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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第二章

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第一話 帰る場所

第二章です。

 澪が帰ってきた。


 その事実は、言葉にするとあまりに短かった。七瀬朱音は、帰還管理区画の白い床に立ったまま、腕の中にある少女の重さを何度も確かめていた。幻ではない。配信画面の向こう側でもない。未帰還者名簿の文字でも、記録映像のノイズでもない。天瀬澪は、朱音の両腕の中にいた。冷たく、軽く、傷だらけで、九環の匂いをまとって、それでも確かに呼吸していた。


 協会職員たちは、しばらく誰も動けなかった。騒ぐ者も、近づく者も、記録を読み上げる者もいない。青白い光の残滓が床の受入陣を撫で、消えかけた配信画面の黒いモニターに、まだ空葬原の白い墓標の影が焼きついている。さっきまでそこにあった巨大な青い目は、もう映っていない。けれど見てしまった者の中からは、簡単には消えてくれそうになかった。


 最初に動いたのは久遠だった。


「全員、直接視認をやめろ。モニターは遮蔽。帰還管理区画を第二封鎖へ移行。外部配信は完全遮断。天瀬澪の身柄は協会医療班と探索者高校教員立ち会いで確認する」


 低い声が区画に通った。職員たちがようやく動き出す。封印布がモニターにかけられ、観測柱の出力が落とされ、帰還管理区画の扉が閉じられていく。藤堂は床に落ちていた白い骨片を封印箱へ入れ、水瀬は端末と紙の記録の両方に同じ数字を書き込んでいた。凛は泣きながらも手を止めない。遥は入口付近で外から覗こうとする職員や探索者を押し返している。


 その中央で、朱音だけが澪を離せなかった。


「七瀬」


 久遠が言った。


 朱音は反応したが、腕は緩めなかった。


「医療班に渡せ」

「……はい」


 返事はした。けれど身体が動かない。自分でも分かっていた。今離したら、また青白い裂け目に持っていかれるのではないか。そんな馬鹿なことが頭から離れない。一年前、確かに掴んだはずの手がすり抜けた。その感触が、今も掌に残っている。


 澪が、朱音の肩に額を預けたまま小さく言った。


「朱音先輩」

「何」

「息、ちょっと苦しい」


 朱音は弾かれたように腕を緩めた。


「ご、ごめん! 痛かった? どこ? 肋骨? 肩? というか、全部痛いよね? 何で先に言わないの」

「抱きしめられてた」

「抱きしめてても言いなさいよ」

「久しぶりだったから」


 澪の声はかすれていた。以前の眠そうな平坦さは残っている。けれど、その奥にざらつきがある。砂と骨を噛んだような乾いた響きだった。朱音はそれだけで胸が詰まり、また泣きそうになった。


「……久しぶりで済む長さじゃないから」

「一年??」

「そう。一年」

「私の方は、たぶん、そんなにない」

「それも後で聞く。全部聞く。逃げないで」

「逃げない」

「今の澪の『逃げない』は信用したいけど信用できない」

「じゃあ、見張ってて」


 澪は当たり前のように言った。


 朱音は言葉に詰まった。怒るつもりだった。もっとたくさん言いたいことがあった。どうして落ちたのか、どうして帰ってこられたのか、九環で何をしていたのか、何を食べていたのか、その身体は何なのか、髪の白いところは戻るのか、眠れていたのか、怖くなかったのか、何度死にかけたのか。だが、澪がそんなふうに頼むから、怒りの置き場所が一瞬分からなくなる。


 結局、朱音は澪の右手を握った。


「見張る。だから、ちゃんと検査受けて」

「ご飯は?」

「検査の後」

「肉」

「検査の後。おかゆから」

「……肉」

「九環から帰ってきて最初に食べるのが焼肉だったら、胃がびっくりしてまた医療班が叫ぶでしょ」

「胃は強くなった」

「澪の自己申告は採用しません」


 医療班の担架が運ばれてきた。澪はそれを見て、少しだけ眉を寄せる。


「歩ける」

「歩けるのと、歩いていいのは違う」

「朱音先輩、久遠先生みたい」

「今の私は澪を逃がさない係なので、久遠先生よりうるさいです」


 澪は数秒考えた後、素直に担架へ腰を下ろした。座った瞬間、身体がわずかに傾く。朱音が支える。背中に触れた指先に、布ではない何かが引っかかった。乾いた皮膜。裂けた外套のように見えるそれは、よく見ると布と空葬獣の薄い膜を編み合わせたものだった。服はぼろぼろだ。黒い探索用インナーはほとんど原形を残していない。胸元と腹部は包帯のような布で巻かれ、腰には何本ものベルトと骨片が固定されている。タイツは履いていない。両脚は傷跡と古い包帯だらけで、片足の靴は壊れたブーツを骨板と革紐で無理やり補修したものだった。


 武器はなかった。

 あの巨大な空骨の鎌も、短くなった鎖も、今は澪の手元には見えない。

 藤堂がそれに気づき、目を細める。


「天瀬。武器はどうした」

「インベントリ」

「入るのか」

「入るようになった」


 藤堂は一瞬だけ眉を動かした。


「後で全部出せ。いや、勝手に出すな。検査室で封印環を敷いてからだ」

「はい」

「九環の骨をその辺に転がしたら、今度こそ支部長が倒れる」

「倒れると困る?」

「困る。書類が増える」

「じゃあ出さない」


 久遠が短く息を吐いた。怒っているようにも、少しだけ安心しているようにも見えた。


 医療区画へ運ばれる間、澪はずっと朱音の手を離さなかった。正確には、朱音が離さなかった。担架の横を歩きながら、指先を絡めるように握っている。職員の何人かがこちらを見たが、誰も何も言わなかった。未帰還から一年ぶりに戻った探索者と、その手を握る三年生。今ここで引き離すほど無粋な人間はいなかったらしい。


 検査室は、帰還管理区画よりもさらに白かった。魔力遮断材で囲まれた個室。壁には精神汚染測定器、空間干渉計、血液採取具、魔力波形計が並んでいる。澪は担架から降りることなく、上着代わりの皮膜を外された。白く細い肩、傷跡の多い腕、薄く浮いた肋骨、腹部に残る噛み痕。朱音は見ていられなくなりそうで、それでも目を逸らさなかった。逸らしたら、澪がまた「大丈夫」と言ってしまう気がしたからだ。


 医療班の女性が、慎重に澪の手首へ測定具をつける。


「天瀬澪さん。本人確認のため、名前と年齢をお願いします」

「天瀬澪。年齢……」

 澪が止まった。


 朱音の指が少し強くなる。


「十六、のはず」

「登録上は十六歳です。失踪時点から一年経過していますが、法的年齢はそのまま進行しています。現在十七歳相当の扱いになります」

「十七」


 澪は少し不思議そうに繰り返した。


「朱音先輩は」

「十八」

「大人?」

「まだ高校生。大人ぶらなきゃいけない場面は増えたけど」

「そっか」


 澪はそのまま目を閉じかける。


「寝るな」

 久遠が言った。


 澪は薄く目を開ける。


「眠い」

「分かっている。だが先に確認する。お前の状態次第では、この支部ごと封鎖になる」

「迷惑」

「その認識があるなら協力しろ」

「はい」


 水瀬が測定器から送られてきた数値を見て、表情を硬くした。


「魔力波形、既存分類に該当なし。空膜反応あり。ただし外部侵食ではなく、本人の魔力路に組み込まれているように見えます。精神汚染反応は……低いです。低すぎるくらいです」

「低すぎる?」


 朱音が聞く。


「一年九環にいたと仮定するなら、精神汚染がこの程度で済むのは不自然です。耐性が上がっているか、汚染を別の形で処理しているか」

「処理って何」

「分かりません」


 水瀬は正直に言った。


「分からないので、記録します」


 澪が少しだけ水瀬を見る。


「水瀬先輩、変わらない」

「僕は一年分、多少は成長したつもりですが」

「記録するところ」

「そこは変えると困ります」


 凛が涙を拭きながら、小さく笑った。遥は壁にもたれ、腕を組んでいる。いつもの軽さが戻りきっていない。澪から目を離すたびに、もう一度確認するように見ている。


 藤堂は検査室の隅で、封印箱を開ける準備をしていた。


「天瀬。インベントリの使用は可能か」

「たぶん」

「四十七番枠は?」

「なくなった」


 室内の空気が変わった。


 久遠が一歩近づく。


「なくなった、とは」

「九環で、開いた。そこから落ちた。途中で、何度か使った。今はない。代わりに、広くなった」

「容量は」

「六十四」


 朱音は息を呑んだ。


「Lv64……?」


 澪は頷く。


「たぶん」


 水瀬の手が止まった。凛がペンを落としかける。遥が低く口笛を吹きかけ、朱音に睨まれてやめる。久遠は表情を変えなかったが、目の奥だけが鋭くなる。


「ステータスを出せるか」

「出せる」

「読み上げろ。公開範囲はここにいる者だけだ。職員、記録は秘匿扱い」


 職員が慌てて頷く。


 澪は少しだけ目を伏せ、自分だけに見える画面を開いた。


 その瞬間、検査室の魔力灯が一度だけ薄く揺れた。青ではなく、白い光。冬の朝のような冷たさを持つ光だった。


 澪は淡々と読み上げる。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:64


 存在進化:発現済

 進化系統:不明

 仮称:《境界人》

 分類:未確認

 記録照合:該当なし


 状態:

