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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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13/42

第十二話 空膜喰い

 空骨片は、触れられない素材だった。


 協会支部の素材封印室、そのさらに奥に置かれた小型の隔離箱の中で、指先ほどの白い欠片は静かに眠っていた。眠っているように見えるだけで、本当に眠っているのかどうかは分からない。封印箱の表面には黒い布が二重に巻かれ、藤堂が追加で刻んだ銀色の封印線が何本も走っている。普通の素材なら、鑑定札を一枚貼り、魔力反応を測り、危険度に応じて保管棚へ移す。それで済む。だが、空骨片は違った。地下で切り落とされたはずのものが、澪のベッド脇へ転移してきた。あれが偶然でないなら、素材というより、まだ向こう側の意思か習性に触れている。


 澪は封印室の外側、厚い硝子の向こうからその箱を見ていた。直接見ないよう、視線は少しずらしている。硝子にも薄い遮蔽布が下げられているため、実際には箱の輪郭しか分からない。それでも、そこにあると分かる。右肩の奥が、かすかにむず痒くなるからだ。


 右腕は、まだ少し遠い。


 昨日ほどではない。遠隔同調で鎖に噛みついていた空膜の牙を切り離した後、位置ずれはかなり収まった。けれど、完全ではない。指を曲げると、感覚が一拍遅れることがある。短杭を握ると、力の入り方が少しだけずれる。戦闘中なら、その少しが命取りになる。


 藤堂は澪の横で、腕を組んで封印箱を見ていた。


「素材としては、かなり面白い」


「使える?」


「お前、今の説明のどこを聞いて使えるって思った」


「面白いって」


「職人の面白いは、安全って意味じゃない」


 藤堂は深く息を吐き、封印箱から目を離した。


「空骨片は、空膜に干渉する。たぶん、普通の鉄や魔導合金じゃ触れないところへ刃を入れられる。お前の鎖と相性がいいのも間違いない。ただし、今のまま使えば武器じゃなくて呼び鈴になる。振るたびに向こうへ音を鳴らすようなもんだ」


「それは困る」


「分かってるならいい」


「でも、使えるなら強い」


「分かってないな」


 藤堂が澪の額を軽く指で弾いた。昨日よりは弱い。澪の状態を見て加減しているのだろう。


「強い素材ほど、扱えなきゃ持ち主を殺す。まして今回は、素材が武器を選び始めてる。お前の鉤鎖は今、こいつと空鈴片の両方に反応してる。だから、鎖はしばらく俺が預かる」


「いつまで?」


「少なくとも、右腕のずれが消えるまで」


「長い」


「短くしたいなら治療に専念しろ」


 澪は黙った。反論しようとしても、朱音が背後から見ている。支部の廊下に立つ朱音は、腕を組んでこちらをじっと見ていた。目が合うと、眉だけで「余計なことを言わない」と伝えてくる。澪は少しだけ口を閉じた。


 水瀬は記録用の紙を抱え、封印箱から十分な距離を取って立っている。凛は今日は学校側に残されていた。昨日の一件で疲れが出たらしく、朱音が「凛ちゃんは休ませる」と言い、久遠もそれを許可した。遥も学校にいる。本人は来たがったが、肩の負傷が残っているため、支部側からも待機を命じられた。


 つまり、今ここにいるのは、澪、朱音、水瀬、藤堂、久遠。それと支部職員が数人だけだった。


 久遠は封印室の入口で、職員から報告を受けている。昨日の空鈴片事故以降、支部内の持ち込み装備はすべて再検査になった。救助隊の装備、未許可探索者の衣服、封鎖線で使われた帰還布、そして澪の鉤鎖。怪しいものはすべて地下へ回され、封印処理を受けている。協会支部は半分機能を止めたような状態だった。


 その中心に澪がいる。


 それが、少し重い。


「天瀬」


 久遠が呼んだ。


「はい」


「本部から、お前の実戦訓練を一時停止するよう通達が来ている」


 朱音がほっとした顔をした。


 澪は少し嫌な顔をした。


「全部ですか」


「通常なら全部だ」


「通常なら?」


 久遠は書類を一枚めくった。


「右肩の空間位置ずれが残っている。放置すれば戦闘不能になる可能性がある。だから、治療目的の制御訓練だけは行う」


 朱音の顔から、ほっとした色が消えた。


「先生、それって戦闘訓練じゃないんですよね?」


「違う。武器使用なし。短杭なし。魔力操作と身体座標の補正だけだ」


「本当に?」


「本当にだ。天瀬に武器を持たせると、今の状態では何をし始めるか分からん」


 澪は少しだけ不満だったが、反論はしなかった。短杭も駄目。鉤鎖もない。右腕はずれている。なら、今できるのは身体の位置を戻すことくらいだ。


 訓練場へ移動したのは、それから十分後だった。


 支部地下の小訓練場。普段は新人探索者や職員の装備確認に使われる部屋で、広さは学校の訓練場よりかなり狭い。床には衝撃吸収の魔導石が埋め込まれ、壁には簡易結界が張られている。昨日までなら安心できる設備だったかもしれない。だが、空膜の裂け目が支部内に開いた後では、どの壁も完全には信用できなかった。


 澪は訓練場の中央に立った。


 右肩を回す。痛みはある。指を開く。握る。感覚が遅れる。視線を落とし、自分の腕の輪郭を確認する。見た目は普通だ。だが、魔力を通すとほんの少し外側へ膨らむ。その膨らみが、腕が遠く感じる原因なのだろう。


 水瀬が壁際から声をかける。


「最初は右手だけで魔力を通してください。肩から指先まで、まっすぐ流すのではなく、ずれている部分を確認する感じで」


「うん」


「無理に戻そうとすると、逆に固まるかもしれません。触って、分けて、合わせる。昨日の遠隔同調でやったことと近いはずです」


 触って、分けて、合わせる。


 澪は右肩に意識を向けた。肉体の輪郭と、魔力の輪郭。重なっているはずの二つが、少しだけずれている。無理やり引っ張ると痛い。だから、ずれた部分をなぞる。どこから外れているのか。肩の奥、鎖骨の下、腕の付け根。そこから先が、空膜の刃に撫でられたように薄く外側へ浮いている。


 澪はゆっくり息を吐いた。


 浮いている輪郭を、身体の側へ戻す。


 痛みが走る。


 だが、耐えられる。


 指先に感覚が近づいた。半拍遅れていたものが、少しだけ早くなる。完全ではない。けれど、さっきよりましだった。


「どう?」


 朱音が聞く。


「少し近い」


「痛みは?」


「ある」


「どれくらい」


「我慢できる」


「我慢できるじゃなくて数字」


「三」


「澪の三は普通の人の六くらいありそう」


「たぶん」


「そこは否定して」


 朱音は不満そうだったが、水瀬は記録を取って頷いた。


「感覚遅延が少し改善しています。今の操作を繰り返せば、位置ずれは戻せるかもしれません」


「どれくらいかかる?」


 澪が聞くと、水瀬は少し考えた。


「普通なら数日から数週間。澪さんなら、今日中にある程度は戻すかもしれませんが……」


「が?」


「その速さが怖いです」


 それは最近よく言われる。澪自身も、少し分かってきた。身体が学ぶのが早い。痛みを通すと、もっと早い。普通なら避けるべき異常に触れた時ほど、内側の何かが動く。便利だ。便利だが、どこへ向かっているのか分からない。


 久遠が訓練場の入口から言った。


「今日は戻すところまでだ。慣らすな。使うな」


「使わないと、分からないこともあります」


「今は分からなくていい」


「でも」


「天瀬」


 久遠の声が低くなる。


「お前は今、Lv46だ。一次存在進化前で、身体が不安定な時期に入っている。昨日から空鈴片、空骨片、空膜位置ずれに触れすぎている。ここで変に馴染ませると、進化に混ざる」


