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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第九話 空葬の番犬 後編

 澪が言葉を止めたあと、七瀬家のリビングにはしばらく誰の声もなかった。台所の水音も止まっている。母も聞いていたのだろう。結衣は宿題の鉛筆を握ったまま動かず、朱音は包帯を巻いた肩を忘れたように澪だけを見ていた。九環の敵は、数で押してくる弱い魔物ではない。一体で普通の探索者を殺せる敵が、当たり前のように歩いている場所。そんなところで、澪は穴蔵に戻り、再生と魔力の回復を待ち、壊れた鎌を直し、骨を削り、また外に出た。


「続き、話せる?」

「ここから、少し長い」

「長くていい」

「ちゃんと聞く」


 結衣が小さく言うと、澪は少しだけ結衣を見た。それから視線を落とした。リビングの床ではなく、もっと白い場所を見ている目だった。


 番犬に挑む前、澪にはまだ足りないものがあった。再生はLv8。腕や足の欠損でも、魔力が残っていれば数秒で再生が始まる。普通の傷なら一秒もかからず塞がる。だが、それだけでは九環の奥へ届かなかった。空葬鼠一体で足を食われ、骨喉犬一体で肩から腕を失い、白骸鳥一体で背中を大きく削られる。傷口の奥で肉が戻り、骨の形が組み直され、神経が繋がり直しても、痛みと消耗は残る。身体が戻っても、すぐ次の一撃を受ければ動きは鈍る。


 澪は穴蔵と外を何度も往復した。勝てる敵だけを選んだわけではない。勝たなければ先へ進めない敵を、一体ずつ倒した。骨喉犬を倒した時は、右腕が何度も噛み砕かれた。白骸鳥を倒した時は、片目が潰れ、視界が戻る前に次の爪が来た。空膜を泳ぐ細長い獣を倒した時は、腹を裂かれ、内側がこぼれそうになる感覚のまま鎖を引いた。心臓だけは守った。頭だけは潰されないようにした。そこを持っていかれたら、その場では終わる。少なくとも戦い続けることはできない。


 経験値が入っていることには、途中から気づいた。九環では一体倒すだけで、身体の奥に重い熱が落ちる。低環の魔物を何十体倒した時とは違う。一体で深く沈む。澪は穴蔵の壁に、敵の特徴だけでなく、見えた文字も刻むようになった。


《レベルが上昇しました》


 最初は、それを喜ぶ余裕などなかった。レベルが上がっても、腹は減る。武器は壊れる。穴蔵は狭い。外では、次の一体が待っている。それでも、身体は少しずつ変わった。鎖を引く力が増えた。空膜の揺れが前より分かる。骨喉犬の吠え声で距離がずれても、完全には見失わなくなった。死ににくくなっている。それは分かった。


 Lv50に届いたのは、番犬の足元から離れていた白骸鳥の上位個体を倒した時だった。


 その白骸鳥は、これまでの個体より大きかった。翼を広げると墓標群の一角が影に入る。遠くにいるように見えて、次の瞬間には頭上へ落ちてくる。澪は一度目で左肩から腕を斬り落とされた。腕は落ちた場所で白い膜に沈み、澪の肩口ではすぐ再生が始まった。肉が盛り上がり、骨が伸び、指先の形が戻る。だが、手が動くまでに数秒かかった。その数秒で、二度目の爪が来た。


 澪は墓標の陰へ転がり込んだ。背中を大きく裂かれた。傷口はすぐ閉じ始めたが、衝撃で息が止まる。鎌を握る。欠けた鎌刃には、骨喉犬の骨を薄く削った補強が巻いてある。普通の刃なら弾かれる。九環の骨なら少し入る。澪はそれをもう知っていた。


 白骸鳥は地面に降りなかった。落ちる。砕く。離れる。もう一度落ちる。澪は三本目の墓標が砕けた時、逃げるのをやめた。次に嘴が刺さる場所を読んだ。鎖を墓標に巻き、身体を低くする。嘴が落ちる。墓標が砕ける。破片で片目が潰れた。視界の半分が赤くなった。潰れた目の奥で再生が始まる。見えるまで待てない。澪は片目で鎌を振った。


 鎌刃が嘴の根元に引っかかる。白骸鳥が頭を上げる。澪の身体も持ち上がる。腕にかかる力で肩が外れた。関節の位置が戻ろうとする。痛い。鎖を離せば落ちる。落ちたら次の爪で終わる。澪は歯で鎖を噛み、戻りかけた腕で骨杭を握った。嘴の根元へ叩き込む。一本目は弾かれた。二本目は浅い。三本目が入った。


