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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第十一話 大手クラン

 協会の発表は、その日の昼に出た。


 内容は短かった。第一層第九環《空葬原》からの単独帰還者について。対象は探索者高校所属、天瀬澪。帰還時の推定到達深度は第一層第九環。帰還時レベルは六十四。未分類の存在進化反応を確認。未登録スキルの取得を確認。戦闘記録および帰還映像は安全上の理由により一部非公開。第九環への無許可接近、模倣探索、単独深部侵入を強く禁ずる。


 それだけだった。


 それだけで、探索者界隈はひっくり返った。


 協会のロビーにある大型モニターには、公式発表が流れ続けていた。澪はそれを見上げながら、結衣にもらった飴を口の中で転がしていた。甘い。発表の文章は硬い。周囲の視線は刺さる。だが、飴は普通に甘かった。


『九環単独帰還、公式確定』

『Lv64って一年生の数字じゃない』

『存在進化済み? 一次進化ってこと?』

『未分類って何』

『九環に行くなって書いてあるのに、絶対行くやつ出るだろ』

『やめろ。死ぬぞ』

『九環の帰還映像見たい』

『非公開ってことは相当やばい』

『昨日の配信、あれでまだ第六環外縁なんだよな?』

『九環って何が出るの』

『アークライン、動くんじゃない?』


 澪のチャンネル《九環》の登録者数は、午前中だけで桁が変わった。通知欄は読み切れない。応援、疑い、恐怖、素材業者、配信切り抜き、考察、勝手な解説、勝手な心配。朱音はそれを横で見て、眉間を揉んでいた。


「すごいことになってる」

「うん」

「うん、じゃなくて。澪、自分のことだよ」

「知ってる」

「本当に?」

「たぶん」


 朱音はため息をついた。肩の怪我は昨日より楽になっているが、動かすとまだ痛む。今日は戦う予定ではない。協会の帰還管理講習、澪の《転移》の基礎測定、藤堂による仮装備確認。それだけで一日が埋まる。


 水瀬は午前からずっとタブレットを操作していた。メールも通知も止まらないらしい。紙の資料まで増えている。


「天瀬さん宛ての問い合わせは、現時点で協会経由だけでも百二十件を超えました」

「多い?」

「多いです。かなり」

「全部読むの?」

「読みません。一次選別します。素材業者、配信事務所、個人勧誘、研究機関、宗教団体、自称支援者、自称婚約者、自称前世の仲間などは弾きます」

「最後の何」

「もう来ています」

「怖い」

「はい。かなり怖いです」


 朱音は顔をしかめた。


「澪、知らない人からの連絡は絶対に開かないで」

「分かった」

「変な契約もしない」

「しない」

「無料で装備直しますって言われても?」

「怪しい」

「白楼工房なら?」

「水瀬に聞く」

「アークラインなら?」

「朱音先輩に聞く」

「よし」


 水瀬が小さく頷いた。


「その判断は正しいです。特にアークラインは、今日中に正式な接触をしてくる可能性があります」

「国内最大手なんだよね」

「はい。探索者数、攻略実績、研究部門、医療部門、装備開発、配信管理、法務支援、いずれも国内最高水準です。高深度探索者の保護契約にも実績があります」

「保護契約?」

「強い探索者を囲い込む、と言い換える人もいます」

「囲うの?」

「言い方を柔らかくすれば、活動に必要な安全と資源を提供する代わりに、成果物や配信、攻略情報の一部を共有する契約です」

「鎌、直せる?」

「候補としては最有力です」

「じゃあ、話は聞く」

「本当に分かりやすいですね」


 午前の終わり、澪は協会地下の訓練区画へ移動した。通常の実技訓練場ではなく、高位探索者のスキル測定に使う封鎖室だった。床には白いマーカーが置かれている。壁は厚く、外側には観測窓がある。水瀬、久遠、藤堂、朱音は観測室側にいた。澪だけが中に入る。


 目的は《転移》の測定だった。


 九環からの帰還に使われた可能性が高いスキル。だが、澪はまだ使い方を分かっていない。初回は、帰りたいという意思と、配信端末の座標反応に引かれて偶然戻ったようなものだ。再走配信をするなら、どこまで使えるか確認しなければならない。