 澪は口を閉じた。


 存在進化。


 Lv50で起こるもの。選べないもの。なりたい種族ではなく、積み重ねてきた性質が勝手に形になるもの。澪はまだLv46だが、もう近い。今何に触れるかが、身体の行き先に影響するかもしれない。


 朱音が静かに言った。


「澪。今は本当に、戻すだけにして」


「うん」


「九環に行くなって言ってるんじゃないよ。今、変なものを混ぜすぎないでって言ってるの」


 澪は朱音を見た。


 朱音は怖がっていた。澪が死ぬことだけではなく、澪が澪でないものへ変わってしまうことを怖がっている。澪にはその怖さが完全には分からない。前の世界で一度死に、今は別の身体で生きている。自分が変わることには、普通の人より抵抗が薄いのかもしれない。


 けれど、朱音が怖がることは、無視したくなかった。


「戻すだけにする」


 澪が言うと、朱音は少しだけ安心したように頷いた。


 二度目の補正は、一度目よりうまくいった。


 右肩から指先まで魔力を流し、ずれた部分に境目を作る。身体と空膜の残りを分ける。ずれを押し戻すのではなく、身体側の輪郭をはっきりさせる。水瀬が測定値を読み上げ、藤堂が腕組みのまま観察し、久遠が黙って見ている。


 十回目を超えた頃、指先の遅れはほとんど消えていた。


 朱音が軽く手を伸ばし、澪の右手の甲に触れる。


「今は?」


「すぐ分かる」


「痛み」


「二」


「まだあるんだ」


「ある」


「でも、さっきより良い?」


「うん」


 朱音はようやく少しだけ笑った。


「じゃあ、今日はここまで」


「もう少し」


「ここまで」


「朱音先輩、厳しい」


「先生より先に言っただけ」


 久遠も頷いた。


「終了だ。天瀬、座れ」


 澪は渋々、訓練場の端に置かれた椅子へ向かった。右腕はだいぶ近くなった。まだ完全ではないが、少なくとも物を握る程度なら問題ない。短杭を持てば、たぶん投げられる。鉤鎖があれば、たぶん振れる。そう考えたところで、朱音が横から睨んできた。


「今、武器持てるか考えたでしょ」


「少し」


「考えない」


「難しい」


「じゃあ口に出さない」


「うん」


 その時、訓練場の照明が一瞬揺れた。


 全員が同時に動きを止めた。


 揺れはすぐに収まった。だが、支部内の魔力線がわずかに軋む音がした。普通の停電や機器不良ではない。澪は右肩の奥に、細い冷たさを感じた。昨日の空膜位置ずれに似ている。だが、もっと浅い。もっと薄い。床の下ではなく、壁の中を何かが這っているような感覚。


 水瀬が測定器を見る。


「訓練場外、廊下側に微弱な空膜反応」


 久遠が即座に入口へ向かう。


「全員、その場を動くな」


 久遠が扉を開けた瞬間、廊下の奥から悲鳴が聞こえた。


 職員の声だ。


「封印室側で反応! 小型の何かが出ました!」


 藤堂が顔をしかめる。


「空骨片か」


「いえ、封印は維持されています! ただ、封印箱の周囲に青い膜が発生して、そこから小型の魔物が――」


 通信が途切れかけた。雑音の中に、かすかな音が混じる。


 ちりん。


 そして、何かが硬い床を削る音。


 久遠はすぐに指示を出した。


「封印室周辺を閉鎖。職員は接触するな。藤堂、水瀬、状況確認。七瀬は天瀬を連れて保健室へ戻れ」


「はい!」


 朱音が澪の腕を掴む。


 澪は動かなかった。


「澪」


「廊下」


「保健室へ戻るよ」


「廊下から来る」


 言った瞬間、訓練場の入口横の壁が膨らんだ。


 青白い膜が壁紙の下から浮き上がる。水泡のように膨らみ、薄く震える。久遠が槍を構えるより早く、その膜が内側から食い破られた。


 出てきたのは、手のひらほどの小さな獣だった。


 鼠にも、犬にも、蜥蜴にも見える。形が定まっていない。骨のような白い輪郭に、半透明の青い膜が張りついている。眼はない。口だけがある。裂けるように開いた口の中に、小さな牙が並んでいた。床に落ちた瞬間、そいつは空気を噛んだ。


挿絵(By みてみん)



 かちん、と音がした。


 噛まれた場所の空気が、薄くずれる。


 水瀬が叫ぶ。


「空膜喰い! 仮称です、でもたぶんそれです!」


「命名してる場合か!」


 朱音が澪の前に出ようとした。だが、久遠がそれより速かった。槍の石突が床を叩き、小型の魔物を弾き飛ばす。魔物は壁に叩きつけられ、骨のような身体をひしゃげさせた。普通ならそれで終わる。だが、空膜喰いは壁の表面を噛み、ずれた空気の中へ半分潜った。


 久遠の目が細くなる。


「壁に逃げるぞ。実体化した瞬間を狙え」


 一匹だけではなかった。


 壁の青い膜から、二匹、三匹と同じものがこぼれ落ちる。床に落ち、跳ね、空気を噛む。噛まれた場所が小さくずれ、訓練場の床の境界線が歪む。大型の裂け目ではない。だが、足を取られるには十分だった。


 朱音が槍を構える。


「先生、澪を下げます!」


「下げろ!」


 朱音が澪の腕を引く。澪も従った。戦うなと言われている。右腕は戻りかけ。武器はない。今は下がるべきだ。頭では分かっている。


 だが、空膜喰いのうち一匹が、床を噛みながら朱音の足元へ跳んだ。


 朱音は反応した。槍の柄で弾こうとする。だが、空膜喰いは柄に触れる寸前で半透明になり、すり抜ける。次の瞬間、朱音の靴の横の空気を噛んだ。床がずれる。朱音の足が沈みかける。


 澪は右手を伸ばした。


 遅れは、ほとんどなかった。


 朱音のベルトを掴み、引く。強くは引けない。肩に痛みが走る。それでも、朱音の重心をわずかにずらすには足りた。朱音の足が青い膜から抜ける。空膜喰いの牙が空を噛み、かちん、と鳴った。


「澪!」


「ごめん」


「謝る前に下がって!」


 下がろうとした。


 だが、もう一匹が澪の右肩へ向かって跳んでいた。


 狙っている。


 右肩の位置ずれを、餌か傷口のように感じているのだろう。小さな口が裂け、牙が開く。澪は短杭を持っていない。武器使用なしの訓練だったからだ。インベントリから取り出すには、一瞬いる。その一瞬が、今はない。


 だから、澪は左肘を上げた。


 左手首は固定具で動かしにくい。だが、肘なら使える。身体をひねり、空膜喰いの軌道へ肘を置く。牙が固定具の外側を噛む。青白い光が弾けた。固定具にヒビが入る。痛みが走る。だが、噛まれたのは腕ではなく固定具だ。


 澪はそのまま体重を乗せ、空膜喰いを床へ叩きつけた。


 潰れない。


 床へ沈もうとする。


 澪は右手で、そいつの首のような部分を掴んだ。半透明になろうとする身体が、指の間ですり抜けかける。逃げられる。だが、今の澪には、逃げようとする瞬間のずれが分かった。身体ではなく、膜の境目を掴む。


 指先に冷たい感触。


 痛い。


 澪は歯を食いしばり、床へ押さえつけた。


「水瀬先輩、札!」


「はい!」


 水瀬が投げた封印札が、空膜喰いの背に貼りついた。小さな魔物は甲高い音を立て、身体を硬直させる。久遠の槍が横から入り、正確に頭部を潰した。骨のような輪郭が砕け、青い膜が霧のように散る。


 澪の視界に、何も表示されなかった。


 レベルは上がらない。


 それでいい、と澪は思った。


 今の一匹は、澪が倒したわけではない。押さえただけだ。久遠が仕留めた。経験は入っているかもしれないが、レベルを動かすほどではない。身体に残ったのは、冷たい痛みと、膜の境目を掴んだ感覚だけだった。


