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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第十四話 一年後

 天瀬澪が第一層第九環《空葬原》へ落ちてから、一年が経った。


 その言葉を、七瀬朱音は何度も頭の中で繰り返した。朝起きた時。制服に袖を通す時。槍の手入れをする時。売店で栄養ゼリーを見かけた時。協会支部の前を通る時。夜、布団に入って目を閉じた時。数えたくなくても、日数は勝手に増えていく。昨日より一日多く、澪は帰ってきていない。昨日より一日長く、朱音は待っている。そういう日々が積もり、いつの間にか一年という形を持ってしまった。


 一年という時間は、思っていたほど劇的ではなかった。


 世界は終わらなかった。学校は続いた。ダンジョンも閉じなかった。探索者協会は報告書を出し、封鎖線を張り替え、支部の床を修理し、未帰還者名簿を更新した。新入生は入ってきたし、卒業した先輩たちはそれぞれのクランや企業探索部へ進んだ。売店のメニューは少し変わり、校舎の東階段には滑り止めが追加され、藤堂先生の素材処理室には新しい警告札が増えた。


 変わったものは多い。


 けれど、澪だけが戻ってこなかった。


 朱音はいつもより早く目を覚ました。まだ目覚ましは鳴っていない。窓の外は薄暗く、カーテンの隙間から入る光は青みがかっている。北海道の朝は季節によって匂いが違う。今日は湿った土と、少しだけ冷たい風の匂いがした。


 枕元のスマートフォンを見る。


 通知は三件。遥から一件、凛から一件、学校の班連絡が一件。朱音はそれを開く前に、別のアプリを開きかけた。探索者配信アプリ。指が、凍結中のチャンネル一覧へ向かう。


 そこで止める。


「……朝から見るものじゃない」


 小さく呟いて、スマートフォンを伏せた。


 それでも、頭の中には表示が残っている。


 配信者名《九環》。

 最終配信記録、第一層第七環関連異常映像。

 現在、協会審査によりチャンネル凍結中。

 配信者本人、未帰還。


 何度見ても、文字は変わらない。変わらないと分かっているのに、時々見てしまう。見なければ変わっているかもしれない、という馬鹿みたいな考えが、いつまでも消えてくれなかった。


 布団から出る。床に足をつけた瞬間、身体が少し重い。昨日の訓練で膝を使いすぎた。槍を振る時、踏み込みが少し深かったのだ。水瀬ならすぐに気づいて、記録に残すだろう。遥なら「朱音、無理してる時だけ足音が真面目になる」と笑う。凛ならたぶん心配そうに包帯を出す。


 澪なら。


 朱音はそこで考えるのをやめた。


 洗面所で顔を洗い、髪をまとめる。三年生になってから、髪を結ぶ位置を少し変えた。実技中に邪魔にならないように。後輩の前に立つ時、乱れていると格好がつかないから。鏡の中の自分は、一年前より少し大人びて見えた。そう見えるだけかもしれない。目元の疲れと、口元の硬さが、年齢より先に増えただけかもしれなかった。


 台所へ行くと、母が味噌汁を温めていた。


「おはよう、朱音。早いわね」


「おはよう。目が覚めちゃって」


「今日、実技?」


「午後から。午前は座学」


「なら、ちゃんと食べていきなさい」


「分かってる」


 母は朱音を見て、ほんの少しだけ目を細めた。余計なことは言わない。去年から、そういうことが増えた。家族は朱音を心配している。けれど、朱音が毎日のように誰かの名前を待っていることも知っている。その名前を不用意に出すと、朱音が笑顔で固まることも知っている。


 食卓には茶碗が二つ並んでいた。


 一つは母の分。一つは朱音の分。


 それだけだ。


 当たり前なのに、朱音は少しだけ安心して、少しだけ落ち込んだ。以前、澪の部屋が解約されたと聞いた日、朱音は家で母に言った。


「もし、澪が帰ってきて、住む場所がなかったら、うちに連れてきていい?」


 母はすぐには答えなかった。台所で包丁を止め、朱音を見て、それから「帰ってきたらね」と言った。否定ではなかった。父も、新聞の向こうで小さく咳払いをして、「変なものは玄関に置かせるな」とだけ言った。


