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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第三話 帰ってくるための検査

 階段を下りる時、澪は手すりを使わなかった。使わなかったというより、手すりを使うという発想が抜け落ちているようだった。朱音が隣で支えようとすると、澪は足裏の感覚だけで段差を測り、どの段なら壁を蹴れるか、どこに体重を置けばすぐ跳べるかを無意識に計算しながら下りていく。普通の家の階段を、澪はまだ戦場の地形として読んでいた。朱音は黙って澪の手を取り、木の手すりに触れさせた。父が何年か前に付け直したもので、丸みがあり、朝の空気の中でも少しだけ温かい。澪は指先でそれを撫で、掴んでも壊れないものだと確かめてから、ようやく手を添えた。


「引っ張らなくていい。ただ、預ければいいの」


 朱音が言うと、澪は少し考えてから頷いた。


「預けるの、難しい」


 それは手すりの話だけではなかった。朱音はそう思ったが、今は何も言わなかった。澪が残りの段をゆっくり下りる。白と水色のモコモコした靴下が木の階段に擦れ、九環の空膜を踏んでいたはずの足元から、ひどく柔らかい音がした。一階では、母が台所で洗い物をしていた。小窓から入る朝の光が流し台の水滴を白く光らせ、鍋の蓋にはまだ味噌汁の湯気が残っている。協会支部の消毒液の匂いではない。出汁と洗剤と乾いた布巾の匂い。澪は台所の前で立ち止まり、水音や陶器の触れ合う音を聞き分けるように目を細めた。


 母は振り返り、澪の足元を見て笑った。


「結衣の靴下、役に立ってるみたいね」

「温かい。戦闘向きじゃないけど、強い」

「家の中では、それくらいでちょうどいいわ」


 母はそれ以上、余計なことを聞かなかった。検査へ行く朝に必要なのは、九環の話ではなく、温かい白湯と、胃に残りにくい朝食と、落ち着いた声だった。朱音はそのことを分かっていながら、自分だけではまだ上手くできない。心配が先に立つ。顔色を見て、呼吸を見て、眠れたか、痛みはないか、吐き気はないかと聞きたくなる。それを全部口に出せば、澪はまた確認項目の中に戻ってしまう。だから朱音は、母の動きを見て覚えようとした。


 協会へ行く準備には少し手間取った。朱音の古い上着は澪の身体には少し大きく、袖が手の甲にかかった。膝下丈のスカートは問題なかったが、脚全体を覆うレギンスには抵抗があった。布が肌に触れ続ける感覚が気になるらしく、澪は膝を曲げたり伸ばしたりして動きを確かめている。結局、レッグウォーマーとモコモコ靴下を残し、その上から協会の簡易シューズを履くことになった。見た目は少し妙だったが、朱音は直さなかった。今の澪には、見た目の自然さよりも、足元に七瀬家の感触が残っていることの方が大事に思えた。


 玄関では、父が靴を揃えて待っていた。仕事へ行く前らしく、シャツに上着を羽織っている。父は澪を見ると、玄関の扉を少しだけ開けた。


「家の外に出る時は、一度ここで止まるといい。外の音は、家の中とは違うから」

「危ない音を探すため?」

「それもある。だが、危なくない音を覚えるためでもある」


 澪はすぐには答えなかった。扉の向こうから、朝の住宅街の音が入ってくる。通勤の車、自転車のブレーキ、犬の鳴き声、小学生の笑い声。九環では、音が鳴れば危険だった。ここでは、音がある方が普通だ。澪はその違いを、まだ身体に入れられていない。


「危なくない音の方が、多い」


 澪がぽつりと言った。父は頷いた。


「この辺ではな」


 その言い方が少しだけ探索者らしくなく、普通の父親らしかったので、朱音は胸の奥が温かくなった。協会車両が角を曲がって現れる。黒い車体を見た瞬間、澪の表情から家の色が少し消えた。検査、記録、封鎖、聞き取り。昨日から積み上がっている白い言葉が、またドアの向こうに待っている。朱音は澪の手を取った。