 訓練場の壁では、まだ空膜喰いが三匹動いている。


 久遠が一匹を槍で払い、朱音がもう一匹を牽制する。藤堂が壁の青い膜へ封印釘を打ち込み、出現口を狭める。水瀬は式札で床のずれを示し、朱音の足場を誘導している。


 澪は下がろうとした。


 だが、空膜喰いは澪を見た。


 眼はない。けれど、見たと分かった。三匹のうち二匹が、久遠や朱音ではなく澪へ向きを変える。右肩。左手首。固定具のヒビ。位置ずれの残り。そういうものへ引き寄せられている。


 朱音が叫ぶ。


「澪、後ろ!」


 後ろにもいた。


 壁の膜から、さらに一匹。小さく、薄い。まだ完全に形を取っていない。けれど、口だけは先にできていた。その口が澪の背中側の空気を噛む。


 足元がずれた。


 澪の身体が傾く。


 転ぶ、と思った時には、右手が動いていた。床ではなく、ずれた空気の縁を掴む。掴めるはずのないもの。だが、指に冷たい抵抗があった。澪はそれを支点に、身体をひねる。転倒を避け、膝をついた状態で止まる。


 痛み。


 肩が再びずれる。


 だが、今度はどこがずれたか分かった。


 分かるなら、戻せる。


 澪は短く息を吐き、右肩の輪郭を内側へ寄せる。戦闘中にやることではない。水瀬がやめろと言うだろう。朱音も怒る。だが、やらなければ次の一歩が遅れる。


 ――――――

 《空間把握》Lv2 反応拡張

 ――――――


 レベルアップではない。スキルレベルの上昇でもない。ただ、現在のスキルが反応しているという感覚。澪の視界に、床のずれが細い線として浮かんだ。青い線。噛まれた場所。空膜喰いが潜れる場所。朱音が踏むと危ない位置。久遠なら踏んでも耐えられるが、槍の踏み込みが乱れる位置。


「朱音先輩、左は駄目」


「分かった!」


「久遠先生、壁の下、もう一匹」


「見えている」


「水瀬先輩、床の青い線、消える前に札」


「了解」


 澪は立ち上がらず、膝をついたまま指示を出した。自分が動けば狙われる。動くより、見えるものを伝える方がいい。朱音が澪の言葉に合わせて足場を変え、久遠が壁から出かけた一匹を槍で貫く。水瀬の式札が床のずれに貼りつき、空膜喰いの潜行を止める。藤堂の封印釘が壁の膜を縫い止めた。


 戦いは長くはなかった。


 だが、短いから楽というわけではない。空膜喰いは小さい。弱い。おそらく九環本体の魔物とは比べものにならない。だが、触れ方が嫌だった。肉ではなく、位置と空気を噛む。攻撃の威力は小さくても、足場や感覚を乱される。学生なら、一匹でも十分に危険だ。


 最後の一匹は、壁の膜へ逃げ込もうとした。


 久遠の槍は間に合わない。朱音の槍も届かない。水瀬の札は切れている。藤堂は出現口の封印で手が塞がっていた。逃がせば、支部内のどこへ出るか分からない。


 澪はインベントリを開いた。


 予備短杭。


 取り出す。


 一瞬、遅れる。空膜反応のせいか、手の中に落ちるまでの感覚がいつもより重い。けれど、間に合った。澪は右肩の位置を意識し、腕の輪郭を身体に合わせる。投げる。狙うのは魔物の身体ではない。壁の膜へ潜る直前、実体と膜の境目が重なる一点。


 短杭が飛んだ。


 空膜喰いの尾のような部分に刺さる。完全には止まらない。だが、半拍だけ引っかかった。


 その半拍で、久遠の槍が届いた。


 小さな魔物が裂け、青い膜が霧になる。床に白い粒のようなものが落ちた。骨ではない。砂に近い。藤堂がすぐに封印布をかける。


 訓練場に、ようやく静けさが戻った。


 澪は膝をついたまま、息を吐いた。右肩が熱い。左手首の固定具はヒビが入っている。短杭を投げたせいで、右腕の遅れも少し戻った気がする。だが、立てないほどではない。


 朱音が駆け寄ってきた。


「澪!」


「ごめん」


「今のは……」


 朱音は怒ろうとして、言葉を止めた。澪が勝手に突っ込んだわけではない。下がろうとして、狙われた。逃げる魔物を止めた。やったことは危険だったが、必要でもあった。朱音はそれを分かっているから、怒りどころを失っている。


 代わりに、固定具のヒビを見て眉を吊り上げた。


「でもこれは怒る。固定具で受けたでしょ」


「腕よりいい」


「そういう問題じゃない!」


 久遠が近づいてきた。


「七瀬、説教は後だ。天瀬、状態を出せ」


「はい」


 澪は視界の奥に表示を開く。今回はレベルが動かないことを、なぜか先に確認した。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:46


 状態:

 疲労:中

 左足首裂傷:回復中

 左手首負荷:中

 右肩裂傷:再生中

 空膜魔力侵食:小

 誘導残響:小

 空間位置ずれ:微弱

 精神汚染:微弱

 固定具破損:左手首保護低下


 ユニークスキル:

 《適応》


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv8

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv4

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv4

 《投擲》Lv3

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 《風属性耐性》Lv1

 《空間把握》Lv2

 《空膜耐性》Lv1

 ――――――


「レベル変化なし」


 澪が言うと、久遠は頷いた。


「妥当だ。今のは戦闘としては小規模、撃破も大半は俺たちだ。だが、経験としては残る」


「はい」


「お前がやったのは、戦闘勝利ではなく対処だ。そこを勘違いするな」


「分かりました」


 久遠の言葉は、澪にも納得できた。空膜喰いを何匹も倒した気はしない。久遠と朱音と藤堂と水瀬がいて、支部の訓練場で、小型の残留魔物を処理した。それだけだ。だが、右肩のずれ、床の線、膜の境目。そういうものは確かに身体に残っている。


 水瀬は落ちた白い砂を封印布越しに確認していた。


「空膜喰いの残滓、三体分。完全な魔物というより、空骨片と空鈴片に引き寄せられた副次生成物ですね。九環本体から落ちてきたというより、こちら側の空膜反応を餌にして形を取ったものに近い」


「つまり、これからも出る?」


 朱音が聞く。


「条件が揃えば」


「最悪」


 藤堂が壁に打ち込んだ封印釘を確認しながら言う。


「空骨片、空鈴片、天瀬の鎖、天瀬本人。この四つを近づけるな。今ので分かった。揃うと支部内でも穴が開く」


「澪本人も危険物扱い?」


 澪が聞くと、藤堂は真顔で返した。


「今さらだ」


「ひどい」


「事実だ」


 朱音は否定しなかった。澪は少しだけ傷ついたが、たぶん仕方ない。自分の近くで鈴が鳴り、鎖が震え、空骨片が転移し、空膜喰いが湧く。危険物と言われても反論しにくい。


 久遠は封鎖された壁を見て、短く言った。


「本部へ報告する。支部内保管は限界だ。空鈴片と空骨片、鉤鎖を別々の封印施設へ移す」


「駄目です」


 澪は反射的に言った。


 全員が澪を見る。


 自分でも、少し驚いた。けれど、言ってしまった以上、理由を考える。いや、理由はある。


「離すのはいい。でも、見えない場所へ全部持っていくのは駄目」


「なぜ」


 久遠の声は厳しい。


「鎖がどこで鳴るか分からなくなる。空骨片も、また移動するかもしれない。私から遠ざけるだけだと、たぶん別の場所で穴が開く」


 水瀬が少し目を細める。


「澪さんの感覚では、距離で切れる繋がりではない?」


「うん。距離じゃなくて、知ってる場所へ引く感じ。鎖が私を覚えてる。空骨片も、鎖を覚えてる。空鈴片は音を覚えてる。だから、離しても完全には切れない」


「だとすると、別施設へ移しても、その施設側で共鳴する危険がありますね」


 藤堂が舌打ちした。


「面倒なこと言いやがる」


「でも、合ってる可能性はある」


 水瀬は紙に図を描き始めた。


「物理距離ではなく、接触履歴と魔力同調による接続。澪さん、鉤鎖、空骨片、空鈴片、それぞれが履歴で結ばれている。単純に遠ざけるだけでは、接続が細く伸びるだけかもしれません」


