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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第八話 空葬の番犬 前編

 五千八百二十万円という仮査定額は、七瀬家のリビングにしばらく変な沈黙を作った。


 夕食後、澪は査定明細をテーブルの端に置いたまま、帰る鈴を指先で転がしていた。金額だけを見れば大金だ。朱音と折半して、経費を引いて、税金や手数料を見ても、昨日までの澪が持っていた残高とは比べ物にならない。それでも、空骨鎖鎌の封鎖ケース、九環素材の保管費、正式加工費、予備装備、住居や学籍の整理を考えると、安心できる額ではなかった。稼げる。だが、足りない。足りないなら、もっと深く潜る必要がある。


 朱音は包帯を巻いた肩を動かさないようにしながら、向かいに座っていた。母は台所で食器を洗っている。父は新聞を読んでいるふりをして、時々澪を見ていた。結衣は宿題を広げていたが、明らかに集中していない。家の中は温かい。味噌汁と洗剤と乾いた畳の匂いがする。なのに、澪の視線は時々リビングの窓ではなく、もっと遠いところへ向いていた。


「次は、もっと深いところに行くんでしょ」

「うん」

「お姉ちゃん、ついていけるの?」

「……無理なところがある」

「澪ちゃん、正直すぎない!?」

「朱音先輩がいると、素材は綺麗に取れる。帰る判断もできる。でも、九環には連れていけない」


 朱音は反論しなかった。悔しいが、その通りだった。第六環外縁で裂角鹿と戦っただけで、肩を裂かれた。あれは朱音が弱いという話ではない。九環が異常なのだ。第一層の最奥。普通の探索者なら入る前に死ぬ。入れたとしても、戻れない。そこを一年生だった澪は一人で歩き、何かを倒して帰ってきた。


 父が新聞を畳んだ。


「九環へ戻るつもりか」

「うん。配信する」

「そうか……」

「証明と、稼ぐため。あと、素材」

「危険は分かっているな」

「分かってる」


 その返事は軽くなかった。朱音はそこに、少しだけ違和感を覚えた。澪は危険を軽く見る。無茶をする。止めても行く。そう思っていた。だが今の「分かってる」は違った。分かっていて、それでも行く声だった。


 テーブルの上で、澪のスマートフォンが震えた。水瀬からの連絡だった。協会で保管している空骨鎖鎌に反応が出たらしい。封鎖庫内で、刃の周囲に九環と同じ空膜反応が一瞬だけ現れた。危険域ではない。だが、澪の配信映像で裂角鹿を倒した時刻と重なっていた。水瀬は記録確認のため、明日の朝に協会へ来られるかと送ってきている。


 澪は画面を見て、少しだけ眉を寄せた。


「鎌が起きた」

「起きたって言い方やめて」

「でも、起きた」


 朱音はスマートフォンを受け取り、内容を読んだ。九環素材が澪の戦闘に反応した。そう言われると、嫌でも封鎖工房を思い出す。空骨鎖鎌は、ただの武器ではなかった。九環で澪が生き残るために作ったもの。骨と鎖と、あの場所での戦闘の癖が絡んだもの。


 父が静かに聞いた。


「その武器は、九環で作ったのか」

「途中から」

「途中から?」

「最初は普通の鎖鎌だった。鎌刃と鎖。短剣と短杭も持ってた。でも、何度も壊れた。九環の骨で直した。直すたびに別物になった」

「何と戦うために」

「番犬」


 その言葉が出た瞬間、リビングの音が少し遠くなった気がした。水の音も、結衣が息を呑む音も、外を通る車の音も、全部が一歩遠ざかる。朱音は澪を見た。澪の表情は変わっていない。ただ、指先だけが帰る鈴を押さえていた。


