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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第四話 骨鎌

 夕方の七瀬家は、昼とは別の音を持っていた。


 台所では母が鍋の蓋を少しずらし、湯気の逃げ方を見ている。リビングでは結衣が学校の鞄を開けたまま、半分だけ宿題を出し、半分だけ澪の様子を気にしていた。洗濯物を取り込む音、包丁がまな板に当たる音、テレビの電源が一度入ってすぐ消される音。どれも九環にはなかった音だ。澪は客間の布団から起き上がり、枕元に置いた木の呼び鈴を指先で軽く押さえていた。帰る鈴。結衣がそう呼ぶことに決め、澪も反対しなかった。


 朱音は客間の入口に座り、澪の顔色を見た。昼より少し戻っている。眠った分、目の奥の白い輪郭は薄くなったが、完全には消えない。髪の白い部分は夕方の光を受けて、黒い髪の中で冷たく浮いている。綺麗だと思う。けれど、綺麗という言葉だけで済ませるには、あまりにも痛々しい色だった。


「台所の音、多いね」


 澪が言った。


「夕飯前だから。朝より忙しい」

「全部、危なくない?」

「包丁だけは危ない。でも、お母さんが持ってるから大丈夫」

「お母さん、強い」

「それは本当にそう」


 澪は納得したように頷いた。朱音はその返事に少し笑いそうになったが、笑わなかった。澪にとって、強いという言葉はかなり真面目な評価だ。戦闘力ではなく、家の中のものを壊さず扱える力。食べ物を温かいまま出せる力。人を急かさず待てる力。母は確かに強い。


 玄関の鍵が回る音がした。


 澪の背筋がわずかに伸びる。朱音が何か言う前に、廊下から父の低い声がした。


「ただいま」


 結衣がリビングから顔を出す。


「おかえりー。声、小さめね」

「分かってる」


 父は靴を脱ぎながら、客間の方へ視線を向けた。澪は布団の上に座ったまま、少し遅れて言う。


「おかえりなさい」


 父は一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。


「ただいま言えたな」

「忙しい」

「何がだい?」

「みんな帰るから」


 父は少しだけ笑った。声を立てない、静かな笑い方だった。


「家はそういうものだ」


 澪はその言葉を覚えるように、少しだけ目を伏せた。家はそういうもの。人が出ていき、帰ってくる。そのたびに言葉が必要になる。九環では、一人で動いて、一人で戻れなければ終わりだった。誰かに「おかえり」を言う必要も、「ただいま」を言う相手もいなかった。今は、言う相手が多い。それを澪は忙しいと言った。間違ってはいない。けれど、朱音にはその忙しさが少し嬉しかった。


 夕飯は、母が約束通り少しだけ肉を増やしてくれた。鶏肉と大根を柔らかく煮たもの、卵の入った味噌汁、白いご飯を少なめに、青菜のおひたし。いきなり重い料理は出さない。けれど、昼より確かに肉が多い。澪は席につくなり皿を見て、真剣な顔になった。


「増えてる」

「体調が悪くなったら止める約束よ」

「悪くならないように食べる」

「それが一番難しいのよね」


 母は笑いながら、澪の前に小皿を置いた。結衣は隣でにやにやしている。


「澪ちゃん、肉好きなんだ」

「九環の肉は、肉じゃなかった」

「え、何それ怖い」

「素材」

「素材食べてたの?」

「食べないと再生が遅かった」


 結衣の顔から笑いが消えた。失敗した、と朱音は思った。結衣が悪いわけではない。普通の会話の中で、普通に聞いただけだ。けれど澪の返事は、普通の食卓には少し重すぎる。


 母がすぐに箸を動かした。


「じゃあ、今日は食べ物として食べましょう。素材じゃなくて、夕飯」


 澪は母を見た。


「夕飯」

「そう。倒したから食べるんじゃなくて、帰ってきたから食べるの」


 その言葉に、澪はしばらく黙った。朱音も箸を止めた。父は茶碗を持ったまま、何も言わない。結衣も、さっきまでの軽さを少し抑えて、澪の返事を待っている。


 澪は鶏肉を一切れ口に入れた。よく煮込まれた肉は箸で簡単に崩れ、噛むと出汁の味が広がる。澪は慎重に飲み込んでから、少しだけ目を伏せた。


「夕飯、おいしい」


 母はほっとしたように笑った。


「よかった」


 その一言で、食卓の空気が戻った。結衣は今度は慎重に話題を選び、学校の小テストがどれだけ理不尽だったかを話した。父は時々短く相槌を打ち、母は味噌汁をよそいながら、澪の食べる速度を自然に見ている。朱音はその全部を見ていた。普通の夕飯は、ただ食べるだけではない。重くなりすぎた空気を戻し、話しすぎた人を休ませ、黙っている人を責めず、皿が空いたら少しだけ足す。食卓にも、戦い方がある。


