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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第六話 稼ぎに行く

 澪が「ダンジョンに行く」と言ったのは、朝食の時だった。味噌汁の湯気がまだ薄く立ち、結衣が学校へ行く前に卵焼きを口へ放り込んでいる時間だった。朱音は箸を止め、母は急須を持ったまま一度だけ目を瞬かせ、父は新聞を畳む手を止めた。澪はその全員の視線を受けても、特に言い直さなかった。昨日より血色は戻っている。まだ万全ではないが、目の奥にあった白い疲労は少し薄くなり、かわりに探索者の目が戻っていた。


「今日、潜る」


 言い方は静かだった。けれど、相談ではなかった。


 朱音は反射で止めかけた。まだ早い。骨鎌は封鎖庫に置いたばかりだし、九環の聞き取りも済んでいない。言い訳ならいくらでも出せる。だが、澪の前に置かれた茶碗と、借り物の服と、七瀬家の客間に敷かれた布団が目に入った瞬間、朱音は言葉を飲み込んだ。澪は居候だ。家がある。ご飯も出る。帰る鈴もある。けれど、それは澪の居場所であって、澪の仕事ではない。探索者である澪からダンジョンを取り上げたまま、ただ休めと言い続ければ、澪はたぶん少しずつ薄くなる。


 父が先に口を開いた。


「稼ぎに行くのか」

「うん。素材を拾う。売る。装備を買う。加工費もいる」

「なら、目的ははっきりしているな」


 父は止めなかった。母も止めなかった。ただ、湯呑みにお茶を注ぎ、澪の前に置いた。


「朝ご飯を食べてからね」

「食べる」


 澪は素直に頷いた。結衣は卵焼きを飲み込み、目を丸くしている。


「え、今日もう行くの? 昨日まで検査とか寝るとか言ってたのに」

「無職居候は、よくない」

「そんなこと誰も言ってないけど!?」

「でも、私が思う」


 その一言に、朱音は胸が少し痛んだ。誰もそんなふうには思っていない。だが、澪自身はそう思っている。泊めてもらい、服を借り、食事をもらい、帰る場所を与えられている。そのすべてを温かいものとして受け取っているからこそ、ただ受け取るだけではいられないのだろう。


 朱音は息を吐いた。


「分かった。止めない。ただし、行き先は稼ぎになる場所にする。第一環や第二環に行っても、澪のレベルだと適正外でまともなドロップにならない。身体慣らしにはなっても、仕事にはならない。第2層もしくは、第一層の第六環外縁、できれば第七環境界手前。素材の単価が高くて、今の澪でも無理なく戻れる範囲」


 澪の目が少し動いた。止められなかったことより、「仕事」として扱われたことに反応したようだった。

「朱音先輩も来る?」

「……行く。監視じゃなくて、素材管理と撤退判断。澪は前を見すぎるから」


朱音は今の自分の適正レベルには達していないと思った。自分一人だと間違えなく死ぬ。しかし、澪を1人にするより何倍もマシだと思えてしまった。


 澪は否定しなかった。父が短く頷く。


「朱音、無茶はするなよ」


 母は台所へ戻り、小さな包みを作り始めた。白湯、焼き菓子、消化にいい塩むすび。結衣は学校鞄を背負いながら、澪をじっと見ている。


「帰ってきたら、ただいま言ってね」

「結衣も」

「私は学校だから普通に帰るよ」

「学校もダンジョン?」

「小テストが出たらダンジョン」

「じゃあ、生きて帰って」

「澪ちゃんもね!」


 軽い冗談だった。けれど、最後だけ少し本気だった。澪は頷き、結衣の自転車の鍵についた布のキーホルダーを一度だけ見た。朝に消え、夕方に戻ってくる目印。今日の澪にも、それが必要だった。


 協会支部では、案の定、久遠が渋い顔をした。だが、止めはしなかった。探索者ライセンスは生きている。澪は未成年で、失踪明けで、異常帰還者で、経過観察対象だ。それでも、探索者として稼ぐ権利を完全に奪われているわけではない。協会が出した条件は、禁止ではなく記録だった。第一層第六環外縁の指定区画。滞在上限三時間。第七環境界線を越えないこと。骨鎌の使用禁止。転移は緊急撤退または戦闘補助の短距離のみ。同行者は七瀬朱音。ドロップおよび素材は協会査定。戦闘記録提出。