「番犬って、前に言ってたやつ?」

「うん」

「大きいの?」

「すごく」

「どれくらい?」

「見上げても、顔が遠い。足元にいると、私が小さすぎる」


 澪は少し考えてから、スマートフォンのメモに指で簡単な図を描いた。地面に小さな点。そこから大きな脚が四本。身体は画面に収まりきらず、上へはみ出す。角のような骨。翼のような骨板。背中に刺さる白い墓標。朱音はその雑な図を見て、ようやく理解した。澪が言う「番犬」は、犬の形をした強敵ではない。空葬原という場所が、犬の形をして立ち上がったようなものだ。


「澪。話せる?」


 朱音は短く聞いた。


 澪はすぐには答えなかった。帰る鈴を一度だけ鳴らす。ころん、と木の音がした。それから、小さく頷いた。


「少しなら」


 その夜、澪は第九環の話を始めた。


 最初に壊れたのは帰還札だった。紙そのものは残った。焦げもしなかった。裂けもしなかった。だが、刻まれていた術式だけが白く剥がれ、指先に触れる前に砂のように崩れた。澪はそれを見て、しばらく動かなかった。驚いたからではない。次に何を捨てるかを考えていたからだ。帰還札が使えないなら、帰る手段はない。叫んでも届かない。配信端末は一度だけ起動したが、画面に映ったのは白いノイズだけだった。救助を待つ場所ではない。そこは、そういう場所ではなかった。


 第一層第九環《空葬原》。空が地面に落ちて、砕けたまま固まったような場所だった。足元は白い。石でも氷でも骨でもない。踏むと薄く鳴る。けれど、その音は耳へすぐには届かず、数秒遅れて背後から戻ってくる。地面には雲の欠片に似た墓標が刺さり、遠くには塔のような白い結晶が並んでいる。空は青くない。白と群青が混ざり、ところどころに星のような光が沈んでいた。昼なのか夜なのか分からない。風はある。だが、肌に触れる風と、墓標を揺らす風の向きが違う。


 澪は最初の数分で、耳を信用するのをやめた。次に、距離を信用するのもやめた。遠くに見える白い柱が、一歩進むとすぐ横にある。足元にある骨の欠片へ手を伸ばすと、指先が空を掴む。九環では、見えている場所と実際にある場所がずれる。普通の探索者なら、この時点で隊列が崩れる。前衛が離れ、後衛が孤立し、帰り道が分からなくなる。撤退を考える前に、次の魔物が来る。


 澪の《再生》は、この時点ですでにLv8だった。腕が飛んでも戻る。足を潰されても戻る。腹を裂かれても、魔力が残っていれば数秒で塞がる。普通の探索者から見れば、ほとんど反則に近い回復力だった。だが九環では、それでも足りない。戻る前に次が来る。痛みは消えない。衝撃で息は止まる。魔力は減る。何度も壊されれば、身体は戻っても動きは鈍る。澪はそのことを、最初の敵で覚えた。


 最初の敵は、一体だけだった。


 空葬鼠。鼠と呼ぶには大きすぎた。低い姿勢で歩く白い獣で、胴の長さは澪の身長に近い。目も耳もなく、顔の前面に細い裂け目がいくつも走っている。そこが口だった。第六環や第七環の魔物なら、澪は見た瞬間に動き方を決められる。だが、これは違った。小さいから弱いわけではない。九環の生き物は、形が単純でも中身が重い。


 澪は鎖鎌を構えた。片手に鎌刃、もう片方に鎖。腰には短剣と短杭がある。最初は、いつも通りに足を取って転ばせるつもりだった。鎖を低く投げ、前脚へ絡める。空葬鼠は避けなかった。鎖が前脚にかかった瞬間、逆に踏み込んできた。澪の手首に強い衝撃が来る。引く前に距離を詰められた。鎌刃を横へ振る。刃は首に入らず、白い皮膚の表面を削っただけだった。