「行って、帰ってくる。今日はそれだけ覚えていればいい」


 澪は七瀬家を一度振り返った。クリーム色の外壁、焦げ茶の屋根、植え込み、自転車置き場。結衣の自転車はもうない。学校へ行ったからだ。


「結衣の自転車、帰ったら戻ってる?」

「夕方にはね」

「じゃあ、それも目印にする」


 澪は車に乗る前、玄関の母へ視線を向ける。母が「行ってらっしゃい」と言うと、澪は一拍遅れて「行ってきます」と返した。そのぎこちなさが、かえって大切に見えた。帰ってくることを前提にした言葉を、澪はまだ練習している。


 協会支部は、昨日より騒がしかった。正面入口には探索者や職員、報道関係者らしき人影があり、警備員が通路を塞いでいる。澪の帰還は正式発表されていないはずだが、完全に隠せるものではない。未登録空膜反応、配信チャンネル《九環》の一瞬の復帰、帰還管理区画の封鎖。勘のいい者なら何かあったと分かる。車は裏口の搬入口へ入り、シャッターが下りた。コンクリートの壁と白い照明。七瀬家の玄関とは違う、硬くて冷たい空気だった。澪の指が、自然に朱音の手を探す。朱音は何も言わずに握った。ここで「大丈夫?」と聞けば、澪はたぶん「大丈夫」と答える。それはもう確認ではなく、癖のようなものだ。だから聞かない。ただ握る。


 医療区画の前には、久遠と水瀬が待っていた。久遠は壁際で腕を組み、水瀬は端末と紙の記録用紙を両方持っている。昨日より目の下に疲れがあった。たぶん遅くまで記録整理をしていたのだろう。久遠は澪の顔色と足元を確認し、短く言った。


「眠ったようだな」

「四時間弱です。朝食も少し取れています」


 朱音が答えると、久遠は「先輩の報告ではないな」とだけ言った。保護者だな、とは言わなかった。昨日から同じやり取りを繰り返す必要はない。朱音も「先輩です」とは返さなかった。水瀬は澪の前に少し膝を折り、今日の聞き取りでは無理に思い出す必要はないこと、順番が正確でなくてもいいこと、途中で止めても記録として失敗ではないことを短く説明した。澪が繰り返したのは、その中の一つだけだった。


「止めても、失敗じゃない」


 検査室は昨日と似た白い部屋だった。測定器、椅子、封印環、記録机。だが人は少ない。医療班二名、水瀬、久遠、朱音。それだけだった。澪は椅子に座る前に、出口を見た。久遠がすぐに説明する。


「出口は二つ。正面扉と、奥の非常扉。非常扉は封鎖されているが、俺が開けられる。天井換気口は人間は通れん。お前でも通るな」

「お母さんが言った?」

「七瀬母から連絡があった。支援に必要な情報だ」


 澪は何かを飲み込むように黙った。家での小さな反応が、協会の白い部屋での準備に繋がっている。そのことが不思議だったのかもしれない。朱音も同じだった。母はただ優しいだけではない。澪が困る場所を一つずつ減らしている。


 検査は昨日より短かった。体温、脈拍、魔力波形、空膜反応、精神汚染、《転移》の安定性。魔力消耗はまだ大きいが、睡眠と食事で危険域からは離れつつある。空膜反応は定着したまま。精神汚染は軽微。ただし、九環残響と呼ぶしかない未分類の反応が、昨日よりはっきり観測されていた。水瀬は端末を見つめながら言った。


「九環残響は、外部侵食というより、帰還時に残った座標の癖に近いかもしれません。天瀬さんが九環を記憶しているだけではなく、九環側も天瀬さんを記憶しているような反応です」


 室内が静かになった。澪は驚かなかった。むしろ、その説明に少し納得したような顔をする。


「だから呼ぶ」


 久遠の目が鋭くなる。


「呼ばれても行くな。《転移》で九環方向を探るのも禁止だ」


 澪はすぐに返事をしなかった。その一拍だけで、朱音の胸が冷える。


「奥からなら、帰れるかもしれないと思った」


 澪は正直に言った。隠さなかったことを褒めるべきか、考えたことを怒るべきか。朱音は一瞬迷い、どちらもしなかった。代わりに、澪の足元を見た。協会の簡易シューズから、白と水色の靴下が少しだけ覗いている。結衣の靴下。家装備。朱音はその足元を見ながら、言葉を選んだ。