 それから一年、朱音の部屋の隣の小さな物置には、畳んだ布団が一組置かれている。客用という名目だ。誰も深く聞かない。朱音も深く説明しない。けれど、時々母がその布団を干していることを、朱音は知っていた。


 朝食を食べる。ご飯、味噌汁、焼き魚、漬物。しっかりした朝食だった。朱音はそれをちゃんと食べた。食べながら、澪なら焼き魚の骨を気にせず食べそうだと思い、すぐに頭の中で否定した。さすがに骨は取る。たぶん。いや、九環に落ちる前の澪なら取ったはずだ。九環の中で何を食べているかまでは、考えない方がよかった。


「朱音」


 母が言った。


「今日は帰り、遅くなる?」


「支部に寄るかも」


「また?」


「資料確認だけ」


「そう」


 母はそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに、味噌汁を少し多めによそってくれた。


 学校へ向かう道は、もう何百回も通った道だった。駅前のコンビニには、探索者向けの栄養補助食品が並んでいる。澪によく持たせていたゼリーの新味が出ていた。青りんご味。朱音は店先で一瞬立ち止まり、買わなかった。買っても渡す相手がいない。自分で飲むには甘すぎる。


 校門の前で、凛が待っていた。


「朱音先輩、おはようございます」


「おはよう。待ってたの?」


「はい。昨日の観測記録、確認してもらいたくて」


「私より蓮くんに見てもらった方が正確だと思うけど」


「水瀬先輩には、もう赤字でいっぱい返されました」


「じゃあ私に持ってきたのは、慰め?」


「いえ、朱音先輩は現場で分かりやすい言葉に直してくれるので」


 凛はそう言って、少し照れたようにノートを差し出した。


 凛も変わった。


 一年前、支部の廊下で震えていた少女は、今では後輩の記録補助を任されるようになっている。まだ怖がりだし、手は震える。それでも、逃げない。自分にできることを探して、そこにしがみつく強さを覚えた。澪がいなくなったことは、凛の中にも深く刺さっている。だが、その痛みは彼女を折るだけではなかった。


「見るよ。歩きながらでいい?」


「はい」


 二人で校舎へ向かう。凛のノートには、第一層第四環での足場反応、空膜薄層の位置、訓練班の移動遅れが細かく書かれていた。朱音は要所要所で言い換える。


「ここ、『足場反応に不安定性』だと後輩には伝わりにくいかも。『踏む前に一回止まれ』くらいに落とした方がいい」


「なるほど」


「あと、『視線誘導を受けた可能性』は大事だけど、現場で言う時は『見すぎるな』の方が早い」


「朱音先輩らしいです」


「雑ってこと?」


「実用的という意味です」


「今の言い直し、蓮くんみたい」


 凛が小さく笑った。


 教室では、遥が窓際の席に座っていた。机の上には朝食代わりらしいパンが置いてある。朱音を見るなり、遥は片手を上げた。


「おはよう。朱音、今日も早いね。規則正しい生活で後輩を威圧するタイプの三年生になってる」


「威圧してない」


「本人に自覚がない威圧が一番怖いんだよ」


「遥は朝から元気だね」


「元気じゃないから喋って誤魔化してる」


 遥はパンをかじりながら言った。軽い調子なのに、嘘ではないと分かる声だった。


 水瀬はすでに席で端末を開いている。紙のノートも横にある。以前は端末だけで済ませていたが、例の事件以降、重要なものは紙に残す癖がついた。画面は干渉される。紙も絶対ではないが、少なくとも勝手に青白い階段を映し出したりはしない。


