第十三話 第一層 第九巻 ≪空葬原≫
支部の外で、鈴が鳴り続けていた。
ちりん、ちりん、ちりん。
最初は遠かった。第一層第七環の封鎖線、そのさらに奥、風裂き地帯の向こうから聞こえているはずの音だった。けれど、音は支部の廊下にも、天井灯の薄い光にも、澪のインベントリの四十七番目の奥にも、細い糸のように入り込んでいた。耳で聞こえる音ではない。だから耳を塞いでも意味がない。骨の裏側、爪の根元、古い傷跡の奥に、小さな鈴が吊るされているような感覚だった。
朱音は澪の手を握ったまま、保健室の前で立ち止まっていた。
「動かないで」
命令ではなく、確認するような声だった。澪は頷く。
「動かない」
「今の返事、ちゃんと覚えてるからね」
「うん」
「あとで『動かないとは言ったけど歩かないとは言ってない』とか言ったら、私、本気で怒るから」
「言わない」
「言いそうだから先に釘刺したの」
朱音は軽口の形をしていたが、手は冷たかった。握る力も強い。痛いほどではない。けれど、離したら本当にどこかへ行ってしまうと分かっている人間の握り方だった。澪はその手を見下ろし、握り返した。右手だけで。左手首はまだ使えない。包帯の下で熱を持ち、さっき空膜喰いに噛まれた固定具の跡がずきずきしている。
支部内の放送が再開した。
『第一層第七環封鎖線、第三防護陣まで後退。空膜喰い群、増加。大型反応、複数。現場職員は直接視認を避け、封印布越しに誘導してください。繰り返します。直接視認を避け――』
放送が一瞬だけ乱れる。
青白いノイズ。
その向こうで、低い唸り声が混じった。
犬の声に似ていた。だが、普通の犬ではない。獲物を見つけた声でも、威嚇でもない。もっと深い。穴の奥で空気が震え、そこに牙の形をした音が生えたような声だった。澪の喉がわずかに詰まる。見ていないのに、何かがこちらを向いた気がした。
「澪」
朱音がすぐに呼ぶ。
「見てない」
「顔が見に行ってる」
「顔だけ」
「顔だけならいい、とはならないの」
朱音は澪の頬を両手で挟み、自分の方へ向けた。廊下の真ん中で、急にそんなことをされたので、近くの職員が一瞬こちらを見た。朱音は気にしない。目が合う距離まで顔を近づけ、低い声で言う。
「私を見て」
「見てる」
「私の後ろを見るな。天井も見るな。青い光も見ない。今の澪、好奇心と責任感と変な義務感がごちゃ混ぜになってる顔してる」
「よく分かるね」
「一年くらい見てきたからね」
「一年はまだ経ってない」
「感覚的にはそのくらい見張ってる」
朱音の言葉は少しだけ震えていた。それを隠すために、わざと細かく喋っている。澪はそれが分かった。だから素直に頷いた。
「朱音先輩を見る」
「よし。私、今日だけは景色扱いでいいから」
「景色」
「そう。安全な景色」
安全な景色、という言葉は少し変だった。けれど、今は分かりやすかった。澪は朱音の目を見る。栗色の瞳。寝不足で赤い目元。怒っているのに泣きそうな顔。青白い階段より、ずっと近い。
そこへ久遠が戻ってきた。
制服の袖に封印札の焦げ跡がついている。短槍は持っていない。代わりに協会支部の非常用槍を持っていた。藤堂も一緒だった。工具箱を肩にかけ、《風縒り鉤鎖》を包んだ封印布を別の職員に預けている。水瀬は紙束を抱え、凛はその後ろで顔を強張らせていた。遥は肩の固定を外しかけて朱音に睨まれ、渋々片手で押さえている。
「封鎖線が保たん」
久遠は短く言った。
誰もすぐには返事をしなかった。
「第七環の裂け目が広がっている。空膜喰いが、地形ではなく封鎖線の防護陣を噛んでいる。現場の職員だけでは足りん。俺と藤堂は出る」
「私も行きます」
朱音が即座に言った。
「駄目だ」
久遠も即座に返した。
「でも、封鎖線が崩れたら――」
「七瀬、お前の仕事はここだ」
「澪を見てろ、ですよね。分かってます。分かってますけど、分かってるから腹立つんです」