 空葬鼠の口が開いた。細い裂け目が一斉に広がり、左足に噛みついた。膝下から肉が持っていかれた。骨が見える。澪は痛みで息を詰めたが、倒れなかった。足はすぐ戻り始める。筋肉が盛り上がり、皮膚が張る。数秒で歩ける形には戻る。だが、噛まれた瞬間の力が身体を崩す。踏ん張りが遅れる。その遅れに、空葬鼠がもう一度噛みついた。


 澪は鎌で首を狙うのをやめた。硬すぎる。鎌刃を口の裂け目に引っ掛け、短剣を抜く。鎌で無理やり口を開いたまま固定し、短剣を裂け目の奥へ突き込んだ。刃は途中で止まる。硬い。澪は両手で押し込み、体重をかけて捻った。空葬鼠が暴れ、左足がもう一度裂けた。戻り始めた肉がまた剥がれる。澪の視界が白くなる。だが、短剣の先が硬いものに当たった。魔石だった。


 短剣をさらに押し込む。空葬鼠は倒れた。澪も倒れた。


 左足は数秒で戻った。皮膚も筋肉も形は戻る。だが、力が入るまで少し遅れた。痛みは残っている。骨をこすられた感覚も残っている。澪はその場で立ち上がろうとして、膝をついた。その数秒が九環では致命的になる。


 遠くで何かが鳴いた。鳥の声に似ていた。澪は空を見上げ、すぐに地面へ伏せた。白い影が頭上を通った。白骸鳥だった。鳥といっても、人間を掴んで運べるほど大きい。翼は羽ではなく、薄い骨の板が重なっている。先端が刃のように尖っていた。地面に伏せるのが一瞬遅れていれば、首から上を持っていかれていた。澪は短杭を失い、鎖鎌の刃を欠けさせ、足の痛みが残ったまま、墓標の間を走った。逃げた。戦う前に、まず隠れ場所が必要だった。


 澪が仮拠点にしたのは、白い岩の下にあった小さな穴だった。人が一人、横向きに入り込める程度の狭い隙間。入口は崩れた雲石で半分塞がっていて、外から見るとただの影に見える。安全地帯ではない。空葬鼠なら見つける。白骸鳥なら岩ごと削れる。大きな魔物なら足で踏み潰せる。それでも、何もない白い大地よりはましだった。澪はそこへ這い込み、入口を石と鎖で塞いだ。膝を抱えると、頭が岩に当たる。背中を伸ばせない。寝返りも打てない。けれど、外から見えにくい。それだけで十分だった。


 最初の夜、澪は眠れなかった。九環に夜があるのかは分からない。白い空は暗くならず、ただ遠くの墓標の影が少し長くなった。眠ると死ぬと思った。だが、眠らなくても死ぬ。体力も魔力も戻らない。澪は鎌の柄を胸の上に置き、短剣を右手に握り、穴蔵の壁に背中を押し付けて目を閉じた。数分後、入口の石がかり、と動いた。澪は目を開けた。空葬鼠ではない。細い白い虫が隙間から入ってきていた。空膜虫。名前は澪が勝手につけた。薄い膜のような身体で、石の隙間を通り、触れたものを溶かす。


 鎌は振れなかった。狭すぎた。だから、布を巻いた左手で虫を押さえ、右手の短剣で何度も刺した。左手の皮膚が溶ける。指が二本、途中からなくなる。すぐ生え始めるが、虫の体液が残っている間はうまく戻らない。澪は歯を食いしばり、虫を入口の外へ押し出した。腕と指は数十秒で戻った。だが、その間ずっと痛かった。穴蔵は安全ではない。澪はその夜、それを覚えた。


 時間の流れは曖昧だった。日数は数えられない。眠ったつもりが数分しか経っていないこともあれば、目を閉じて開けたら空の裂け目の位置が変わっていることもあった。澪は日数を数えるのをやめた。代わりに、戦って生き延びた敵の特徴を穴蔵の壁に刻んだ。空葬鼠。噛む。硬い。口の奥。白骸鳥。上。首を狙う。空膜虫。隙間。触るな。骨喉犬。吠える。距離が狂う。どれも一体で人を殺せる敵だった。第六環や第七環の危険とは違う。九環の敵は、弱いものが群れて危ないのではない。一体ずつが、普通の探索者を終わらせる強さを持っていた。