 そして、配信について。


「再開するなら、協会記録用の遅延配信にしろ。リアルタイムに近い配信は、今のお前には情報量が多すぎる。コメントを読むな。見るなら七瀬か水瀬が拾え」


「……コメント、読まないなら流す意味ある?」


「ある。隠すより、制御して出した方が噂が歪みにくい。お前はもう一度《九環》で映っている。黙れば黙るほど、周りが勝手に物語を作る」


 水瀬が端末を差し出した。


「配信画面は僕の方で制限します。コメントは表示されますが、天瀬さんの視界には入れません。こちらで記録します。大手クランや協会登録済みの公式アカウントも混ざると思いますが、反応しなくて構いません。今日の目的は素材回収と活動記録です」

「……短く」

「映す。でも読まない。稼ぐ」

「分かった」


 澪は配信アプリを開いた。チャンネル名は《九環》のまま。タイトル欄に短く入力する。


『第一層。稼ぎに行く』


 朱音はその文字を見て、少しだけ笑った。


「煽ってはないね」

「事実」


 開始ボタンを押すと、画面の端に視聴者数が表示された。最初は三十。次に百を超え、すぐに千を超えた。通知が広がっている。コメントは澪の視界には出ていないが、配信画面の下では流れ続けていた。


『生きてた?』

『九環って本物?』

『一年前の子?』

『第一層なのに空気重いな』

『隣、七瀬朱音じゃね?』

『稼ぎに行く、タイトル強すぎ』

『いや笑えないだろ』

『復帰戦ってこと?』

『無理すんなって誰か言え』

『本人コメント見てなくね?』

『見なくていい、戦闘中に読むな』

『【暁ノ盾・公式】天瀬澪氏の活動再開を確認。無事の帰還を歓迎します』

『公式!?』

『大手来た』

『【白楼工房・素材部】第一層第六環以降の空膜系素材が出るなら査定相談可』

『工房まで来て草』

『【北辰探索団・広報】復帰初回なら撤退判断を優先してください』

『過保護コメント欄になってて草』


 澪はコメントを見なかった。朱音も今は見ない。流れていることだけを水瀬が確認し、必要なら後で切り取る。配信は澪を縛るものではなく、探索者として戻った記録になればいい。


 第一層のゲートを抜けると、空気が変わった。


 《零れ空の庭》。何度見ても、現実の空とは違う場所だった。門前環から浅環を抜け、協会の短距離搬送路で第四環手前まで進む。そこから先は徒歩だった。澪の歩き方は、家の階段を下りていた時とはまるで違う。足元の草の傾き、空の裂け目から落ちる光、風が草を揺らすタイミング。すべてを拾い、必要なものだけを残していく。七瀬家で少し迷子のようだった少女が、ここでは呼吸の仕方を知っている。


 朱音はその横顔を見て、少しだけ悔しくなった。家の中で守りたいと思っていた相手が、ダンジョンの中では自分よりずっと自然に立っている。


「やっぱり、こっちの方が楽?」


 朱音が聞くと、澪は空を見上げた。


「危ないものが、危ない顔をしてる」

「人間は?」

「たまに、危ないのに普通の顔をしてる」

「否定できない」


 第六環外縁に入ると、景色がわずかに歪んだ。空に浮かぶ雲の端が草原の水たまりへ落ち、遠くの木々が近く見えたり遠く見えたりする。第五環までの美しさとは違う。ここから先の《零れ空の庭》は、少しずつ狂い始める。朱音は槍を握り直した。

澪は腰に巻いた安価な鎖を一度だけ引き、短杭の位置を確かめる。骨鎌はない。封鎖庫に置いてきた。今日の澪は、あえて壊してもいい装備で潜っている。


 最初に現れたのは、雲喉狐だった。


 白い喉袋を持つ細身の狐。鳴き声に魔力を含み、聞いた相手の距離感を狂わせる。

普通の学生探索者なら、第六環で出会えば全滅を覚悟する相手だ。

茂みの奥から一匹、岩の上からもう一匹。二匹目の喉が膨らむより先に、澪が地面を蹴った。


 速い。


 九環帰りの異常な体捌きはそのままに、踏み込みの鋭さだけが現実のダンジョンへ噛み合っている。鎖が低く走り、岩上の狐の前足に絡む。澪は引かず、自分の身体を沈めた。引けば力が逃げる。沈めば相手の足場が崩れる。岩の上でバランスを崩した狐へ、短杭が投げ込まれた。喉袋の横を貫く。