「おはようございます、朱音先輩」


「おはよう。寝た?」


「五時間」


「お、増えた」


「昨日、遥さんに端末を没収されました」


「没収っていうか、人道的措置ね」


 遥が胸を張る。


「蓮、放っておくと朝まで記録を掘るから。人間は充電式じゃないんだよ」


「遥が言うと説得力がないけど、内容は正しい」


 朱音が言うと、遥は笑った。


 会話はいつも通りだった。


 いつも通りにすることを、みんなで少しずつ覚えた。澪の名前を出さないわけではない。けれど、出す時は慎重になる。傷口に触るように。触らなければ膿むと分かっていて、触ると痛いことも分かっているように。


 午前の座学は、存在進化に関する講義だった。


 久遠先生が教壇に立つ。相変わらず表情は怖い。だが、一年前より少しだけ沈黙が増えた気がする。板書は簡潔で、余計な飾りはない。


「一次存在進化は、探索者がLv50に到達した時点で発生する。進化先は本人が選ぶものではない。それまでの戦闘傾向、技能、傷、精神状態、ダンジョン環境との接触履歴によって決まる。希望ではなく、結果だ」


 教室が静かになる。


 これは一年生向けにも二年生向けにも何度も説明される内容だ。だが、三年生にとっては、そろそろ自分たちの話になる。朱音もLv40台に入っている。一次進化は遠い未来ではなくなっていた。


「重要なのは、進化直前の異常接触を避けることだ。精神汚染、空間干渉、深環由来の魔力、未確認存在との接触。これらは進化方向を歪める可能性がある」


 久遠先生の視線が、一瞬だけ朱音の方へ向いた。


 本当に一瞬だった。だが、朱音には分かった。澪の話をしているわけではない。けれど、澪を思い出している。


 澪はLv47で落ちた。


 あの九環の中で生きているなら、Lv50に届いている可能性がある。届いているなら、どんな進化をしたのか。人間の身体で戻れるのか。そもそも戻るという概念が残っているのか。


 朱音は机の下で拳を握った。


 考えないようにしても、考えてしまう。


 澪が生きていると信じることと、生きているなら何に変わっているかを恐れることは、同時に存在する。


 昼休み、朱音はいつものように売店へ行った。


 今日はおにぎりを一つだけ買った。昆布ではなく、鮭にした。自分の分だ。誰かに渡す分ではない。そう決めて買ったのに、レジ横に並んでいた栄養ゼリーを見て、結局一本手に取った。


 青りんご味。


 新商品。


「買うんだ」


 後ろから遥の声。


「非常用」


「朱音の非常用って、だいたい澪ちゃん用だったよね」


「今は私用」


「飲む?」


「……そのうち」


「それ、飲まないやつだ」


 遥は何も責めなかった。ただ、朱音の手元のゼリーを見て、少しだけ目を細めた。


「今日、支部寄る?」


「たぶん」


「私も行く」


「用事あるの?」


「朱音が一人で資料端末の前に立って固まるのを防ぐ用事」


「見張りじゃん」


「見守りと言って」


「言い方変えただけ」


 遥は肩をすくめる。相変わらず軽口だがこのような会話も慣れたものだ。


「凛ちゃんも誘う?」


「凛ちゃんは今日、後輩の記録補助があるから無理させない」


「蓮は?」


「蓮くんは誘うと本当に仕事始めるから駄目」


「それはそう」


 二人で中庭のベンチに座った。春と夏の間のような日差しだった。風がある。木の葉が揺れる。遠くで一年生たちが実技の準備をしている。大きな声で笑っている生徒がいて、教師に注意されていた。


