。通常の実技訓練場ではなく、高位探索者のスキル測定に使う封鎖室だった。床には白いマーカーが置かれている。壁は厚く、外側には観測窓がある。水瀬、久遠、藤堂、朱音は観測室側にいた。澪だけが中に入る。
目的は《転移》の測定だった。
九環からの帰還に使われた可能性が高いスキル。だが、澪はまだ使い方を分かっていない。初回は、帰りたいという意思と、配信端末の座標反応に引かれて偶然戻ったようなものだ。再走配信をするなら、どこまで使えるか確認しなければならない。
久遠の声がスピーカーから響いた。
「天瀬。まずは三メートル先の白いマーカーを見ろ」
「見た」
「そこへ移動するつもりで、魔力を流せ」
「どう流す?」
「普段の身体強化とは違う。足元ではなく、視線の先に引っ掛ける感覚だ。無理ならやめろ」
「分かった」
澪は白いマーカーを見た。三メートル。近い。歩けばすぐだ。だが、歩かない。足元に力を入れるのではなく、見ている場所へ身体を置く。言葉にすると変だ。けれど、九環で協会の床へ叩きつけられた時の感覚に少しだけ似ていた。遠くへ移動するというより、今いる場所から一度外れる感覚。
床の空気が薄く揺れた。
次の瞬間、澪は白いマーカーの上にいた。
観測室で水瀬が息を吸う音がした。
「成功。移動距離三メートル。魔力消費は軽微。ただし、足元の空間反応が一瞬乱れています」
「気持ち悪い」
「酔いますか」
「少し」
「続けられますか」
「うん」
久遠はすぐに次を出した。
「次は五メートル。青いマーカーだ」
「うん」
二度目は成功した。三度目の七メートルで、澪は半歩ずれた。マーカーの上ではなく、少し横に出た。身体に異常はない。だが、足首の向きが少し合わず、着地した瞬間に膝が沈んだ。
朱音が観測窓に近づいた。
「澪、大丈夫?」
「大丈夫」
「足、変だった」
「少しずれた」
「少しって、転移で少しずれるの怖すぎない?」
「壁の中じゃないから平気」
「壁の中だったら平気じゃないでしょ」
藤堂が低い声で言った。
「今の段階で密閉空間や障害物越しの転移は禁止だな。視認できる場所だけにしろ」
「うん」
「あと、他人を連れて飛ぶな。身体がずれた時に、相手だけ裂ける可能性がある」
「怖い」
「怖いで済ませるな。絶対やるな」
「分かった」
十メートルで、澪は一度失敗した。身体が動かなかったのではない。半分だけ引っ張られたような感覚があり、胸の奥が気持ち悪くなった。澪はその場で膝をついた。外傷はない。だが、魔力の流れが一瞬乱れている。再生で戻す種類の不調ではなく、身体の位置を見失う不快感だった。
久遠は即座に止めた。
「中断」
「まだできる」
「中断だ」
「でも」
「命令だ。戻れ」
澪は少しだけ不満そうにしたが、歩いて戻った。転移ではない。歩きだった。それを見て、朱音は少し安心した。
測定結果は単純だった。《転移》Lv1は、短距離なら使える。視認できる場所、強く記憶している場所、直線上にある近距離なら成功率が高い。だが、距離が伸びるとずれる。障害物があると危険。空膜反応が強い場所では補正がかかる可能性があるが、それが良い方向とは限らない。連続使用すると、魔力より先に感覚が狂う。
水瀬は資料にまとめながら言った。
「九環再走では、緊急回避用として限定使用。長距離移動手段としては不安定。帰還札の代替にはできません」
「でも前は協会に出た」
「あれは特殊です。番犬撃破直後、オーブ取得直後、配信端末との接続、協会帰還管理区画の座標、複数条件が重なっています。再現性は低い」
「もう一回、同じようにやるのは?」
「やめてください」
「分かった」
朱音が即座に頷いた。
「やめよう。絶対やめよう」
「うん」
午後は、空骨鎖鎌の仮調整だった。封鎖室の中央に黒い作業台が置かれ、何重もの術式板の上に鎌が固定されている。完成形ではない。第九環で壊れた鎖鎌を、九環の骨で直し続けた結果できた歪な武器。だが、澪が近づくと、鎖の一部がわずかに鳴った。
藤堂は防護手袋をつけ、刃の部分を指した。