 もう一匹が鳴いた。空気がずれる。朱音の足元が一瞬だけ遠くなる。槍の間合いが伸びたように錯覚する。だが、朱音も第六環を知らないわけではない。目ではなく、握った槍の重さで距離を測る。踏み込みすぎず、横薙ぎで狐の進路を切った。


「澪、右」

「取る」


 澪は逃げた狐の先にいた。転移ではない。草の倒れ方と風の逃げ方から跳ぶ先を読んでいる。狐が地面を蹴る瞬間、澪の鎖が首ではなく喉袋に絡んだ。鳴き声が潰れる。狐の爪が澪の脇腹を抉った。服が裂け、赤い肉が一瞬見えた。


 だが、次の瞬間には塞がっていた。


 血が落ちるより早く、皮膚が盛り上がり、裂けた筋繊維が糸を巻き戻すように繋がる。爪痕は赤い線になり、その赤さすらすぐに薄れる。澪は痛みに反応しなかったわけではない。眉がほんのわずかに動いた。だが、傷を気にする時間が存在しない。肉がえぐれた程度なら、《再生》Lv9の前では秒にも満たない。


 澪は爪を受けた方向へ踏み込んだ。逃げるのではなく、詰める。狐の胸元へ膝を入れ、短杭で地面へ縫い止める。狐が最後に喉を震わせたが、音になる前に鎖が捻られた。


 静かになった。


『え? 今腹抉れたよな?』

『治った』

『治ったじゃなくて戻った』

『再生持ち?』

『速度おかしいだろ』

『【北辰探索団・広報】高位再生を確認。無理な模倣は危険です』

『公式が注意喚起してて草』

『草じゃない、あれ普通なら撤退傷』

『雲喉狐二匹を一分未満?』

『七瀬先輩のカバーうま』

『澪、コメント見てないのにコメント欄だけ盛り上がってる』


 朱音は雲喉狐の素材を確認した。喉袋、爪、魔石。第六環外縁の良品だ。喉袋に傷は少ない。音響系装備や認識阻害対策に需要がある。


「売れる?」

「売れる。二匹分なら、安い装備なら一式いけるかも」

「装備費」

「そう。居候費じゃなくて装備費」


 澪は素直に頷いた。居候費と言うワードに配信コメントが加速した。


 二戦目は、空雫鼠の群れだった。第六環外縁の水たまりから湧く、小さな透明の鼠。九環の空葬鼠とは違い、音は食べない。だが、身体を破ると水の刃になって跳ね、油断した探索者の足首を裂く。朱音は槍を低く構えたが、澪は動かなかった。


「これは稼ぎになる?」

「核が小さい。数を集めればなるけど、割に合わない」

「じゃあ避ける」


 澪は戦わなかった。水たまりの縁に短杭を打ち、鎖で草の束を引き寄せて、水面を一方向に波立たせる。空雫鼠の群れがそちらへ反応した隙に、二人は迂回した。朱音は少し驚いた。澪なら全部潰すと思っていたからだ。


「戦わないんだ」

「稼ぎにならないなら、疲れるだけ」

「成長してる」

「お金がないから」


 理由は少し悲しかったが、正しかった。探索は戦闘を積み重ねることではない。必要な戦闘だけを選び、不要な消耗を避け、持ち帰れるものを増やすことだ。澪はその判断を、もう戻し始めている。


『空雫鼠スルーうまい』

『居候……だと?』

『稼ぎ配信として正しい』

『【白楼工房・素材部】空雫鼠はまとまった数でなければ査定効率が悪いです。判断は妥当』

『素材部が解説してて草』

『公式解説付き配信になってる』

『居候kwsk』

『これ初心者が見るやつじゃない、真似したら死ぬ』


 指定区画の奥で、今日の目当てが出た。


 風裂鹿。第一層第六環から第七環手前にかけて現れる中型魔物。細い鹿の身体に、透明な角を持つ。角の内側に風の筋が走り、折れずに持ち帰れば高値がつく。だが、角を使った突進は速く、浅い傷でも皮膚の内側を裂く。練度の低い適正レベルのパーティだとまず勝てない。