 朱音が嫌そうに言う。


「じゃあ、どうするの」


 水瀬は少し黙った。


 藤堂も腕を組む。久遠も答えない。支部職員たちも、誰もすぐには言えなかった。


 澪は壁の封印釘を見る。青い膜はもう消えている。だが、空気の奥には、まだ薄い冷たさが残っていた。空膜喰いが出た穴の名残。完全に閉じても、そこに一度道ができた事実は消えない。


「まとめる」


 澪は言った。


「何を」


 朱音が聞く。


「私と鎖と空骨片と空鈴片。バラバラにすると、あちこちで鳴る。なら、一つの場所で封じる」


「澪、それ自分の近くに置くって意味じゃないよね」


「近くじゃなくて、管理できる場所」


「同じ!」


「違う」


「違わない!」


 久遠が手を上げ、朱音を制した。


「続けろ、天瀬」


「私が触るとは言ってません。けど、反応を見られる場所に置く。鎖は藤堂先生が封じる。空骨片と空鈴片は別々の箱。でも、同じ封印陣の中で、鳴ったらすぐ分かるようにする。あと、私が近づく時は、朱音先輩と久遠先生と水瀬先輩がいる時だけ」


 朱音がまだ不満そうにしている。だが、水瀬は考え込んでいた。


「隔離ではなく、制御された同室管理……。危険ですが、接続反応の監視はしやすい。別施設で同時多発的に穴が開くよりは、支部側で一括管理した方が対応可能かもしれません」


 藤堂も渋い顔で頷く。


「専用の封印台を組む必要がある。鎖を中心にするのは危険だが、逆に言えば鎖が一番反応を拾う。鈴と骨を離して置いて、鎖を監視針に使う形なら……いや、普通に考えたら頭がおかしいな」


「でも、可能?」


 澪が聞くと、藤堂は嫌そうに答えた。


「可能か不可能かで言えば、可能だ。安全かどうかは別だ」


 久遠はしばらく黙っていた。


 そして、言った。


「本部には俺から話す。藤堂、設計しろ。水瀬、反応記録をまとめろ。七瀬、天瀬を保健室へ戻せ。天瀬、お前は今日はもう何もするな」


「でも」


「何もするな」


「はい」


 久遠の声には、逆らう余地がなかった。


 朱音に連れられて訓練場を出る時、澪は一度だけ壁を振り返った。空膜喰いが出た場所には、藤堂の封印釘が打ち込まれている。そこから青い光は漏れていない。けれど、澪にはまだ見える気がした。


 薄い線。


 第一層第七環から、第九環へ続くどこか。待っている影。空葬原。番犬。そこへ向かう道が、ほんの細い糸のように、支部の中へ入り込んでいる。


 朱音が澪の袖を引いた。


「見ない」


「見てない」


「また嘘」


「少し見た」


「少しも駄目」


 同じやり取りなのに、朱音の声は昨日より少し疲れていた。澪は悪いと思った。だから、今度は素直に前を向いた。


「朱音先輩」


「何」


「今日は、もう何もしない」


 朱音は一瞬だけ驚き、それから疑わしそうに目を細めた。


「本当に?」


「本当に」


「何もしないって、澪の中ではどこまで?」


「寝る。食べる。腕を戻す練習は、許可があったら」


「最後に余計なの混ぜた」


「必要」


「……まあ、それは必要かもしれないけど」


 朱音はため息をついた。


「じゃあ、まず寝て。次に食べて。腕の練習は先生たちがいいって言ったら」


「うん」


 保健室へ戻る廊下の途中で、支部の警報が完全に解除された。職員たちの緊張が、少しだけ緩む。だが、誰も笑ってはいなかった。空膜喰いは小さかった。戦闘時間も短かった。それでも、支部内に魔物が出たという事実は重い。


 ダンジョンの異常は、もう向こう側だけのものではなくなっている。


 保健室のベッドに戻ると、澪は素直に横になった。右肩は熱を持っている。左手首の固定具は壊れたため、新しいものに交換されるまで布で固定されている。疲労が急に押し寄せてきた。戦闘と呼ぶには短い接触だったが、空膜のずれを感じ、補正し、指示を出し、短杭を投げた。身体より頭の方が疲れていた。


 目を閉じる前に、状態表示をもう一度だけ確認する。


 レベルは46のまま。


 積み重なっているのは分かる。だが、まだ足りない。九環へ行くには足りない。番犬に届くには、もっと足りない。そう思えることが、今はむしろ安心だった。


 澪は右手を軽く握る。


 感覚は、ほとんど戻っている。


 少しだけ遠い。けれど、戻ってきている。


「おかえり」


 自分の腕に向けて、小さく言った。


 隣の椅子に座っていた朱音が、聞き逃さなかった。


「腕に?」


「うん」


「澪、たまに変なこと言うよね」


「戻ってきたから」


「じゃあ、よかった」


 朱音はそう言って、澪の右手にそっと触れた。今度は、すぐに分かった。遅れはほとんどない。澪がそれを伝えると、朱音はようやく少しだけ笑った。


 その日の夜、藤堂は支部地下の一室に新しい封印台を組み始めた。


 中心には、黒布に包まれた《風縒り鉤鎖》。

 離れた位置に、《空鈴片》。

 さらに別の小箱に、《空骨片》。


 三つは触れ合わない。

 だが、完全には離されない。

 鳴ればすぐ分かる距離で、互いを監視するように置かれる。


 藤堂はそれを、半分冗談、半分本気で「澪用の面倒箱」と呼んだ。


 水瀬は正式名称を付けようとしたが、久遠に「今はどうでもいい」と止められた。

 

 封印台の中心で、鉤鎖が一度だけ震えた。


 代わりに、鎖の失われた節の切断面に、薄い白い線が浮かんだ。


 牙の跡のような、鎌の刃の始まりのような、細い線だった。


 ちりん、と鎖が鳴った。


 装備整備室の空気が、その音ひとつで変わった。窓は閉まっている。風はない。作業台の上に置かれた《風縒り鉤鎖》は、藤堂が整備のために分解途中だった。鉤刃は外され、鎖の一部は留め具から抜かれ、歪んだ節を交換するために工具で固定されている。武器としては不完全な状態のはずだった。


 それでも、鳴った。


 鈴の音に似ている。けれど金属の音ではない。薄い空を指で弾いたような、耳の奥ではなく骨の内側に響く音。封印室の《空鈴片》が鳴った時と同じ種類の音だった。


 澪は扉の前で足を止めた。


 久遠が半歩前に出る。藤堂は作業台へ近づこうとして、すぐに止まった。鎖の周囲に、青白い膜のようなものが浮いていたからだ。薄い。ほとんど見えない。だが、作業台の縁、工具の影、床に落ちた鎖の先端が、少しずつ揺れている。水面に映った景色のように、輪郭がずれていた。


「触るな」


 藤堂の声は低かった。


 澪は頷いた。言われなくても、触れる気にはなれなかった。鎖が呼んでいる。そう感じた。いつものように手に取れ、腰に巻け、投げろ、と言っているのではない。もっと違う。澪の手が届く場所に、向こう側の何かが自分の指を重ねようとしている感覚だった。


 朱音が澪の袖を掴む。


「下がろう」


「うん」


 澪は素直に一歩下がった。


 その瞬間、鎖の節がひとつ、勝手に跳ねた。


 工具の固定具が弾け、作業台の上で鎖が蛇のようにうねる。藤堂が舌打ちし、腰の工具帯から封印具を抜いた。久遠は短槍を構える。水瀬は扉の外で紙の記録を閉じ、端末ではなく式札を出した。凛は廊下の向こうにいて、協会職員に支えられるように立っている。


