第五話 封鎖工房
翌朝、澪は帰る鈴の音で目を覚ました。
誰かが鳴らしたわけではない。澪自身が、眠る前に指を添えたまま寝ていたらしく、寝返りの拍子に木の呼び鈴が小さく鳴っただけだった。ころん、と乾いた音が畳に落ちる。その音で澪の目が開き、次に朱音が廊下から顔を出した。昨夜ほど慌ててはいない。鈴が鳴ったから来る。来たら、澪がいる。それだけの動作が、二人の間に少しずつ馴染み始めていた。
「起きられる?」
「今日は骨鎌」
「その前に朝ご飯」
「…うん」
「そう。危ないものを出す日は、先に普通のことをする」
朱音がそう言うと、澪は布団の中で少し考えた。普通のことを先にする。それは昨日までなら、澪の中で優先順位の低い行動だった。危険物の確認、装備の点検、敵性反応の有無。それらを済ませてから食べる。前の世界でも九環でも、そういう順番でなければ生き残れなかった。けれど七瀬家では、まず朝ご飯が出る。味噌汁があり、卵焼きがあり、母が白湯を出し、結衣が遅刻しそうになりながら髪を結んでいる。そこに骨鎌は出ない。武器より先に箸を持つことを、家が澪に要求している。
澪は帰る鈴を枕元に置き、布団から出た。
「普通、手順が多い」
「多いけど、覚えると楽になる」
「戦闘より?」
「たぶん、別の筋肉を使う」
澪はその言い方を気に入ったのか、少しだけ頷いた。洗面所で顔を洗い、朱音の古い上着を借り、結衣が選んだ滑り止め付きの靴下を履く。今日は白地に薄い水色の小さな星が散っている靴下だった。朱音は少し目を細めたが、結衣が「派手じゃないでしょ」と胸を張ったので、何も言わなかった。澪は足元を見て、「昨日より探索向き」とだけ評価した。結衣はなぜか満足げだった。
朝食の席で、父が新聞を畳みながら言った。
「今日は封鎖工房だったな」
「はい。協会で藤堂先生と合流します」
朱音が答えると、父は澪を見た。
「持っている物を見せる時は、値段より先に危険性を聞いた方がいい」
「高いかどうかより?」
「高い物は、人を寄せる。危ない物は、事故を寄せる。順番を間違えると面倒になる」
「危ない方が先」
「そうだ」
澪は箸を止め、父の言葉を頭の中にしまうように目を伏せた。金の話は分かりやすい。素材を持ち帰れば売れる。売れば装備が買える。装備を整えればまた潜れる。けれど父は、その前に危険性を聞けと言った。価値を見る前に、どう扱えば壊れないか、誰が触れば駄目か、どこに置けば家を傷つけないか。それは探索者としてというより、持ち帰ったものと長く付き合うための考え方に近かった。
母は温かい白湯を澪の前に置いた。
「怖くなったら、帰る鈴を持っていってもいいわよ」
「持ち込み、いい?」
「協会に確認してからね。駄目なら朱音に預ければいいわ」
澪は少し迷い、結局、帰る鈴を小さな布袋に入れて朱音に預けた。武器でも防具でもない。けれど、朱音がそれを鞄に入れた瞬間、澪の肩からわずかに力が抜けた。朱音はその変化に気づいたが、何も言わなかった。必要なものが必ず刃物とは限らない。昨日から、それを何度も見ている。
協会支部の封鎖工房は、医療区画よりさらに奥にあった。一般探索者が素材を持ち込む鑑定室とは違い、廊下の途中で二度認証が入り、三つ目の扉の前では朱音のライセンスまで確認された。壁は白ではなく、鈍い灰色の金属で覆われている。魔力を吸う素材なのか、近づくだけで肌の表面が少し重くなる。澪は歩きながら壁に触れようとして、朱音に視線だけで止められた。澪は素直に手を下ろした。
工房の前では藤堂教諭が待っていた。いつもの作業着姿だが、今日は上から協会の耐性コートを羽織っている。髪は雑にまとめられ、目の下には徹夜明けのような影があった。だが、その目だけはやけに鋭い。職人が未知の素材を前にしている時の目だった。
「来たか。まず言っておく。ここで出せと言うまで何も出すな」
「はい」
「返事が早いのはいい。だが、お前は多分、好奇心が勝つと手が動く。だから七瀬、見張れ」
「はい。 澪。先生が本気で嫌がることは、本当に危ないことだからね」
「分かった。藤堂先生の胃を守る」
「俺の胃の前に工房を守れ」
藤堂はそう言いながらも、少しだけ口元を緩めた。澪が冗談を言ったのではなく、昨日の通話を覚えていたことが分かったのだろう。工房の中には、藤堂の他に協会の素材管理担当、装備管理担当、水瀬、そして久遠がいた。水瀬は昨日より顔色がましになっていたが、端末だけでなく紙の記録用紙も持っている。澪はそれを見て、少し頷いた。