 重度疲労

 飢餓:中

 脱水:軽度

 魔力消耗:大

 全身裂傷:回復中

 骨折痕:複数回復済

 空膜適応:定着

 精神汚染:軽微

 睡眠不足:深刻

 帰還直後不安定:継続


 ユニークスキル:

 《適応》


 通常スキル:

 《身体強化》Lv6

 《魔力操作》Lv8

 《魔力強化》Lv5

 《魔力感知》Lv5

 《格闘術》Lv6

 《短剣術》Lv4

 《鎖術》Lv7

 《投擲》Lv4

 《再生》Lv9

 《状態異常耐性》Lv5

 《精神汚染耐性》Lv5

 《風属性耐性》Lv2

 《空間把握》Lv6

 《空膜耐性》Lv5

 《転移》NEW Lv1

 ――――――


 誰もすぐには言葉を発しなかった。


 沈黙が落ちた。


 水瀬のペン先が、紙の上で止まっている。凛は口元を押さえたまま、目を大きく開いていた。遥は笑おうとして失敗したような顔をしている。藤堂は封印箱の蓋に手を置いたまま、低く「化け物かよ」と呟き、久遠に睨まれた。


 朱音は、数字の意味をゆっくり飲み込んでいた。


 Lv64。


 失踪前の澪はLv47だった。一年で十七レベル上がっている。しかも、第一層第九環で。普通の成長ではない。生きて戻ったこと自体が異常なのに、その中身はさらに異常だった。


 《再生》Lv9。


 朱音はその文字を聞いた瞬間、背中が冷たくなった。Lv8の時点で異常だった。普通の探索者から見れば、別世界だった。その上。人間がそこまで再生を上げるために、どれだけ壊されればいいのか。どれだけ傷つき、どれだけ死にかければ、身体はそこまで戻ることを覚えるのか。


「澪」


 朱音の声は、自分でも驚くほど低かった。


「何回、死にかけたの」


 澪は少し考えた。


 その沈黙が、答えだった。


「数えてない」


 朱音は目を閉じた。


 怒りたい。怒りたかった。けれど、その言葉の奥にある一年を想像した瞬間、怒りは形を失った。代わりに、喉の奥が痛くなる。


「……あとで、ちゃんと聞く」

「うん」

「今は寝ないで。検査終わるまで」

「うん」

「終わったら食べさせる」

「肉?」

「まずおかゆ」

「肉入り?」

「譲歩して鶏そぼろ」

「勝った」

「勝ってない」


 澪はほんの少しだけ口元を緩めた。それだけで、朱音は少し救われた。

 久遠が水瀬へ視線を送る。


「《転移》について分かるか」


 水瀬は端末を操作し、すぐに首を振った。


「既存の空間系スキルには同名があります。ただし、発現レベル、取得経路、魔力波形が一致しません。一般的な《転移》よりも、空膜系と境界反応が強いです。名称は単純ですが、中身は別物の可能性があります」


「取得経路は」


 久遠が澪を見る。


 澪は少し黙った。


 それまでの問いには淡々と答えていたのに、ここでだけ言葉が遅れた。朱音はその変化を見逃さなかった。澪の指先が、ほんのわずかに震えている。


「番犬」


 澪が言った。


 検査室の空気がまた冷えた。


「空葬の番犬を、倒した。最後に、オーブが出た。使わないと消えそうだったから、使った」

「一人で倒したのか?」

「うん」

「一年かけて?」

「たぶん」

「倒した本人専用のスキルオーブ……。九環ボス報酬の仮説と一致します」


 水瀬の声は抑えられていたが、震えていた。


 凛が小さく言う。


「澪さん、本当に……九環のボスを……」

「入口の犬だけ」


 澪はそう言った。


 誰もそれを軽く受け取らなかった。


 入口の犬だけ。


 その一言が、逆に九環の広さと深さを物語っていた。澪が一年かけて倒したものが、九環全体から見れば入口にすぎない。なら、その奥には何がいるのか。あのモニター越しの青い目は、番犬だったのか、それとも番犬の先にいる何かなのか。


 久遠はしばらく黙ってから言った。


「天瀬。今は九環の詳細聞き取りをしない」


 澪が少しだけ顔を上げる。


「いいの?」

「お前は限界だ。まともに聞いても記録として使えん。まず食って、寝ろ」

「先生」

「何だ」

「優しい……。」

「寝不足で判断力が落ちているな。俺は合理的なだけだ」


 遥が小さく笑った。


「久遠先生、それ優しい人がよく言うやつです」

「浅見、黙れ」

「はい」


 検査室に、ほんの少しだけ人間の空気が戻った。


 その時、事務職員が遠慮がちに入室した。手には書類を持っている。今この場に入る勇気を出しただけでも大したものだと朱音は思ったが、職員の顔色は悪かった。


「すみません。本人確認が取れたため、生活関連の確認を早急に行う必要があります。天瀬さんの登録住所についてですが……」


 朱音は嫌な予感がした。


 澪は疲れた顔のまま職員を見る。


「部屋?」


「はい。未帰還処理に伴い、以前の賃貸物件はすでに解約されています。保管品は協会管理倉庫に移されていますが、現在、天瀬さんの居住登録はありません」


「住む場所がない」


「制度上は、協会の一時保護施設を利用できます。ただし未確認存在進化者および九環帰還者として、隔離管理区画での滞在が推奨されます」


 朱音は、その言葉を聞いた瞬間、ほとんど反射で口を開いた。


「うちに来ます」


 全員が朱音を見た。


 澪も見た。


 朱音は自分でも驚くほど自然に言っていた。迷いはなかった。一年前から、どこかで決めていたことだった。澪の部屋が解約されたと聞いた日から。いや、もっと前から。食べない澪におにぎりを渡した時から。危ないものを見に行こうとする澪の袖を掴んだ時から。


 この子は、放っておくと帰る場所を後回しにする。


 なら、自分が置くしかない。


「七瀬、それは家族と相談してから――」


 久遠が言いかける。


「相談します。でも、答えは変わりません」

「隔離の問題がある」

「協会の条件は聞きます。検査も受けさせます。通院もさせます。危ないものはインベントリに入れさせて、家の中で勝手に出させません。食事も睡眠も見ます。帰還札も持たせます」

「お前は保護者か」

「違います」


 朱音は澪の手を握ったまま言った。


「先輩です」


 澪が小さく瞬きをした。


 久遠はしばらく朱音を見ていたが、やがて深く息を吐いた。


「正式判断は後だ。だが、本人の意思確認は必要だ。天瀬」

「はい」

「協会保護施設と七瀬宅、一時滞在先を選べ」


 澪は朱音を見た。


「朱音先輩の家」


 即答だった。


 朱音の心臓が跳ねる。


「理由は」


 久遠が聞く。


 澪は少し考えた。


「ご飯が出る」

「それだけか」

「見張ってくれる」

「他には」

「帰ってきた感じがする」


 朱音は視線を落とした。


 泣くな。さっきから何度もそう思っているのに、何度も危なくなる。


 久遠はそれ以上聞かなかった。


「分かった。正式手続きは後で詰める。今日のところは、検査終了後、七瀬家への一時預かりを仮許可とする。ただし、協会職員の巡回、定期検査、インベントリ封印確認、配信停止措置は継続だ」


「配信」


 澪が反応した。


 朱音が眉を寄せる。


「今は駄目」

「お金」

「まず生き返った報告と検査とご飯と睡眠」

「収益」

「現実的な心配をする元気があるのは良いことだけど、順番が違う」


 澪は少し不満そうに黙った。


 藤堂が笑う。


「戻って早々、金の心配か」

「帰還札、高い」

「そこは変わってねえぞ」

「困る」

「だからまず寝ろ。寝不足の奴に装備の話はしねえ」


 澪は本気で残念そうな顔をした。


 その顔を見て、朱音はようやく少しだけ笑った。


 帰ってきた。


 変わった。傷だらけで、白い髪が混じり、未確認の進化をして、九環の門番を倒して、転移なんてスキルまで得ている。けれど、帰還札が高いと眉を寄せ、食事を急ぎ、武器の話で目を開けるところは、どうしようもなく澪だった。