 久遠の声がスピーカーから響いた。


「天瀬。まずは三メートル先の白いマーカーを見ろ」

「見た」

「そこへ移動するつもりで、魔力を流せ」

「どう流す?」

「普段の身体強化とは違う。足元ではなく、視線の先に引っ掛ける感覚だ。無理ならやめろ」

「分かった」


 澪は白いマーカーを見た。三メートル。近い。歩けばすぐだ。だが、歩かない。足元に力を入れるのではなく、見ている場所へ身体を置く。言葉にすると変だ。けれど、九環で協会の床へ叩きつけられた時の感覚に少しだけ似ていた。遠くへ移動するというより、今いる場所から一度外れる感覚。


 床の空気が薄く揺れた。


 次の瞬間、澪は白いマーカーの上にいた。


 観測室で水瀬が息を吸う音がした。


「成功。移動距離三メートル。魔力消費は軽微。ただし、足元の空間反応が一瞬乱れています」

「気持ち悪い」

「酔いますか」

「少し」

「続けられますか」

「うん」


 久遠はすぐに次を出した。


「次は五メートル。青いマーカーだ」

「うん」


 二度目は成功した。三度目の七メートルで、澪は半歩ずれた。マーカーの上ではなく、少し横に出た。身体に異常はない。だが、足首の向きが少し合わず、着地した瞬間に膝が沈んだ。


 朱音が観測窓に近づいた。


「澪、大丈夫?」

「大丈夫」

「足、変だった」

「少しずれた」

「少しって、転移で少しずれるの怖すぎない?」

「壁の中じゃないから平気」

「壁の中だったら平気じゃないでしょ」


 藤堂が低い声で言った。


「今の段階で密閉空間や障害物越しの転移は禁止だな。視認できる場所だけにしろ」

「うん」

「あと、他人を連れて飛ぶな。身体がずれた時に、相手だけ裂ける可能性がある」

「怖い」

「怖いで済ませるな。絶対やるな」

「分かった」


 十メートルで、澪は一度失敗した。身体が動かなかったのではない。半分だけ引っ張られたような感覚があり、胸の奥が気持ち悪くなった。澪はその場で膝をついた。外傷はない。だが、魔力の流れが一瞬乱れている。再生で戻す種類の不調ではなく、身体の位置を見失う不快感だった。


 久遠は即座に止めた。


「中断」

「まだできる」

「中断だ」

「でも」

「命令だ。戻れ」


 澪は少しだけ不満そうにしたが、歩いて戻った。転移ではない。歩きだった。それを見て、朱音は少し安心した。


 測定結果は単純だった。《転移》Lv1は、短距離なら使える。視認できる場所、強く記憶している場所、直線上にある近距離なら成功率が高い。だが、距離が伸びるとずれる。障害物があると危険。空膜反応が強い場所では補正がかかる可能性があるが、それが良い方向とは限らない。連続使用すると、魔力より先に感覚が狂う。


 水瀬は資料にまとめながら言った。


「九環再走では、緊急回避用として限定使用。長距離移動手段としては不安定。帰還札の代替にはできません」

「でも前は協会に出た」

「あれは特殊です。番犬撃破直後、オーブ取得直後、配信端末との接続、協会帰還管理区画の座標、複数条件が重なっています。再現性は低い」

「もう一回、同じようにやるのは?」

「やめてください」

「分かった」


 朱音が即座に頷いた。


「やめよう。絶対やめよう」

「うん」


 午後は、空骨鎖鎌の仮調整だった。封鎖室の中央に黒い作業台が置かれ、何重もの術式板の上に鎌が固定されている。完成形ではない。第九環で壊れた鎖鎌を、九環の骨で直し続けた結果できた歪な武器。だが、澪が近づくと、鎖の一部がわずかに鳴った。


 藤堂は防護手袋をつけ、刃の部分を指した。


「この骨片が番犬由来だ。胸部中核に近い。硬度は測定上限を超えているが、同時に空膜反応が強い。雑に削ると設備が持たん」

「直すの大変?」

「大変どころじゃない。だが、使えればお前の戦い方に合う。鎖で引き、鎌で掛け、骨で空膜へ食い込ませる。普通の武器では九環に負ける。これは九環側の素材だから、九環に噛みつける」