「行きたいなら、いつか行く話はする。でも、帰る場所を覚える前に行かないで。九環の座標より先に、こっちの座標を増やして」


 澪は長く黙った。朱音の名前、七瀬家、結衣の自転車、母の白湯、父の玄関、靴下、夜の肉。そういうものを、頭の中で一つずつ並べているようだった。


「覚えるまで、行かない」


 澪はやがて言った。朱音はその言葉を約束として受け取った。完全な保証ではない。澪の約束は、時々危うい。本人は守るつもりでも、危険の方が上回れば破るかもしれない。それでも言葉にしたことには意味がある。


 その後、協会の素材管理担当と装備管理担当が同席し、澪の所持品と九環から持ち帰ったものについて説明を始めた。帰還札の優先度は、確かに下がる。少なくとも澪自身が単独で帰還するだけなら、《転移》は帰還札より強い切り札になり得る。だがそれは、金が不要になるという意味ではなかった。むしろ、必要な金の種類が変わっただけだった。


 予備武器、予備防具、深層環境用の内装、空膜反応を遮断する保管容器、骨鎌の正式加工、鎖の再調整、異常空間でも壊れにくい測位具。九環で拾った骨や膜片は、素材としては異常な価値を持つ。命を懸けて持ち帰るダンジョン由来の品は、低層の魔石一つでも学生の小遣いとは比べ物にならない。まして九環由来となれば、研究機関や上位工房なら喉から手が出るほど欲しがるはずだった。


 けれど、高いものほど、すぐ金になるとは限らない。


 素材管理担当は、澪のインベントリ内に残っている未鑑定素材の一覧を見ながら言った。


「通常素材なら、協会買い取りで即日精算できます。ですが、九環由来と推定されるものは別です。まず危険性の確認、次に汚染度の測定、それから所有権と研究利用の区分確認が必要です。未確認素材は高額ですが、高額だからこそ即金では動かせません」

「売れない?」

「売れます。ただし査定に時間がかかります。危険物扱いになるものは協会預かりになり、保管費が発生する場合もあります。加工に回す場合は、さらに別料金です」

「高いものを持ってるのに、お金が減る」

「そういうこともあります」


 澪は露骨に嫌そうな顔をした。


 装備管理担当が気まずそうに咳払いする。


「骨鎌の素材は、特に厄介です。価値はあります。正直、値段をつけるだけなら相当な額になります。ただ、あれを武器として使える形にするには、空膜耐性のある工房と技師が必要です。普通の鍛冶場に出せば、炉か職人のどちらかが壊れます」

「藤堂先生は?」

「藤堂教諭なら相談先としては有力ですが、天瀬さんは失踪期間の関係で学籍と補助の扱いが止まっています。復学手続きが終わるまでは、学園工房の学生枠は使えません。復学後も、九環素材は補助対象外になる可能性が高いです」


 朱音は澪の横顔を見る。昨日まで、金の問題といえば帰還札が分かりやすかった。だがこれからは違う。帰れるかどうかより、帰ってきた後にもう一度潜る準備ができるかどうか。澪が抱えて帰ってきたものは、強さであると同時に、ありえないほど高い請求書でもあった。


「つまり」


 澪は資料を見ながら、静かに言った。


「素材を売ればお金になる。でも、使うならもっとお金がいる」

「大まかには」

「探索して素材を拾う。売る。装備を直す。また潜る」

「探索者の基本だな」


 久遠が言った。


 澪は少しだけ目を細める。


「分かりやすい」

「分かりやすいが、今すぐやるな」

「今、言うと思った」

「言われるような顔をするな」


 水瀬が横で端末を操作しながら補足した。


「配信収益も選択肢の一つではあります。ただ、主収入にする必要はありません。ダンジョン素材の買い取り、協会依頼、研究機関へのデータ提供、装備素材の一部売却。方法はいくつかあります。天瀬さんの場合、むしろ配信は収益より注目リスクの方が大きい」

