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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第二話 普通の朝

 澪が目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。


 高すぎない。割れていない。青い目もない。雲の骨が浮かんでいるわけでも、空葬原の白い砂が天井を這っているわけでもない。ただ、少し古い木枠の照明があり、その横に小さな染みが一つあるだけの、普通の家の天井だった。


 澪は数秒、動かなかった。


 布団が身体に触れている。柔らかい。沈む。沈んでも噛まれない。昨夜、朱音にそう言われたことを思い出す。足元には白と水色のモコモコした靴下。片方が少しずれて、かかとの下で丸まっていた。肌に触れる布の感触が、まだ少し変だった。柔らかすぎる。温かすぎる。防御力はほとんどなさそうなのに、敵意がない。


 澪は右手を動かそうとして、動かせなかった。


 何かに掴まれている。


 一瞬で意識が跳ねた。魔力路が反応し、身体が起き上がる寸前までいく。だが、指先に触れている温度が九環のものではなかった。硬い牙でも、空膜の糸でも、骨の触手でもない。人の手だった。朱音の手だ。


 布団の横で、朱音が壁にもたれたまま眠っていた。


 制服ではない。黒いジャケットも着ていない。昨日のままの部屋着に上着を引っかけ、肩には結衣が持ってきた毛布がずれ落ちかけている。長い髪は少し乱れ、目元には疲れが残っている。いつものように背筋を伸ばしていない朱音は、少しだけ年相応に見えた。いや、年相応よりも疲れて見えた。


 澪は握られた手を見た。

 離そうと思えば離せる。朱音は眠っている。力は強くない。けれど、澪はしばらくそのままにした。

 朱音の手は、昨日と同じだった。


 九環の空膜に触れた時のような冷たさはない。番犬の爪を受け止めた骨鎌の軋みもない。生きている人間の温度が、布団越しにじんわりと伝わってくる。澪はその温度を確かめるように、ほんの少しだけ指を曲げた。


 朱音の眉が動いた。


「……澪?」


 掠れた声だった。


「起きた」

「どこか痛い?」

「少し」

「どこ」

「全部ちょっと」

「それは大丈夫って言うやつじゃないからね」


 朱音は目を開けた。寝起きなのに、まず澪の顔色を見て、次に呼吸を見て、最後に窓と扉を確認する。その順番が、あまりにも朱音らしかった。


 澪は少しだけ首を傾げる。


「朱音先輩、寝てた」

「見張ってたら寝落ちした」

「駄目?」

「駄目なのは私じゃなくて澪」

「私、寝てた」

「それは偉い」

「じゃあ勝ち?」

「何に?」


 朱音は額に手を当て、少しだけ笑った。笑った後、手を離してから小さく息を止める。澪の手をまだ握っていたことに気づいたのだろう。朱音は一瞬迷い、それからゆっくり手を離そうとした。


 澪は反射で、その指を掴み返した。

 朱音が止まる。


「澪?」

「……離すと、夢みたいになる」

「夢じゃないよ」

「分かってる」

「うん」

「でも、確認」


 朱音はしばらく黙っていた。

 そして、もう一度澪の手を握った。


「確認なら、いいよ」


 廊下の向こうで、軽い足音がした。

 ぱたぱたと遠慮のない音が近づいてきて、客間の扉の前で急に止まる。少し間があって、控えめなノックが二回。


「お姉ちゃん、澪ちゃん、起きてる?」


 結衣の声だった。

 朱音が返事をする前に、澪が言った。


「起きてる」

「入っていい?」

「私はいい」

「そこはお姉ちゃんにも聞いて」


 朱音がため息をつきながら答える。


「いいよ。静かにね」


 扉が少しだけ開き、結衣が顔を出した。寝癖を直したのか、昨夜より髪は整っている。淡い黄色のパーカーに、家用のゆるいズボン。手には小さな盆を持っていて、その上に湯気の立つマグカップが二つ載っていた。