 骨喉犬と初めて戦った時、澪は死にかけた。


 犬に似ているが、犬ではない。大きさは馬に近い。頭蓋骨がむき出しで、喉の奥に青白い光がある。吠えると、距離がずれる。目の前にいたはずの骨喉犬が、次の瞬間には腕の届かない場所にいる。遠くにいたはずの顎が、澪の肩に噛みつく。澪はその仕組みが分からず、最初の一撃で右腕を肩から持っていかれた。


 腕は戻る。再生Lv8なら、欠損でも数秒で戻る。だが、腕がない数秒が長すぎた。鎖を握れない。鎌を振れない。骨喉犬はそのまま澪を地面へ叩きつけた。肺の空気が抜ける。肋骨が折れる。すぐ戻り始める。だが、二度目の衝撃が来る。今度は腹が裂けた。内側が熱くなり、次に冷たくなる。傷は塞がる。臓器も戻る。だが、息ができない。


 骨喉犬は澪の首へ噛みつこうとした。澪は戻りかけた右腕ではなく、左手で顎を押さえた。押さえきれない。歯が頬を裂く。頬の肉が剥がれる。すぐ戻る。痛みだけが残る。澪は短剣を拾えなかった。だから、折れた短杭を握った。短くなった杭を、骨喉犬の耳の後ろへ突き込んだ。そこだけ骨が薄かった。骨喉犬が暴れ、澪の左腕も裂ける。澪は杭を抜かず、押し込んだ。青白い光が喉で揺れ、骨喉犬はやっと倒れた。


 澪はそのまましばらく動けなかった。外傷は戻っていく。右腕も戻った。腹も塞がった。頬も戻った。けれど、身体の奥が熱い。魔力が一気に減っていた。再生Lv8でも、九環の敵一体と戦うだけで限界に近い。勝っても、次が来たら死ぬ。澪は骨喉犬の死骸から細い骨を一本だけ抜き、穴蔵へ戻った。走れない。歩くしかない。白骸鳥の影が頭上を通るたびに岩陰へ伏せ、空膜虫の膜を避け、足音を殺して戻った。


 穴蔵に入ると、澪は入口を塞ぐ前に吐いた。胃の中にはほとんど何もない。胃液だけが出た。水は少ない。飲める水かどうかも分からない。九環の水たまりには、口に入れた瞬間、喉の奥に空が広がるものがある。澪は一度それを飲み、半日ほど声が出なくなった。それ以来、水は白い石に垂らし、石が割れないものだけを少しずつ飲むようにした。


 骨喉犬の肉は、食べ物と呼べるものではなかった。冷たく、硬く、噛むたびに歯が痛む。味はほとんどない。だが、飲み込むと再生がよく動いた。澪はそれを覚えた。倒した魔物の素材を食べる。気持ち悪い。吐きそうになる。けれど、動けるようになる。第九環では、そういうものから順番に役に立った。


 九環での生活は、勝利の積み重ねではなかった。逃げて、隠れて、戻って、また出る。その繰り返しだった。骨喉犬を一体倒せば、その日はほとんど動けない。白骸鳥に見つかれば戦わず逃げる。空葬鼠でも油断すれば足を食われる。空膜虫は穴蔵の中に入ってくる。澪は何度も穴蔵へ逃げ帰り、入口を塞ぎ、傷が戻るまで待った。水を飲む。骨喉犬の肉を噛む。鎖を直す。折れた骨を削って杭にする。鎌の刃こぼれを石で研ぐ。数分眠る。物音で起きる。また外へ出る。