「この骨片が番犬由来だ。胸部中核に近い。硬度は測定上限を超えているが、同時に空膜反応が強い。雑に削ると設備が持たん」
「直すの大変?」
「大変どころじゃない。だが、使えればお前の戦い方に合う。鎖で引き、鎌で掛け、骨で空膜へ食い込ませる。普通の武器では九環に負ける。これは九環側の素材だから、九環に噛みつける」
「持っていける?」
「今すぐは駄目だ。封鎖ケース込みでなら、三日後に仮運用できる可能性はある。だが条件がある」
「何?」
「暴走兆候が出たら即収納。鎌に引っ張られて深追いしない。破損したら拾おうとするな。命が先だ」
「鎌、大事」
「命が先だ」
「分かった」
「本当に分かってる顔をしろ」
「分かってる」
朱音が横から言った。
「澪、今のは私も記録したから」
「記録しなくていい」
「する。命が先。鎌は二番」
「二番」
「三番でもいい」
「二番」
藤堂はため息をついたが、少しだけ表情を緩めた。
「まあ、二番ならまだいい」
その時、水瀬の端末が鳴った。通知音は短かったが、画面を見た瞬間、水瀬の顔が変わった。
「来ました」
「何が?」
「アークラインです。正式な面会要請。協会立ち会い希望。対象は天瀬澪さん、七瀬朱音さん、久遠先生、藤堂先生、私。先方は副代表と高深度攻略部門長、法務担当、装備開発主任」
「多い」
「かなり本気です」
久遠が目を細めた。
「条件は」
「現時点では面会のみ。ですが、添付資料に支援案の概要があります」
「読め」
「はい」
水瀬は内容を読み上げた。
「天瀬澪氏の九環再走配信に対する技術支援。高位医療班の待機。高深度向け帰還補助術式の貸与。配信遅延システム提供。空骨鎖鎌の仮封鎖ケース提供。所属契約は面会時に別途協議。七瀬朱音氏に対する帰還管理補助講習の無償枠提供。七瀬家への警備相談も含む、とあります」
「七瀬家?」
朱音の声が少し硬くなった。
澪も反応した。
「七瀬家に何かするの?」
「警備相談、とだけあります。おそらく、天瀬さんの滞在先として注目される可能性を見越しています」
「迷惑?」
「今後、確実に増えます。報道、勧誘、悪質な接触。七瀬家が巻き込まれる可能性は高い」
「嫌」
「だから支援を提案しているのでしょう」
「アークライン、警備できる?」
「国内最大手ですから、可能でしょう。ただし、契約条件次第です」
澪は黒いケースの中の鎌を見た。九環へ行くには装備がいる。鎌を直すには工房がいる。配信するなら管理がいる。七瀬家に余計なものが向かわないようにするには、連絡窓口と警備がいる。澪一人では全部できない。金も足りない。知識も足りない。交渉も苦手だ。
朱音が静かに言った。
「話は聞こう」
「うん」
「でも、すぐ決めない」
「うん」
「七瀬家のことを条件に出されたら、私が確認する」
「うん」
「澪は、鎌と九環って言われたらすぐ頷きそうだから」
「そんなことない」
「ある」
「少しある」
「あるんじゃん」
久遠は水瀬に言った。
「面会は協会内。録音録画あり。未成年者への直接契約は禁止。学校側と保護管理者同席。今日の夜は駄目だ。明日の午前にしろ」
「伝えます」
「天瀬。アークラインがどれだけ良い条件を出しても、即答するな」
「うん」
「七瀬。お前も押されるな」
「はい」
「水瀬。条項を全部洗え」
「もちろんです」
「藤堂。装備支援の技術的妥当性を見ろ」
「任せろ。盛ってたらその場で突っ込む」
澪はそのやり取りを聞いていた。自分のことなのに、自分より周囲の方が忙しそうだった。少し不思議だった。前なら、一人で決めて、一人で行って、一人で戻るしかなかった。今は、誰かが条件を読み、誰かが止め、誰かが鎌を見て、誰かが七瀬家の住所が漏れないように考えている。
面倒だと思った。
けれど、悪くはなかった。
夕方、協会を出る頃には、外に報道関係者らしい人影が増えていた。協会職員が誘導している。直接近づかれないよう、久遠が先に出て確認し、水瀬が裏口へ案内した。朱音は澪の横を歩き、スマートフォンで七瀬家へ連絡を入れている。
「お母さん、今日は裏口から帰る。うん、大丈夫。澪もいる。うん。変な人はまだ来てない。来たら協会に連絡して」