「おはよう」

「おはよう」

「おはよう!澪ちゃん!…お姉ちゃん、そこで寝たの?」

「寝てない。見張ってた」

「寝てたよね」

「少し」

「床で?」

「壁にもたれて」

「お母さんに言ったら怒られるやつだ!」


 結衣は部屋に入り、盆を低い本棚の上に置いた。畳の上を歩く足音が軽い。澪はその動きを目で追った。結衣はそれに気づいて、少しだけ動きをゆっくりにする。


「急に近づかない方がいい?」

「分からない」

「じゃあ、ここまで」


 結衣は布団から少し離れた座布団に座った。昨夜もあった丸い座布団だ。澪は結衣の距離の取り方を見て、少しだけ目を細めた。


「結衣、賢い」

「えっ、褒められた?」

「うん」

「お姉ちゃん、聞いた? 澪ちゃんに賢いって言われた」

「調子に乗らない」

「乗るよ。これは乗る」


 結衣は嬉しそうに笑った。

 その笑い方は、朱音とは少し違った。朱音より軽く、柔らかく、家の中で育った音がする。澪はそれを不思議なもののように見ていた。


「飲めそうなら白湯。お母さんが、いきなり冷たい水はやめてって」

「白湯?」

「ぬるいお湯」

「お湯、飲む?」

「飲む。普通はね」

「普通、難しい」


 澪はマグカップを受け取り、両手で持った。湯気が顔に触れる。何の変哲もない白湯だった。匂いはほとんどない。色もない。けれど、飲んでも身体の中に空は増えない。軽くならない。戻れなくならない。


 一口飲んで、澪は小さく頷いた。


「戻れる」

「白湯で?」

「うん」

「そっか。白湯すごいね」


 結衣は茶化すでもなく、真面目にそう言った。

 朱音は少しだけ結衣を見た。


 妹は、昨夜から澪に対して妙に上手い距離を取っている。怖がっていないわけではない。むしろ、怖いからこそ丁寧なのだろう。普通の家の子として、普通の物を持ってきて、普通の会話をする。朱音には少し難しいことだった。どうしても心配が先に立つ。説教したくなる。逃がしたくなくなる。けれど結衣は、澪を「大変な帰還者」としてだけではなく、「姉がずっと心配していた子」として見ている。


 その違いが、今の澪には少し効いているようだった。


「澪、気持ち悪くない? 頭痛は? 寒気は?」

「……朱音先輩」

「何…?」

「質問、多い」

「…減らす努力はする」

「今、何個?」

「三個」

「多い」

「一個ずつ聞く。気持ち悪くない?」

「少し」

「頭痛は?」

「少し」

「寒気は?」

「ない。靴下、温かい」


 澪は布団の中で足を少し動かした。白と水色のモコモコ靴下が布団の端から覗く。


 結衣が胸を張る。


「私の靴下、役に立った」

「戦闘向きじゃないけど、温かい」

「家の中ではそれが最強」

「最強」

「そう。家装備だから」


 澪はその言葉をしばらく考えた。


「家装備」

「うん。防御力は低いけど、回復補正が高いやつ」

「結衣、説明うまい」

「でしょ?」


 朱音は呆れたように見せながら、少しだけ笑った。


 朝の光は、まだ部屋に強く入っていなかった。カーテンの隙間から淡い灰色の光が差し、畳の目を細く照らしている。昨夜見た時よりも、客間は少し生活に近く見えた。押し入れの襖の取っ手、低い本棚の埃のない天板、古い児童書の背表紙、アルバムの角。窓の外からは、遠くの車の音と、どこかの家で雨戸を開ける音がした。


 澪は、その音に何度も反応した。


 車の音。足音。廊下で食器が触れる音。台所の換気扇。朱音の母が包丁を置く音。普通の家の朝は、静かではなかった。命を狙う音ではないのに、澪の身体はそのすべてを拾おうとする。寝起きで弱っているはずなのに、目だけが忙しく動く。