 検査はまだ続く。聞き取りも、協会との話し合いも、学校除籍の整理も、配信チャンネルの復旧も、保管品の確認も、九環で何があったのかも、全部これからだ。


 けれど朱音は、澪の手を握ったまま思った。


 今日は帰らせる。


 協会の白い部屋ではなく、保護施設の冷たいベッドでもなく、自分の家へ。母に連絡して、父に説明して、布団を敷いて、温かいものを食べさせる。風呂に入れられる状態なら入れて、無理なら身体を拭いて、髪を乾かして、眠るまで見張る。


 一年分の説教は、その後でいい。


 澪が眠って、目を覚まして、またそこにいると確認してからでいい。


 朱音はそう決めて、澪の手をもう一度握り直した。


♦  ♦


 検査は、終わりそうで終わらなかった。


 澪は何度も眠りかけ、そのたびに朱音か久遠に起こされた。採血、魔力波形、空膜反応、精神汚染、存在進化の外部兆候、インベントリの安定性、《転移》の発動痕。聞き慣れない項目が次々と並び、医療班と協会職員と水瀬がそれぞれ別の紙に記録を残していく。


 澪は最初こそ真面目に返事をしていたが、途中から返事が短くなった。最後には「うん」と「眠い」と「お腹空いた」だけで会話しようとしていた。


「天瀬さん、もう少しだけ目を開けてください」

「開いてる」

「閉じています」

「薄く」

「閉じています」


 澪は仕方なさそうに目を開けた。


 その目の奥に、白い輪のような光が揺れる。以前の澪の目は、深い青黒だった。暗い水のようで、覗き込むと底が分からない怖さがあった。今はそこに、薄い白い縁取りがある。雪か、月光か、骨の断面か。美しいと言えば美しい。けれど朱音には、その変化が少し怖かった。


 九環は、澪の中へ何かを残している。


 髪もそうだった。黒い髪の中に、ところどころ白が混じっている。前髪の右側、耳の後ろ、肩に触れる毛先。均等ではない。染めたようでもない。黒と白が喧嘩しているのではなく、夜の中に霜が降りたように馴染んでいた。


 似合ってしまっているのが、朱音には余計に嫌だった。


 似合うということは、澪の身体がその変化を受け入れているということだからだ。


「朱音先輩」

「何」

「髪、変?」


 朱音は一瞬返事に詰まった。


「変」

「そっか」

「でも、似合ってる」

「変なのに?」

「変なのと似合ってるのは両立するの」

「難しい」

「私も言いながら難しいと思った」


 朱音は澪の髪へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 触っていいのか分からなかった。帰ってきてから抱きしめたくせに、髪に触ることだけ妙に怖い。白い部分に触れたら、その下にある一年分の何かを、指先で確かめてしまう気がした。


 澪はそんな朱音の躊躇に気づいたのか、自分から少し頭を傾けた。


「触っていい」

「……いいの?」

「うん。確認?」

「確認」


 朱音はそっと髪に触れた。


 冷たいと思った。けれどそれは、想像よりは普通の髪だった。少し硬く、ところどころ乾いていて、埃と血と空膜の匂いが絡んでいる。白い部分も髪だった。触れると溶けたり、光ったり、崩れたりはしない。ただ、指にかかる感触の奥に、かすかな冷気があった。


「洗わなきゃね」

「水、ある?」

「あるよ。こっちには普通にある」

「たくさん?」

「たくさん。お風呂もある」


 澪の目が少しだけ開いた。


「お風呂」

「そこ反応するんだ」

「九環、水少ない。あっても飲めないの多い」

「……それも後で聞く」

「お風呂、入っていい?」

「検査が終わったら。医療班に許可もらってから。あと寝落ちしないように私が外で見張る」

「中は?」

「中は入らない!」


 朱音が少し大きな声を出すと、遥が壁際で肩を震わせた。


「朱音、今の反応はちょっと面白かった」

「遥、黙って」

「はいはい。泣いたり怒ったり照れたり忙しいね、先輩」

「誰のせいだと思ってるの」

「澪ちゃん?」

「ほぼ澪」

「ほぼなんだ」


 遥が笑い、澪が少しだけ首を傾げる。


 会話の空気だけなら、一年前の放課後に近い。けれど、澪の腕にはまだ測定具がついていて、検査室の外には協会職員が立ち、床の封印環は薄く光り続けている。


 日常は戻ってきたのではない。


 戻りかけているだけだ。


 それを忘れさせないように、協会の管理担当者が書類を持ってやってきた。


「天瀬澪さんの一時滞在について、仮条件を確認します」


 担当者は声を整えていたが、手元の紙が少し震えている。無理もなかった。目の前にいるのは、一年前に九環へ落ち、未帰還者名簿に載り、死んだと考えられていた探索者だ。しかも帰還直後に未確認存在進化、Lv64、《再生》Lv9、《転移》まで確認されている。


 普通の帰還者として扱えるはずがない。


「七瀬家での滞在を希望する場合、協会としては日次の健康確認、魔力反応の測定、インベントリ内危険物の封印、《転移》の無断使用禁止、配信活動の一時停止を条件とします」


「配信停止」


 澪がまた反応した。


「今は駄目」

「でも、お金」

「さっきからそればっかり」

「お金がないと帰還札が買えない」

「《転移》あるでしょ」

「ある。でも、まだ使うと気持ち悪い」

「じゃあなおさら勝手に使わない」

「帰還札、高い」

「それは去年から知ってる」


 朱音は軽く言ったが、内心では少しだけ安心していた。


 《転移》があっても、澪はまだ帰還札を完全に捨てるつもりではない。便利になったのは間違いない。けれど、九環帰りの新しいスキルを、いきなり命綱として信用しきっていない。その判断力が残っていることに、朱音はほっとした。


 協会担当者が書類をめくる。


「収益凍結に関しては、本人帰還確認後、審査手続きに入ります。ただし《九環》チャンネルは未登録空膜反応と同時起動しており、安全確認までは配信再開できません」

「どれくらい?」

「現時点では未定です」


 澪の表情が曇る。


 それを見て、朱音は胸が少し痛くなった。澪は自由に潜りたい。装備が必要で、帰還札が必要で、金が必要だ。それは分かる。けれど、帰還して数時間も経っていない今、また探索のための準備を考えている澪を見ると、腹の奥に小さな怒りが灯る。


 この子は、自分が生きて帰ったことの重さをまだ分かっていない。


 いや、分かっているのかもしれない。分かっていて、それでも次の生存手段を考えないと落ち着かないのかもしれない。


 朱音はその怒りを飲み込み、澪の手の甲を指で軽く叩いた。


「お金の話は明日。今日はご飯と寝る場所」

「明日ならいい?」

「検査結果と相談」

「朱音先輩、厳しい」

「一年分、甘やかしと説教が溜まってるからね。配分が難しいの」


 澪は少しだけ考えてから、頷いた。


「じゃあ今日は寝る」

「そうして」

「ご飯の後」

「そうして」

「肉入りおかゆ」

「交渉が上手くなってる……」


 凛がその会話を聞いて、ようやく少し笑った。


 その目元は赤い。さっきから何度も泣きそうになって、何度もこらえている。澪は凛の方を見た。


「凛」

「はい」

「泣いてる?」

「泣いてないです」

「目、赤い」

「澪さんが言いますか」


 凛はそう言ってから、自分の言葉に驚いたように口を押さえた。


 以前の凛なら、澪へそんな返し方はしなかった。朱音は少しだけ目を細める。一年は澪だけを変えたわけではない。


 澪は怒るでもなく、少し不思議そうに凛を見た。


「凛、強くなった」


 凛の顔が崩れた。


 涙がこぼれる。


「澪さんが、いなくなったからです」


 検査室が静かになった。


 凛は震える声で続けた。


「見てるだけじゃ、駄目だって思ったんです。記録するだけでも、後ろにいるだけでも、それでもちゃんとしないと、誰かがいなくなった時に、何も残せないから。だから、強くなったんじゃなくて……ならなきゃ、嫌だったんです」


 澪は黙って聞いていた。


 朱音も、遥も、水瀬も、誰も遮らなかった。


 やがて澪は、小さく言った。


「そっか」

「はい」

「じゃあ、ありがとう」

「何でお礼なんですか」

「戻った時、凛が記録してくれてた」


 凛はまた泣いた。今度は隠さなかった。


 水瀬が静かにハンカチを差し出す。凛は受け取って、顔を覆った。水瀬の手もわずかに震えていた。彼は泣かなかったが、ずっと端末を見続けているわけでもなかった。


 何度も澪を見て、そのたびに確認するように目を伏せる。


「水瀬先輩」

「はい」

「私、本物?」


 水瀬は一瞬だけ固まった。


 それから眼鏡を押し上げ、少しだけ息を吸った。


「生体反応、魔力波形、本人記憶、外見特徴、登録情報、すべて完全一致とは言えません。特に魔力波形は大きく変質しています。ですが、過去の記録との連続性、反応癖、発話傾向、周囲への認識、そして七瀬先輩への反応を含めると、僕は本人と判断します」