朱音の声が荒くなる。久遠は怒らなかった。ただ、まっすぐ朱音を見た。
「お前が動けば、天瀬も動く」
「そんなの、分かってます」
「なら残れ」
「先生は、澪が目の前で引っ張られそうになっても、残れって言えますか」
廊下の空気が少し止まった。
朱音は言ってから、唇を噛んだ。言いすぎたと思ったのかもしれない。けれど、取り消さなかった。久遠は数秒黙り、低く答えた。
「言う」
その声は硬かった。
「言うしかない。そこで俺が情で動けば、もっと多く死ぬ」
朱音は目を伏せた。澪は朱音の手を握っていた。朱音が戦いたいのは分かる。封鎖線へ行きたいのも、誰かを助けたいのも分かる。だが、朱音が離れたら、自分はたぶん青い方を見てしまう。それも分かっていた。
「朱音先輩」
「何」
「ここにいて」
朱音は目を見開いた。
「……澪がそれ言うの、ずるい」
「うん」
「ずるいって分かってて言ってる?」
「うん」
「最悪」
朱音はそう言ったが、手は離さなかった。むしろ、握る力が少し強くなった。
久遠は二人を見てから、支部職員に指示を飛ばした。
「天瀬を保健室ではなく中央遮蔽室へ移せ。インベントリ封印と装備共鳴の監視を継続。水瀬、三枝は記録補助。浅見は七瀬の補助だ。七瀬が倒れたら、お前が天瀬の目を塞げ」
「雑に重い役目を振られましたね」
遥は冗談めかして言ったが、顔は真面目だった。
「でも了解。朱音が倒れる前に、私が朱音を蹴ります」
「蹴らないで」
朱音が言う。
「蹴るくらいしないと止まらないでしょ、朱音」
「否定できないのが嫌」
ほんの少しだけ、廊下に人間の空気が戻る。だが、それはすぐに警報音で切られた。
今度の警報は、短くなかった。
支部全体が震えた。壁に貼られた封印札が一斉に青白く光り、天井灯が明滅する。廊下の奥で職員が叫ぶ。
「第一層第五環側に空膜反応! 支部連絡通路、位相ずれ!」
久遠の顔色が変わった。
「第五環だと?」
「はい! 第七環封鎖線ではありません! 第一層第五環、正規下降路付近に裂け目反応!」
水瀬が紙束を落としかけた。
「迂回された……?」
藤堂が低く唸る。
「空膜喰いが防護陣を噛んでる間に、別の薄い場所を開けたか」
第一層第五環。正規下降路のある場所。学生探索者も、協会職員も、素材運搬業者も利用する場所だ。第七環や六環外縁のように完全封鎖している場所ではない。もしそこに裂け目が開けば、巻き込まれる人数が桁違いになる。
澪のインベントリの奥で、四十七番目の枠が震えた。
ちりん。
澪は目を閉じなかった。見ない。行かない。返事をしない。昨日から何度も繰り返した言葉を、頭の中で並べる。だが、今度はそれだけでは足りなかった。
支部の放送に、別の音声が割り込んだ。
『第五環、正規下降路前広場に避難誘導中! 空膜喰い小型、多数! 大型一、地面を噛んでいます! 床が――床が抜け――』
ノイズ。
子どもの悲鳴。
たぶん学生だ。
朱音の手が震えた。遥が顔を強張らせる。凛は口元を押さえる。久遠は即座に走り出そうとしたが、次の報告がそれを止めた。
『大型個体、二体目! 正規下降路の階段に噛みついています! 第二層側への下降路が歪曲! 避難者、分断!』
「久遠先生!」
職員が叫ぶ。
「本部から現場指揮要請です! 第五環側へ!」
久遠は一瞬だけ澪を見た。
その目には、判断があった。
澪を守るか、現場を救うか。
久遠は迷った。ほんの一瞬だけ。だが、その一瞬を誰も責められなかった。次に彼は朱音を見た。
「七瀬」
「はい」
「天瀬を離すな」
「……はい」
「何があってもだ」
朱音は返事をするまでに少し時間がかかった。
「はい」
久遠はそれを聞き、藤堂と共に走った。支部職員たちも続く。廊下の空気が一気に薄くなる。残されたのは、澪、朱音、遥、水瀬、凛、そして数人の職員だけだった。