 朱音は布団の横で膝を立てた。


「澪。音、うるさい?」

「多い」

「耳、痛い?」

「痛くない。けど、敵じゃない音が多い」

「敵じゃない音」

「分類、難しい」


 澪は言葉を探すように天井を見た。


「九環は、音が少ない。鳴ったら、だいたい危ない」

「ここは逆かも。音がある方が普通」

「音がないと?」

「みんな寝てるか、留守か、何かあった時」

「難しい」

「うん。難しいなら、今日は私が分類する」

「朱音先輩が?」

「今のはお母さんが包丁置いた音。こっちは結衣が足動かした音。外は新聞配達か、近所の人。危なくない」

「全部分かる?」

「家の音なら、だいたい」


 澪は少しだけ朱音を見た。


「すごい」

「家ではね」


 朱音はそう言ってから、少し照れた。


 家では分かる。階段の音だけで母か父か結衣か分かる。台所の音で朝ご飯の進み具合が分かる。洗濯機の音で母がもう二回目を回していることが分かる。玄関の鍵の音で父がゴミ出しに行くか、結衣が忘れ物を取りに戻ったか分かる。そんなものは探索者としての能力ではない。ただこの家で暮らしてきた時間がくれた、当たり前の感覚だ。


 澪には、それが足りない。


 だから朱音は、しばらくその役目をやってもいいと思った。


 扉の外から母の声がした。


「起きてる?」

「起きてる」


 朱音が返事をすると、母が盆を持って入ってきた。小さめの茶碗に入った卵粥、柔らかく煮た野菜、湯気の立つ味噌汁。昨夜よりも少しだけ量が増えている。母はそれを布団の近くに置き、澪の顔色を見た。


「おはよう、澪ちゃん。眠れた?」

「眠った」

「それはよかった。夢は?」

「少し」

「怖い夢?」

「九環の夢」

「そう」


 母はそれ以上聞かなかった。


 澪は母を見た。


「聞かないの?」

「今は朝ご飯の時間だから。夢の話は、食べてからでも遅くないわ」

「食べたら、忘れるかも」

「忘れたなら、今は忘れていい夢だったのよ」


 澪は返事をしなかった。


 けれど、その言葉をどこかに置くように目を伏せた。


 朱音は母を少し羨ましく思った。自分ならすぐ聞いてしまう。何を見たのか、どこまで覚えているのか、危ない兆候ではないのか、聞かなければ守れないと思ってしまう。けれど母は、今聞かないという守り方を知っている。