「紙、持ってる」
「訓練です」
「強い」
「はい。今日は強めです」
水瀬の返しに、藤堂が怪訝な顔をしたが、誰も説明しなかった。説明すれば長くなるし、今は骨鎌の方が重要だった。
封鎖工房の中央には、低い作業台があった。石とも金属ともつかない黒灰色の台で、四隅に封印杭が打たれている。天井からは細い銀線が垂れ、作業台の周囲を薄い網のように囲んでいた。藤堂はその一つ一つを確認し、最後に澪へ向き直る。
「インベントリから出す時、いつもの感覚と違ったら止めろ。引っ掛かる、重い、奥が引っ張る、どれでもだ。無理に引き抜くな」
「途中で止めたら?」
「そのまま固める。台ごと封鎖する」
「高そう」
「高い。壊したら俺が泣く」
「泣くんだ」
「比喩だ。たぶんな」
藤堂は真面目な顔で言った。澪は作業台の前に立ち、右手を胸の前に上げた。空気が少し沈む。インベントリを開く時の澪は、普通の収納を使っているようには見えない。目の焦点がわずかにずれ、指先の周囲に薄い歪みが生まれる。朱音は初めて間近でそれを見た。澪の手の奥に、そこにはない暗い隙間が開いているように感じる。
次の瞬間、工房の照明が一段暗くなった。
黒灰色の作業台の上に、白い骨が落ちた。
いや、落ちたというより、空間から押し出されるように現れた。最初に鎖が出る。細いが、節ごとに白い光を含んだ鎖。次に、曲がった骨の刃。獣の肋骨とも翼の骨ともつかない形をした白い刃が、空気を削るように姿を現す。刃の周囲だけ、工房の輪郭が少しぼやけた。見ているだけで距離感が狂う。作業台の上にあるはずなのに、遠くにも近くにも見えた。
銀線が一斉に震えた。
藤堂が低く呟く。
「……馬鹿か」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。素材にか、九環にか、これを持ち帰った澪にか。たぶん全部だ。
素材管理担当はすぐに測定器を構えたが、数値を見た瞬間に固まった。装備管理担当も、紙の記録を取りかけて手を止める。久遠だけは表情を変えずに立っていたが、腕を組む力が少し強くなっていた。
澪は作業台の骨鎌を見て、少しだけ目を細めた。
「小さく見える」
「九環ではもっと大きかったのか」
「大きいというより、長かった。距離が」
「距離が長い武器、などという分類はない」
「でも、そうだった」
「だろうな。そこが一番厄介だ」
藤堂は工具を手に取らず、まず作業台の周囲を歩いた。触らない。近づきすぎない。角度を変え、光の反射を見て、鎖の節と刃の根元を確認する。彼の目は熱を帯びていたが、手は慎重だった。未知のものに興奮しても、触ってはいけないものに触れない。澪はその姿をじっと見ていた。
「藤堂先生、触らない」
「触ったら取り返しのつかない素材がある」
「負けたことある?」
「ある。だから今は触らん」
その短い返事で、澪の中で藤堂への評価が一段変わったようだった。負けたことを覚えている人間。だから触らない人間。強い、とは言わなかったが、澪の目がそう判断している。
水瀬が記録を取りながら言う。
「空膜反応、刃の周囲で局所的に増幅。素材そのものが空間距離に干渉している可能性があります。鎖部分は天瀬さんの魔力痕と結合しています」
「結合?」
「雑に言うと、天瀬さんが使ったせいで、武器側が天瀬さんを覚えています」
「また覚えられた」
「そうですね。最近、色々なものに覚えられています」
澪は少し嫌そうな顔をした。九環に覚えられ、骨鎌に覚えられ、協会にも記録されている。朱音はその表情を見て、少しだけ笑いそうになったが、今は笑う場面ではなかった。
藤堂がようやく工具ではなく、長い黒い棒を手に取った。先端に小さな魔石が付いた検査具だ。棒の先で骨鎌の刃に直接触れる寸前、銀線がまた震えた。藤堂はそこで手を止める。
「触れる前に反応する。嫌な素材だ」
「嫌われてる?」
「こちらを見ている、に近い」
「目、ない」
「……そうだな」
藤堂は慎重に検査具を近づけ、刃の表面にほんの少しだけ触れた。音はしなかった。だが、工房の中の空気が一瞬だけ薄くなる。朱音は耳が詰まるような感覚を覚え、結衣の靴下ではなく自分の足元を見た。床はある。自分は立っている。工房は崩れていない。そう確認しなければならないほど、一瞬だけ距離が狂った。