「短く」

「素材は売れる。配信は急がない」

「分かった」


 澪は頷いた。朱音も少しだけ安心した。配信で稼ぐという発想自体は、澪の中にある。だが、それしかないわけではない。探索者は命を懸けてダンジョンへ潜る。だからこそ、持ち帰ったものには値がつく。問題は、その価値を安全に金へ変えるまでの時間と、その間に澪がまた無茶をしないかだった。


 短い休憩の後、聞き取りが始まった。水瀬が録音を確認し、紙の記録用紙を整える。久遠が壁際で腕を組み、医療班が精神反応の測定器を起動した。朱音は澪の隣に座り、手を握る。ここで何度も「無理しないで」とは言わない。その言葉はもう置いてある。澪が本当に戻れなくなりそうな時に、ちゃんと引くために、朱音は余計な言葉を減らした。


「最初に見えたものを覚えていますか」


 水瀬が聞いた。


 澪は目を閉じた。数秒、何も起きなかった。けれど朱音には分かった。澪の指先が冷えていく。呼吸が浅くなる。まぶたの下で目が動く。澪は今、ここではない場所を見ている。


「白かった。空が、地面に刺さってた」


 澪の声は低くなった。


「地面が白くて、空も白かった。でも空じゃなかった。落ちた空が、割れて、地面に刺さってた。墓標みたいに。近いのに遠い。遠いのに、影だけ足元に落ちる」


 水瀬はペンを止めない。久遠は表情を変えない。だが、空気が少し冷えた。澪の言葉が単なる記憶ではなく、何か薄い膜を通してこちらへ染み出してくるようだった。


「怪我は」

「左足。右肩。肋骨。落ちた時か、最初の空葬鼠に噛まれた時。そこは混ざってる」

「空葬鼠について、分かる範囲で」

「小さい。白い。目も耳もない。空膜が動くと集まる。肉じゃなくて、音を齧る。噛まれると、自分の足音が分からなくなる。呼吸も、心臓も。遠くの空が割れる音は聞こえるのに、自分が生きてる音から先に消える」


 朱音は息をするのを忘れそうになった。生きている音から消える。足が折れ、肩が抜け、肋骨が折れた状態で、自分の呼吸も足音も聞こえないまま、小さな白い魔物に囲まれていたのか。声を出しそうになって、朱音はこらえた。名前を呼ぶだけでは、今の澪を助けられない。ここに繋ぐ言葉だけを選ばなければならない。朱音は握っている手を一度だけ強めた。澪の指が、かすかに返してくる。


「帰還札は使いましたか」

「使った。燃えた。火じゃない。文字が先に剥がれた。帰還座標が、上に落ちた。紙だけ残って、意味がなくなった」


 水瀬のペンが一瞬止まる。帰還札の術式剥離。第八環以降で報告はあるが、第九環では完全無効化に近い。彼はそう短く記録した。久遠が続ける。


「今の《転移》なら帰れるか」


 澪は少し黙った。


「私だけなら。場所が分かれば。でも他人はまだ無理。触れてても、裂けるかもしれない。空間じゃなくて、連れていく人の方が」


 朱音はそこで初めて口を開いた。


「その検証は、絶対に家でやらないで」


 澪は目を開けた。少し意外そうだった。


「家では、しない」

「協会でも、許可なしではしない。自分一人でも」


 澪は朱音を見て、頷いた。反論はなかった。たぶん、朱音が怖がっていることが分かったのだろう。


 水瀬は記録用紙をめくり、質問を変えた。時間感覚、食料、水。澪の答えは短く、淡々としていた。昼夜は信用できない。眠ると時間が飛ぶ。眠らなくても、同じ墓標を二度見ると一日経っていることがある。空葬鼠は食べられない。食べると音が消える。透明な草は少しなら食べられる。白い実は駄目。水は、飲むと身体の中に空が増えるものがある。朱音は昨日の夜を思い出す。七瀬家で白湯を飲んだ澪が「戻れる」と言った意味が、今なら少しだけ分かった。