 白骸鳥が暴れ、澪の身体が墓標へ叩きつけられた。肋骨が折れ、肺に刺さる感覚があった。傷口の奥で骨が戻ろうとする。息ができない。だが、心臓は無事だった。澪は鎖を短く持ち、身体を首元へ寄せた。距離を取れば振り回される。近づけば、翼が当たりにくい。欠けた鎌を何度も同じ場所へ入れた。斬るというより、削る。硬いものに当たった。魔石だった。


 白骸鳥が落ちた。澪も落ちた。


 立てなかった。傷は戻っている。片目も見える。腕もある。けれど、身体が動こうとしない。魔力が底に近い。澪は這って死骸へ近づき、首の根元から薄い骨板を一枚剥がした。重い。持ち帰るのも大変だ。だが、盾にもなる。鎌の補強にもなる。穴蔵へ戻るために必要だった。


 その時、視界の端に文字が出た。


《レベルが上昇しました》


《Lv49→Lv50》


《存在進化条件を満たしました》


 澪は地面に伏せたまま、それを見た。すぐには意味が分からなかった。次の瞬間、身体の奥が熱くなった。再生とは違う。傷を戻す感覚ではない。骨の形、筋肉のつき方、魔力の通り道、皮膚の下にあるものまで、まとめて組み替えられていく。痛みはあった。だが、魔物に裂かれる痛みとは違った。身体が別の形へ変わろうとしている痛みだった。


 澪は穴蔵まで戻らなければならなかった。進化の途中で外にいれば死ぬ。白骸鳥の骨板を引きずり、鎖を噛み、何度も膝をつきながら穴蔵へ戻った。入口の石を閉めた時には、指の感覚が半分消えていた。骨が内側から軋む。髪の色が抜けるような感覚があった。皮膚の下で魔力が勝手に流れを変え、喉の奥に白い息が溜まる。


 進化は長かった。眠れなかった。意識が途切れても、痛みで戻された。穴蔵の天井へ頭をぶつけ、手で口を押さえ、声を殺した。外に聞こえれば終わる。再生Lv8が傷を戻すものだとすれば、存在進化は身体そのものを変えるものだった。澪はその違いを、狭い穴蔵の中で嫌というほど知った。


 終わった時、澪の髪には白い部分が混ざっていた。黒に近かった髪が、ところどころ白く抜け、光を受けると青白く見えた。肌の下を流れる魔力も変わっていた。空膜に触れると、以前より少しだけずれが分かる。九環の距離の狂いが、完全ではないが、形として見える。耳ではなく、皮膚と骨で空間の歪みを拾える。


《存在進化が完了しました》


《種族:境界人》


 澪は文字を見て、しばらく黙っていた。意味は分からない。だが、これで番犬の足元まで行けると思った。


 進化しても、楽にはならなかった。九環は相変わらず九環だった。骨喉犬の吠え声は距離を狂わせる。白骸鳥の爪は身体を裂く。空膜を泳ぐ獣は足元から来る。ただ、前より分かる。前より戻れる。前より、死ぬまでの距離が少しだけ伸びた。


 澪は番犬の取り巻きを一体ずつ減らした。数は多くない。だが、どれも第八環の主級より危ない。骨喉犬を倒した日は、右腕が戻る前にもう一度噛まれ、再生中の骨が砕けた。白骸鳥を倒した日は、胸を深く裂かれ、肺が潰れたまま鎖を引いた。空膜を泳ぐ獣を倒した日は、足元を抜かれ、腰から下が白い膜に沈みかけた。進化した身体でも、一体倒すたびに穴蔵へ戻る必要があった。


 レベルはそのたびに上がった。


《Lv50→Lv52》


《Lv52→Lv55》


《Lv55→Lv58》


 澪はその文字を、穴蔵の壁に小さく刻んだ。帰還時に自分がどれだけ変わっているかなど、考える余裕はなかった。ただ、数字が上がるほど、番犬に少し近づける気がした。近づけるだけで、勝てるとは思えない。それでも他に道はない。