警報は鳴り続けている。
支部の外では鈴。
第五環側では悲鳴。
インベントリの奥では、四十七番目の枠が震えている。
「中央遮蔽室へ」
水瀬が言った。
「ここにいるより安全です」
「安全って言葉、今日だいぶ信用を落としてるね」
遥が軽く言ったが、足はすぐに動いた。朱音は澪の手を握ったまま歩き出す。今度は保健室ではない。中央遮蔽室。支部の中心部にある、異常映像や精神汚染から対象を隔離する部屋だ。
澪は歩きながら、支部の床を見る。
薄い。
全体ではない。ところどころ、青い線が走っている。空膜が支部の床の下へ入り込んでいる。第五環側だけではない。第七環封鎖線だけでもない。空膜喰いは、支部と第一層の接続そのものを噛んでいる。
「水瀬先輩」
「何ですか」
「床、薄い」
水瀬の顔色が変わった。
「位置は」
「前方、右。あと中央遮蔽室の手前」
「避けます。全員、左壁沿いに」
水瀬が指示を出す。職員たちが動く。朱音は澪の言葉を疑わず、すぐに進路を変えた。遥が最後尾で凛を支える。
その直後、右側の床が音もなく沈んだ。
穴ではない。青い空が、床の下から口を開けるように覗いた。普通なら悲鳴が上がる場面だった。だが、全員、もう悲鳴を上げる余裕がなかった。ただ、凛が小さく「ありがとう」と呟き、澪は頷いた。
中央遮蔽室の扉が見えた。
厚い金属扉。封印札。魔力遮断壁。そこに入れば、少なくとも外の映像や音の干渉はかなり抑えられる。朱音が安堵しかけた、その瞬間。
扉の前で、鈴が鳴った。
ちりん。
誰も動かなかった。
扉の表面に、青白い線が一本走った。縦に。まるで、向こう側から爪でなぞられたように。その線が開く。細い裂け目。中から空膜喰いの小型が一匹、顔を出した。
遥が短剣を抜くより早く、澪は短杭を投げた。
右手だけ。狙いは口の奥。短杭が小型の喉を貫き、扉へ縫い止める。魔物は泡になって消えた。だが、裂け目は閉じない。むしろ、短杭の刺さった場所から線が広がった。
「澪、後ろ」
朱音の声。
澪は振り返る。
廊下の床、さっき避けた青い穴の周囲から、小型の空膜喰いが這い出てきていた。一匹、二匹ではない。十を超える。壁にもいる。天井にもいる。小さな口が一斉に開き、床や壁を噛み始める。
中央遮蔽室へ逃げ込む前に、囲まれた。
水瀬が式札を広げる。
「朱音先輩、前。遥さん、後方。凛さんは僕の後ろへ」
「澪は?」
朱音が聞く。
水瀬は一瞬だけ言葉に詰まった。
澪は既に短杭を二本抜いていた。左手は使えない。だから右手と足で戦うしかない。鎖はない。予備短剣はインベントリの中だが、四十七番目の枠が封印された今、勝手に開くのは危険だ。
それでも、やるしかない。
「澪は、私の視界の中」
朱音が言った。
それは指示だった。止める言葉ではない。澪を戦力として数えた上で、見失わないための言葉だった。
「勝手に角曲がったら、槍で服引っかけるから」
「服、破れる」
「破れて困るくらい大事にしてる?」
「してない」
「じゃあ遠慮なく引っかける」
朱音は槍を構えた。鋭く、けれど声は少しだけ笑っていた。澪はその横に立つ。並ぶのではない。半歩ずらす。朱音が正面を止める。澪が足元と隙間を潰す。遥が後方で小型を斬り、水瀬が裂け目を押さえ、凛が震えながらも職員へ負傷者誘導の連絡を入れる。
戦闘が始まった。
空膜喰いは弱い。直接噛まれても、一匹だけなら致命傷にはなりにくい。だが、場所が悪い。噛まれるのは人ではなく、床だ。壁だ。封印札だ。こちらの足場を小さく、小さく削っていく。澪はそれを潰す。短杭で縫い止め、靴底で踏み、時には自分の足を餌にする。脛に噛みつかせ、動きを止めてから潰す。再生が走る。痛い。だが痛みはまだ扱える。
朱音の槍は、昨日より鋭く見えた。