 母は澪の前に匙を置いた。


「食べられそう?」

「うん」

「無理しなくていいからね」

「無理じゃない」

「じゃあ、ゆっくり」

「ゆっくり、多い」

「この家の朝の合言葉にしましょうか」


 結衣がすぐに乗った。


「今日の標語。ゆっくり」

「結衣もね。学校に遅れるわよ」

「えっ、今日学校あるの?」

「あるわよ」

「澪ちゃん帰ってきた記念日で休みにならない?」

「なりません」


 結衣は分かりやすく肩を落とした。

 澪が匙を持ったまま結衣を見る。


「学校、行くの?」

「行くよ。中学生だから」


「危なくない?」

「学校はまあ、別の意味で危ないけど、ダンジョンほどじゃないかな」


「別の意味」

「小テストとか」


「小テスト……」

「敵より嫌な時ある」


 澪は少し考えた。


「倒せない?」

「倒したら怒られる」

「難しい」


 結衣は笑った。


「澪ちゃん、本当にそういうところあるんだ」

「どういうところ?」

 澪が首を傾ける。

「お姉ちゃんが言ってた。澪は常識を横から見てるって」

「横?」

「正面から見てない」

「正面、危ない」

「そういうところ!」


 朱音は片手で顔を覆った。


「結衣、人の説明を勝手に引用しない」

「だって合ってる」

「合ってるけど……」

「ほら!」


 澪は卵粥を一口食べた。


 昨夜よりは少し表情が柔らかい。温かさに驚くのではなく、温かいものとして受け取っている。食べる速度も、昨日ほど危うくない。朱音はそれだけで少し安心した。


 だが、安心しきるには早かった。


 澪は半分ほど食べたところで、急に手を止めた。目線が窓へ向く。朱音もすぐにそちらを見た。窓の外には朝の空がある。薄い雲が流れ、隣家の屋根が見えるだけ。異常はない。


「澪?」

「…呼んだ」

「誰が?」

「奥…」


 部屋の空気が変わった。

 結衣が息を呑む。母も何も言わずに澪を見る。朱音はできるだけ声を荒げないようにした。


「今も?」

「今は、弱い」

「どんな感じ」

「遠くで、水が鳴ってるみたい。水じゃないけど」

「行きたい?」

「少し」

「行かないよ」


 澪は頷いた。


「今日は、行かない」


 朱音はその言葉の中身を慎重に聞いた。

 今日は。

 明日は、違うかもしれない。明後日は、分からない。澪は嘘をついていない。だから余計に怖い。


「澪」

「うん」

「今日は、じゃなくて、しばらく行かない」

「しばらく?」

「検査が終わって、協会と話して、装備を整えて、私が納得するまで」

「長い……」

 澪はむっとする。


「長くていい」

「奥、待たないかも」

「澪が死んだら、もっと待たせることになる」

「……それは、困る」

「なら、待たせなさい」


 澪は匙を持ったまま黙った。


 朱音は言ってから、自分の言葉が少し強かったことに気づいた。だが、撤回する気にはなれなかった。澪は帰ってきた。帰ってきたばかりだ。奥が呼ぶからといって、またそこへ歩き出すことを許せるほど、朱音はまだ落ち着いていない。


 母が静かに口を開いた。


「澪ちゃん」

「はい」

「奥が呼ぶなら、こっちも呼ぶわ」

「こっち?」

「朝ご飯も、お風呂も、靴下も、布団も、全部こっち。結衣も明日おはようって言うそうだから、こっちの予定もけっこう多いのよ」

「…予定」

「そう。今日は再検査。帰ってきたら昼ご飯。夜は消化に良さそうなら、少しだけお肉を増やす予定」

「肉!」

「お母さん、交渉材料が強い」

「強いでしょう」


 結衣が感心したように言う。


 澪の視線が、窓から食卓へ戻った。


「夜、肉」

「検査と体調次第ね」

「頑張る」

「頑張りすぎないことを頑張って」


 澪は難しそうな顔をした。


「それ、一番難しい」

「知ってる」


 朱音は小さく息を吐いた。


 空気が少しだけ戻る。けれど、完全には戻らない。奥が呼んでいる。その事実は部屋の隅に残ったままだった。低い本棚の影、襖の前、畳の目の間。普通の朝の中に、九環の残響が薄く混ざっている。


 それでも澪は、残りの卵粥を食べた。

 ゆっくりと。


 結衣が学校へ行く準備を始める頃、澪は布団の上で膝を抱えていた。朝ご飯を食べ終え、白湯を飲み、母に体温を測られ、朱音に顔色を確認され、協会から届いた簡易測定具で魔力反応を確認された後だった。


 結衣はリビングと階段を何度も往復しながら、鞄に教科書を詰めていた。


「お姉ちゃん、今日送らないよね?」

「送れない。澪の再検査」

「分かってる。言ってみただけ」

「気をつけて行って」

「はーい」


 結衣は玄関へ向かいかけて、途中で戻ってきた。客間の入口から顔を出す。


「澪ちゃん」

「うん」

「行ってきます」


 澪は一瞬、返事に迷ったようだった。

 朱音は横で黙って待つ。

 澪はゆっくり言った。


「行ってらっしゃい」


 結衣の顔がぱっと明るくなった。


「言えた」

「言えた?」


「うん。帰ってきたら、ただいまって言うから」

「分かった」

「返事は、おかえり」

「おかえり」

「今じゃない」

「難しい」

「帰ってきた時ね」

「分かった」


 結衣は満足そうに頷いた。


 それから少しだけ真面目な顔になって、澪の足元を見た。白と水色の靴下。


「靴下、今日も履いてていいよ」

「学校は?」

「予備あるし。あと、それ、澪ちゃんに似合ってる」

「戦闘向きじゃない」

「家装備だからね」

「うん」


 結衣は笑って、今度こそ玄関へ走っていった。


 すぐに母の声がする。


「結衣、走らない。忘れ物は?」

「ない!」

「ハンカチ」

「あっ」

「ほら」

「行ってきます!」


 玄関の扉が開いて、閉まる。


 家の中が少し静かになった。


 澪はしばらく玄関の方を見ていた。


「帰ってくる?」

「帰ってくるよ」

「学校から」

「うん」

「毎日?」

「だいたい毎日」

「そっか」


 澪は少しだけ目を伏せた。


「すごいね」

「何が?」

「行って、帰ってくるのが普通」


 朱音は答えられなかった。


 行って帰ってくる。当たり前だった。学校でも、買い物でも、部活でも、ダンジョンでも、本当は当たり前でなければならなかった。けれど探索者にとって、その当たり前はいつも薄い膜の上にある。澪はそれを誰よりも知っている。行った先で一年帰れなかったからだ。