「番犬の取り巻きは、食べられた」


 澪が自分から言った。


「硬い。骨が多い。魔力を通さないと噛めない。焼けない。火が嫌がる。薄く削って、空膜の薄いところで乾かす。味はない。でも、食べると再生が動く」


 朱音の喉が詰まった。魔物を食べる探索者はいる。食用可能な素材もある。けれど澪が言っているのは食材ではない。生き延びるための材料として、九環の魔物を削り、乾かし、食べていたのだ。母の鶏そぼろのおかゆを食べて「温かい」と言った澪の顔が、頭から離れなくなる。だから朱音は、場違いなくらい現実的なことを言った。


「今日は、食べられそうなら夕飯の肉を増やしてもらう」

「焼肉?」

「それは駄目。鶏から」


 少しだけ、澪の顔に不満が戻った。そのわずかな変化で、医療室の空気も少し戻る。朱音は安堵した。九環の食事から、七瀬家の夕飯へ。話題を逃がしたのではない。戻したのだ。だが、水瀬が次の質問を出した瞬間、その空気は消えた。


「空葬の番犬についてです。初遭遇時のみ確認します。最初に番犬を見たのは、落下からどれくらい後ですか」


 澪の表情が消えた。眠気も、食べ物への反応も、わずかに緩んだ空気も、すべて消える。目の焦点が医療室ではない場所へずれた。測定器のランプが青白く強く光る。朱音は手を握り直したが、澪の手の温度が急速に遠ざかっていく。


「天瀬。ここは協会だ」


 久遠が一歩前に出る。


 澪の唇がわずかに動いた。


「遠い。声も、朱音先輩の手も、遠い」


 朱音の胸が冷えた。


「白い。骨が鳴ってる。違う、風。風じゃない。息。番犬の息。空が、吸われてる」


 医療室の床に、白い光が一瞬走った。封印環が反応したのだ。


「聞き取り中止」


 久遠の声が鋭く飛ぶ。水瀬がすぐに録音を止め、医療班が測定器の出力を落とす。朱音は澪の両手を掴み、自分の頬に当てた。冷たい指先が肌に触れる。


「澪。私の温度だけ拾って。景色は見なくていい」


 朱音は、叫ばなかった。何度も名前を呼ばなかった。泣きそうな声にもしたくなかった。今必要なのは、澪より先に自分が崩れないことだった。


「ここは白い場所じゃない。協会の検査室。澪は結衣の靴下を履いてる。朝、七瀬家から来た。昼には帰る。結衣が帰ってきたら、澪はおかえりって言う」


 澪の視線が、わずかに下がった。協会の簡易シューズから、白と水色のモコモコした縁が見えている。


「家装備」

「そう。家装備。協会にまで履いてきたの」


 澪は瞬きをした。測定器の光が少し弱くなる。


「昼ご飯」

「ある」

「夜、肉」

「体調次第」

「結衣、ただいま」

「そう。澪は、おかえり」


 澪はゆっくり呼吸した。


「おかえり」

「今じゃないけど、合ってる」


 朱音の頬に触れていた澪の指が、少しずつ温度を取り戻した。床に走っていた白い光は消えている。封印環はまだ淡く反応しているが、危険な鋭さはない。医療班が数値を確認し、上昇は止まったと告げた。久遠は短く息を吐く。水瀬は記録用紙を握ったまま、顔を青くしていた。自分の質問で澪を引きずりかけたと思っているのだろう。


 澪はその顔を見て、静かに言った。


「水瀬先輩のせいじゃない。私が近づいた」

「でも、僕が聞きました」

「聞き取りだから。次は、私も気をつける」


 その言葉はたぶん、澪なりの慰めだった。九環帰りで、自分のことで精一杯のはずなのに、そういうところは変わっていない。朱音は嬉しくて、少し痛かった。


 久遠は椅子を引き、聞き取りの終了を告げた。澪はまだ話せると言いかけたが、久遠は首を横に振る。


「これは探索ではない。粘れば成果が出る場面じゃない。今日は戻る訓練までだ」

「戻る訓練」

「そうだ。九環を話す訓練じゃない。話して、戻る訓練だ」


 澪はその言葉を飲み込むように黙った。話して、戻る。澪にはこれから何度もそれが必要になるのだろう。九環で何があったか。番犬をどう倒したか。《転移》をどう得たか。奥に何を見たか。協会は知りたい。探索者社会も知りたい。配信の視聴者たちも、きっと知りたがる。けれど、それを話すたびに澪が九環へ引き戻されるなら、まず必要なのは話すことではなく、戻ることだ。七瀬家。白湯。結衣の靴下。夜の肉。そういう馬鹿みたいに普通のものが、澪を戻す目印になる。