彼女は大型相手ではなく、小型の群れを止めるために槍を使っていた。突くだけではない。柄で払う。足場が薄い場所へ魔物を押し戻す。澪が踏み込みそうな床を先に柄で叩き、音の違いで薄さを確かめる。何度も澪を見ているうちに覚えたのだろう。澪がどこへ行きたがるか、危ない時にどちらへ身体が傾くか。朱音はそれを先回りしていた。
「澪、右足出すならその前に言う」
「右足」
「遅い!」
槍の柄が澪の肩口を押し、半歩戻す。直後、澪が踏もうとした床を空膜喰いが噛み抜いた。澪は朱音を見る。
「助かった」
「今の貸し一つ。利息は夕飯」
「生きてたら」
「生きて食べるの。条件を勝手に軽くしない」
朱音はそう言いながら、槍で小型を二匹まとめて叩き潰した。
戦線は少しずつ中央遮蔽室へ近づいた。水瀬が扉の裂け目に式札を重ねる。遥が天井から落ちてくる小型を斬り、凛が職員に避難経路を伝える。いける。そう思った瞬間、澪のインベントリが強く鳴った。
ちりん。
四十七番目。
封印されたはずの枠が、内側から膨らんだ。
澪の視界が一瞬だけ青く染まる。
中央遮蔽室の扉ではない。廊下でもない。第一層第五環の正規下降路。そこに開いた裂け目。久遠が槍を振るい、藤堂が大型個体の顎に封印杭を打ち込んでいる。その背後で、避難誘導中の生徒が転び、空膜喰いが床を噛む。さらにその奥、青白い階段の影。第七環。九環。空葬原。
全部が一瞬で重なった。
朱音の声が遠くなる。
「澪!」
澪の右手が、勝手にインベントリへ伸びた。
取り出してはいけない。
分かっている。
でも、四十七番目の枠が開いた。
中から出てきたのは、物ではなかった。
青白い糸。
それは澪の指に絡み、手首へ、腕へ、胸の奥へ走った。痛みはない。冷たいだけ。だが、その冷たさが心臓に届いた瞬間、足元が消えた。
朱音が澪を掴んだ。
本当に、掴んだ。
右腕を。指を。袖ではなく、手首そのものを。朱音は槍を捨て、両手で澪を引き戻そうとした。遥が背後から朱音の腰を掴む。水瀬が式札を飛ばす。凛が叫ぶ。職員たちも手を伸ばす。
それでも、澪の身体は半分、青い裂け目へ沈んでいた。
裂け目の向こうには、空があった。
上でも下でもない空。砕けた青。白い骨のような雲。遠く、墓標のように突き立つ空の破片。
第一層第九環《空葬原》。
澪は、それを見た。
見てしまった。
「澪!」
朱音の声が、今度ははっきり届いた。
澪は朱音を見た。朱音は泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、必死だった。顔を歪め、歯を食いしばり、手が裂けても離さないという顔をしていた。
「戻ってきなさい!」
朱音が叫ぶ。
「今すぐじゃなくてもいい! でも、絶対に戻ってきなさい! 私は、あんたの荷物、勝手に捨ててないからね! ゼリーも、帰還札も、説教も残しておくから!」
変な言葉だった。
でも、朱音らしかった。
澪は笑いそうになった。こんな時に。けれど、笑う前に、青白い糸が強く引いた。朱音の手が滑る。血が滲む。澪はとっさに朱音の手を握り返そうとした。右手は朱音に掴まれている。左手は使えない。それでも、指を曲げた。
届く。
そう思った瞬間、澪のインベントリの四十七番目が大きく開いた。
裂け目の向こうから、低い犬の声がした。
朱音の手が、弾かれた。
澪の身体が落ちる。
音が消える。
最後に見えたのは、朱音がこちらへ手を伸ばしたまま、声にならない何かを叫んでいる顔だった。
澪は青白い空へ落ちた。
支部の廊下も、中央遮蔽室の扉も、朱音の手も、全部が上へ遠ざかる。通信端末が警告音を鳴らす。帰還札がインベントリの奥で震える。だが、どれも反応しない。空が近い。地面がない。上下が分からない。
澪は落ちながら、右手を伸ばした。
何も掴めない。
ただ、朱音の声だけが、まだ耳の奥に残っていた。
――絶対に戻ってきなさい。
澪は声に出そうとした。
戻る、と。