 最後の取り巻きを倒した時、番犬が初めて吠えた。


 音は大きくなかった。むしろ、静かだった。だが、吠えた瞬間、澪の足元が消えた。見えている地面はある。だが、足を置いた感覚がない。右も左も分からなくなる。穴蔵の場所も、番犬の位置も、空の向きも、一瞬でずれた。進化した身体でも、全部は受け止められない。澪は膝をついた。最後の骨喉犬が来る。顎が胸へ向かう。心臓を狙っている。


 澪は白骸鳥の骨板を胸の前に出した。骨喉犬の歯が骨板を砕いた。衝撃で胸骨が折れ、肺が潰れかける。心臓は外れた。澪は砕けた骨板ごと身体を押し込み、鎌を耳の後ろへ入れた。腕が噛まれる。前腕の肉が千切れ、骨が見える。傷口の奥で再生が始まる。澪は待たずに鎌を押し込んだ。骨喉犬が倒れた。


 番犬の足元に、取り巻きはいなくなった。


 澪は穴蔵へ戻らなかった。戻れなかった。番犬が吠えたせいで、穴蔵の場所が分からなくなっていた。見えている景色は同じなのに、距離が違う。墓標の並びも、空の裂け目も、全部がずれている。戻ろうとして迷えば、次の魔物に殺される。なら、今しかない。


 澪は空骨鎖鎌の原型を握った。鎌刃は欠けている。鎖は白く重い。短杭は三本。骨杭は五本。水はない。肉もない。魔力は半分を切っている。再生Lv9になっても、番犬相手に足りるとは思えない。けれど、存在進化前なら近づくことすらできなかった。今なら、死ぬまでに一度くらい届くかもしれない。


 番犬が一歩、前へ出た。


 地面が割れる。白い膜が波を打つ。澪は横へ走った。足元が滑る。鎖を墓標へ投げる。引っ掛ける。身体を引く。番犬の前脚が、さっきまで澪がいた場所へ落ちた。衝撃で骨杭が一本、勝手に折れた。澪の身体が浮く。背中から地面へ落ちる。肺の空気が抜ける。すぐ立つ。立たないと次が来る。


 番犬は速くない。動きだけなら見える。だが、一歩の範囲が広すぎた。避けたつもりでも衝撃が届く。離れたつもりでも脚の影に入る。澪は脚を狙った。鎌を入れる。浅い。白い骨の表面を少し削るだけ。鎖を巻く。引けない。番犬の脚は、塔に鎖を巻いたようなものだった。澪の力では動かない。


 番犬の尾が動いた。


 尾というより、長い骨の鞭だった。横から来た。澪は見えた。だが、避けきれなかった。左肩から脇腹までが大きく裂け、左腕の感覚が消える。傷口の奥で再生が始まり、骨と肉が戻ろうとする。心臓は外れた。だから動ける。だが、戻りきるまで左腕は使えない。番犬の前脚が来る。


 澪は転がった。鎖を噛んで引いた。身体が白い地面を滑る。前脚が落ちる。衝撃で右足が潰れた。骨の形が崩れ、足裏の感覚が消える。すぐに再生が始まるが、力が戻るまで一瞬遅れる。澪は短杭を番犬の足元へ打ち込んだ。一本目。弾かれる。二本目。浅く入る。三本目。少し深く入る。足を止めるほどではない。だが、短杭の周りで白い膜が揺れた。


 澪はそれを見た。


 番犬の身体そのものは硬すぎる。だが、足元の空膜は違う。番犬が踏むたび、空膜が一瞬だけ緩む。そこへ杭を入れれば、足場を崩せるかもしれない。番犬を傷つけるのではなく、立っている場所を壊す。


 澪は残った骨杭を全部出した。墓標の影を走り、番犬の前脚の周囲へ杭を打つ。一か所にまとめない。踏み込む場所を予測し、三角に打つ。番犬が顔を下げる。口が開く。澪は走った。噛まれれば終わる。身体ごと消える。鎖を墓標へ投げ、自分を横へ飛ばす。番犬の口が地面を噛み、白い膜が丸ごと消えた。風が来る。澪の背中が広く裂ける。再生が始まる。構わず走る。


 番犬が前脚を置いた。


 骨杭が折れた。だが、空膜が沈んだ。番犬の脚がわずかに傾く。ほんの少しだけ、胸が下がった。


 澪はそこへ走った。


 胸の奥の青白い光。あれが魔石かどうかは分からない。だが、狙える場所はそこしかない。番犬の胸は高い。普通に跳んでも届かない。澪は鎖を番犬の肋骨に投げた。鉤が引っかかる。引くのではなく、登る。番犬が身体を震わせる。澪の身体が宙へ浮く。骨板の隙間から風が吹き、腕の皮膚が裂ける。傷口がすぐ閉じる。足が肋骨にぶつかり、骨が折れる。内側で骨が組み直される。鎖を短く持ち替え、さらに上へ行く。