澪はその通話を横で聞きながら、少しだけ顔をしかめた。
「迷惑かけてる」
「今さら?」
「うん」
「でも、今のうちに対策した方がいい。放っておく方が面倒になる」
「そっか」
「そう」
協会の裏口を出ると、夕方の風が頬に当たった。九環の風とは違う。肌に触れる方向と、髪を揺らす方向が同じだ。音も遅れない。車の走る音、誰かの話し声、遠くの信号機の音。全部、ちゃんと届く。
朱音がスマートフォンをしまった。
「明日、アークラインと面会。明後日、装備調整と帰還管理訓練。三日後、九環再走」
「忙しい」
「忙しいよ。澪が忙しくしたんだからね」
「ごめん」
「謝るところではないけど、ちょっとは反省して」
「反省する」
「本当に?」
「たぶん」
「また、たぶん」
澪は少しだけ考えて、リュックから結衣の布袋を取り出した。中には焼き菓子がまだ二つ残っている。ひとつを朱音に差し出した。
「食べる?」
「いいの?」
「結衣が、ちゃんと食べろって」
「澪が食べる分でしょ」
「一緒に食べる」
朱音は少し迷ってから、焼き菓子を受け取った。
「じゃあ、半分こ」
「うん」
二人は協会の裏通りを歩きながら、個包装の焼き菓子を割った。甘くて、少し乾いていて、口の中の水分を持っていかれる味だった。九環の肉とは違う。穴蔵で噛んだ冷たいものではない。普通の菓子だった。
澪はそれをゆっくり飲み込んだ。
「朱音先輩」
「なに?」
「七瀬家、対策した方がいい?」
「した方がいい」
「やり方分からない」
「明日、ちゃんと聞こう。アークラインが何を出してくるか」
「うん」
「ただし、いきなり高い家を用意するとか、そういう変な話はしないでね」
「高い家?」
「今のは忘れて」
「広い方がいい?」
「忘れて」
「警備がある方がいい?」
「それは、まあ、そうだけど」
「じゃあ聞く」
「聞くのはいい。決めるのは後」
澪は首を傾げた。朱音は顔を片手で覆った。だが、耳が少し赤い。
夕方の街を歩きながら、澪はもう一度だけ協会の方を振り返った。あの中に空骨鎖鎌がある。白い骨を絡めた鎖。番犬の胸を砕いた武器。九環へ戻るために必要なもの。けれど今、澪の手にあるのは鎖ではなく、半分に割った焼き菓子だった。
三日後、九環へ行く。
その前に、明日、最大手クランと会う。
澪は焼き菓子の残りを口に入れた。
甘さが消える前に、朱音が言った。
「明日は、絶対に一人で返事しないこと」
「うん」
「鎌って言われても」
「返事しない」
「九環って言われても」
「返事しない」
「七瀬家の警備を出しますって言われても」
「……返事しない」
「今の間、危なかった」
「難しい」
「だから、一緒に聞くの」
澪は頷いた。
「一緒に聞く」
それは、九環へ一緒に行くという意味ではない。朱音は九環へは行けない。行かせない。けれど、条件を一緒に見る。澪が一人で決めないように、横にいる。
それだけで、澪は少しだけ歩きやすくなった。
翌朝、国内最大手クラン《アークライン》の車が、探索者協会の正面玄関に停まった。
黒い車だった。派手な装飾はない。だが、降りてきた人間の動きだけで、周囲の空気が変わった。協会職員が姿勢を正し、ロビーにいた探索者たちが声を落とす。先頭に立っていたのは、灰色のスーツを着た女性だった。年齢は四十前後。穏やかな顔をしているが、目だけが鋭い。
水瀬が小さく言った。
「アークライン副代表、神楽坂美冬です」
「強い?」
「元探索者です。第二層深部攻略経験者。現在は交渉と高位探索者管理の責任者です」
「強そう」
「実際、強いです」
神楽坂美冬は澪の前で足を止め、丁寧に頭を下げた。
「天瀬澪さん。七瀬朱音さん。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
澪は少しだけ朱音を見た。
朱音は小さく頷いた。
澪も頭を下げた。
「話を聞きます」
神楽坂は微笑んだ。
「はい。本日は、九環再走に関する支援条件と、今後の所属契約についてご提案に参りました」