「長い」

「短く言うなら、本物です」

「そっか」

「はい」


 水瀬は、珍しく少しだけ声を詰まらせた。


「おかえりなさい、天瀬さん」


 澪は頷いた。


「ただいま」


 その言葉は、今度は少しだけ自然だった。


 手続きはさらに続いた。協会の一時預かり書類、七瀬家への滞在同意、朱音の保護補助者としての署名、久遠の教員立ち会い署名、医療班の仮許可。朱音は何枚も書類に名前を書いた。途中で自分が何に署名しているのか分からなくなりかけ、久遠に「読んでから書け」と叱られた。


「先生、今それ言います?」

「今だから言う。感情で書類に署名するな」

「でも澪を協会施設に泊めるのは嫌です」

「それと書類を読まないことは別だ」

「……はい」


 久遠は厳しかった。


 だが、朱音が読み終わるまで待ってくれた。協会担当者が「時間が」と言いかけると、久遠は視線だけで黙らせた。そういうところは、やはり先生だった。


 書類を読みながら、朱音は何度も現実を突きつけられた。


 天瀬澪、未帰還者名簿より一時抹消。


 探索者高校、除籍処理済み。


 復学には別途審査が必要。


 旧住居、解約済み。


 保管品、協会管理倉庫。


 配信チャンネル《九環》、安全確認まで凍結継続。


 未確認存在進化者として、定期観察対象。


 九環由来物品の無断売却・譲渡禁止。


 《転移》の公共区域内無断使用禁止。


 文字が並ぶたびに、澪がいなかった一年が書類の形を持っていく。朱音は署名欄の前で少し手を止めた。


「澪」

「うん」

「学校、どうするかは後で考えよう」

「うん」

「戻れるかもしれないし、戻らないかもしれない。でも、今すぐ決めなくていい」

「学校、もう三年?」

「私は三年。澪は、手続き上は除籍」

「同級生じゃない」

「学籍だけならね」

「朱音先輩は先輩のまま?」


 朱音は少し笑った。


「そこは変わりません」

「よかった」


 澪は本気でそう言ったようだった。


 朱音は署名をした。


 その後、朱音は家に電話をかけた。検査室の外、白い廊下でスマートフォンを握る。母が出るまでの数秒が、妙に長かった。


『朱音? 遅くなるの?』

「お母さん」


 声が震えた。


 それだけで、母の声色が変わった。


『どうしたの』

「澪が」


 言葉が詰まる。


「澪が、帰ってきた」


 電話の向こうで、息を呑む音がした。


 しばらく何も聞こえない。朱音はスマートフォンを握りしめる。冗談ではないと、どう説明すればいいのか分からなかった。けれど母は、次の瞬間、静かに言った。


『生きてるのね』

「うん」

『怪我は』

「いっぱい。でも、生きてる」

『今どこ』

「協会支部。検査中。今日、うちに連れて帰りたい」


 朱音は一気に言った。


 断られるとは思っていなかった。けれど、家族を巻き込むことへの申し訳なさはあった。澪はただの友人ではない。未確認進化者で、九環帰還者で、危険物をインベントリに持っていて、協会の監視対象だ。普通の家に連れて帰るには、あまりにも普通ではない。


 母は少し黙った。


 そして言った。


『布団、干してあるわよ』


 朱音の視界が滲んだ。


「……お母さん」

『帰ってきた時に、湿った布団じゃかわいそうでしょう』

「うん」

『食べられそう?』

「おかゆからって言ってる。本人は肉って言ってる」

『じゃあ鶏そぼろのおかゆにしましょう。胃に優しいもの。あと、温かいスープ』


 母の声は落ち着いていた。


 落ち着いているからこそ、朱音は泣きそうになった。


『お父さんには私から言っておくわ。あの人、たぶん玄関を片づけ始めるから』

「骨は玄関に置かせない」

『骨?』

「九環の武器とか素材とか」

『……それは物置でも駄目ね』

「インベントリに入れさせる」

『ならよし。朱音』

「何」

『あなたも、ちゃんと食べなさい』


 朱音は一瞬黙った。


「うん」

『澪ちゃんだけじゃなくて、あなたも一年待っていたんだから』


 その言葉で、朱音は廊下の壁に額をつけそうになった。


「うん」


 電話を切ると、背後に遥がいた。


「聞くつもりはなかったんだけど」

「立ってたら聞こえる距離だったでしょ」

「うん。朱音のお母さん、強いね」

「うん」

「よかったね」


 朱音は頷いた。


 遥は少しだけ朱音の肩を叩いた。


「私も行こうか?」

「今日?」

「うん。荷物持ちとか、邪魔者避けとか、澪ちゃんが変なところに転移しないように見張るとか」

「転移は使用禁止」

「澪ちゃん、禁止で止まる?」

「……今日は止める」

「じゃあ今日は任せる。何かあったら呼んで。深夜でも、朝でも、澪ちゃんが風呂場で骨を洗い始めた時でも」

「最後の何」

「ありそうじゃない?」

「ありそうだから嫌」


 二人は少しだけ笑った。


 検査室に戻ると、澪は座ったまま眠りかけていた。首がこくりと落ち、朱音が慌てて支える。


「澪、終わるまで寝ない」

「終わった?」

「あと少し」

「あと少し、多い」

「協会のあと少しは信じちゃ駄目だね」


 藤堂が封印箱を閉じながら言った。


「インベントリ内の九環由来物、全部は確認できてねえ。今日は危険反応が強いものだけ封印指定にした。骨鎌、空葬獣の骨片、番犬の爪らしきもの、壊れたオーブ殻、空膜布。全部インベントリから出すな。家でも出すな。風呂でも出すな」

「風呂で出さない」

「信用しきれねえから言ってんだ」

「骨、洗いたい」

「やっぱり言って正解だったじゃねえか!」


 朱音は頭を抱えた。


「澪、骨は洗わない」

「汚れてる」

「汚れてても今日は洗わない。お風呂場に九環の骨を持ち込んだら、うちのお母さんが困る」

「困るのはよくない」

「そう。だから駄目」

「じゃあ今度」

「今度は藤堂先生のところで」

「俺の工房を風呂場扱いするな」


 藤堂が怒鳴り、遥が笑い、凛が泣き笑いの顔になる。澪はその中心で、眠そうに瞬きをしている。異常で、危険で、まだ何も解決していないのに、ほんの少しだけ、そこに帰還後の日常の輪郭が見えた。


 医療班から外出許可が出たのは、夜になってからだった。


 正確には外出ではない。協会管理下での一時移動許可。朱音の家まで協会車両が送る。久遠が同乗する。翌朝、再検査。夜間に異常反応があれば即連絡。澪の《転移》使用は禁止。インベントリ内危険物の取り出しも禁止。条件は山ほどあった。


 それでも、白い検査室から出られる。


 澪は検査着の上に、協会が用意した大きめの黒い外套を羽織った。ぼろぼろの九環装備は一部だけ残し、汚れのひどい布や皮膜は封印袋に入れられている。足元だけは替えが合わず、応急処置された古いブーツのままだ。歩き出すと、少しふらついた。


 朱音がすぐに肩を貸す。


「歩けるって言うの禁止」

「歩ける」

「禁止って言った直後」

「少し」

「少しも禁止」

「じゃあ、運ばれる?」

「それはそれで私の心臓に悪い」


 澪は不思議そうに朱音を見る。


「難しい」

「澪の扱いがね」


 久遠が後ろから言った。


「七瀬。玄関まで気を抜くな」

「はい」

「天瀬。七瀬の家で勝手なことをするな」

「はい」

「転移するな」

「はい」

「九環の物を出すな」

「はい」

「夜中に腹が減っても一人で外へ出るな」

「はい」

「返事だけはいいな」


 澪は少しだけ久遠を見た。


「久遠先生、朱音先輩みたい」

「逆だ。七瀬が俺に似てきた」


 朱音は少し嫌そうな顔をした。


「そこは否定したいです」

「俺も別に嬉しくはない」


 澪が小さく笑った。


 その笑いはかすかで、すぐに消えた。けれど、朱音は聞き逃さなかった。


 協会支部の裏口から出ると、夜の空気が頬に触れた。普通の夜だった。街灯があり、車の音があり、遠くで誰かが笑っている。九環の空ではない。砕けた空の墓標も、雲の骨も、青い目もない。