だが、空葬原の空気が喉に入り、言葉にならなかった。
視界の端で、白い骨のような鳥が旋回している。足元のない空の中で、半透明の小さな獣たちがこちらを見上げている。遠くで、何かが吠えた。大きな犬の声。いや、犬に似た何かの声。
落下が止まる。
止まったのではない。
澪の身体が、砕けた空の墓標に叩きつけられた。
骨が鳴った。
息が消えた。
痛みが遅れて来る。
空膜が濃い。肺の中に薄い硝子片を吸い込んだようだった。呼吸するたびに喉が切れる。床はある。だが床ではない。透明な空の破片が重なり、墓石のように斜めに突き立っている。その間を、白い雲の骨が埋めていた。
澪は動こうとした。
腕が動かない。右肩が外れている。肋骨が折れている。左手首はもう痛みなのか熱なのか分からない。再生が走る。だが、遅い。空膜が濃すぎて、傷口の内側に青い膜が貼りつく。治ろうとする肉を、空が押し返してくる。
目の前に、小さな獣がいた。
空葬鼠、という言葉が浮かぶ。鑑定ではない。形を見て、勝手にそう思った。小さな鼠のような身体。骨のように白い背。腹の中は透明で、そこに青い空が揺れている。目はない。だが、口はあった。
一匹。
二匹。
十匹。
もっと。
澪は右手を動かそうとした。動かない。肩がまだ戻っていない。左手は使えない。足は片方、感覚が薄い。短杭はある。腰のホルダーに残っている。だが、手が届かない。
空葬鼠が近づいてくる。
澪は歯を食いしばった。
逃げるしかない。
戦うのではない。まず、逃げる。
身体が動く前に、一匹目が澪の太腿に噛みついた。
肉が裂けた。
空が入り込んだ。
澪は声を出さなかった。出せなかった。代わりに、折れた右肩を無理やり地面に押しつけ、体重で嵌めた。視界が白く飛ぶ。再生が走る。ほんの少し、腕が動く。
短杭を抜く。
一匹目の頭を刺す。
青い泡が散る。
残りの群れが、一斉に澪へ跳びかかった。
第一層第九環《空葬原》。
澪の九環は、景色を見る余裕もなく、肉を食われるところから始まった。
♦ ♦
澪が最初に感じたのは痛みではない。方向感覚の破壊だった。上が空なのか、下が空なのか、一瞬では分からない。砕けた青が墓標のように突き立ち、その隙間を白い雲の骨が埋めている。足元にある透明な板は石でも氷でもなく、割れた空そのものが冷えて固まったように見えた。視界のどこを見ても、景色は美しかった。美しすぎて、感覚が拒絶した。これを綺麗だと思うことと、ここで生きられると思うことは、まったく別だった。
その美しさの中で、澪の身体だけがひどく生々しかった。
右肩は落下で外れ、肋骨も数本折れている。左手首は支部で痛めたまま。太腿には空葬鼠に噛まれた傷がある。血は出ているが、普通の血の色ではなかった。傷口の周囲に、薄い青が張りついている。再生が走っているのに、空膜の濃い空気が肉の戻りを邪魔していた。身体の中にもう一つの皮膚が入り込み、傷を塞ぐたびに、その上から薄膜で押し返してくるような感覚だった。
それでも、死んでいない。
死んでいないなら、まだ動ける。
空葬鼠の群れが、半透明の身体を揺らしながら近づいてくる。鼠というより、割れた硝子に骨を通して無理やり生き物の形にしたような何かだった。腹の内側に空が揺れている。目はない。口だけがある。牙も白く、薄い。きっと軽い。軽いまま、澪の肉を削るためだけに特化した形をしている。
一匹目はもう潰した。
残りは十を超える。
澪は右肩を無理やり地面へ押しつけた。関節がはまる音がする。視界が白く飛んだ。吐きそうになる。だが、腕が戻る。戻った瞬間、腰の短杭を引き抜いた。右手だけ。左は使えない。
一匹目が喉へ飛ぶ。
澪は半歩も引けなかった。だから前へ倒れた。飛びかかってきた空葬鼠の腹へ自分から突っ込み、短杭を下から顎の奥へ差し込む。硬い感触はない。膜を破るような、ひどく薄い手応えだけがあった。青い泡が散る。顔にかかる。冷たい。皮膚に触れた場所がちりちりと痺れる。