 穴蔵には少しずつ物が増えた。削った骨杭。折れた鎖の輪。飲める水を溜める皿石。乾かした肉。欠けた鎌刃を補強するための白い骨片。帰還札の残骸。術式が剥がれた、ただの紙。仮拠点というには狭すぎる。倉庫というには貧しすぎる。けれどそこは、澪が第九環で唯一、戻る場所と呼べるものだった。


 戻る場所があると、少しだけ戦える。澪はそれを知った。外でどれだけ傷が塞がっても、戻る穴がなければ終わる。穴蔵へ帰り、入口を塞ぎ、魔力が戻るまで待つ。眠る。起きる。また出る。その繰り返しで、澪は少しずつ中央へ近づいた。


 再生がLv9になったのは、白骸鳥の上位個体と戦った時だった。


 それは鳥というより、空から落ちてくる骨の槍だった。翼を広げると、澪が隠れている墓標ごと影に入る。爪は人間の胴ほど太く、嘴は地面に刺さると白い石を砕いた。澪は最初、逃げた。だが、逃げ切れなかった。白骸鳥は空を飛ぶのではなく、空との距離を縮めて落ちてくる。見上げた時には遠い。次の瞬間には頭上にいる。澪は墓標の間へ飛び込み、背中を肩から腰まで削られた。皮膚も肉も大きく剥がれた。数秒で塞がるが、衝撃で息が止まった。


 白骸鳥は地面に降りなかった。上から何度も落ちてくる。澪は墓標を盾にした。一本目が砕けた。二本目も砕けた。三本目の影に入った時、澪は逃げるのをやめた。次に落ちてくる場所は分かっている。白骸鳥は必ず、澪が隠れた墓標の影へ嘴を入れる。澪は鎖を墓標に巻き、鎌刃を低く構え、折れた骨杭を口にくわえた。


 落ちてきた嘴が墓標を砕く。破片が澪の顔を切る。片目が潰れた。視界の半分が赤くなる。すぐ戻り始めるが、見えるまで数秒かかる。その数秒、澪は片目だけで動いた。鎌を嘴の根元に引っ掛け、鎖を墓標へ通す。白骸鳥が頭を上げようとする。澪の身体が引き上げられた。足が地面から離れる。肩が外れる。腕の肉が裂ける。手首から先が一度飛んだ。再生が戻す。戻る前に、鎖が滑る。


 澪は歯で骨杭を取った。戻ったばかりの手で握り、嘴の付け根へ叩き込む。一本目は弾かれた。二本目は浅い。三本目が入った。白骸鳥が暴れ、澪の身体が墓標へ叩きつけられる。肋骨が折れ、内側に刺さった感覚があった。すぐ戻る。だが息はできない。次に叩きつけられたら、意識が飛ぶ。


 澪は鎖を短く持ち替え、身体を白骸鳥の首元へ引き寄せた。距離を取れば振り回される。近づけば、翼が当たりにくい。鎌刃を抜く。刃は欠けている。構わず、骨杭が刺さった場所へ何度も入れる。斬るというより、削る。白骸鳥の首の奥で、硬いものが割れる感触があった。魔石だった。白骸鳥は大きく震え、翼を広げたまま地面へ落ちた。澪も落ちた。


 立てなかった。背中も腕も足も、戻ってはいる。片目も戻った。だが、身体が動かない。魔力が底に近い。痛みで吐きそうになる。白骸鳥の死骸が目の前にある。これを放っておけば、他の魔物が来る。澪は這って近づき、首の根元から薄い骨板を一枚剥がした。重い。持ち帰るのも大変だ。けれど、盾になる。鎌の補強にも使える。穴蔵へ戻るために必要だった。