 朱音はおにぎりを開ける。


 鮭だった。


 ちゃんと、自分で選んだものだ。


「ねえ、朱音」


 遥がパンを片手に言った。


「たまに思うんだけどさ」


「何?」


「澪ちゃんが帰ってきたら、最初に何言う?」


 朱音の手が止まった。


 遥は空を見ている。こちらを見ていない。だからこそ、逃げにくい質問だった。


「……怒る」


「だよね」


「一年分、説教する」


「最初から?」


「最初から」


「抱きしめるより先に?」


 朱音は少し黙った。


「……たぶん、掴む」


「掴む」


「肩か、腕か、服か分からないけど。とにかく掴む。逃げないように」


「澪ちゃん、帰ってきてすぐ逃げるかな」


「逃げるというか、また何か見つけたら歩いて行きそう」


「否定できないの、澪ちゃんすごいね」


 遥は苦笑した。


 朱音はおにぎりを一口食べた。味が少し薄く感じる。たぶん、考えごとをしているせいだ。


「それで、言う」


「何て?」


「一年分、説教があるんだけど。座れる? 立ったまま聞く? って」


 遥は数秒黙り、それから笑った。明るく笑ったわけではない。少し泣きそうな、でも本当におかしそうな笑いだった。


「朱音らしい」


「そう?」


「うん。抱きしめるでも、泣くでもなく、まず説教の姿勢確認するの、すごく朱音」


「ひどくない?」


「褒めてる」


「最近みんな、褒めてるって言えば何言ってもいいと思ってるよね」


 朱音も少し笑った。


 笑えた。


 それが嬉しいのか、つらいのか、自分でも分からなかった。


 午後の実技では、第一層第五環の避難誘導を想定した訓練が行われた。


 朱音は三年生として、後輩班の指揮を任された。盾役を前に、支援役を中央へ、斥候役を横へ。自分は槍で前方と足場を押さえる。昔よりずっと全体を見るようになった。前なら、自分が前に出て止めればいいと思っていた。今は違う。誰が遅れているか、誰が見すぎているか、誰が無理に笑っているか。そういうものを見る。


 澪は、よく一人で前へ出た。


 危険だからではなく、必要だと思ったら出た。誰かが落ちそうなら手を伸ばした。見てはいけないものでも、必要なら見た。その結果、澪は九環へ落ちた。


 朱音はその記憶を、訓練のたびに使った。


「止まって!」


 後輩班が一斉に止まる。


 朱音は槍の石突で地面を叩いた。訓練用の床が、わずかに青く光る。空膜薄層を再現した仕掛けだ。


「今、前に出たら落ちる。斥候が気づいたら、自分だけで確認しない。班全体に止まれって言う。恥ずかしがらない。間違ってもいいから言う。何も言わずに落ちるより、百倍まし」


「はい!」


「あと、誰かが変なものを見つけてふらっと行きそうになったら、遠慮なく掴んで。袖でも鞄でも首根っこでもいい」


 後輩の一人が苦笑した。


「首根っこもですか?」


「命がかかってる時は、服の心配は後。破れたら謝って直せばいい。落ちたら謝れない」


 言ってから、朱音は槍を握り直した。


 落ちたら謝れない。


 澪は謝れなかった。


 最後に見た澪の顔を、朱音は今でも鮮明に覚えている。青白い裂け目の向こうで、手を伸ばそうとしていた顔。言葉にならないまま落ちていった口元。戻る、と言おうとしていたのかもしれない。分からない。聞こえなかった。だから、朱音の中ではずっと未完のままだ。


 放課後、朱音と遥は協会支部へ向かった。


 支部は去年修復されていたが、廊下の一部にはまだ新しい床材が目立つ場所がある。中央遮蔽室の扉も交換された。事件当時の封印痕は残っていない。残っていないからこそ、朱音は時々そこに立ってしまう。何もない床を見て、ここだった、と確認する。澪が消えた場所。朱音の手が届かなかった場所。


