第十五話 帰還者
朱音は走った。
駅前の人混みを抜け、横断歩道を渡り、協会支部へ向かう道を一直線に走った。信号が変わりかけていることも、誰かに肩がぶつかったことも、スマートフォンが手の中で震え続けていることも、ほとんど意識の外だった。肺が熱い。膝が少し痛む。昨日の訓練で踏み込みすぎた足が、今になって文句を言っている。それでも止まらなかった。
通知は二つ。
第一層入口側、帰還管理区画に未登録空膜反応。
凍結中チャンネル《九環》に、配信開始信号。
見間違いではない。幻聴でもない。協会の正式通知だった。だが、それでも朱音は信じきれなかった。一年間、期待して、裏切られて、また期待して、また裏切られた。似た背格好を見つけて足を止め、声がした気がして振り返り、配信アプリを開いて凍結表示を見て、支部の資料端末で変化なしの文字を眺めた。何度もそうしてきた。だから、今回も間違いかもしれないと、走りながら思っていた。
それでも、走らずにはいられなかった。
支部の前には、すでに人が集まり始めていた。探索者、職員、学校関係者、野次馬に近い一般人。入口付近の警告灯が青白く点滅し、職員が拡声器で退避を呼びかけている。
「通してください!」
朱音が叫ぶと、受付横にいた職員が振り返った。
「七瀬さん!」
「通知、見ました! 《九環》って、本当に?」
「確認中です。帰還管理区画に未登録反応。配信信号も同時に――」
「中に入ります」
「待ってください、今は封鎖中で」
「私は天瀬澪の緊急連絡先です」
正確には、そう登録されたわけではない。澪に正式な緊急連絡先があったなら、協会か学校が管理していたはずだ。だが、この一年、澪関連の確認や記録閲覧、遺留品管理で何度も朱音は呼ばれている。職員もそれを知っていた。
職員が迷った、その時、奥から久遠の声が飛んだ。
「通せ」
朱音は顔を上げた。
久遠玲司は支部の内側から歩いてきた。探索者高校の教師用ジャケットではなく、協会支部で借りた防護装備を身につけている。顔はいつも通り怖い。だが、その目の奥が、一年前と同じ緊張で硬くなっていた。
「七瀬、走れるな」
「走ってきました」
「ならもう少し走れ。中央監視室だ」
「澪は?」
「まだ分からん」
その言葉に、朱音の胸が冷えた。
「分からないって、配信は」
「映像は出ている。だが現物がまだ見つかっていない」
「現物って言い方、やめてください」
「悪い。……天瀬本人の可能性が高い。だが、映像だけで判断するな」
久遠は歩きながら言った。朱音はその横についていく。支部の廊下は去年と同じようで、少し違っていた。床材が新しい部分。壁に追加された封印帯。中央遮蔽室へ続く通路の角にある、青白い警告灯。あの日、澪が消えた支部。そこを再び走っているというだけで、朱音の呼吸が乱れそうになる。
中央監視室には、人が集まっていた。
藤堂教諭が工具箱を床に置き、腕を組んで巨大モニターを睨んでいる。水瀬蓮は端末と紙の記録を同時に見ていた。凛はその隣で、青ざめた顔をしながらも観測値を書き写している。遥は壁際に立ち、朱音を見るなり手を上げたが、軽口は言わなかった。
そして、モニター。
そこに、《九環》の配信画面が映っていた。
凍結されていたはずのチャンネル。協会審査により配信不可になっていたはずのアカウント。それが、勝手に起動している。画面の端には配信タイトルが出ていた。ただし、文字化けして読めない。青白いノイズが混じり、コメント欄だけが異様な速度で流れている。
『え、九環?』
『凍結されてたよな?』
『これ公式?』
『一年ぶり?』
『誰か録画しろ』
『協会が止めろ』
『本物?』
『待って、画面の奥に人いない?』
『澪ちゃん?』
『髪白くない?』
『後ろ何?』
『これ第一層入口じゃないだろ』
『でも帰還管理区画の通知出てる』
『怖い』
『綺麗すぎて無理』
朱音はモニターの前で止まった。