「帰ろう」


 朱音が言うと、澪は素直に頷いた。


「帰る」


 その言葉を、朱音は今までで一番大事な言葉のように聞いた。


 医療室を出る前に、久遠が協会の仮許可書類を渡してきた。今日の聞き取りは中断。午後は自宅休養。夕方に簡易報告。夜間異常時は即連絡。配信再開は不可。《転移》使用禁止。インベントリ内危険物取り出し禁止。条件は相変わらず多い。けれど、最後に一文が追加されていた。


 七瀬家での滞在は、現時点で精神安定に有効と判断。


「七瀬。お前だけで抱えるな」


 久遠は書類を渡しながら言った。


「母親と妹も巻き込め。父親も使え。言い方は悪いが、あの家そのものが、今の天瀬の固定点になっている」


 固定点。協会らしい言い方だ。けれど、間違ってはいない。朱音だけではなく、母の白湯、父の玄関での助言、結衣の靴下と「ただいま」の約束。それら全部が、澪をこの世界に繋いでいる。


 支部を出る時、外の報道関係者はまだ残っていた。協会職員が遮っているが、カメラらしきものが一瞬見える。澪はそれを見て、ぽつりと言った。


「映っても、素材は落ちない」

「そこなんだ」

「報道、ドロップなし」

「その考え方はちょっと好きだけど、今は映らない方向で」


 協会車両に乗り込むと、澪は疲れたように背もたれに身体を預けた。聞き取りは短かったが、消耗は大きかったのだろう。朱音は母が持たせた水筒を渡す。澪は白湯を飲み、窓の外を見る。車は協会支部を離れた。白い廊下、封印環、測定器、九環の記憶。そういうものが背後へ遠ざかっていく。完全に消えるわけではない。澪の中には残っているし、朱音の中にも残った。それでも、車は住宅街へ向かって進んでいた。帰る場所へ向かっている。その事実だけで、朱音は少しだけ呼吸がしやすくなった。


 七瀬家の近くまで来ると、澪は眠りかけていた目を開けた。クリーム色の外壁、焦げ茶の屋根、低い植え込み、自転車置き場。結衣の自転車はまだない。澪はそれを確認してから、玄関の方を見る。車が止まる。玄関の扉が開き、朱音の母が出てくる。エプロン姿のまま、手には布巾を持っていた。協会車両に頭を下げ、それから澪を見る。


「おかえりなさい」


 澪は車から降りる前に、一度朱音を見た。朱音は頷く。澪は少しだけ息を吸った。


「ただいま」


 今度は昨日より、ほんの少しだけ早く言えた。


 昼食は、朝より少しだけ普通の食事に近づいていた。柔らかく煮たうどんに、細かく裂いた鶏肉と卵、薄く刻んだ青菜が入っている。澪は箸を持つ時に少し迷ったが、匙には戻らなかった。普通の練習、とだけ言って、滑る麺を慎重に掴んだ。母は協会で何を聞かれたかを一度だけ尋ね、澪が「九環を少し」と答えると、それ以上は聞かなかった。


「ここでは検査じゃないからね。書類にしなくていい話は、食べ終わってからでも遅くないわ」


 澪はその言葉をしばらく考えていた。家の会話。協会の記録でも、探索の報告でも、配信の材料でもない。ただ同じ食卓で交わされる、残らなくてもいい話。澪にとっては、それも練習の一つなのだろう。


 昼食後、澪は客間で少し眠った。母が枕元に、木でできた小さな呼び鈴を置いてくれた。結衣が幼い頃、熱を出した時に使っていたものらしい。澪はそれを両手で持ち、鳴らせば音が食べられずに届くのかと聞いた。母は「ここでは届くわ」と答えた。朱音は隣の自分の部屋で、ようやく短く眠った。