 澪は立ち止まり、夜空を見上げた。


 朱音はすぐに警戒した。


「澪?」

「普通の空」

「うん」

「低い」

「空が?」

「うん。近くて、遠い。変」


 澪の声には、懐かしさよりも戸惑いがあった。


 一年。


 澪にとっては同じ長さではないかもしれない。それでも、九環の空を見続けた後の普通の空は、きっと以前と同じには見えないのだろう。


 朱音は澪の手を握った。


「今日は、その普通の空の下で寝るの」

「朱音先輩の家で」

「そう」

「ご飯」

「そう」

「お風呂」

「医療班の許可が出た範囲で」

「説教」

「それは明日以降」

「延期?」

「澪が寝落ちしそうだから、延期。利息はつける」

「利息」

「一年分だからね。重いよ」


 澪は少しだけ頷いた。


「聞く」


 その言い方があまりに素直で、朱音は胸が痛くなった。


 協会車両の後部座席に澪を座らせる。朱音は隣に座った。久遠が助手席に乗り、職員が運転席に座る。扉が閉まる直前、凛と水瀬と遥が見送りに来た。


「澪さん、明日また」

「うん」

「ちゃんと寝てください」

「うん」

「朱音先輩の言うこと、聞いてください」

「たぶん」

「そこは、はいって言ってください」

「はい」


 水瀬が小さく息を吐いた。


「明日、聞き取りの前に簡易検査があります。無理に記憶を掘り起こす必要はありません。断片でもいいので、時系列より感覚を優先して話してください」

「水瀬先輩」

「はい」

「今の、明日また言って」

「……分かりました。今日は覚えなくて大丈夫です」


 遥が車の窓越しに手を振る。


「澪ちゃん、朱音の家で変なもの出したら写真送って」

「送らないで!」


 朱音が言うと、遥は笑った。


「冗談。でも、何かあったら呼んで。澪ちゃんも、朱音も」

「うん」


 澪は短く答えた。


 車が動き出す。


 支部の明かりが少しずつ遠ざかる。朱音は澪の横顔を見た。澪は窓の外を見ている。流れる街灯、夜の店、歩道を歩く人たち。そのすべてを、初めて見るもののように眺めていた。


 車が夜の街を進んでいく。支部の明かりは背後に遠ざかり、窓の外では街灯が一定の間隔で流れていた。澪はその光をしばらく黙って見ていたが、不意に朱音の方へ顔を向けた。


「朱音先輩」

「何」

「みんな、変わった」


 短い言葉だった。


 けれど、その声には置いていかれた子どものような響きが少しだけ混じっていた。朱音は返事に迷い、繋いだ手に視線を落とす。


「一年経ったからね」

「朱音先輩も?」


 澪の目がまっすぐ朱音を見る。九環の白い光を残した目で、逃げ場のない聞き方をする。朱音は少しだけ笑ってみせた。


「どう見える?」

「背中が、固くなった」

「何それ」

「前より、いろいろ背負ってる感じ。でも、手は同じ」


 澪が繋いだ手をほんの少し握り返した。朱音は窓の外へ顔を向ける。そうしないと、また泣きそうだった。


「……そういうことを、急に言わないで」

「駄目?」

「駄目じゃないけど、こっちの準備がいる」

「準備」

「そう。心の足場確認」

「薄い?」

「今かなり薄い」

「じゃあ、踏まない」


 澪は真面目に言った。朱音は泣きそうなまま、少し笑った。


 車は夜の街を進んでいく。


 一年前、澪の手を掴み損ねた朱音は、今度はその手を握ったまま、自分の家へ向かっていた。問題は山ほどある。協会の監視、配信凍結、未確認進化、九環の残滓、学校除籍、住む場所、金、これからの探索。


♦  ♦


 七瀬家の前に着いた時、澪は眠っていなかった。


 車の揺れに何度も瞼を落としかけていたのに、住宅街へ入ったあたりから少しだけ目が冴えていた。窓の外に並ぶ家、閉じたカーテン、玄関灯、植木鉢、自転車。どれも普通のものだった。普通すぎて、澪はかえって落ち着かないようだった。視線がよく動く。窓の反射、電柱の影、隣家の屋根の角、街灯の下に落ちた落ち葉。敵が潜む場所を探すように、あるいは敵が潜まない場所の方が分からないように。


 七瀬家は、古すぎず新しすぎもしない二階建ての一軒家だった。薄いクリーム色の外壁はところどころ雨に洗われて色が淡くなっていて、焦げ茶の屋根の下には小さなベランダがある。玄関までの短い敷石の脇には、母が手入れしているらしい低い植え込みと、冬を越して少し硬くなった鉢植えが並んでいた。門柱の横には朱音の練習用なのか、傷のついた古い木棒が一本立てかけられている。隣の細いスペースには自転車が二台。片方は朱音のもので、ハンドルに探索者高校の反射タグがついていた。もう片方は少し小さく、籠に布製のキーホルダーが結ばれている。妹のものだと朱音が言う前から、澪はそれを見て少しだけ首を傾げた。


「二台」

「うん。私のと、妹の」

「妹」

「結衣。中学生。澪のこと、何度も聞かれてる」

「私のこと?」

「うん。変な子だって」

「変な子」

「否定はしてない」

「そっか」


 澪は真面目に頷いた。


 普通の家だった。


 けれど、その普通さは、澪には少し眩しすぎるように見えた。玄関灯の柔らかい明かり、洗濯物を取り込んだ後のような生活の匂い、鉢植えの土、窓の内側に揺れるカーテン。どれも戦うためのものではない。逃げるためのものでもない。ただ人が帰ってくるために置かれているものだった。


「着いたよ」

「ここ?」

「うん。うち」

「前に来たこと、ある?」

「ない。澪はいつも誘っても逃げてた」

「逃げてない」

「既読無視してダンジョン行くのは逃げてるって言うの」

「そうなんだ」


 久遠が助手席から降り、周囲を確認する。協会職員も端末で魔力反応を測った。夜の住宅街に、探索者協会の黒い車が一台止まっているだけで少し物々しい。澪が車から降りると、外套の裾が足元で揺れた。大きめの黒い外套の下に、検査着と応急処置された古いブーツ。九環の骨鎌はない。骨片も爪も空膜布も、すべてインベントリの中で封印指定を受けている。


 それでも、澪自身が九環の匂いを持っていた。


 冷えた空気の奥に、白い砂と乾いた血と、雨の降らない空の匂いが混じっている。朱音はその匂いを早く洗い流したいと思った。けれど同時に、洗ったからといって九環が消えるわけではないことも分かっていた。


 玄関の扉が開いた。


 朱音の母が立っていた。薄いカーディガンを羽織り、髪を後ろでまとめている。玄関の内側から漏れる光は、協会の検査室の白い照明とは違って、少し黄色く、柔らかかった。背後には木目の靴箱があり、その上に小さな花瓶と家族写真が置かれている。写真の中の朱音は今より幼く、まだ今ほど背筋に力が入っていない顔で笑っていた。その隣で、朱音より頭一つ低い少女がピースをしている。


 その写真の少女が、母の後ろから半分だけ顔を出していた。


 七瀬結衣。朱音の妹。


 肩のあたりで切りそろえた髪に、少し大きめのパーカー。目元は朱音に似ているが、雰囲気はずっと柔らかい。眠い時間だったのだろう。髪の片側が少し跳ねていた。けれど表情は眠そうではなく、玄関先の澪を見たまま固まっている。


 普段なら母は「遅かったね」とか「寒いから早く入りなさい」とか言う人だった。けれど今は、朱音を見るより先に、澪を見た。


 母は何も言わなかった。


 澪も何も言わなかった。


 数秒の沈黙のあと、母は少しだけ膝を曲げ、澪と目の高さを合わせた。


「おかえりなさい、澪ちゃん」

「ただいま、でいい?」

「もちろん」

「ただいま」


 母はそこで初めて笑った。泣いてはいない。けれど、朱音には分かった。泣かないようにしている顔だった。

 その後ろで、結衣が小さな声を出した。


「本当に、澪ちゃん?」


 澪は結衣を見る。


「たぶん」

「たぶん?」

「水瀬先輩は本物って言ってた」

「じゃあ本物だ」


 結衣はなぜか納得したように頷いた。

 朱音は少しだけ眉を寄せる。


「結衣、そんなところに立ってると寒いでしょ」

「お姉ちゃんが帰ってこないから」

「連絡したでしょ」

「澪ちゃんが帰ってきたって聞いたら、寝られるわけないじゃん」


 結衣はそう言ってから、澪の足元を見た。ぼろぼろのブーツ、包帯、傷跡。顔が少し強張る。それでも目を逸らさなかった。


「寒かったでしょう。入って。ご飯、できてるから」


 母が言うと、澪はすぐに反応した。


「肉?」

「鶏そぼろ。まずはそこから?」

「朱音先輩と同じこと言う」

「親子だからね」


 結衣が小さく笑った。


「お姉ちゃん、家でもずっとそれ言ってたよ。澪ちゃんが帰ってきたら、最初はおかゆ。絶対おかゆ。肉って言っても駄目って」

「結衣」

「だって本当だもん」

「余計なこと言わない」

「お姉ちゃん、ずっと練習してた」

「練習じゃない」


 澪は朱音を見た。


「練習」

「違う」

「おかゆの?」

「違うから」


 母が少し笑った。玄関の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 玄関に入る前、久遠が澪を止めた。