映像はひどく歪んでいた。
場所は協会支部の帰還管理区画に似ている。白い床、観測柱、帰還札の受入陣、封印壁。だが、その上に別の景色が重なっていた。砕けた青い墓標。白い雲の骨。星のような光が舞う空。あまりにも美しい、あまりにも遠い、あまりにも人間の場所ではない景色。
その境目に、誰かが立っていた。
小さい。
画面の奥、青白いノイズの向こう。立っているというより、かろうじて倒れていない。黒い服は裂け、ところどころ獣の皮膜のようなものを巻いている。片腕には布と骨片を合わせた雑な補強。腰には短くなった鎖。その先に、白い骨の鎌片が結ばれていた。足元には、何かの爪や骨、砕けたオーブのような光が散っている。
髪は黒かった。
だが、黒だけではなかった。
前髪の一部、耳の横、肩へ落ちる毛先に、白い筋が混じっている。染めたような白ではない。夜の中に雪が残ったような、冷たく細い白だった。
その人物が、ゆっくり顔を上げる。
朱音の喉が詰まった。
澪だった。
天瀬澪だった。
顔つきは変わっている。少し痩せ、頬に細い傷跡が残り、目の奥に薄い白い輪のような光がある。けれど、目の向け方が同じだった。世界を少し斜めから見て、必要なものだけを拾うような目。綺麗なものを見た時に危うく近づき、怒られた時だけ少し不思議そうにする目。
画面の中で、澪の唇が動いた。
音声は乱れている。
最初は聞こえない。
水瀬が端末を操作する。藤堂が監視装置の側面を叩き、「叩いて直すな」と水瀬が小声で言い、藤堂が「今は黙れ」と返す。音声が一瞬だけ戻った。
『……朱音先輩』
朱音は息を止めた。
モニターの中の澪が、こちらを見る。
画面越しに見ているはずなのに、朱音だけを探しているように見えた。
『いる?』
その一言で、朱音の中の一年が崩れた。
遥が何か言った。久遠も何か指示を出した。職員たちが慌ただしく動き、コメント欄がさらに加速し、水瀬が観測値を読み上げている。だが、朱音にはほとんど聞こえなかった。
澪が呼んだ。
自分を呼んだ。
それだけで、足が動いた。
「七瀬!」
久遠の声。
「帰還管理区画へ行きます!」
「待て、まだ空膜反応が――」
「先生」
朱音は振り返らずに言った。
「今行かなかったら、私たぶん一生後悔します」
短い沈黙。
次に聞こえた久遠の声は、低かった。
「行け。ただし、掴んだら離すな」
「はい!」
朱音は走った。
監視室を飛び出し、帰還管理区画へ向かう。遥が後ろから追ってくる。水瀬と凛も来ようとして、久遠に止められている声が聞こえた。職員たちが道を開ける。支部の警告灯が青白く点滅している。あの日と同じ色。澪が消えた時と同じ色。だが、今度は違う。今度は、取り戻しに行く。
帰還管理区画の扉前には、封鎖線が張られていた。
朱音が来ると、職員が開けた。久遠の指示が先に届いていたらしい。
「直接視認に注意してください! 空膜反応があります!」
「分かってます!」
分かっていない。たぶん、半分も分かっていない。それでも朱音は中へ入った。
帰還管理区画は、白い光に満ちていた。
正規の帰還札が発動した時に使われる受入陣が床に描かれ、その周囲に観測柱が立っている。普段なら淡い緑の安定光が灯っている場所だ。今は違った。青白い光が床を這い、受入陣の線をなぞるように滲んでいる。空気が薄く震えていた。視界の端に、時々、青い墓標の影が重なる。
だが、そこに澪はいなかった。
誰もいない。
受入陣の中央には、砕けた骨片のようなものが一つ落ちているだけだった。白い。細く、鎌の先端のように曲がっている。青白い光を帯びているが、すぐに薄れていく。
朱音は足を止めた。
息が苦しくなった。
「……また?」
声が漏れた。
また、画面だけ。
また、声だけ。
また、間に合わなかった。
膝から力が抜けそうになる。遥が背後から朱音の肩を掴んだ。
「朱音」
「いたのに」