 目が覚めたのは、鈴の音ではなく玄関の音だった。扉が開き、結衣の声がする。


「ただいまー……って、大きい声出していいんだっけ」


 朱音が慌てて客間を覗くと、澪はもう起きていた。布団の上に座り、枕元の呼び鈴を両手で持っている。鳴らすかどうか迷っているうちに、結衣の声がしたのだろう。


 結衣が顔を出す。


「ただいま」


 今度は声を抑え、けれどはっきり言った。澪は布団の上で少し背筋を伸ばした。ほんの一拍だけ考えてから、言う。


「おかえり」


 結衣の顔がぱっと明るくなった。


「言えた!」

「言えた」


 それは、協会のどんな検査結果よりも、朱音には大事な進展に見えた。結衣は鞄から小さなミルク飴を出した。購買で買っただけのものだと言う。澪はすぐに朱音を見た。食べていいかを確認したのだ。勝手に食べない。その小さな変化が、朱音には嬉しかった。


「一個だけ。噛まないで、ゆっくり」


 澪は飴を口に入れ、数秒後、目をわずかに開いた。


「甘い。すごい」

「飴だからね」


 結衣は得意げに笑った。窓の外では、結衣の自転車が朝の空きスペースを埋めていた。ハンドルの布製キーホルダーが風に揺れている。澪はそれを見て、確認するように言う。


「戻ってる。結衣の自転車」

「うん。帰ってきたからね」

「おかえり、言った」

「言われた」


 結衣が嬉しそうに返す。


 その時、枕元の呼び鈴が小さく鳴った。誰も触れていなかった。ころん、と乾いた木の音が畳の上に落ちる。部屋の空気が止まった。朱音はすぐに澪を見る。澪も呼び鈴を見ていたが、怯えてはいなかった。むしろ、何かを確かめるように目を細めている。


「奥じゃない」


 澪は静かに言った。


「家の音。たぶん、音が戻っただけ」


 意味は分からなかった。九環で食べられた音が、この家で戻ろうとしているのか。それとも澪の中に残った残響が、家の音に触れて形を変えているのか。朱音には判断できない。協会には報告するべきだろう。けれど少なくとも、今の澪は怖がっていない。


「じゃあ、その鈴も家装備?」


 結衣がおそるおそる言った。澪は少し考え、頷く。


「強い」

「名前つける?」

「結衣、すぐそういうこと言う」


 朱音が言うと、結衣は当然のように返した。


「家装備なら名前いるでしょ」


 澪は呼び鈴を見つめ、少しだけ考えた。


「帰る鈴」


 そのままの名前だった。けれど、今の澪にはそのままの方がよかった。鳴らせば誰かが来る。音が届く。ここに戻ってこられる。九環の奥が呼ぶ声とは違う、家の中の呼び声。澪は帰る鈴を枕元に置いた。窓の外では結衣の自転車が揺れ、台所から母の足音が近づいてくる。廊下には学校帰りの結衣の鞄が置きっぱなしになっていて、朱音の部屋にはまだ剥がせない第九環の切り抜きが貼られている。


 戻ってきたものと、まだ戻らないものが、この家の中に混ざっていた。それでも澪は今、七瀬家の客間で、結衣の飴を舐め、モコモコした靴下を履き、帰る鈴を枕元に置いている。今日、澪は「行ってきます」と言い、「ただいま」と言い、結衣に「おかえり」と言った。協会で九環に引きずられかけ、それでも戻ってきた。昨日より、少しだけこちらにいる。それで十分だった。


 そう思った時、澪がふと顔を上げた。


「朱音先輩。夜、肉」

「その確認は忘れないんだ」

「大事」

「分かってる。お母さんと相談」


 澪は窓の外の自転車を見て、台所の音を聞き、廊下の鞄を見た。それから、小さく言った。


「みんな帰るなら、おかえりが忙しい」


 結衣が「かわいい」と言いかけて、朱音に睨まれて口を閉じた。けれど朱音も、同じことを思っていた。かわいい、と。それから、帰ってきてくれてよかった、と。

年下の妹ちゃんにかわいいと思われてて、てえてえ。

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