「全員、整備室から離れろ」


 久遠が言った。


 職員たちが動く。だが、遅かった。


 作業台の上の空間が、薄く裂けた。


 大きな裂け目ではない。手のひらほど。青白く、薄く、向こう側に何かが見えるほどでもない。ただ、その裂け目の縁が、もぞりと動いた。膜が裏返るように膨らみ、その奥から、小さな顎が出てくる。


 澪は目を細めた。


 犬にも鼠にも見える。全長は二十センチほど。身体は半透明の膜でできていて、骨格だけが白く浮かんでいる。目はない。代わりに、口がある。細い歯が並んだ口が、顔の大半を占めていた。


 それは裂け目の縁を噛んだ。


 ぱき、と空気が割れるような音がした。


 裂け目が少し広がる。


「空膜喰い」


 水瀬が呟いた。


 藤堂が怒鳴る。


「呟いてる場合か! 封印札!」


「はい!」


 水瀬が式札を投げる。札は空中で展開し、裂け目の上に格子を作った。だが、小さな魔物はその格子ごと噛んだ。紙が破れる音ではない。空間の薄皮が裂ける音。式札の一角が歪み、青白い泡になって消える。


 一匹目が作業台へ落ちた。


 続いて二匹目。


 三匹目。


 裂け目はまだ小さい。だが、空膜喰いはそこを押し広げるように噛みながら出てくる。戦闘力そのものは高くなさそうだった。だが、最悪だった。壁や床や封印を食う。数が増えれば、支部の内側に裂け目を広げる。


 久遠が踏み込んだ。


 短槍の石突が一匹目を叩き潰す。半透明の身体が床へ潰れ、青い泡が散る。久遠は続けて二匹目を突いた。小さな魔物は槍先を噛もうとしたが、久遠の方が速い。床に縫い止められ、消える。


 しかし三匹目が壁へ走った。


 速い。脚は膜の刃のように薄く、床を蹴るというより、床の表面をすり抜けて滑る。藤堂が工具を投げた。金属の杭が魔物の前に落ちる。空膜喰いは反射的にそれを噛んだ。噛まれた杭の先端が、青白く歪む。


「道具を食うな、馬鹿が!」


 藤堂が叫び、次の封印具を叩き込む。杭ごと魔物が床へ固定される。だが、その間に裂け目からさらに二匹が出た。


 朱音が澪を背中側へ押す。


「澪、下がって」


「でも」


「今、鎖ないでしょ」


「短杭はある」


「手首!」


 朱音の声は鋭かった。


 澪は左手首の固定具を見た。痛みはある。握れないわけではない。けれど、昨日のように力任せに動かせば悪化する。ここで無理をすれば、これから先に響く。


 分かっている。


 分かっているが、空膜喰いの一匹が廊下へ出た。


 向かう先には、凛がいた。


 協会職員が庇おうとしたが、空膜喰いは正面から人を噛みに行かなかった。床を噛んだ。凛の足元の床が、薄く青くなる。踏み抜く。そう分かった瞬間、澪は動いていた。


「澪!」


 朱音の声が背中を追う。


 澪は腰のホルダーから短杭を抜く。左手は使わない。右手だけ。走りながら、床の歪みを見る。空間把握が薄く広がる。凛の右足の下。床材の表面ではなく、その下にある魔力の膜が噛まれている。あと二秒。凛が動けば沈む。


「凛、動かないで」


 澪が言うと、凛は固まった。


 空膜喰いがもう一度、床を噛む。穴が開く前に、澪は短杭を投げた。狙ったのは魔物の胴ではない。床と口の間。短杭が斜めに刺さり、空膜喰いの顎をこじ開けた。魔物が震える。口を閉じようとするが、杭が邪魔をする。


 澪は滑り込むように近づき、右足で杭の頭を踏み込んだ。


 ぱきん、と音がした。


 魔物の顎が割れる。半透明の身体が青い泡になって潰れた。床の歪みは残っている。澪は凛の腕を掴み、後ろへ引いた。左手ではない。右手で。凛は軽かった。二歩下がった瞬間、さっきまで凛が立っていた床が、薄く沈んだ。


 凛の顔が真っ青になる。


「ありがとう、ございます」


「動かなかったから」


「はい」


「えらい」


 言ってから、澪は朱音みたいな言い方だと思った。


 凛も少し驚いた顔をして、それから泣きそうに笑った。


 その笑いが終わる前に、整備室の方で大きな音がした。


 裂け目が広がっていた。


 作業台の上の《風縒り鉤鎖》が、半分ほど持ち上がっている。誰かが引いているわけではない。鎖そのものが、裂け目の方へ伸びようとしている。空膜喰いが群れで鎖に群がり、噛み、歪ませ、青白い膜を増やしていく。


 藤堂が封印具を叩き込むが、追いつかない。


「まずい。鎖を食われてる」


 水瀬の声が廊下に響いた。


「食われるとどうなる?」


 朱音が聞く。


「鎖を媒体に、裂け目が安定します。武器の登録先が澪さんなので、澪さんへの呼応も強くなる」


「つまり?」


「支部の中に、澪さん専用の入口ができます」


 朱音が顔を歪めた。


「最悪」


 久遠が短槍で空膜喰いを潰しながら叫ぶ。


「藤堂、鎖を切れ!」


「切ったら暴れる!」


「食われるよりましだ!」


 藤堂は歯を食いしばり、工具箱から大型の切断具を取り出した。武器用の鎖を切るためのものではない。素材加工用の重い器具だ。だが、藤堂が作業台へ近づこうとした瞬間、裂け目の奥から、空膜喰いより大きな口が出た。


 犬の頭ほどの大きさ。


 目はない。


 顎だけがある。


 それが、作業台ごと噛んだ。


 金属が悲鳴を上げる。作業台の脚が歪み、《風縒り鉤鎖》がさらに裂け目側へ引かれる。藤堂がとっさに後ろへ跳んだ。久遠が間に入り、短槍を口の中へ突き込む。顎が閉じる。槍の穂先が噛み砕かれた。


「大型個体!」


 水瀬が叫ぶ。


 大型の空膜喰いは、裂け目の向こうから半身だけを出していた。出られないのではない。裂け目を噛み広げながら、ゆっくりこちらへ来ている。身体はまだ向こう側。顎だけで作業台を食い、鎖を引き込み、裂け目を広げる。


 澪は息を吸った。


 足元が冷える。


 これは駄目だ。久遠たちだけで処理できないという意味ではない。時間が足りない。鎖を食われれば、裂け目が澪に紐づく。そうなったら、支部のどこにいても、あの青白い階段へ引かれるかもしれない。朱音も、凛も、水瀬も、ここにいる全員が巻き込まれる。


 澪は整備室へ戻ろうとした。


 朱音が止める。


「駄目」


「鎖を取る」


「駄目」


「取らないと広がる」


「先生たちがやる」


「間に合わない」


 朱音の手が震えた。


「だからって、澪が触ったら」


「うん。危ない」


「分かってて言ってる?」


「うん」


 澪は朱音を見た。


「でも、あれは私の鎖だから」


 朱音の顔が歪む。


「そういう言い方、嫌い」


「ごめん」


「謝るなら行かないで」


「それは無理」


 朱音は唇を噛み、澪の袖を離さなかった。澪はその手を振りほどかなかった。代わりに言った。


「朱音先輩」


「何」


「戻る」


 朱音の目が揺れる。


「絶対?」


「絶対」


「今の絶対、信用していい?」


「いい」


 たぶん、ではなかった。


 朱音はほんの一瞬だけ目を閉じ、それから手を離した。


「藤堂先生!」


 朱音が叫ぶ。


「澪に渡すなら、壊れたまま渡さないでください!」


 藤堂がこちらを見た。


「無茶言うな!」


「無茶する子に渡すんだから、先生も無茶してください!」


「言うようになったな、七瀬!」


 藤堂は怒鳴り返しながら、作業台に飛び込んだ。久遠が大型の顎を抑え、水瀬が式札で裂け目の広がりを遅らせる。その隙に藤堂は鉤刃を鎖へ戻した。ただし完全固定ではない。仮留め。歪んだ節もそのまま。風縒り鉄の部分は青白く鳴り続けている。