 食事の途中で、父が澪に尋ねた。


「協会では、今後の装備の話も出たのか」


 澪は鶏肉を見つめたまま頷いた。


「高い」

「それは、装備がか」

「全部。保管も、加工も、予備も。素材を売ればお金になる。でも、使うならもっとお金がいる」


 結衣が口を挟みかけ、朱音の顔を見て少し止まる。父は箸を置き、母も無理に話を逸らさなかった。これは夕飯の会話であって、協会の聞き取りではない。けれど、澪がこれから生きていくための現実でもあった。


「ダンジョンの素材は高い。命を懸けて持ち帰るものだからな」


 父が言った。


「でも、九環のものはすぐ売れない」

「危ないからだろう」

「うん。高いけど、すぐお金にならない。使うにもお金がいる。普通の工房だと壊れる」

「なら、急いで使おうとしない方がいい。高いものは、急ぐと安く買われる」

「安く買われる?」

「価値が分からないうちに手放すと、損をするということだ」


 澪の目が少し鋭くなった。


「それは嫌」

「だろうな」


 父は少し笑った。


 朱音は、父が澪に子ども扱いしすぎないことに気づいた。危ないからやめなさい、だけではなく、損をするから待て、と言う。澪にはその方が通じる。危険を避けろと言われるより、価値を見極めろと言われた方が、たぶん素直に止まれる。


「探索者は、持ち帰って終わりじゃない。売る時も、直す時も、次に出る時も判断が要る。急いで潜るより、急がず準備した方が、長く稼げる」


 父の言葉に、澪は少しだけ考え込んだ。


「長く稼ぐ」

「そうだ」

「長く潜るため?」

「長く帰ってくるためだ」


 澪の箸が止まった。


 朱音は父を見た。父は澪をまっすぐ見ている。説教ではない。けれど、軽い言葉でもない。


「稼ぐのは、潜るためだけじゃない。帰ってきた後に直すためでもある。装備も、身体も、生活も」


 澪は返事をしなかった。けれど、その言葉は深く入ったように見えた。長く帰ってくるために稼ぐ。九環の奥へ行くためではなく、戻るための準備をする。朱音は、その言い方なら澪の中に残ると思った。


 夕飯の後、母が食器を片づけ、結衣が宿題を広げ直した頃、朱音のスマートフォンが震えた。画面には、藤堂教諭の名前が表示されている。朱音は思わず背筋を伸ばした。


「藤堂先生から」


 澪の反応が早かった。


「骨鎌?」

「たぶん」


 通話を取ると、いきなり低い声が飛んできた。


『七瀬、天瀬は起きてるか』

「起きてます。夕飯も少し食べました」

『なら聞かせろ。今すぐでいい。いや、動かすな。通話でいい』


 相変わらず前置きが短い。朱音がスピーカーに切り替えると、澪はテーブルの横に座ったままスマートフォンを見た。


「藤堂先生」

『天瀬。インベントリの中にある骨鎌だが、絶対に家で出すな』

「出さない」

『風呂場でも出すな』

「出さない」

『庭でも出すな』

「出さない」

『洗うな』

「洗わない」

『前科がありそうな返事をするな』


 結衣が小さく吹き出し、母が「静かに」と目で制した。朱音は額を押さえたくなったが、澪は真面目な顔で聞いている。


『協会から簡易報告を見た。空膜反応の残った骨素材を、鎖と組み合わせた即席武器。普通なら廃棄処分か封印案件だが、お前の戦闘記録と適合反応を見る限り、捨てる方が危ない可能性がある』

「使える?」

『今のまま使うな。握るだけならともかく、振れば周囲の空間を削る可能性がある。お前は平気でも、家が平気じゃない』

「家は困る」

『分かってるならいい』


 藤堂の声には苛立ちが混じっているが、その奥には職人としての興奮もあった。危険で、厄介で、常識外れ。けれど、素材としては見逃せない。そういうものを前にした人間の声だった。