次が来る。
右太腿に一匹。
脇腹に一匹。
地面を滑ってきた別の個体が、足首へ噛みつこうとする。
澪は刺した短杭を引き抜かず、足を振り上げた。太腿に噛みついた個体ごと、膝を地面へ叩きつける。自分の足が悲鳴を上げる。空葬鼠の身体が潰れ、内側の青が弾ける。脇腹の一匹は噛んだまま離れない。澪は短杭をもう一本抜き、後ろ手に刺した。外した。もう一度刺す。今度は入る。
泡。
冷気。
歯の根が浮くような痛み。
澪は這うように動いた。
立つのではない。逃げる。まず、数を減らすより位置を変える。ここは平らすぎる。群れに囲まれる。少しでも、鼠が一方向からしか来られない場所が必要だった。視界を走らせる。墓標のように突き立つ空の破片。その根元。斜めに倒れかかった大きな青い板。下に空洞がある。狭い。潜り込めば、横からは来にくい。
澪はそこへ転がった。
背中に痛みが走る。折れた骨が擦れる。だが、入れた。群れが追ってくる。空葬鼠は小さい。狭い穴にも入れる。だが、同時に全部は入れない。先頭の一匹を潰せば、次の一瞬だけ詰まる。そこを使う。
澪は自分の呼吸を聞いた。
浅い。早い。空気が薄いわけではない。むしろ濃い。濃すぎる。吸うたびに、肺へ細い膜が貼られる感じがする。ここで長く呼吸したら、呼吸そのものが空葬原のものに変わってしまいそうだった。
一匹目が穴へ頭を突っ込んだ。
短杭で目の位置を刺す。目はない。だが頭蓋らしき位置を割ると動きが止まる。
二匹目。
喉。
三匹目。
噛みつかれる前に足で蹴り返し、骨の板へ叩きつける。
四匹目。
肩口へ来たところを、折れかけの短杭の柄で殴り落とす。
群れは弱い。
だが、弱いだけで死ねる数だった。
澪は何匹潰したのか、途中から数えなかった。ただ、血と泡と、青白い痺れの中で、徐々に穴の前が静かになっていく。最後の一匹が、仲間の残骸を踏んで少しだけ動きを鈍らせた瞬間、澪は自分から前へ出た。短杭を喉へ突き込み、身体ごと押し切る。薄い身体が裂け、青い膜が弾けた。
音が消えた。
澪はしばらくそのまま動かなかった。
動けなかった、の方が正しい。短杭を握った手が震える。肩は戻ったが痛い。肋骨はまだだ。太腿の傷は塞がり始めている。だが、脇腹の肉は一部持っていかれていた。左手首は熱く腫れ、握ることすらできない。
それでも、生きている。
澪は穴の中で、自分の状態を見た。
――――――
【天瀬 澪】
探索者Lv:47 → 48
状態:
重度疲労
右肩脱臼:回復中
肋骨骨折:回復中
左手首損傷:継続
右太腿裂傷:回復中
脇腹欠損:回復中
空膜侵食:中
精神汚染:微弱
飢餓:小
脱水:小
ユニークスキル:
《適応》
通常スキル:
《身体強化》Lv5
《魔力操作》Lv7
《魔力強化》Lv4
《魔力感知》Lv4
《格闘術》Lv5
《短剣術》Lv3
《鎖術》Lv4
《投擲》Lv3
《再生》Lv8
《状態異常耐性》Lv4
《精神汚染耐性》Lv2
《風属性耐性》Lv1
《空間把握》Lv2
《空膜耐性》NEW Lv1
――――――
Lv48。
増えたのは二つ。レベルと、《空膜耐性》。
少しだけ、呼吸が楽になった気がした。気のせいかもしれない。それでも、新しいスキルがあるという事実は、ここで生きるための小さな支えになった。
「……まず、水」
声は掠れていた。
誰もいない場所で、自分に言う。言葉にすると、少しだけ頭が整理される。
インベントリを開く。四十七番目の異常枠は、まだ封印されたまま端に沈んでいた。見ない。触らない。そこを無視して中身を確認する。栄養ゼリーが二。簡易治療薬が三。帰還札が三。予備短剣が一。使える短杭が残り七。素材袋、護符、その他いろいろ。
澪は少し考え、ゼリーを取り出した。
非常用。
今が非常だった。