「天瀬!」


 藤堂が鎖を蹴るように床へ流した。


「出力は二割! 引くな、巻くな、噛ませるな! 鎖じゃなくて釣り糸だと思え!」


「はい」


 澪は走った。


 鎖に触れた瞬間、指先から冷たいものが入ってくる。視界が一瞬だけ青く染まった。階段。影。待ってる。鈴の音。全部が薄く重なる。だが、朱音の声が背中から飛んだ。


「見ない!」


「うん」


 澪は鎖を見ない。感覚だけで拾う。右手で握り、左手は添えるだけ。固定具が邪魔だ。だが、今はそれでいい。力任せに扱えば壊れる。藤堂が言った通り、釣り糸だと思う。敵を引くのではなく、敵の口へ餌を置く。


 大型の空膜喰いが顎を開いた。


 澪は鎖を投げた。


 狙ったのは身体ではない。顎でもない。大型個体が噛もうとしている裂け目の縁、その少し内側。鉤刃が青白い膜に引っかかる。空膜喰いが反射的にそれを噛む。鎖へ衝撃が走った。引かれる。手首が痛む。澪は引き返さない。逆に鎖を緩めた。


 空膜喰いが、噛み損ねる。


 ほんの一瞬、顎が空を切った。


 久遠がそこへ短槍の折れた柄を叩き込む。藤堂が封印杭を口内へ撃ち込む。水瀬の式札が顎の上下を縫い止める。大型個体が暴れる。裂け目が震えた。作業台の残骸が浮く。


 澪は鎖を足元へ滑らせ、床の支柱に巻いた。


 引かない。固定する。自分の力で抑えようとしない。支柱と床と壁、まだ食われていない構造を使う。鎖は澪の腕ではなく、部屋そのものへつながる。


「藤堂先生、今」


「分かってる!」


 藤堂が切断具を振り下ろした。


 狙いは鎖ではなく、空膜喰いが噛んでいる青白い膜の根元。金属音ではない、濡れた薄紙を断つような音がした。裂け目の縁が大きく揺れる。空膜喰いの顎が半分、こちら側に残り、残りの身体が向こうへ引き戻される。


 大型個体が悲鳴を上げた。


 それは鳴き声ではなく、鈴の音だった。


 ちりん、ちりん、ちりん、と狂ったように鳴る。支部の壁が青く光る。廊下の床が薄くなる。封印室の鈴片も共鳴したのか、遠くから同じ音が返ってくる。


 澪は歯を食いしばった。


 頭の奥で、階段が見える。


 影がいる。


 待ってる。


 澪は声に出さなかった。返事をしない。見ない。行かない。今は、目の前の顎を止める。


 空膜喰いの小型が一斉に澪へ向かった。


 朱音が前に出ようとする。久遠が止める。凛が悲鳴を飲み込む。水瀬が式札を追加する。だが全部は止まらない。三匹が澪の足元へ来る。


 澪は鎖を握ったまま、右足を引いた。


 一匹目を踏み潰す。二匹目が脛に噛みつく。肉ではなく、位置がずれる感覚。膝から下が一瞬、自分のものではなくなる。澪は倒れかけた。倒れる前に、短杭を抜いて脛ごと魔物を刺した。痛い。だが、刺せるならまだ自分の足だ。


 三匹目が左手首の固定具へ噛みついた。


 固定具が歪む。痛みが白く弾ける。澪は反射で左腕を振りそうになり、止めた。振れば手首が壊れる。だから、逆に近づけた。空膜喰いは噛むために口を開いている。その口へ、鎖の余った節を押し込む。


 噛め。


 魔物が噛む。


 鎖が鳴る。


 澪は右手で短杭を取り、魔物の頭を貫いた。


 青い泡が散った。


 その瞬間、視界の奥に表示が走る。


 ――――――

 《空間把握》Lv1 → Lv2

 ――――――


 部屋の歪みが、少し見えた。


 床の薄い場所。裂け目の呼吸。大型個体の顎が次に開く角度。小型が集まる理由。全部ではない。だが、今までより一歩だけ早く分かる。


 大型個体が最後の力で鎖を噛んだ。


 澪は引かなかった。


 鎖を緩め、顎が閉じる位置をずらす。藤堂の封印杭が効いている。久遠が顎の横を蹴り抜く。水瀬の格子が裂け目を押さえる。朱音の槍が、澪へ向かう小型を叩き落とす。


 顎が空を噛んだ。


 その瞬間、澪は鎖を支柱から外し、床へ投げ捨てるように流した。大型個体の下顎に、鎖が引っかかる。引くのではない。転がす。重心をずらす。


 久遠が短く言った。


「閉じろ!」


 水瀬の式札が裂け目に重なる。藤堂が最後の封印杭を打ち込む。大型個体の顎が、裂け目に挟まれた。青白い膜が閉じていく。顎だけがこちら側に残り、やがてそれも泡になって崩れた。


 鈴の音が止まった。


 整備室には、荒い息と、床に落ちた工具の音だけが残った。


 澪は立っていた。


 左手首が痛い。脛も痛い。手のひらには鎖の冷たさが残っている。だが、立っている。鎖は床に落ち、青白い光を失っていた。完全に壊れたわけではない。けれど、鉤刃の根元が歪み、節のいくつかは噛み跡のように薄く欠けていた。


 藤堂がゆっくり近づき、鎖を布で包んだ。


「……よく離したな」


「引いたら、持っていかれた」


「分かってたのか」


「途中から」


「なら上出来だ」


 朱音が澪の前に来た。


 怒っている。泣きそうでもある。どちらか分からない顔だった。


「戻るって言った」


「戻った」


「怪我してる」


「戻った」


「そういう問題じゃない」


「でも、戻った」


 朱音は何か言おうとして、やめた。代わりに、澪の頭を軽く叩いた。痛くはない。叱るというより、そこにいることを確かめるような触れ方だった。


 凛が廊下の方で座り込んでいる。無事だ。水瀬は式札の残骸を拾っている。久遠は壁の亀裂を確認し、職員へ封鎖指示を出している。藤堂は鎖を布で包んだまま、難しい顔で黙り込んでいた。


 澪は、自分の状態を確認した。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:46 → 47


 状態:

 疲労:中

 左手首損傷:悪化 / 固定具破損

 右脛裂傷:回復中

 空膜魔力付着:小

 精神汚染:微弱

 誘導残響:微弱

 装備共鳴残滓:微弱


 ユニークスキル:

 《適応》


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv7

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv4

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv4

 《投擲》Lv3

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 《風属性耐性》Lv1

 《空間把握》Lv1 → Lv2

 ――――――


 Lv47。


 存在進化までは、まだ遠い。けれど近づいた。澪自身より先に、周囲の空気がそれを理解したようだった。久遠が表示を聞かずに、澪の顔を見た。


「上がったな」


「はい」


「いくつだ」


「47」


 朱音の指が、澪の袖を強く掴んだ。


 誰も喜ばなかった。


 強くなったことが、今は良いことだけではなかったからだ。Lv50が近づく。存在進化が近づく。しかもその前に、空鈴片、空膜喰い、青白い階段、待っている影が次々と澪へ触れている。