『明日、協会の封鎖工房に持ち込め。俺も行く。学園工房は使えんが、協会立ち会いなら最低限の確認はできる。加工できるかは別だ。金もかかる。だが、見る前に結論は出せん』

「お金、足りない」

『当たり前だ。九環素材の加工費が学生の財布で足りるなら、世界中の工房が泣くわ』

「じゃあ、素材を売る」

『売る素材と残す素材を間違えるな。特にお前の骨鎌は、売れば高いかもしれんが、替えが利かん可能性がある。金にする素材と、武器にする素材を分けろ。そこを間違えた探索者は大抵、次で死ぬ』


 澪の目つきが変わった。


 金の話ではなく、生存の話になったからだ。


『天瀬。お前に必要なのは金だけじゃない。使い潰していい予備武器、壊れても惜しくない防具、逃げるための道具、そして絶対に売るなという核になる装備だ。深く潜る探索者ほど、その区別が命になる』


 澪は黙って聞いていた。


 朱音も同じだった。藤堂の言葉は荒い。けれど、協会職員よりずっと探索者寄りだった。素材の価値だけではなく、次に生きて帰るための道具として見ている。


「明日、行く」

『今日は寝ろ』

「でも」

『明日だ。寝不足の手で異常素材を出すな。俺の胃が壊れる』

「胃は装備?」

『違う。だが壊れる』


 澪は少しだけ考えた。


「分かった。明日、骨鎌」

『協会でな。家で出したら七瀬に縛らせる』

「朱音先輩、縛れる?」

「縛る必要が出ないようにして」

『いい返事だ』


 通話はそこで切れた。


 しばらく、リビングは静かだった。結衣が宿題のシャーペンを持ったまま、ぽつりと言う。


「藤堂先生、怖いけど面白いね」

「面白がらないで。だいたい本気だから」


 朱音が言うと、澪はスマートフォンが置かれていた場所を見つめたまま呟いた。


「売るものと、売らないもの」


 父が頷く。


「大事な話だ」

「骨鎌は、売らない方?」

「お前にしか使えないなら、売れば金にはなるが、戻ってこない」

「戻ってこないもの、多い……」

「だから、決める前に見る人間が必要だ」


 澪は帰る鈴の方を見た。客間の枕元に置いてあるはずの、小さな木の呼び鈴。あれは売るものではない。武器でもない。けれど、戻るための道具だ。骨鎌も、もしかすると同じなのかもしれない。倒すためだけではなく、帰るために必要なもの。


「明日、藤堂先生に見せる」

「うん」

「今日は寝る」

「それがいい」


 朱音が答えると、澪は少しだけ不満そうにした。けれど、反論はしなかった。夕飯を食べ、父の話を聞き、藤堂から釘を刺され、ようやく今の自分がすぐ動ける状態ではないと理解したのだろう。


 結衣が宿題を片づけながら、澪を見た。


「明日も出かけるなら、また行ってきますとただいまだね」

「忙しい」

「家は忙しいんだよ」

「知ってる。今日、覚えた」


 澪はそう言って、ほんの少しだけ笑った。


 その夜、客間の布団に入る前に、澪は帰る鈴を一度だけ鳴らした。ころん、と柔らかい音が畳の上に落ちる。今度は勝手に鳴ったのではない。澪が自分で鳴らした音だった。


 朱音が入口から顔を出す。


「呼んだ?」

「鳴るか、確認……」

「鳴ったね」

「……うん。届いた」


 澪は満足したように頷き、布団に入った。枕元には帰る鈴。インベントリの奥には、まだ出してはいけない骨鎌。窓の外には普通の夜。九環の奥は、たぶん今も呼んでいる。けれど明日は、そこへ行く日ではない。


 明日は、持ち帰ったものをどう残すかを決める日だ。


 朱音は電気を少し落とし、襖を開けたままにした。澪は目を閉じる前、ぽつりと言った。


「売らないもの、増えた」

「何が?」

「鈴。靴下。骨鎌。あと、たぶん家」


 朱音は返事に少し詰まった。


「家は売らないよ」


「よかった」


 澪はそれだけ言って、目を閉じた。


 朱音はしばらくその場に立っていた。売らないもの。失わないもの。帰ってくるために残すもの。澪の世界に、そういう分類ができ始めている。それは、きっと悪くない。

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