「天瀬。確認だ」

「はい」

「インベントリ内の危険物を出さない。《転移》を使わない。異常を感じたら七瀬か七瀬家の保護者へすぐ伝える。夜中に外へ出ない」

「はい」

「飯を食ったら寝ろ」

「はい」

「骨を洗うな」

「はい」


 そこで結衣が母の後ろから顔を出した。


「骨?」

「結衣、そこは拾わなくていい」

「いや、拾うでしょ。普通の家の玄関で『骨を洗うな』って言われたら、誰でも拾うでしょ」

「九環の骨」

「余計怖いよ」


 澪は少し考えた。


「きれいな骨」

「そういう問題じゃないと思う」


 結衣は困ったように言ったが、逃げはしなかった。朱音はそれを見て、少しだけ安心した。結衣は怖がりではない。けれど強いわけでもない。普通の中学生だ。だからこそ、澪がこの家にいることの意味が少しだけ重くなる。澪が守られるだけではなく、澪もまた、普通の誰かの生活のそばに置かれる。


 久遠はそれを確認してから、朱音へ視線を向けた。


「七瀬。今夜はお前も無理をするな。異常があれば俺に連絡しろ。協会にも通すが、先に俺でいい」

「はい。ありがとうございます」

「礼はいらん。明日の朝、再検査だ。遅れるな」

「はい」

「天瀬」


 澪が久遠を見上げる。


「戻ったから終わりではない。だが、戻れたことは事実だ。今夜はそれでいい」


 澪は少し黙った。


「はい」


 久遠はそれ以上何も言わず、車へ戻った。協会車両の尾灯が住宅街の角を曲がって見えなくなるまで、朱音は玄関先に立っていた。澪も隣でそれを見ていた。結衣は母の後ろに隠れながら、それでも澪から目を離さなかった。


 車が消えたあと、澪はようやく家の中へ足を入れる。

 その瞬間、身体が少し固まった。


「澪?」


 朱音が声をかけると、澪は玄関の床を見ていた。白いタイル。靴箱。傘立て。小さな花瓶。壁に掛かった鍵束。何も危険なものはない。なのに、澪の呼吸が少し浅い。


「狭い?」

「狭くない」

「怖い?」

「……出口が一つ」


 朱音は息を呑んだ。


 九環では、出口の数が命を左右したのだろう。逃げ道が一つしかない空間は、澪にとって休む場所ではなく、閉じ込められる場所なのかもしれない。


 母は驚いた顔をしなかった。ただ、静かに言った。


「勝手口もあるわ。台所の奥。それから二階の窓は全部開く。ベランダもある。鍵の位置は後で朱音に教えてもらって」

「いいの?」

「家に泊まるなら、出口くらい知っておかないと落ち着かないでしょう」


 結衣が小さく手を上げる。


「私の部屋の窓も開くけど、そっちは使わないでね。机の上、散らかってるから」

「使わない」

「うん。あと、もし逃げるならお姉ちゃん起こしてからにして」

「逃げない」

「お姉ちゃんは信じてない顔してる」

「結衣」

「だって顔に出てる」


 澪は朱音を見た。


「信じてない?」

「信じたい」

「難しい?」

「かなり」


 澪は少しだけ頷いた。


「じゃあ、起こす」


 朱音は返事に詰まった。


 結衣が口元を押さえた。


「今の、ちょっとかわいい」

「結衣」

「ごめん。でも本当に」


 澪は首を傾げる。自分が何を言われたのか、あまり分かっていない顔だった。


 靴を脱ぐ時、澪は片足ずつブーツに手をかけた。途中で少しふらつき、朱音が支える。古いブーツを脱いだ足は、包帯と傷跡だらけだった。タイツも靴下もない。協会で応急の布を巻いているが、それでも寒そうに見える。


「靴下、あとで出すね」

「靴下」

「履いて」

「足、すぐ汚れる」

「家の中では汚れない」

「そうだった」


 澪は本当に忘れていたように言った。


 朱音は喉の奥を押さえたくなった。


 結衣は少しだけ表情を変えた。驚きと、痛ましさと、何かを言いたいけれど言えない顔。普通の家の中では足は汚れない。そんな当たり前を忘れてしまう場所に、澪はいたのだ。


 廊下は短く、右手にリビング、奥に台所、左手に階段があった。床は明るい木目で、玄関からリビングにかけて小さな足元灯がついている。壁には朱音が小学生の頃に作ったらしい古い写真立てと、結衣が学校で描いたらしい水彩画、父の趣味なのか山の風景写真が飾られていた。協会支部のような消毒液の匂いはしない。煮込んだ出汁と、ご飯と、洗濯物の柔らかい匂いが混じっている。


 澪はその匂いに少しだけ目を細めた。

 朱音は、それが何の表情なのかすぐには分からなかった。安心か、戸惑いか、痛みか。きっと全部だった。


 リビングには、朱音の父もいた。新聞を畳んだまま、立ち上がっている。リビングは広くはないが、よく片づいていた。淡い茶色のソファ、低いテーブル、テレビ台、端に置かれた観葉植物。壁際には本棚があり、朱音の教科書と探索者向けの専門書、それから母の料理本と結衣の漫画が混ざって並んでいる。テーブルの上には湯気の立つ湯呑みが二つと、結衣が途中まで飲んだココアのマグカップ。父と母と結衣が、朱音たちを待ちながら何度も時計を見ていたことが、その冷めかけた湯気で分かった。


 父は大きな声を出す人ではない。朱音が幼い頃から、叱る時も静かだった。その父が、澪を見てしばらく黙っていた。


 澪も父を見る。


「こんばんは」

「こんばんは。よく戻ったね」

「はい」

「うちは普通の家だから、足りないものは多いと思う」

「普通の家、あまり知らない」

「なら、ちょうどいい。普通を覚えるには向いてる」


 父はそれだけ言って、ソファの横に置いていた毛布を取った。


「寒いだろう。座りなさい」

「ありがとうございます」


 澪は毛布を受け取ったが、ソファにはすぐ座らなかった。部屋の四隅を見て、窓を見て、台所への通路を見て、階段の位置を確認してから、ようやくソファの端に座る。背もたれには体重を預けない。すぐ動ける姿勢だった。


 朱音はその隣に座った。


「背中、預けても大丈夫だよ」

「後ろ、見えない」

「私がいる」

「……そっか」


 澪は少しだけ背中を倒した。


 ほんの少しだけ。

 それでも、朱音には大きな変化に見えた。


 結衣は向かい側の床に座った。近づきすぎず、離れすぎず、澪が警戒しない距離を探しているようだった。普段の結衣なら、もっと遠慮なく話しかける。けれど今は、姉が一年待ち続けた相手が目の前にいる。軽く扱っていい相手ではないと、結衣なりに分かっているのだろう。


 母が台所から盆を運んできた。鶏そぼろの入った柔らかいおかゆ、湯気の立つスープ、薄く切った卵焼き、少しだけすりおろした野菜。テーブルに置かれた瞬間、出汁と鶏肉の匂いがふわりと広がった。協会で出された栄養ゼリーとは違う。誰かが火を使い、味を見て、冷めないように時間を合わせた匂いだった。


 澪は食卓の上を見た瞬間、目の色を変えた。


「全部、食べていい?」

「ゆっくりね」

「ゆっくり……」

「噛んで」

「……おかゆも?」

「おかゆも」


 澪は匙を持った。


 最初の一口を口に入れた瞬間、動きが止まった。

 朱音は緊張した。熱すぎたのか。味が合わないのか。胃が受けつけないのか。母も父も、結衣も、澪を見ている。


 澪はゆっくり飲み込んだ。


「温かい」


 それだけだった。


 けれど、その一言に含まれているものが大きすぎて、朱音は何も言えなくなった。

 結衣も何か言いかけて、口を閉じた。茶化していい場面ではないと分かったのだろう。

 澪は二口目を食べた。三口目。四口目。途中から少し速度が上がったので、朱音が手を伸ばして匙を止める。


「ゆっくり」

「食べられる」

「食べられるのと、急いでいいのは違う」

「それ、今日たくさん…聞いた」

「今日だけじゃなくて明日も聞くよ」


 澪は少し不満そうにしたが、素直に速度を落とした。


 結衣が小さく笑う。


「お姉ちゃん、お母さんみたい」

「結衣、今それ言う?」

「だって言い方が完全にお母さんだった」

「私は先輩」

「先輩っていうより保護者」

「結衣」

「ごめんって」


 澪は匙を止めた。


「保護者?」

「違う」

「先輩?」

「そう。先輩」

「お姉ちゃんでもある」

 