「まだ分からない」
「いたのに、今度は、ちゃんと呼んだのに」
視界が滲む。
泣くな、と自分に言った。泣くのはまだ早い。確認しろ。観測値を見ろ。床を見ろ。青い光を見ろ。まだ何かあるかもしれない。けれど、心のどこかで一年分の失望が先に膝をついた。
その時、背後で小さな音がした。
こつ、と。
何かが床に当たる音。
朱音は振り返った。
帰還管理区画の奥、遮蔽布の陰。普段なら職員用の補助具が置かれているだけの場所。そこに、誰かが立っていた。
白い遮蔽布が、青白い光を受けて揺れている。
その隙間から、黒と白の髪が見えた。
「朱音先輩」
声は、今度こそ画面越しではなかった。
少し掠れている。疲れ切っている。けれど、近い。
朱音は動けなかった。
澪は布の陰から一歩出た。足取りは危うい。裸足に近い足には、骨の板と皮膜の紐が巻かれている。身体中に傷がある。古いものも、新しいものもある。左頬には薄い裂傷跡。首筋には噛み痕のような白い傷。腕には、何度も千切れて繋がったような線が重なっていた。腰の鎖は短く、先端の白い骨鎌はかけている。手には見たことの無い骨でできている大鎌を持っていた。
でも、立っている。
生きている。
澪は朱音を見て、少しだけ首を傾げた。
「ただいま」
今度は疑問形ではなかった。
朱音の身体が勝手に動いた。
駆け寄って、肩を掴む。細い。冷たい。けれど、感触がある。幻ではない。画面ではない。記録ではない。朱音の手の中に、澪がいる。
朱音は掴んだまま、声を出そうとした。
怒る。
説教する。
一年分、言うことがある。
そう決めていた。
「……一年分」
喉が震える。
澪は静かに見上げてくる。逃げない。いつものように少し眠そうで、でも目の奥に見たことのない白い光がある。
「一年分、説教があるんだけど。座れる? 立ったまま聞く?」
言えた。
言った瞬間、涙が出そうになった。まだ泣くな。まだ怒っている途中だ。朱音はそう思ったが、澪は少しだけ考えたあと、真面目な顔で答えた。
「お腹空いた」
朱音の中で、最後の堤防が壊れた。
「……そこ?」
「うん」
「一年ぶりに帰ってきて、そこ?」
「ただいまも言った」
「言ったけど!」
「あと、眠い」
「増やさないでよ……怒る順番、崩れるじゃん……」
声がもう泣いていた。
朱音は澪を抱きしめた。
強く。痛いかもしれないと思ったが、手を緩められなかった。澪の身体は冷たく、硬く、ところどころ服ではないものが触れる。血の匂い。獣の匂い。空気が青くなるような、九環の匂い。昔の澪とは違う。けれど、腕の中にいるのは澪だった。
澪の右手が、ゆっくり朱音の背中へ回った。
ぎこちない。力の入れ方を思い出しているような触れ方だった。
「朱音先輩」
「何」
「遅くなった」
「本当にね」
「ごめん」
「謝るのも遅い」
「うん」
「待ってた」
「うん」
「ずっと待ってた」
「うん」
「だから、もうちょっと強く抱きしめても文句言わないで」
「言わない」
朱音はさらに強く抱きしめた。
遥が後ろで顔を覆っていた。職員たちは言葉を失っている。久遠が遅れて区画へ入り、足を止めた。藤堂も水瀬も凛も、その後ろに見えた。誰もすぐには近づかなかった。近づけなかったのだと思う。
凛が小さく泣き声を漏らした。
「澪、さん……」
澪は朱音の肩越しにそちらを見た。
「凛、背伸びた」
凛は泣きながら笑った。
「最初に言うこと、それなんですか」
「うん」
遥が喉の奥で笑った。
「澪ちゃん、変わったけど変わってないね」
「遥先輩、髪伸びた」
「そこも見るんだ」
水瀬は眼鏡を押し上げようとして、手が震えてずれた。
「天瀬さん。本人確認のため、いくつか質問を」
「水瀬先輩、目の下濃い」
「……質問の前に刺されました」
藤堂が大きく息を吐いた。
「生きてやがったか」
「藤堂先生」
「何だ」
「鎖、壊れた」
「見りゃ分かる。よくそんなもんで帰ってきたな」