 久遠は低く言った。


「今日から、天瀬の装備はすべて隔離管理だ。鎖だけじゃない。短杭、予備装備、インベントリ内の登録品も確認する」


 澪は少しだけ眉を動かした。


「インベントリも?」


「当然だ。中に何か混じっていたら洒落にならん」


 澪は自分のインベントリを開こうとして、朱音に睨まれた。


「今じゃない」


「確認」


「先生たちと一緒に」


「うん」


 藤堂が布で包んだ鎖を持ち上げた。


「天瀬。この鎖はもう、そのままじゃ使わせられん」


「直らない?」


「直る。だが、前と同じものには戻せない。風縒り鉄のところが、空鈴片に触られた。悪い意味でも、良い意味でもな」


「良い意味?」


「素材としては変質した。危険だが、使い方次第では伸びる。ただし、今のお前の身体のまま扱うには重い」


 澪は黙った。


 今の身体のまま。


 つまり、存在進化後なら違うかもしれない、ということだ。


 藤堂もそれを分かった上で言っているのだろう。朱音の顔が険しくなる。


「先生」


「分かってる。急がせる気はねえ。ただ、武器の方が先に変わり始めてる。天瀬の身体が追いついてない」


 久遠が壁の亀裂から視線を外し、澪を見た。


「逆だ。ダンジョンが、天瀬の進化を急がせている」


 その言葉に、整備室の空気が重くなる。


 澪は床に残った青白い染みを見た。空膜喰いが消えた跡。裂け目は閉じた。大型個体もいない。鈴の音も止まっている。


 だが、終わった感じはなかった。


 これは事故ではなく、前触れだ。


 澪にそう思わせるだけのものが、まだ部屋の空気に残っている。


 その時、支部の警報が鳴った。


 一度。


 短く。


 全員が顔を上げる。久遠が通信端末を取った。


「久遠だ。何が起きた」


 通信の向こうで、職員の声が震えていた。


『第一層第七環封鎖線から報告です。青白い階段の手前に、新しい反応が出現しました』


「文字か」


『いえ、魔物です』


 久遠の目が細くなる。


『遠隔観測では、小型の空膜喰いに似ています。ただし数が多い。裂け目の周囲に集まって、何かを広げています』


 藤堂が小さく舌打ちした。


 澪は何も言わなかった。


 通信の向こうで、職員は続ける。


『観測班の一人が、音を聞いたと言っています。鈴ではなく、犬の鳴き声のような音だと』


 朱音が、澪の袖を掴む。


 澪は目を閉じた。


 見ていないのに、青白い階段の奥で、何かがこちらを向いた気がした。


 まだ遠い。


 けれど、近づいている。


 澪は自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。


「まだ行かない」


 朱音がすぐに答えた。


「うん。まだ」


 だが、今度はその言葉が、前より少しだけ薄く聞こえた。


 待たせている時間は、確かに減っていた。



♦  ♦



 装備整備室の床には、まだ青白い染みが残っていた。


 空膜喰いの大型個体は消えた。裂け目も閉じた。鈴の音も止まっている。だが、何もなかったことにはならない。作業台は噛み砕かれ、工具のいくつかは先端だけが透明に変質し、壁には薄い亀裂が走っている。そこへ協会職員が封印布を貼り、藤堂がさらに上から金属釘を打ち込んでいた。


 澪は整備室の外の椅子に座らされていた。


 座っている、ではなく、座らされている。朱音が椅子の横に立ち、久遠が少し離れたところで職員と話し、水瀬が紙の記録を整理している。凛は奥の休憩室へ連れていかれた。さっき足元を食われかけたばかりだから、当然だった。遥は封鎖された廊下の向こうで、こちらを見ようとして職員に止められている。口の動きだけで「何があったの」と言っていたが、澪は返事をしなかった。


 左手首が痛い。


 固定具は空膜喰いに噛まれて壊れ、今は応急処置の包帯で巻かれている。右脛の裂傷はもう塞がりかけているが、空膜魔力が残っているせいでじくじくと変な熱を持っていた。Lv47になった。けれど嬉しいという感覚はなかった。レベルが上がるたび、Lv50の存在進化が近づく。今の澪には、それがただの成長ではなく、何かが迫ってくる足音に近く感じられた。


「顔、険しいよ」


 朱音が言った。


 いつもの叱る声ではなかった。少し疲れていて、少しだけ冗談に寄せた声。


「もともと」


「そんなことない。澪は普段、眠そうか、何か悪いこと考えてるか、綺麗なもの見つけた猫みたいな顔してる」


「猫?」


「危ないものを前足でつつく猫」


「猫、賢い」


「今の話でそこ拾うの、澪らしくて安心したくないのに安心する」


 朱音はそう言って、澪の包帯を見た。視線が柔らかくなる。怒っている時より、その顔の方が澪には少し苦手だった。


「痛い?」


「痛い」


「うん。そこ、隠さなかったのは偉い」


「最近、偉いが多い」


「言える時に言っとくの。怒る時の貯金みたいなもの」


「貯金」


「この後たぶん怒るから、先に褒めた」


 朱音は淡々と言った。澪は少しだけ瞬きをする。先に言われると、怒られるのを待つ変な時間が生まれる。前の世界にはなかった種類の圧だった。


 整備室の扉が開いた。


 藤堂が出てくる。手には黒い封印布で包まれた《風縒り鉤鎖》がある。さっきまで澪の手にあった時とは違い、布越しでも鎖の重さが変わったように見えた。元の武器なのに、元の武器ではない。空鈴片に触られ、空膜喰いに噛まれ、澪の手を通して一度こちら側へ戻されたもの。


「天瀬」


「はい」


「この鎖は当面没収だ」


「……はい」


 澪が素直に返すと、藤堂は逆に嫌そうな顔をした。


「素直すぎると気持ち悪いな」


「取られたくはないです」


「だろうな」


「でも、今持つと鳴る」


「ああ。お前が持つと鳴る。鳴るだけならまだいい。下手するとまた口が開く」


 朱音が短く息を吐いた。


「口って言い方、やめません? 支部の中で口が開くって、普通に嫌なんですけど」


「事実だ。裂け目より口の方が近い。あいつら、裂け目を開けてるんじゃねえ。噛んでる」


 藤堂は包みを持ち直し、久遠の方へ視線を送った。


「で、次はインベントリだ。装備登録されてる物を全部確認する。鎖に共鳴が出た以上、他の装備に何か入り込んでる可能性がある」


 澪は少しだけ眉を動かした。


「全部?」


「全部だ。短杭も予備鎖も薬も、食いかけのゼリーもだ」


「食いかけはない」


 朱音が澪を見る。


「本当に?」


「……たぶん」


「今の間は何?」


「覚えてない」


「それは、あるかもしれない人の返事」


 藤堂が呆れたように笑った。


「探索者の二割弱しか持ってねえ便利技能を、物置以下に使いやがって」


「入るから」


「入るからじゃねえ。インベントリは命綱だ。単独探索する奴ならなおさらな。お前、今Lv47だろ」


「はい」


「つまり四十七枠。まともに管理すれば、小隊一つ分の非常装備を持てる。なのにお前のことだ。どうせ半分くらい変なもの入ってる」


「半分はない」


 澪はそう言ったが、自信はなかった。


 インベントリは最初のレベルアップで得た。前の世界にも似た技能はあったが、澪のものではなかった。便利だとは思う。素材を入れられるし、薬も入れられる。だが、澪は持ち物の整理が得意ではない。使うものを入れる。拾ったものも入れる。後で見るつもりのものも入れる。後で見ないままになる。