「持っていける?」

「今すぐは駄目だ。封鎖ケース込みでなら、三日後に仮運用できる可能性はある。だが条件がある」

「何?」

「暴走兆候が出たら即収納。鎌に引っ張られて深追いしない。破損したら拾おうとするな。命が先だ」

「鎌、大事」

「命が先だ」

「分かった」

「本当に分かってる顔をしろ」

「分かってる」


 朱音が横から言った。


「澪、今のは私も記録したから」

「記録しなくていい」

「する。命が先。鎌は二番」

「二番」

「三番でもいい」

「二番」


 藤堂はため息をついたが、少しだけ表情を緩めた。


「まあ、二番ならまだいい」


 その時、水瀬の端末が鳴った。通知音は短かったが、画面を見た瞬間、水瀬の顔が変わった。


「来ました」

「何が?」

「アークラインです。正式な面会要請。協会立ち会い希望。対象は天瀬澪さん、七瀬朱音さん、久遠先生、藤堂先生、私。先方は副代表と高深度攻略部門長、法務担当、装備開発主任」

「多い」

「かなり本気です」


 久遠が目を細めた。


「条件は」

「現時点では面会のみ。ですが、添付資料に支援案の概要があります」

「読め」

「はい」


 水瀬は内容を読み上げた。


「天瀬澪氏の九環再走配信に対する技術支援。高位医療班の待機。高深度向け帰還補助術式の貸与。配信遅延システム提供。空骨鎖鎌の仮封鎖ケース提供。所属契約は面会時に別途協議。七瀬朱音氏に対する帰還管理補助講習の無償枠提供。七瀬家への警備相談も含む、とあります」

「七瀬家?」


 朱音の声が少し硬くなった。


 澪も反応した。


「七瀬家に何かするの?」

「警備相談、とだけあります。おそらく、天瀬さんの滞在先として注目される可能性を見越しています」

「迷惑?」

「今後、確実に増えます。報道、勧誘、悪質な接触。七瀬家が巻き込まれる可能性は高い」

「嫌」

「だから支援を提案しているのでしょう」

「アークライン、警備できる?」

「国内最大手ですから、可能でしょう。ただし、契約条件次第です」


 澪は黒いケースの中の鎌を見た。九環へ行くには装備がいる。鎌を直すには工房がいる。配信するなら管理がいる。七瀬家に余計なものが向かわないようにするには、連絡窓口と警備がいる。澪一人では全部できない。金も足りない。知識も足りない。交渉も苦手だ。


 朱音が静かに言った。


「話は聞こう」

「うん」

「でも、すぐ決めない」

「うん」

「七瀬家のことを条件に出されたら、私が確認する」

「うん」

「澪は、鎌と九環って言われたらすぐ頷きそうだから」

「そんなことない」

「ある」

「少しある」

「あるんじゃん」


 久遠は水瀬に言った。


「面会は協会内。録音録画あり。未成年者への直接契約は禁止。学校側と保護管理者同席。今日の夜は駄目だ。明日の午前にしろ」

「伝えます」

「天瀬。アークラインがどれだけ良い条件を出しても、即答するな」

「うん」

「七瀬。お前も押されるな」

「はい」

「水瀬。条項を全部洗え」

「もちろんです」

「藤堂。装備支援の技術的妥当性を見ろ」

「任せろ。盛ってたらその場で突っ込む」


 澪はそのやり取りを聞いていた。自分のことなのに、自分より周囲の方が忙しそうだった。少し不思議だった。前なら、一人で決めて、一人で行って、一人で戻るしかなかった。今は、誰かが条件を読み、誰かが止め、誰かが鎌を見て、誰かが七瀬家の住所が漏れないように考えている。


 面倒だと思った。

 けれど、悪くはなかった。


 夕方、協会を出る頃には、外に報道関係者らしい人影が増えていた。協会職員が誘導している。直接近づかれないよう、久遠が先に出て確認し、水瀬が裏口へ案内した。朱音は澪の横を歩き、スマートフォンで七瀬家へ連絡を入れている。