口へ流し込む。甘い。甘すぎて気持ち悪い。だが、飲み込んだ瞬間、胃が驚いたように熱を持つ。再生に食われる感覚があった。食べたものが、味わう暇もなく身体の修理に回されていく。
水はない。
治療薬は使うか迷った。だが、ここで三本しかない薬を雑に使いたくない。再生がある。まだ我慢できる。澪は治療薬をしまい、代わりに空葬鼠の死骸を一匹引き寄せた。
躊躇は、三秒くらいだった。
食えるか分からない。食いたくもない。けれど、九環に落ちて最初に必要なのは、きれいな判断ではない。生き残るための燃料だった。
短杭で腹を割る。
中にあったのは臓物ではなく、半透明の膜に包まれた青い液だった。空。あるいは空に近い何か。匂いは薄い。肉らしい匂いはしない。澪は舌先で少しだけ触れた。冷たい。塩気はない。痺れる。飲み込むと喉が痛んだが、毒で倒れる感じではなかった。
「いける」
何をもって、いけると言ったのか自分でも分からない。だが、全く駄目ではない。澪は青い液を少しだけすすり、残りは捨てた。肉は薄い膜しかない。噛んでも意味がなさそうだ。次からは別の獲物が必要だと思う。
穴から出る。
空葬原は、穴の中から見ても外から見ても、同じように綺麗で、同じように不親切だった。
青い墓標の群れは、近くで見ると透けている。内部に白い筋が走り、割れた空を繋ぎ止めているように見える。雲の骨は植物にも見えた。節のある白い枝が地面から生え、触れると骨のように硬い。先端には、羽毛と花弁の中間のようなものがついている。風が吹くと、それが鈴のような音を立てる。
嫌な場所だと、澪は思った。
綺麗なのが嫌だった。これが泥だらけで、血臭くて、いかにも危険そうな地獄なら、警戒の仕方も単純だったはずだ。だがここは、美しいまま殺しにくる。足場も、空気も、植物みたいなものも、全部が景色のふりをして牙を隠している。
澪は高い場所を目指した。
理由は三つ。周囲を見たい。水があるなら探したい。あと、低い場所にいればいずれ別の群れに囲まれる。高い場所も危険だが、少なくとも選べる情報量は増える。
墓標のような青い板をよじ登る。右手だけで登るのはきつい。左は添えるだけ。何度か足を滑らせた。二度、落ちた。三度目でようやく中腹まで辿り着く。上へ行くほど景色が開けていく。
空葬原は、想像していたより広かった。
広いという言葉では足りない。果てがないように見えた。青い墓標群の向こうに、白い骨の森がある。そのさらに向こうに、逆さまにぶら下がるような空の柱が見える。空そのものが割れて層になり、その断面から星のような光が漏れていた。地面に見える場所の一部は、よく見ると地面ではない。遠くの空が水面のように溜まり、その上を半透明の獣が歩いている。鳥に似た白い影が群れで旋回し、その羽ばたきひとつで、空に細い波紋が走る。
第一層とは、とても思えなかった。
ここが第一層第九環だと知っているから、そう呼ぶしかないだけで、実際には別の世界そのものだった。
「……うわ」
澪は小さく息を吐いた。
その瞬間、少し遠くで音がした。
ぱき、と。
氷が割れるような音。だが、ここに氷はない。澪は身を低くし、墓標の縁から覗く。
見えたのは、空葬鹿の群れだった。
鹿、というには細すぎる。身体は白い骨の枝で組まれ、その内側に薄い青い膜が張ってある。角は珊瑚のように広がり、その先端に星屑みたいな光が宿っていた。十頭ほど。静かに歩き、足元の空を舐めるようにして何かを食べている。
食えるかもしれない、と澪は思った。
その直後、自分で打ち消す。
今は無理だ。明らかに空葬鼠より強い。しかも群れだ。こちらは満身創痍。狩るには情報が足りない。まずは見るだけ。
澪は視線をさらに先へ移した。
そこで、空気が変わった。
広い空葬原の一角だけが、妙に静かだった。