 番犬の胸の前まで来た時、青白い光が強くなった。


 次の瞬間、澪の身体が内側から押された。音ではない。光でもない。ただ、胸の奥を直接殴られたような衝撃だった。心臓が一瞬、嫌な音を立てた。これはまずい。澪は反射で身体をひねった。直撃は外れた。肺が破れた。胃が裂けた。肋骨がまとめて折れた。心臓は外れた。傷口の奥で再生が始まる。だが、意識が飛びかけた。


 澪は鎖を離しかけた。


 離せば落ちる。落ちれば踏まれる。踏まれれば終わる。


 澪は歯で鎖を噛んだ。舌が切れた。すぐに再生が始まる。右手で鎌を握り直す。欠けた鎌刃に白骸鳥の骨板を巻いた、不格好な刃。これで番犬の胸を斬れるとは思えない。それでも、他にない。


 鎌を振った。


 一撃目は弾かれた。手首が砕けた。骨の形が戻る。二撃目は浅く入った。青白い光の周囲に細い傷がつく。番犬が大きく震えた。澪の身体が振り落とされかける。三撃目。鎌刃が欠けた。四撃目。骨板が割れた。五撃目。鎖が一本切れた。澪は短剣を抜いた。短剣も欠けている。鎌でつけた傷へ短剣を突き込む。入らない。押す。入らない。さらに押す。


 番犬が吠えた。


 今度は音があった。空葬原全体が震える音だった。澪の耳から血が出た。鼓膜が破れ、再生が始まる。だが、平衡感覚が消える。上も下も分からない。鎖を握っている感覚だけが残る。番犬の胸の光が膨らむ。次が来たら心臓に届く。澪はそれだけは分かった。


 澪は短剣を捨てた。両手で鎌を持った。鎌刃はもう半分砕けている。刃ではなく、白い骨の塊に近い。澪はそれを胸の傷へ突き込んだ。押す。入らない。番犬の光が強くなる。澪は心臓を外すため、身体を少しずらした。代わりに左胸の外側が大きく裂ける。肋骨が砕ける。再生が始まる。だが、心臓は守った。


 澪は声を出さなかった。声を出す余裕がなかった。ただ、押した。


 鎌の骨が折れた。


 折れた先端が、番犬の胸の奥へ入った。


 青白い光に、亀裂が走った。


 番犬の動きが止まった。


 澪はその一瞬を逃さなかった。残った鎖を胸の骨へ巻き、自分の身体を固定する。右手で折れた鎌の柄を握る。左手で骨杭を取る。最後の一本だった。それを亀裂へ突き込む。手首が砕ける。再生が始まる。戻る前に、肩で押す。さらに押す。骨杭が半分入る。番犬が暴れた。澪の下半身が肋骨に叩きつけられ、骨盤が砕けた。再生は始まったが、足は動かない。戻るまで待つ時間はない。澪は上半身だけで骨杭を押し込んだ。


 骨杭が奥へ入った。


 胸の光が割れた。


 番犬が初めて、声を上げた。


 大きな声ではなかった。けれど、空葬原の白い墓標が一斉に割れた。遠くの塔が倒れる。足元の白い膜が波のように膨らみ、引いていく。澪は番犬の胸から剥がされ、地面へ落ちた。落ちる途中で、背中を骨板に打ち、肩が外れ、首が折れかけた。地面に叩きつけられた時、意識が一瞬飛んだ。


 目を開けると、番犬が崩れていた。


 大きすぎて、倒れるというより、空が落ちてくるようだった。前脚が折れ、胸が沈み、背中の骨板が一本ずつ砕けていく。澪は動こうとした。身体のあちこちで再生が始まっている。だが、魔力がほとんど残っていない。再生が遅い。指先が震える。頭がぼんやりする。ここで下敷きになれば終わる。