「骨、足した」
「足すな。あとで全部見せろ」
「はい」
久遠は黙っていた。
しばらく黙って、澪の全身を見た。傷、装備、髪、目、腰の骨鎌、足元の空膜痕。教師として、探索者として、たぶん把握できるものを全部見ていた。それから、短く言った。
「戻ったな」
澪は頷いた。
「戻りました」
「一年だ」
「聞いた」
「学籍はない」
「はい」
「部屋もない」
「聞いた」
「検査も隔離も山ほどある」
「はい」
「それでも、まず言うことがある」
久遠は一度だけ目を閉じた。
「よく戻った」
澪は少しだけ、表情を変えた。
笑ったわけではない。泣いたわけでもない。ただ、どこか遠くで張り詰めていたものが、ほんの少し緩んだように見えた。
「はい」
その瞬間、帰還管理区画のモニターが一斉に乱れた。
全員が顔を上げる。
《九環》の配信画面が、まだ一つだけ生きていた。青白いノイズの中、さっきまで澪が立っていた九環の景色が映っている。砕けた空の墓標。白い骨の森。遠く、星のような光が沈む池。
その奥で、何かがこちらを見ていた。
巨大な青い目。
美しく、静かで、底の見えない目。
朱音の腕の中で、澪の身体がわずかに強張った。
モニターの中の目は、瞬きもしなかった。番犬か、それとも別の何かなのか、朱音には分からない。ただ、その一瞬だけ、九環がまだ澪を見ているのだと分かった。
コメント欄が爆発する。
『後ろ!』
『今の何!?』
『目があった』
『九環まだ繋がってる?』
『澪ちゃん帰ってきたの?』
『生きてるじゃん!』
『一年ぶりだぞ』
『髪白い』
『何持ってんの』
『泣いてる人誰』
『協会止めろ』
『九環こわすぎ』
水瀬が即座に配信遮断を試みる。職員が封印処理を走らせる。藤堂がモニターの前に封印布を投げ、久遠が「直接見るな」と怒鳴った。画面が青く弾ける。
配信はそこで途切れた。
静寂が戻る。
朱音は澪を抱きしめたまま、耳元で低く言った。
「今の、何」
澪は少し黙った。
「たぶん、まだ怒ってる」
「誰が」
「九環」
「九環って、場所が怒るの?」
「うん」
「……一年分の説教、増えた」
「どれくらい」
「二年分」
「増えすぎ」
「増えるようなことしたの、澪だから」
澪はほんの少しだけ息を吐いた。
「お腹空いた」
「分かった。説教の前に食べさせる。でもその後、絶対逃がさない」
「逃げない」
「信じたいけど、証拠がない」
「朱音先輩の家、行く」
朱音は固まった。
「……それ、どういう意味で言ってる?」
「部屋、ない」
「ないね」
「朱音先輩、前に言ってた気がする」
「言ってない。いや、言ったかもしれないけど、本人に言ったことはない」
「じゃあ今言った」
澪は真面目だった。
朱音は泣きそうな顔のまま、笑ってしまった。
「うちに来るなら、ルールがあります」
「はい」
「変な骨は玄関に置かない」
「じゃあどこ」
「まず持ち込む前提をやめる」
「武器」
「武器でも駄目」
「命綱」
「……インベントリに入れたら?」
その手があったのかと言う表情で頷いた。
「あと、ご飯は?」
「作る。だからまず検査」
「ご飯」
「検査」
「肉」
「検査してから肉」
「少しだけ先に」
「だめ」
そう言いながら、朱音は澪を離せなかった。
帰ってきた。
本当に帰ってきた。
九環の目も、協会の検査も、学籍のことも、部屋のことも、チャンネル凍結も、全部これからだった。問題は山ほどある。澪がどう変わったのかも、何を持ち帰ったのかも、何を置いてきたのかも、まだ何も分からない。
それでも、今だけは一つだけ分かっていた。
朱音の手の中に、澪がいる。
今度は、掴めている。
朱音はその事実を確かめるように、もう一度だけ澪を抱きしめた。
色んな話にイラスト貼ってるんですがこれって見れてるんですか?
プレビューでは見れてるんですが自信はないですね。
1章[完]です。