 結衣がきれいに合の手を入れる。


「それは結衣に対してだけ」

「じゃあ私は?」

「澪は……」


 朱音は詰まった。


 澪がまっすぐ見ている。結衣もなぜか興味津々で見ている。母は台所に戻るふりをしながら明らかに聞いている。父は新聞を読むふりをして一ページもめくっていない。


「……後輩」

 

 ふり絞るように出た言葉は後輩という二文字だった。


「そっか」

「あと、今は預かってる子」

「預かり......」

「そう」

「逃げないように?」

「寝るように」


 澪は納得したように頷いた。


「じゃあ、預かられる」


 結衣が両手で口元を押さえた。


「お姉ちゃん、今のはかわいい」

「だからいちいち言わない」

「言わないと勿体ないじゃん」

「勿体なくない」


 澪はまた首を傾げた。


 母は向かい側で、澪の食べ方を静かに見ていた。泣かないようにしているのは、もう隠せていなかった。父は水を注ぎ足し、何も言わずに澪の手元へ置いた。


「水......?」

「飲んでいい」

「たくさん?」

「たくさん」


 澪はコップを両手で持ち、少しずつ飲んだ。


 水を飲むだけの動作が、まるで何かの確認のようだった。毒ではないか。幻ではないか。飲んでも喉が裂けないか。胃の奥で青く光らないか。そんなことを確かめるような慎重さで、澪は水を飲んだ。


「九環の水、どんなだったの」


 朱音が聞くつもりもなく聞いてしまった。


 澪の手が止まる。


 母が朱音を見る。責める目ではない。けれど、今でいいのかと問う目だった。朱音は自分で言ってから後悔した。結衣も黙った。さっきまでの柔らかい空気が、少しだけ薄くなる。


「ごめん。今じゃなくていい」

「飲むと、空が増える」

「空が?」

「身体の中に。軽くなる。でも、戻れなくなる」


 澪は淡々と言った。

 それ以上は言わなかった。

 朱音は、もう聞かなかった。


 食事を終える頃には、澪の瞼はまた落ちかけていた。けれど風呂という単語を出すと、少しだけ意識が戻る。


「お風呂入る」

「医療班からは短時間なら許可。湯船は浅め、長湯禁止、傷口はこすらない。私は脱衣所の外にいる」

「外?」

「外」

「……分かった」


 結衣がそっと手を上げる。


「タオル、持ってくる?」

「ありがとう。でもこっちで出す」

「じゃあ靴下。私のモコモコのやつ、貸す」

「結衣のは派手でしょ」

「暖かいよ!戦闘向きではないけど…」

「家の中で戦闘向きの靴下は要らない」

「澪ちゃん、靴下も戦闘向きで考えそうだから…」


 澪は少し考えた。


「滑らない方がいい」

「ほら!」

「ほらじゃない」


 結衣は嬉しそうに立ち上がり、二階へ走っていった。


 朱音の母が着替えを用意してくれた。朱音の古い部屋着だった。澪には少し大きい。柔らかい長袖と、ゆるいズボン。下着類は協会が新品を用意していたものを使う。澪はそれらを見て、少し不思議そうな顔をした。


「柔らかい服」

「寝る時の服だから」

「防げない」

「今日は防がなくていい」

「本当に?」

「本当に」


 澪は疑うように朱音を見た。


 朱音はその目をまっすぐ受けた。


「今夜、澪が戦わなきゃいけないものはない」

「……ない?」

「ない。あったら私を起こして」

「朱音先輩が戦う?」

「必要なら」

「弱いのに?」

「今のは傷ついた」

「ごめん」

「まあ、澪基準だと弱いかもしれないけど、家の中の敵くらいなら追い払えるよ。虫とか」

「虫」

「九環の虫じゃないやつね」


 澪は少しだけ考えて、頷いた。


 風呂場へ向かう澪の背中を見ながら、朱音は息を吐いた。骨ばった肩。白の混じった髪。外套を脱ぐと、身体の小ささが余計に目立った。協会で見た時にも思ったが、澪は本当に軽くなっている。筋肉はある。魔力の通りも異常なほど強い。けれど、栄養が足りていない。休息が足りていない。普通の生活が足りていない。


 脱衣所は狭かった。棚には家族分のタオルが畳まれ、洗濯機の上には洗剤と柔軟剤が並んでいる。朱音が朝に使ったヘアゴムが洗面台の端に置きっぱなしになっていて、鏡の横には母の小さな化粧ポーチがあった。結衣のものらしい甘い匂いのハンドクリームも置かれている。何でもない生活の残り香がある場所だった。


 澪はその一つ一つを、珍しいもののように見ていた。

 脱衣所の扉が閉まる。

 しばらく衣擦れの音がして、それから止まった。


「澪?」

「服、脱いだ」

「報告しなくていい」

「次は?」

「お風呂場に入って、シャワー。温度は熱すぎないように」

「お湯、出た」

「よかった」


 シャワーの音が始まった。


 朱音は脱衣所の外に座り込んだ。扉一枚向こうに澪がいる。それだけのことなのに、緊張で肩が固まっていた。水音は普通だった。けれど時々、澪の息が止まるような気配がある。朱音はそのたびに名前を呼びそうになり、こらえた。


 途中で結衣が、音を立てないように廊下へやってきた。手には白と水色のモコモコした靴下を持っている。


「置いとくね」

「ありがと」

「大丈夫そう?」

「分からない。でも、今は大丈夫」

「そっか」


 結衣は扉の向こうの水音を少しだけ聞いて、それから朱音を見た。


「お姉ちゃん、ずっと怖い顔してる」

「してない」

「してる。学校から帰ってきて、澪ちゃんの通知見た時からずっと」

「……そう」

「でも、ちょっと嬉しそう」


 朱音は返事に迷った。


 嬉しい。それは間違いない。澪が帰ってきた。生きている。温かいものを食べた。風呂に入っている。自分の家にいる。嬉しくないはずがない。けれど、嬉しいだけではなかった。怖い。腹が立つ。泣きたい。安心したい。もう目を離したくない。全部が混ざって、どれか一つの感情にはなってくれない。


「嬉しいよ」

「うん」

「でも……怖い…」

「うん」

「結衣も、怖かったら言って。無理に普通にしなくていい」

「怖いよ」


 結衣は素直に言った。


「でも、澪ちゃんが一番怖かったと思うから、私は普通の家の人をやる」

「何それ」

「分かんない。でも、なんかそう思った」


 朱音は結衣を見た。


 妹は、思っていたより大人になっている。


 この一年、朱音だけが待っていたわけではなかったのだと、今さら思う。家の中で澪の話をした。帰ってこない日も、帰ってくるかもしれない日も、朱音が怒っている日も泣きそうな日も、結衣は隣で見ていた。だから結衣にとっても、澪は知らない他人ではなかったのかもしれない。


「ありがと」

「お姉ちゃんにお礼言われると変」

「言わせて」

「じゃあ、どういたしまして」


 結衣は照れたように靴下を棚に置き、リビングへ戻っていった。


 やがて、風呂場の中から小さな声がした。


「朱音先輩」

「何」

「血、出てない」

「うん」

「傷、開いてない」

「うん」

「お湯、痛くない」

「うん」


 沈黙。


 それから、澪が言った。


「変」


 朱音は扉に背を預けた。


「こっちでは、それが普通」

「普通、すごい」

「そうだね」


 しばらくして、湯船に入る音がした。医療班に言われた通り、浅めにしてある。朱音はスマートフォンのタイマーを確認する。長湯は禁止。けれど、すぐに出せとも言えなかった。


 湯船の中で、澪が息を吐く音がした。


 次の瞬間、何かが落ちるような音がした。


「澪!」


 朱音は思わず扉に手をかけた。


「大丈夫」

「本当に?」

「座っただけ」

「寝てない?」

「寝てない」


 少し間が空く。


「少し、思い出した」

「何を」

「番犬」


 朱音の指が扉の取っ手を握る。


 湯気の向こうで、澪の声は低くなっていた。


「白かった。大きくて、綺麗で、牙が多くて、目が青かった。最初は、勝てないと思った」

「最初は?」

「何回も思った」

「……そっか」

「でも、倒した」

「うん」

「倒したけど、まだ奥があった」


 朱音は答えられなかった。


 水音が小さく揺れる。


「朱音先輩」

「何?」

「奥、見たかった…」

「今は…見なくていい」

「うん」

「…澪」

「うん」

「帰ってきたんだから」

「うん」


 澪の声は、眠りに落ちる直前のように薄かった。


 朱音はタイマーを止め、少しだけ声を強くした。


「そろそろ出るよ」

「もう?」

「長湯禁止」

「お風呂、短い」

「生きて帰ってきた初日の風呂としては十分」

「明日も?」

「明日も入れる。ちゃんと検査で許可が出たら」

「じゃあ出る」


 澪は素直に出てきた。


 髪を拭くと、黒と白が濡れてさらに境目をなくしていた。白い部分だけが光っているわけではない。黒の奥にも冷たい青があり、白の中にも薄い影がある。朱音はドライヤーをかけながら、その髪を丁寧に梳いた。