「お母さん、今日は裏口から帰る。うん、大丈夫。澪もいる。うん。変な人はまだ来てない。来たら協会に連絡して」


 澪はその通話を横で聞きながら、少しだけ顔をしかめた。


「迷惑かけてる」

「今さら?」

「うん」

「でも、今のうちに対策した方がいい。放っておく方が面倒になる」

「そっか」

「そう」


 協会の裏口を出ると、夕方の風が頬に当たった。九環の風とは違う。肌に触れる方向と、髪を揺らす方向が同じだ。音も遅れない。車の走る音、誰かの話し声、遠くの信号機の音。全部、ちゃんと届く。


 朱音がスマートフォンをしまった。


「明日、アークラインと面会。明後日、装備調整と帰還管理訓練。三日後、九環再走」

「忙しい」

「忙しいよ。澪が忙しくしたんだからね」

「ごめん」

「謝るところではないけど、ちょっとは反省して」

「反省する」

「本当に?」

「たぶん」

「また、たぶん」


 澪は少しだけ考えて、リュックから結衣の布袋を取り出した。中には焼き菓子がまだ二つ残っている。ひとつを朱音に差し出した。


「食べる?」

「いいの?」

「結衣が、ちゃんと食べろって」

「澪が食べる分でしょ」

「一緒に食べる」


 朱音は少し迷ってから、焼き菓子を受け取った。


「じゃあ、半分こ」

「うん」


 二人は協会の裏通りを歩きながら、個包装の焼き菓子を割った。甘くて、少し乾いていて、口の中の水分を持っていかれる味だった。九環の肉とは違う。穴蔵で噛んだ冷たいものではない。普通の菓子だった。


 澪はそれをゆっくり飲み込んだ。


「朱音先輩」

「なに?」

「七瀬家、対策した方がいい?」

「した方がいい」

「やり方分からない」

「明日、ちゃんと聞こう。アークラインが何を出してくるか」

「うん」

「ただし、いきなり高い家を用意するとか、そういう変な話はしないでね」

「高い家?」

「今のは忘れて」

「広い方がいい?」

「忘れて」

「警備がある方がいい?」

「それは、まあ、そうだけど」

「じゃあ聞く」

「聞くのはいい。決めるのは後」


 澪は首を傾げた。朱音は顔を片手で覆った。だが、耳が少し赤い。


 夕方の街を歩きながら、澪はもう一度だけ協会の方を振り返った。あの中に空骨鎖鎌がある。白い骨を絡めた鎖。番犬の胸を砕いた武器。九環へ戻るために必要なもの。けれど今、澪の手にあるのは鎖ではなく、半分に割った焼き菓子だった。


 三日後、九環へ行く。

 その前に、明日、最大手クランと会う。

 澪は焼き菓子の残りを口に入れた。

 甘さが消える前に、朱音が言った。


「明日は、絶対に一人で返事しないこと」

「うん」

「鎌って言われても」

「返事しない」

「九環って言われても」

「返事しない」

「七瀬家の警備を出しますって言われても」

「……返事しない」

「今の間、危なかった」

「難しい」

「だから、一緒に聞くの」


 澪は頷いた。


「一緒に聞く」


 それは、九環へ一緒に行くという意味ではない。朱音は九環へは行けない。行かせない。けれど、条件を一緒に見る。澪が一人で決めないように、横にいる。


 それだけで、澪は少しだけ歩きやすくなった。


 翌朝、国内最大手クラン《アークライン》の車が、探索者協会の正面玄関に停まった。

 黒い車だった。派手な装飾はない。だが、降りてきた人間の動きだけで、周囲の空気が変わった。協会職員が姿勢を正し、ロビーにいた探索者たちが声を落とす。先頭に立っていたのは、灰色のスーツを着た女性だった。年齢は四十前後。穏やかな顔をしているが、目だけが鋭い。


 水瀬が小さく言った。


「アークライン副代表、神楽坂美冬です」

「強い?」

「元探索者です。第二層深部攻略経験者。現在は交渉と高位探索者管理の責任者です」

「強そう」

「実際、強いです」


 神楽坂美冬は澪の前で足を止め、丁寧に頭を下げた。


「天瀬澪さん。七瀬朱音さん。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 澪は少しだけ朱音を見た。

 朱音は小さく頷いた。

 澪も頭を下げた。


「話を聞きます」


 神楽坂は微笑んだ。


「はい。本日は、九環再走に関する支援条件と、今後の所属契約についてご提案に参りました」

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