澪が小さく息を吸う。
「起きた」
「何が」
「鎌」
藤堂は検査具を離した。
「こいつは武器というより、半分は環境だな。九環の一部を、天瀬の魔力と戦闘痕で無理やり形にしてある。普通の強化や研磨の話じゃない。鍛え直すというより、境界を固定する必要がある」
「使える?」
「今のままでも、お前なら使えるだろうな。だが周囲が持たん。人のいる場所で振るな。低層で振るな。訓練場でも振るな。というか、俺が許可するまで振るな」
「振らないと練習できない」
「振るための場所を作るのに金がいる」
藤堂は即答した。
澪の顔が少し曇る。金の話に戻ったからではなく、使えるのに使えないという状況が気に入らないのだろう。けれど、今回は反論しなかった。工房の空気が一瞬薄くなったことを、澪自身も感じている。
「売れば?」
「売るな」
藤堂の声は早かった。
「少なくとも今は売るな。値段をつけられる人間がいない。研究機関に渡せば金は出るだろうが、その金額が妥当か誰も判断できん。何より、これは天瀬に寄りすぎている。売った後で暴れる可能性もある」
「暴れる素材」
「ある。珍しくない。特に深層由来はな」
素材管理担当が渋い顔で頷いた。
「協会としても、即時買い取りではなく、危険物登録と所有権保留を提案します。保管は協会封鎖庫。研究利用は天瀬さんの許可制。将来的に売却や貸与をする場合は、査定を改めて行う形です」
「お金は?」
「すぐには出ません。ただし調査協力費と、危険素材提出の一時補助は申請できます。大金ではありませんが、当面の生活費と最低限の予備装備には回せるはずです」
澪は少しだけ不満そうだったが、朱音はむしろ安心した。大金がすぐ入れば、澪はすぐ何かを始める。素材を売り、装備を買い、また奥へ行こうとするかもしれない。今必要なのは、少し足りないくらいの金と、時間だった。
久遠が口を開いた。
「天瀬。今のお前に必要なのは最強装備じゃない。壊していい装備だ」
「弱い装備?」
「違う。壊れる前提で持つ装備だ。予備武器、予備防具、退避用具、簡易測位具。お前は強い武器一本に寄りすぎると、またそれで無理をする」
「骨鎌があると、進める」
「だから駄目だ。進めるから止まれない」
澪は黙った。
朱音は久遠の言葉に内心で頷いた。澪は危険を怖がらない。むしろ、進めるなら進む。だから今は、進むための装備ではなく、戻るための装備が必要だった。
藤堂が作業台の骨鎌を見下ろしたまま言う。
「まず三つだ。一つ、骨鎌は協会封鎖庫で保管。二つ、天瀬用の安価な予備武器を複数用意する。三つ、骨鎌を安全に出し入れするための鞘、というか封鎖ケースを作る。鞘だけで馬鹿みたいに金がかかるが、ないよりましだ」
「鎌より鞘が高い?」
「あり得る。腹立たしいことにな」
「嫌」
「俺も嫌だ」
藤堂は本当に嫌そうに言った。
澪は少し考えた後、作業台の骨鎌を見た。刃は静かに白く、鎖は澪の魔力に反応してかすかに震えている。九環で生き延びるために作ったもの。番犬の取り巻きを裂き、空膜を引っ掛け、自分の身体を引き戻したもの。売れば金になるかもしれない。けれど、戻ってこないかもしれない。
「売らない」
「賢明だ」
藤堂が言った。
「でも、使えるようにする」
「それは俺が決める」
「藤堂先生が?」
「素材と工房と俺の胃が許せばな」
澪は少しだけ笑った。
その笑いが工房の緊張を少しだけ緩める。朱音は息を吐いた。今日、骨鎌を出したことで何か大きな事故が起きるのではないかと、心のどこかでずっと恐れていた。実際、危険だった。工房の空気は薄くなり、封印線は震え、藤堂は触れる前から嫌な顔をした。それでも、骨鎌は今、作業台の上に収まっている。澪もここにいる。朱音の隣にいる。
水瀬が紙の記録用紙をめくった。
「天瀬さん。骨鎌の正式名称は、現時点ではどうしますか。協会記録上の仮称が必要です」
「名前」
「はい。未定なら、協会側で《九環骨鎌》などの仮称を付けます」
「それは嫌」
「では、ご自身で」
澪は作業台を見た。白い骨の刃。鎖。空を削るような輪郭。九環の奥で、帰るために握ったもの。
「空骨鎖鎌」
短く言った。
藤堂が少しだけ眉を上げる。
「悪くない。分かりやすい」
「そのままがいい」
「名前は大体そのままが強い」
水瀬が記録する。
「仮称、《空骨鎖鎌》。所有者、天瀬澪。保管区分、協会封鎖庫。研究利用、所有者許可制。加工可否、藤堂教諭および協会装備管理部にて継続確認」