 受付の職員は朱音を見ると、少しだけ表情を柔らかくした。


「七瀬さん。資料閲覧ですか」


「はい。第一層第七環封鎖線の公開範囲だけ」


「分かりました。浅見さんも?」


「朱音の見張りです」


「遥」


「見守りです」


 職員は困ったように笑い、端末席を案内した。


 公開資料には、目新しい情報はなかった。


 第一層第七環、風裂き地帯外縁。封鎖継続。空膜喰い残留反応、減少。大型個体反応、確認されず。青白い階段関連映像信号、直近三十日発生なし。第九環接続反応、観測不能。


 観測不能。


 死んだ、ではない。


 生きている、でもない。


 ただ、分からない。


 この一年、朱音はその言葉に何度も傷つけられた。分からないから諦めきれない。分からないから希望を持ってしまう。分からないから、悪い想像も終わらない。


 遥が隣の席で小さく言った。


「変化なし?」


「うん」


「そっか」


「うん」


 朱音は端末を閉じようとして、手を止めた。


 画面の下に、小さな関連項目が出ていた。


 《九環》チャンネル凍結記録。


 開かない。


 開かない、と決めた。


 けれど、指が少し動いた。


 遥がその手首を掴む。


「今日はやめよ」


「……うん」


「見ても変わらない時は、見ないのも仕事」


「それ、誰の言葉?」


「今作った」


「雑」


「でも正しいでしょ」


「うん」


 朱音は端末を閉じた。


 支部を出る頃には、空が夕焼けになっていた。赤ではなく、少し紫が混じった色。朱音は売店で低位帰還札を一枚買った。もう何枚目か分からない。自分用ではある。だが本当は、帰ってきた澪に渡すために買っているのだと、朱音は気づいていた。


 帰り道、遥と別れた後、朱音は一人で駅前を歩いた。


 風が冷たくなっている。人通りは多い。会社帰りの人、学生、探索者装備を持った若い男女、買い物袋を提げた主婦。どこにでもある日常だった。朱音はその中を歩きながら、ポケットの中の帰還札に触れる。紙の角が指に当たる。薄い。頼りない。それでも、何もないよりはましだ。


 交差点で信号を待つ。


 反対側の歩道に、黒髪の少女が立っているのが見えた。


 心臓が跳ねた。


 すぐに違うと分かった。背が違う。髪の長さも、立ち方も違う。制服も別の学校のものだ。それでも、一瞬だけ澪に見えた。何度目か分からない。街中で、廊下で、駅で、コンビニの棚の影で。似た背格好の誰かを見つけるたび、身体が勝手に反応する。


 信号が青になる。


 人が歩き出す。


 朱音も歩き出そうとした。


 その時。


「朱音先輩」


 声がした。


 小さく、近く、少し掠れていた。


 朱音は止まった。


 今のは、街の音ではなかった。幻聴なら、もっと遠いはずだった。記憶の中から聞こえる声は、いつも少しぼやけている。だが今の声は、すぐ後ろから呼ばれたようにはっきりしていた。


 朱音は振り返らなかった。


 振り返るのが怖かった。


 一年前から、何度も同じことを繰り返した。声がした気がして振り返る。誰もいない。自分が勝手に聞いただけ。そうやって、期待して、失望して、少しずつ削られていく。もう慣れたと思っていた。でも、慣れていなかった。


「朱音先輩」


 二度目。


 今度は少し困ったような声だった。


 朱音はゆっくり振り返った。


 人の流れの中に、誰もいない。


 いや、いないわけではない。多くの人がいる。けれど、澪はいない。黒髪の少女はどこにもいない。


 朱音は息を吐いた。


「……最悪」


 自分に向けた言葉だった。


 幻聴まで始まった。


 そう思った瞬間、ポケットの中でスマートフォンが震えた。朱音は反射的に取り出す。画面には、協会支部からの緊急通知が表示されていた。


 第一層第五環、正規下降路前広場。

 未登録空膜反応を検知。

 周辺探索者は退避。

 映像確認中。


 朱音の指先が冷たくなる。


 続けて、もう一件通知が入った。


 凍結中チャンネル《九環》に、配信開始信号を検出。

 発信源、不明。

 協会確認中。


 朱音は画面を見たまま、動けなかった。


 街の音が遠くなる。


 さっきの声が、まだ耳の奥に残っている。


 朱音先輩。


 幻聴ではなかったのかもしれない。


 朱音はスマートフォンを握りしめ、駅前の人混みの中で、協会支部の方角へ振り返った。


年が過ぎて水瀬のことを連と呼ぶ感じ。なんかいいですね。

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