朱音が小さく息を吸った。


「澪。これは高い」

「倒す」

「角を折らないで」

「難しい注文」

「高いから」


 澪の目が変わった。


 風裂鹿が地面を蹴る。姿が揺れ、次の瞬間には距離が詰まっていた。朱音が槍で受けるには速すぎる。だが澪は横へ跳ばなかった。真正面から、半歩だけずれる。透明な角が頬の横を通り、風が皮膚を裂いた。頬肉が薄く削げ、赤白い骨が一瞬だけ見えた。


 それも、すぐ塞がった。


 皮膚が戻り、血が頬を伝う前に赤い線だけになる。澪は傷より角を見ていた。壊してはいけない素材。売るための部位。自分の肉より、そちらの方が大事だと判断している。


 鎖が鹿の首ではなく前脚の付け根へ巻いた。引かない。澪は鎖を地面へ落とし、自分の足で踏んだ。風裂鹿の突進力がそのまま鎖に乗り、前脚の動きが一瞬だけ乱れる。その一瞬に、朱音の槍が入った。刃ではなく柄。角を傷つけず、鹿の横腹を打ち抜く。骨が軋む音。鹿が跳ねる。澪は踏んでいた鎖を解き、今度は自分が引かれるように距離を詰めた。


 風が鳴る。鹿の角の内側で、透明な筋が青白く光った。次が来る。澪はその光を見て、笑わなかった。ただ、読み切った顔をした。


 短距離の《転移》が発動した。


 ほんの一歩分。澪の身体が、鹿の正面から肩口の横へずれる。大きな移動ではない。けれど、突進の軸から外れるには十分だった。転移直後のわずかな揺れを、澪は膝で殺す。短杭が鹿の後ろ脚の腱へ刺さり、朱音の槍が首の根元を押さえる。澪は角には触れず、喉元へ鎖を巻き、息を止めるように締めた。


 風裂鹿は暴れた。澪の腕に風の刃が入り、前腕の肉が裂ける。裂けた端から再生する。裂かれ、戻り、また裂かれ、また戻る。普通の探索者なら悲鳴を上げて腕を引く傷を、澪はただ固定具のように使った。再生は無敵ではない。痛みはある。魔力も削れる。だが、肉の損傷で澪の手は止まらない。


 鹿の動きが鈍り、最後に膝をつく。澪はそれでもすぐには力を緩めず、動きが止まるまで締め上げる。


 沈黙。


 遠くで、空の水たまりが揺れる音だけがした。


「角」


 澪が言った。


「無事」


 朱音が確認する。透明な角は二本とも残っている。内側に青白い風の筋が走り、先端まで欠けていない。協会買い取りなら、かなりの額になる。朱音がそう言うと、澪は倒れた鹿の横で少しだけ息を吐いた。


「稼げた」


『一歩消えた』

『転移…?』

『短距離転移を戦闘に混ぜるな草』

『腕裂けてたよな?』

『裂けたのに戻った』

『再生Lvいくつだよ』

『風裂鹿の角完品!?』

『これは高い』

『【白楼工房・素材部】風裂鹿の双角完品、風筋欠損なし。状態次第で単体百万円超の査定もあり得ます』

『百万円!?』

『命懸けなんだから安いくらいだろ』

『【暁ノ盾・公式】短距離転移?と高位再生を前提にした戦闘です。一般探索者は模倣不可』

『大手が真面目に警告してる』

『七瀬先輩の柄打ちも地味に神』

『角を折らない戦闘、プロすぎる』

『九環帰還者って肩書き、盛ってないかもしれん』


 朱音はコメントを見たが、澪には読ませなかった。今読ませれば、澪はたぶん素材額のところだけ拾う。


「撤退しよう」


 朱音が言った。


 澪は一瞬だけ奥を見た。第七環の方角。空が少し歪み、風が裂ける場所。その向こうに、もっと高く売れる素材がある。もっと強い敵がいる。もっと奥へ行ける道がある。だが、澪は風裂鹿の角を見た。


「今日は、稼げたから帰る」


 朱音はその言葉を聞いて、心の底から安堵した。


 ゲートを抜けて協会支部へ戻ると、素材管理担当が待っていた。雲喉狐の喉袋二つ、魔石二つ、風裂鹿の双角、風裂鹿の魔石、裂風腱。査定は簡易だが、即日買い取りできるものばかりだった。九環素材のような厄介さはない。危険はあった。傷も負った。だが、値段がつく。すぐ金になる。