「引っ張ったら言って」

「大丈夫」

「痛かったら言って」

「大丈夫」

「大丈夫は禁止」

「少し痛い」

「よし。言えた」


 澪は少し不思議そうにした。


「痛いって言ったら、よし?」

「言わないよりずっといい」


 髪を乾かし終える頃、澪は完全に眠そうだった。部屋着は少し大きく、袖が手の甲にかかっている。結衣が持ってきたモコモコの靴下も履かせた。水色の靴下は澪の足には少し派手だったが、底に滑り止めがついている。最初は違和感があるようだったが、床が冷たくないと分かると、澪は靴下を見下ろして小さく頷いた。


「戦闘向きじゃないけど、滑らない」

「結衣に言っておく」

「うん」


 二階の客間には、布団が敷かれていた。


 朱音の家の二階は、一階より少し静かだった。階段を上がってすぐの廊下には、朱音が昔使っていた運動靴の箱や、季節外れの毛布を入れた収納ケースが端に寄せられている。壁には小さな傷がいくつかあり、その一つは朱音が中学の頃、槍のケースをぶつけて母に怒られた時のものだった。廊下の奥には結衣の部屋があり、ドアには小さな星型のプレートが掛かっている。


 そのドアが少しだけ開いていた。

 結衣が隙間から顔を出している。


「寝るの?」

「寝る」

「おやすみ、澪ちゃん」

「おやすみ」

 

 そういって結衣は二かっと笑う。


「靴下、明日返してくれればいいから」

「洗って返す」

「洗わなくていいよ」

「汚れる」

「家の中だから、そんなに汚れないよ」

「そうだった」


 結衣は少し笑って、それから真面目な顔になった。


「明日もいる?」

「たぶん」

「じゃあ、明日もおはようって言う」

「うん」

「逃げたら怒るよ。お姉ちゃんほど怖くないけど」

「起こしてから逃げる」

「逃げないで」


 結衣は困ったように言った。

 澪は少し考える。


「じゃあ、逃げない」

「うん。それでいい」


 朱音はその会話を聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。澪の返事が、朱音に対するものとは少し違う。結衣の言葉は軽く、近く、普通の家の中から出てくる。澪はそれに戸惑いながらも、ちゃんと答えている。


 九環帰りの探索者ではなく、姉の知り合いとして扱われている。


 それが、今の澪には必要なのかもしれなかった。


 客間は六畳ほどの和室だった。畳は少し日に焼けているが、きれいに掃除されている。押し入れの襖は閉じられ、窓際には低い本棚が一つだけ置かれていた。昔の児童書、予備のアルバム、使わなくなった学習辞典。部屋の隅には小さな丸い座布団が二枚重ねてある。母の言った通り、布団は干したばかりの匂いがした。太陽と洗剤と、畳の乾いた匂いが混じっている。


 窓は閉まっているが、鍵の位置は見える。カーテンも半分だけ開けられていた。出口が完全に隠れないように、母がそうしたのだろう。


 澪は部屋の入口で立ち止まった。


「ここ?」

「今日から、ひとまずここ」

「ひとまず」

「長くなってもいいけど、まず今日は」

「朱音先輩は?」

「隣の部屋。扉、少し開けておく?」

「いいの?」

「いいよ」


 澪は布団を見て、窓を見て、扉を見て、朱音を見た。


「寝ていい?」

「いいよ」


 澪は布団に入った。


 最初は横になり方を忘れたみたいにぎこちなかった。背中をつけるまでに時間がかかる。腕をどこに置くか迷い、膝を少し曲げ、また伸ばす。眠ることさえ、安全な場所でなければ難しいのだと、朱音はその動作で知った。


 布団を肩までかけると、澪は目を開けたまま天井を見た。


「柔らかい」

「うん」

「沈む」

「布団だから」

「沈んでも、噛まれない?」

「噛まれない」

「そっか」


 澪は目を閉じた。


 朱音は部屋の入口に座った。すぐに自分の部屋へ戻るつもりだったのに、足が動かなかった。澪の呼吸を聞いていたかった。眠った後も、そこにいることを確かめていたかった。


 しばらくして、澪が目を閉じたまま言った。


「朱音先輩」

「何」

「明日、怒る?」

「怒る」

「どれくらい?」

「澪が起きて、ご飯食べて、検査受けて、それから耐えられるくらい」

「優しい」

「合理的なだけ」

「久遠先生みたい」

「やめて」


 澪の口元が少しだけ動いた。


「おやすみ」

「おやすみ、澪」


 今度こそ、澪の呼吸がゆっくりになった。


 朱音は動かなかった。


 廊下の向こうで、母と父が小さな声で話している。台所で皿を片づける音がする。結衣の部屋からは、引き出しを閉める小さな音と、スマートフォンを置く音がした。家の中は、いつもより静かだった。それでも、九環の無音とは違う。人がいる静けさだった。誰かが起きていて、誰かが片づけていて、誰かが隣の部屋で眠る準備をしていて、誰かが見守っている静けさだった。


 澪が眠っている。


 朱音はその事実を、何度も心の中で繰り返した。


 やがて澪の指が、布団の端を探るように動いた。何かを掴もうとして、空を掴み、止まる。朱音はそっと近づき、布団の上からその手に触れた。


 澪の指が、弱く握り返す。


 眠っているはずなのに、離さなかった。


 朱音は布団の横に座り、壁にもたれた。今日はもう、このままでいいと思った。明日のことは明日でいい。協会の再検査も、九環の聞き取りも、学校のことも、配信のことも、全部明日でいい。


 今夜だけは、澪が眠っていることが一番大事だった。


 部屋の窓の外には、普通の夜空があった。高すぎもせず、裂けてもおらず、青い目も覗いていない。ただ雲が薄く流れ、遠くの街灯がカーテンの隙間から床へ落ちている。


 朱音はその光を見ながら、ようやく小さく息を吐いた。


 帰ってきた。


 まだ壊れているところはたくさんある。変わってしまったところも、戻らないものも、きっとある。けれど澪は今、朱音の家の布団で眠っている。水を飲み、温かいおかゆを食べ、風呂に入り、柔らかい服を着て、結衣の派手な靴下を履いて、普通の夜の下で眠っている。


 それだけで、今夜は十分だった。


 そう思った時、澪が眠ったまま、ほんの小さく呟いた。


「……奥、まだ、呼んでる」


 朱音の呼吸が止まる。


 澪は目を覚まさない。指だけが、布団の中で何かを探すようにかすかに動いた。朱音はその手を強く握り返した。


「今日は行かない」


 返事はなかった。

 それでも朱音は、低く、はっきりと言った。


「今日は、ここにいるの」


 窓の外で、雲が月を隠した。

 部屋は少し暗くなった。

 その時、廊下の向こうで、結衣の部屋の扉がほんの少し開く音がした。朱音が振り向くと、結衣が隙間からこちらを覗いていた。目が合うと、結衣は何も言わず、自分の毛布を一枚持って廊下に出てくる。


「結衣?」

「お姉ちゃんも寝ないと駄目でしょ」


 結衣は小さな声でそう言い、朱音の肩に毛布をかけた。

 朱音は一瞬、何も言えなかった。


「ありがとう」

「うん。澪ちゃん、いる?」

「いる」

「そっか」


 結衣は布団の中の澪を少しだけ見て、安心したように息を吐いた。


「明日、おはようって言うから」

「うん」

「お姉ちゃんも、少し寝てね」

「分かった」

「分かったって言う人ほど寝ないんだよ」

「結衣、最近言うようになったね」

「お姉ちゃんが最近聞かないから」


 朱音は小さく笑った。


 結衣は部屋を出ていき、扉を閉める直前にもう一度だけ澪を見た。それから何も言わず、自分の部屋へ戻った。


 朱音は澪の手を握ったまま、肩にかけられた毛布の温かさを感じていた。自分も待っていた。けれど、自分だけが待っていたわけではなかった。母も、父も、結衣も、この家のどこかで、朱音が帰ってくるのを待ち、澪の名前を聞き続け、今日という夜を受け入れてくれている。


 普通の家は、強い。

 朱音は初めて、そんなふうに思った。


 九環の奥が澪を呼んでいるとしても、今夜はこの家が澪を引き留めている。出汁の匂いと、干した布団と、派手な靴下と、妹の小さな「おはよう」の約束で。

 朱音は澪の手を握ったまま、夜が明けるまでそこにいた。



≪オフショット≫

部屋着の澪

挿絵(By みてみん)

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