 その時、視界の端に文字が出た。


《再生》Lv8→Lv9


 澪は地面に伏せたまま、それを見た。Lv9。傷はこれまでより速く塞がる。欠損から戻る速度も上がる。骨の戻りも速い。命に届かない傷なら、数秒で戦える形に戻る。だが、痛みは消えない。疲れも消えない。魔力が尽きれば再生は鈍る。頭を潰されれば終わる。心臓を完全に砕かれても終わる。分かっている。それでも、これで中央へ行けると思った。


 白骸鳥の骨板を引きずって穴蔵へ戻った。

 中央の墓標群の奥に、それは立っていた。


 白銀と群青の巨体だった。犬の形をしている。だが、犬とは呼べない。四本の脚は白い塔のように長く、一本だけで澪の仮拠点より太い。胸の奥には青白い光が脈打ち、肋骨の隙間から遠い星空のようなものが見えていた。頭は高すぎて、地上から見上げても全体が分からない。角のように伸びた骨が、空の裂け目へ届いている。背中には翼にも墓標にも見える骨板が何枚も並び、動くたびに空葬原の白い柱が共鳴して震えた。


 番犬の周囲には取り巻きがいた。数は多くない。だが、どれも強い。澪が死にかけて倒した骨喉犬や白骸鳥と同じか、それ以上の個体が、番犬の足元を歩いている。小さな魔物が群れているのではない。九環の強敵が、番犬の近くではただの番兵のように見える。それが一番おかしかった。


 澪は遠くの岩陰に伏せ、息を止めた。あれと戦うのか、と考えた。勝てるとは思わなかった。再生Lv9になっても、あの大きさの前では関係ない。踏まれれば潰れる。噛まれれば身体ごと消える。吠えられれば、穴蔵の場所も自分の足元も分からなくなるかもしれない。


 それでも、澪は目を逸らさなかった。


 番犬が一度だけ、こちらを向いた。


 目はなかった。だが、見られたと分かった。澪の背中に冷たいものが走る。身体が動かない。逃げたいのに、膝が地面へ貼りついたように動かなかった。番犬は吠えなかった。走ってもこなかった。ただ、遠くから澪を見た。その一瞬だけで、澪は理解した。あれは今、襲ってこなかったのではない。襲う必要がないと思われたのだ。


 澪はその日、戦わなかった。


 穴蔵へ戻り、残っていた武器を全部並べた。使える鎖は二本。鎌刃は欠けている。短杭は十二本。骨杭は十九本。白骸鳥の骨板が一枚。折れた短剣。乾かした肉が少し。飲める水が少し。帰還札の紙だけがまだ残っている。術式はない。ただの紙だ。澪はそれを見て、しばらく黙った。


 勝てるかどうかは分からなかった。むしろ、普通に考えれば勝てない。九環の敵一体で何度も死にかけた。番犬本体の動きはまだ見ていない。吠えるのか、噛むのか、走るのか、何も分からない。再生Lv9でも、頭を潰されれば終わる。心臓を完全に砕かれても終わる。食われ続ければ戻る前に消える。分かっている。それでも、他に道はない。


 澪は骨喉犬の肋骨を削り、鎖の先に結びつけた。鉤の形にする。雑で、歪で、すぐ壊れそうだった。けれど、引っ掛かればいい。斬れなくてもいい。倒せなくてもいい。まずは動きを止める。欠けた鎌刃には白骸鳥の骨板を薄く削って巻きつけた。短杭を研ぐ。骨杭を束ねる。白骸鳥の骨板の残りに革紐を通し、腕に固定できるようにする。盾には小さい。だが、一度くらいなら何かを受けられるかもしれない。


 次に外へ出る時、澪は戻ってこられないかもしれないと思った。


 それでも入口の石をどかし、白い空の下へ這い出た。足音はまだ聞こえない。自分の呼吸も、時々消える。だが、もうそれには慣れていた。聞こえないなら見ればいい。見えないなら触ればいい。触れないなら、次に当たるまで覚えればいい。


 澪は鎖鎌を握り直し、墓標群の奥へ向かった。


 空葬の番犬は、まだそこにいた。

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