 端末に仮査定額が表示される。

 合計、三百四十二万円。

 澪はそれを見て、少しだけ目を開いた。


「高い」


 素材管理担当は真面目に頷いた。


「風裂鹿の双角が完品だったのが大きいですね。角だけで二百四十万円前後。雲喉狐の喉袋が二つで四十万円。魔石と裂風腱、その他素材で六十万円ほど。正式査定で上下しますが、即日仮払いは七割まで可能です」


「すごい稼げてる」

「命懸けですから」


 朱音が言うと、澪は少しだけ考えた。


「でも、骨鎌の鞘には足りない」

「全然足りないと思う」

「じゃあ、また稼ぐ」


 水瀬が横から口を挟む。


「今日の額なら、安価な予備武器、防具補修、測位具の購入までは現実的です。生活費に回す分と、装備費に回す分を分けましょう」

「短く」

「かなり稼げました。でも全部使わないでください」

「分かった」


 配信は素材カウンター前で終了した。最後に朱音が端末を向けると、澪は少しだけ画面を見た。コメントはまだ流れている。


『342万!?』

『一回で!?』

『いや風裂鹿完品なら妥当』

『税金と装備費で消えるぞ』

『探索者、夢あるけど死ぬ仕事』

『【北辰探索団・広報】短時間での高額査定ですが、討伐難度と負傷リスクを考慮してください』

『【白楼工房・素材部】双角完品なら納得の仮査定です。保管状態次第で上振れあり』

『【暁ノ盾・公式】復帰戦としては十分すぎる成果。撤退判断を評価します』

『大手クランに評価されてる』

『居候kwsk……』

『稼ぎに行って本当に稼いで帰った』

『おかえり』


 澪は最後の一つだけ見たのか、少し目を細めた。


「帰るまでが稼ぎ」


 それだけ言って、配信は切れた。


 帰りの車の中で、朱音は端末を見ながら頭を抱えていた。切り抜きがもう出回っている。澪の一歩転移、風裂鹿の角を残した討伐、肉が裂けても即座に戻る高位再生、そして仮査定三百四十二万円。探索者界隈で拡散されるのは時間の問題だろう。水瀬からは、あとでコメント制限をさらに調整すると連絡が来ている。


 一方、澪は窓の外を見ていた。疲れている。魔力は減っている。だが、昨日までの疲れとは違う。消耗の中に、少しだけ芯が戻っている。


 車が七瀬家の前に止まる。玄関の扉が開く前に、澪は自転車置き場を見た。結衣の自転車はまだない。学校か、寄り道か。少しだけ空いているその場所を見て、澪は言った。


「結衣はまだ」

「うん」

「じゃあ、先にただいま」


 玄関が開き、母が顔を出す。


「おかえりなさい」


 澪は今日は、ほとんど迷わなかった。


「ただいま。稼いだ」


 母は一瞬だけ驚き、それから笑った。


「じゃあ、今日はちゃんと仕事帰りね」


 澪はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ胸を張った。


 その日の夕方、結衣が帰ってきた時、澪は客間ではなくリビングにいた。テーブルの上には協会の仮査定明細があり、澪はそれを真剣に見ている。結衣が「ただいま」と言うと、澪は顔を上げた。


「おかえり。今日、三百四十二万円」


 結衣は鞄を下ろす前に固まった。


「えっ、なに、宝くじ?」


「鹿」


「鹿ってそんなするの!?」


「角が高い」


 朱音は台所の方から言った。


「命も高いからね」


 結衣は明細と澪を交互に見て、最終的に深く頷いた。


「澪ちゃん、社会復帰が爆速すぎる」

「ダンジョン復帰」


 澪は明細を見ながら、小さく言う。


「まだ足りない。けど、始まった」


 その声に、朱音は何も言わなかった。

 始まった。


 確かに、そうだった。日常に戻るだけではない。休むだけでもない。澪はまたダンジョンに潜り、戦い、素材を持ち帰り、金に換えた。配信も再開した。噂は広がるだろう。大手クランも、工房も、協会も、もう澪を見ている。面倒は増える。危険も消えていない。


 それでも、澪は今日、自分の足で前へ進み、自分の意思で帰ってきた。

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