風もある。鈴のような音も鳴っている。なのに、そこだけが他と別の規則で成り立っているように見える。青い墓標群が、まるで神殿へ続く列柱みたいに並び、中央に大きな空の盆地があった。その底に、白い光が溜まっている。水ではない。星の欠片を磨り潰して流し込んだような、冷たい光の池。
その池の周囲に、獣がいた。
取り巻き、という言葉がまず浮かんだ。
数は六。いや、八かもしれない。距離があって細部は見えないが、どれも大きい。空葬鼠や鹿とは比べものにならない。犬に似ているが、犬ではない。白い骨格の上に、青白い膜と羽毛のような結晶が生えている。四足だが、背中からは細い翅のようなものが何本も伸び、歩くたびにそれが星屑を散らしていた。牙は長い。首はしなやかで、肩口は高い。美しい。ひどく美しいのに、それぞれが一体ずつで災害みたいな圧を持っていた。
澪は息を殺した。
自分が見つかったとは思わない。距離がある。風向きも違う。だが、本能が勝手に身体を伏せさせた。あれは、見た瞬間に近づいてはいけないと分かる相手だった。
そして、その中央。
光の池の向こう側に、それはいた。
最初、地形だと思った。
白い丘。青い樹。砕けた空の彫像。そのどれかだと思った。動かないからだ。あまりにも大きく、あまりにも整っていて、生き物の姿に見えなかった。
やがて、それがゆっくりと頭を上げた。
澪の背筋を冷たいものが走る。
《空葬の番犬》。
名前が、自然に浮かんだ。
犬というには神々しすぎた。狼というには美しすぎた。白銀に近い骨格を基盤に、その全身を青白い膜と、羽毛にも結晶にも見える薄い板が覆っている。肩から背へかけて幾重もの光の層が流れ、巨大な尾は夜空の尾を引く彗星みたいに透けていた。四肢は長く、しなやかで、立ち上がるだけで周囲の光景が一段低く見える。首元には王冠じみた骨の輪があり、その一本一本に小さな星の火が灯っていた。
目は、青かった。
深い青。
底の見えない、静かな青。
怒りも殺意も見えない。ただ、そこにいるだけで、この場所の主はこれだと分かる青だった。
番犬が一歩、池の縁を踏んだ。
それだけで空葬原の光が揺れた。
取り巻きたちが一斉に頭を垂れる。池の表面が波立ち、青い墓標群に映った空が砕ける。遠くの白い骨森から鳥の群れが飛び立ち、星屑が舞う。美しい。どうしようもなく綺麗だ。綺麗であることが、そのまま絶望の形になっていた。
澪は理解した。
無理だ。
今の自分では、あそこにいる取り巻き一体でも危ない。中央のそれは論外だった。レベル差とか、体格差とか、そういう単純な話ではない。存在の格が違う。人間がここへ来ること自体を前提にしていない場所で、その中心に立っているもの。
人類が勝てる想像がつかない。
そう思った瞬間、番犬の顔が、ほんのわずかにこちらを向いた。
澪の心臓が止まりかけた。
距離はある。墓標群もある。見つかったとは限らない。だが、あの青い目が一瞬、空葬原の広大な風景の中から澪のいる位置だけをなぞった気がした。
取り巻きの一体が顔を上げる。
もう一体。
さらに二体。
光の池の縁にいた美しい獣たちが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
澪は動けなかった。
逃げるべきだ。伏せるべきだ。息を止めるべきだ。分かっている。分かっているのに、視線が切れない。美しすぎるものは、時々、恐怖と同じ強さで人間の足を縫い止める。
番犬が口を開いた。
吠えた、のではない。
鈴の音がした。
空葬原のすべての墓標が、いっせいに鳴った。
ちりん、と。
そのたった一音で、澪の全身の傷が脈打った。
取り巻きたちが、斜面を踏み出す。
星屑を引きながら。
静かに。
けれど確実に、澪のいる方へ。
第一層第九環《空葬原》。
その主は、あまりにも綺麗で、あまりにも遠く、そしてあまりにも、澪の生存を許しそうになかった。