 澪は鎖を探した。手元には、半分切れた鎖だけが残っていた。鎌刃はない。短剣もない。短杭もない。鎖の先に、番犬の胸から砕けた白い骨が絡んでいた。澪はそれを墓標へ投げた。引っ掛かった。身体を引く。番犬の身体が落ちてくる。間に合わない。右足が下敷きになった。膝から下が潰れる。再生が始まる前に、さらに重みがかかる。澪は鎖を引き、自分の身体だけを外へ出した。足の奥で骨が組み直される感覚が遅れて来る。戻りきる前に、澪は転がるように外へ出た。


 番犬が完全に崩れた。


 空葬原が静かになった。


 澪は仰向けに倒れた。白い空が見えた。遠すぎる空。落ちてきた空。何度も自分を殺しかけた場所。呼吸がうまくできない。肺は戻っている。喉も戻っている。だが、身体が動こうとしない。再生Lv9でも、限界はある。魔力がない。痛みが多すぎる。意識を保つだけで精一杯だった。


 番犬の胸があった場所に、青白い光が残っていた。


 光は小さくなり、丸い玉になった。オーブだった。澪は普通のスキルオーブを見たことがない。だから、それが普通なのだと思った。白と青が混ざり、表面に細い空の裂け目が走っていても、九環のボスから出るものならそういうものなのだろうと考えた。


 澪は腕を伸ばした。届かない。身体を引きずる。手が震える。指先が触れた瞬間、オーブは割れた。


《スキルオーブを取得しました》


《転移》NEW Lv1


 文字が見えた。


 その直後、別の文字が重なった。


《レベルが上昇しました》


《Lv58→Lv64》


 澪はその文字を最後まで見ていられなかった。空葬原が揺れている。番犬が倒れたことで、周囲の地形が大きくずれていた。遠くにあったはずの墓標が近くに来る。穴蔵の方角は分からない。白骸鳥の影が見える。取り巻きではない別の魔物が、倒れた番犬の残骸へ近づいてくる。


 帰らなければならない。


 そう思った瞬間、配信端末が一度だけ光った。ずっと白いノイズしか映さなかった端末が、割れた画面の奥でかすかに起動していた。九環の空、崩れた番犬、白い骨を絡めた鎖、倒れたまま腕を伸ばす澪。その断片が、どこかへ送られているのが分かった。現世との線が、一瞬だけ繋がったのかもしれない。


 澪は《転移》の使い方など知らなかった。座標も分からない。詠唱もない。ただ、帰りたいと思った。白い場所ではないところ。音がちゃんと届くところ。誰かが見ている場所。割れた配信端末の向こう側。そこへ、戻りたいと思った。


 空が折れた。


 身体が落ちたのか、引っ張られたのか分からなかった。再生中の足が痛む。胸が苦しい。鎖を握った手が離れない。番犬の骨片が鎖に絡んだまま、一緒に引きずられる。白い空葬原が遠ざかる。次の瞬間、硬い床に叩きつけられた。


 そこは協会の帰還管理区画だった。


 警報が鳴っていた。誰かが叫んでいる。配信端末は床に転がり、壊れた画面に白いノイズと澪の姿を交互に映していた。澪は動けなかった。外傷は戻り始めている。足も、胸も、背中も、少しずつ形を取り戻している。だが、魔力はほとんど残っていない。意識も薄い。手の中には、白い骨を絡めた鎖があった。


 その鎖が、後の空骨鎖鎌になった。


 七瀬家のリビングで、澪はそこで言葉を止めた。


 結衣は何も言えなかった。朱音も、すぐには言葉が出なかった。番犬を倒した、という結果だけなら短い。けれどそこに至るまで、澪は何度も壊され、戻り、また壊されていた。再生があるから無事だったわけではない。存在進化があっても楽に勝てたわけではない。再生、進化、鎌、九環の骨、その全部があって、ようやく帰ってきただけだ。


 朱音は、澪の手元にある帰る鈴を見た。


「それで、帰ってきたの」

「うん」

「最初の《転移》で?」

「たぶん。使い方は分からなかった」

「でも戻れた」

「配信端末が、少し繋がった。あれが目印になったのかも」

「その話、協会にした?」

「少しだけ」

「明日、ちゃんと話そう」

「うん」


 澪は帰る鈴を一度だけ鳴らした。ころん、と木の音がした。リビングに、ちゃんと届く音だった。


 結衣が小さく息を吐いた。


「おかえりって、何回でも言うね」


 澪は結衣を見た。少しだけ、目の奥の白さが薄くなった。


「うん」


 朱音はその顔を見て、ようやく言えた。


「おかえり、澪」


 澪は少し遅れて頷いた。


「ただいま」

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