 朱音は澪の隣に座った。


「澪も、帰ってきた」

「うん」

「これからは、行くなら帰るまでを予定に入れて」

「帰るまで」

「そう。探索計画に、帰ってくる場所も入れる」

「朱音先輩の家?」

「今はね」


 澪は少し考えた。


「じゃあ、ここに帰る」

「うん」

「転移で?」

「協会が許可したら」

「便利」

「便利だからこそ、勝手に使わない」

「帰還札、いらなくなる?」

「減るとは思う。でも、持つ」

「どうして」

「《転移》が使えない状態になるかもしれない。魔力切れとか、座標ズレとか、誰かを連れて帰る時とか、協会の規則とか。あと、私が安心する」

「朱音先輩が安心する」

「それ大事」

「大事?」

「うん、大事」


 澪は頷いた。


「じゃあ、持つ」

「よし」


 朱音は少しだけ笑った。


 澪は、帰還札の値段には不満がありそうだった。けれど「朱音が安心する」と言うと、意外とあっさり受け入れた。そのことに、朱音は少しだけ救われる。


 完全に言うことを聞くわけではない。きっとまた無茶をする。目を離せば、危ない方へ進む。それでも、澪の中にこちら側へ戻るための杭を打てるなら、何本でも打ちたかった。帰還札でも、食事でも、靴下でも、結衣の「おかえり」でもいい。


 朱音は立ち上がった。


「そろそろ支度しよう。協会に行くよ」

「また検査?」

「そう」

「多い」

「帰ってきたばかりだから」

「帰ってきたら検査」

「そう」

「帰ってきたらご飯もある?」

「ある」

「じゃあ行く」


 朱音は笑った。


「分かりやすい」


 澪は布団から出ようとして、少しふらついた。朱音が支える。白と水色の靴下が畳の上に下りる。昨日よりは立てている。けれど、まだ危なっかしい。朱音は澪の腕を支えながら、ゆっくり立たせた。


 客間の窓から、朝の光が入り始めていた。


 夜の間は青黒かった空が、薄い白に変わっている。高すぎず、裂けてもいない普通の空。澪はその空を見て、少しだけ目を細めた。


「普通の朝」

「うん」

「眩しい」

「カーテン閉める?」

「少しだけ、このまま」


 澪はそう言った。


 朱音は頷き、澪が立っていられるように支えたまま、しばらく一緒に窓の外を見た。


 遠くで、結衣の自転車のベルが小さく鳴った。


 澪はその音に反応し、それから朱音を見た。


「今のは?」

「結衣の自転車」

「危なくない?」

「たぶん、近所の角で友達に会った音」

「分かるの?」

「だいたい」


 澪は小さく頷いた。


「家の音」

「うん。家の音」


 朱音は澪の肩に手を添えた。


 九環の奥は、まだ澪を呼んでいる。きっと今日も、明日も、その先も。けれど、こちら側にも音がある。台所の包丁の音。階段を下りる妹の足音。父が新聞を畳む音。母が味噌汁をよそう音。自転車のベル。白湯の湯気。畳を踏む靴下の柔らかい擦れ。


 澪が覚えなければならない音が、この家にはたくさんある。


 朱音は、それを一つずつ教えていこうと思った。


 まずは今日、協会へ行く。


 検査を受ける。聞き取りを少しだけする。帰ってくる。昼ご飯を食べる。夕方には、結衣が玄関で「ただいま」と言う。それに澪が「おかえり」と返せたら、きっと昨日より少しだけ、この家に近づける。


 そんな予定を立てながら、朱音は澪の手を握った。


「行こう」

「うん」


 澪は歩き出した。


 白と水色の靴下で、畳の上をゆっくりと。


遥や凛の成長イラスト、要望があれば上げます。

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