水瀬の声が工房に落ちる。名前が付くと、作業台の上のものが少しだけこちら側に寄った気がした。九環の一部ではなく、澪が持ち帰ったもの。危険で、扱いづらく、高く、売れず、まだ使えない。それでも、名前がある。
藤堂は封鎖用の布を取り出した。黒い布に銀の糸が縫い込まれている。骨鎌へ直接触れないよう、複数人で慎重に包み、作業台ごと封鎖庫へ移動する準備が始まった。澪はそれをじっと見ていたが、手を伸ばさなかった。
朱音はそのことに気づいた。
昨日の澪なら、たぶん触ろうとした。確かめようとした。自分のものだと確認するために、手を出したかもしれない。だが今日は、見ているだけだった。藤堂が触るなと言ったから。危険性を先に聞けと父が言ったから。帰る場所を覚えるまで行かないと約束したから。小さな理由がいくつも重なって、澪の手を止めている。
それは、たぶん成長と呼んでいいものだった。
封鎖作業が終わると、藤堂は肩を回しながら言った。
「今日の作業はここまでだ。天瀬、お前は帰って寝ろ」
「また?」
「まただ。寝て、食って、体調を戻せ。素材も武器も逃げん。逃げたら協会の責任だ」
「逃げる素材もある?」
「ある。だが今それを聞くな。興味を持つな」
澪は少しだけ残念そうにした。
朱音はその顔を見て、ようやく少し笑った。危険な工房で、危険な武器を出して、危険な話をしているのに、澪の残念が妙にいつも通りだったからだ。
帰り際、藤堂が朱音を呼び止めた。
「七瀬。天瀬の予備装備リストを作る。お前も見ろ。こいつは多分、攻撃に寄せすぎる」
「分かってます」
「分かってる顔だな」
「一年見てましたから」
「なら止めろ」
「止まるかは別です」
「そこは自信をなくすな」
藤堂はそう言ってから、澪を見た。
「天瀬。次に必要なのは、強い武器じゃない。壊れても帰れる準備だ」
「壊れても帰る」
「そうだ。武器が折れても、防具が破れても、金が減っても、帰れ。帰ってからまた作ればいい」
「帰れば、作れる」
「そういうことだ」
澪は静かに頷いた。
協会を出る頃には、昼前になっていた。報道関係者は昨日より少ないが、それでも何人か残っている。澪は彼らを一瞥し、今日は何も言わなかった。映っても素材は落ちない、と昨日言ったことを覚えているのかもしれない。朱音は鞄の中にある帰る鈴の重みを確かめる。小さな木の鈴ひとつで、澪が完全に安全になるわけではない。それでも、あれがあると少しだけ戻りやすくなる。そういうものを、これから増やしていくのだろう。
七瀬家へ帰る車の中で、澪は窓の外を見ながら言った。
「売らないもの、増えた」
「《空骨鎖鎌》?」
「うん。あと、藤堂先生の胃」
「それは売り物じゃないね」
「壊したら駄目」
「それは本当にそう」
朱音が笑うと、澪も少しだけ口元を緩めた。
「帰ったら、ただいま」
「うん」
「昼ご飯」
「うん」
「午後は休む」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「藤堂先生に寝ろって言われた」
「私が言うより効いてる気がする」
「藤堂先生、胃が弱いから」
「そこ?」
車が住宅街へ入る。七瀬家の屋根が見え、植え込みが見え、自転車置き場が見える。結衣の自転車はまだない。学校の時間だからだ。澪はそれを確認し、少しだけ安心したように目を伏せた。まだ戻っていないものが、夕方には戻る。そういう予定が、今日も家にある。
玄関を開けると、母が台所から顔を出した。
「おかえりなさい」
「ただいま」
澪は昨日より自然に言った。
その声を聞いて、朱音は思った。
骨鎌は封鎖庫に置いてきた。けれど澪は帰ってきた。売らないものを一つ決め、使わないことを一つ覚え、帰るための装備が強い武器だけではないと知った。
それだけで、今日は十分だった。
昼食の後、澪は客間に戻り、帰る鈴を枕元に置いた。朱音が鞄から取り出して渡すと、澪はそれを一度だけ鳴らす。ころん、と音がした。
「届いた?」
「届いたよ」
「じゃあ、寝る」
澪は布団に入った。窓の外には、普通の昼の空がある。九環の白い空ではない。空骨鎖鎌は今、協会の封鎖庫の中で眠っている。すぐには使えない。すぐには売れない。けれど、失ったわけではない。
澪は目を閉じる前、小さく言った。
「帰れば、作れる」
朱音は襖のそばで頷いた。