 朱音が椅子を少し近づけた。


「今日はいい機会だね。澪の鞄の中身ならぬ、人生の中身を見直そう」


「人生までは入ってない」


「入ってないといいね」


「怖い言い方」


「澪のインベントリ、たぶんちょっとしたダンジョンより怖い」


 水瀬が近くの机に紙を広げた。協会職員が封印箱を並べ、藤堂が検査具を置く。久遠は腕を組んだまま、澪を見ている。


「天瀬。取り出す前に、まず一覧を口頭で出せ。異常表示があれば読む。勝手に触るな」


「はい」


 澪は目を閉じ、インベントリの一覧を開いた。


 自分だけに見える、小さな棚のような感覚。四十七の枠。そのうち、いくつかは空。いくつかは物が入っている。見慣れたものもあれば、入れた記憶が薄いものもあった。


「短杭、十一」


「十一?」


 朱音が少し驚く。


「前は十二だった」


「一本どこ行ったの」


「さっき使った」


「ああ……」


 水瀬が記録する。


「予備短剣、一。古い」


「状態は?」


「刃こぼれあり」


 藤堂が顔をしかめた。


「捨てるか研げ」


「まだ使える」


「そういうのが一番危ないんだよ」


 澪は続けた。


「簡易治療薬、三。うち一つ期限切れ」


 朱音が無言でこちらを見た。


「……あとで捨てる」


「今、捨てる欄に入れて」


「はい」


「栄養ゼリー、二」


「それは私が入れたやつ?」


「たぶん」


「食べてないの?」


「非常用」


「非常が来てから食べる人は、非常の前に倒れるの」


 朱音の言葉に、藤堂が小さく笑った。水瀬は真面目に記録している。久遠は眉間に皺を寄せているが、怒鳴らないだけまだましだった。


「帰還札、正規一。低位二」


 久遠が即座に言った。


「少ない」


「高い」


「補助が出る。増やせ」


「はい」


「風避け護符、使いかけ一」


 藤堂が机を指で叩いた。


「使いかけを入れるな。効力が不安定になる」


「まだ少し残ってる」


「残ってるじゃねえ。途中で切れる護符は、ないより悪い時がある」


「捨てる?」


「検査してからだ」


 澪はさらに読み上げた。素材袋。硝子翼狼の小片。雲喉狐の毛。折れた短杭の先端。青雷兎の爪。空雫鼠の尾毛。古い包帯。予備靴紐。食べ忘れた飴。朱音が「それいつの」と聞き、澪が「分からない」と答え、朱音が無言で捨てる欄に入れた。


 四十七枠あるはずなのに、まともに整理されているものは半分もなかった。


 藤堂が深く息を吐く。


「お前、よくこれで外縁行ってたな」


「行けた」


「行けたからいい、じゃねえんだよ。帰ってきたから言える説教だぞ、これは」


「はい」


 藤堂は怒っているが、どこか安心したようでもあった。たぶん、説教できる相手が目の前にいること自体は、悪くないのだろう。


 一覧は、最後の方へ進んだ。


「空き枠、八」


 水瀬が顔を上げる。


「四十七枠中、空き八。では使用中は三十九ですね」


「うん」


「残りは?」


 澪は少し黙った。


 四十七番目。


 そこに、見慣れない枠があった。


 何かが入っている。物のようで、物ではない。表示が安定しない。文字がにじむ。空白のようにも見えるし、薄い青い線のようにも見える。


「澪?」


 朱音の声が近くなる。


「四十七番目、変」


 久遠がすぐに言った。


「読むな。見たままを言え」


「物じゃない。穴みたい。名前、出ない。空欄。青い線」


 部屋の空気が固まった。


 藤堂が封印箱を一つ前へ出す。


「取り出せるか」


「分からない」


「取り出すな」


 久遠が即座に言った。


 水瀬が紙に線を引く。


「インベントリ枠内の空膜裂け、または空鈴片由来の仮想残留。さっき大型個体と接触した時に、収納空間側へ噛み跡を残された可能性があります」


 朱音の声が少し低くなる。


「つまり、澪のインベントリの中に、裂け目があるってこと?」


「その可能性があります。小さいですが」


「小さくても嫌なんだけど」


「同感です」


 澪は四十七番目の枠を見続けないように、意識を少し離した。だが、見えない場所でそれは鳴った。


 ちりん。


 部屋の全員が反応した。


 現実の音ではない。インベントリの奥から、澪を通して漏れた音だった。朱音が澪の肩を掴む。久遠が封印札を構える。藤堂が低く唸る。


「閉じろ。インベントリを閉じろ、天瀬」


「やってる」


 澪はインベントリを閉じようとした。普段なら簡単に閉じられる。意識を外せばいい。だが、四十七番目の枠だけが引っかかった。棚の奥に細い糸が残っているように、閉じきれない。青白い線が、意識の隅に残る。


 ちりん。


 二度目。


 澪の右手が勝手に動きかけた。何かを取り出そうとする動きだった。朱音がその手を両手で掴んだ。


「澪、こっち」


「取らない」


「うん。取らない。今の澪、棚の奥に手を突っ込もうとしてる顔してる」


「棚?」


「変なものが落ちてても、拾わない。拾ったら怒る。怒るし、泣くし、たぶん藤堂先生が三日くらい説教する」


「三日」


 澪は少しだけ意識が戻った。


 藤堂が即座に乗った。


「三日で済むと思うな。俺は工具の名前を一個ずつ覚えさせながら説教するぞ」


「嫌」


「なら閉じろ」


 朱音が澪の手を握ったまま、さらに言った。


「澪、私の声を聞いて。今、棚の奥にあるものは、落とし物じゃない。誰かが置いた罠。澪が拾うのを待ってるだけ」


 待ってる。


 その言葉で、青白い線が強く揺れた。


 朱音は一瞬だけ顔をこわばらせたが、逃げなかった。


「だから拾わない。待ってるなら、待たせる。棚の奥で埃かぶってろって言ってやればいい」


 澪はその言い方に、少しだけ息を吐いた。


「埃、かぶるかな」


「かぶらせるの。こっちの都合で」


「うん」


 澪は四十七番目の枠から意識を外した。閉じるのではなく、棚ごと布をかけるように、見ない。触らない。返事をしない。青白い線がまだ残っている。だが、少し遠のいた。


 水瀬が式札を取り出す。


「インベントリ外部封印を試します。澪さん、対象枠を意識しないでください。朱音先輩、そのまま手を握っていてください」


「分かった」


「力を入れすぎると澪さんの手首に悪いので、右手だけで」


「注文が細かい」


「大事です」


「分かってる」


 水瀬の式札が澪の胸元で淡く光った。直接身体に貼るのではなく、インベントリへのアクセス補助に近い。藤堂が封印用の細い金属環を机に置き、久遠がそれを支える。


 澪は目を閉じた。


 青白い線を見ない。


 朱音の手の温度を感じる。藤堂の工具の音を聞く。水瀬の紙が擦れる音。久遠の呼吸。遠くで凛が誰かに水を渡されている声。整備室の床に貼られた封印布の匂い。全部、現実のものだ。


 ちりん。


 三度目の音は、少し遠かった。


 水瀬が静かに言う。


「固定、入りました」


 藤堂が金属環を閉じる。


「隔離成功。ただし一時的だ。インベントリの四十七番枠は封印扱いにする。天瀬、勝手に開くな」


「開けたら?」


 澪が聞くと、朱音が横から言った。


「怒る」


 藤堂が続ける。


「説教」


 久遠が短く言う。


「探索停止」


 水瀬が最後に付け加える。


「記録に残します」


「……開けない」


 澪はそう言った。


 少しだけ、場の空気が緩んだ。だが、本当の意味で安心している者はいなかった。インベントリの中に噛み跡が残った。四十七番目の枠に、空膜の裂け目のようなものがある。これは一時的に封じただけで、解決ではない。


 久遠は水瀬の記録を確認し、職員へ指示を出す。


「天瀬のインベントリは監視対象に追加。装備登録品はすべて封印検査。本人の単独出納は禁止。以後、インベントリ使用時は教員か協会職員立ち会い」


「はい」


「あと、三枝を呼べ。本人が落ち着いているなら、支部の記録補助に戻ってもらう」


 朱音が少し驚いた。


「凛ちゃんを?」


「昨日の聞き取りから、空鈴片に接触した未許可探索者の証言をまとめている。あの子は細かい変化を拾える。無理はさせん」


 朱音は何か言いたげだったが、飲み込んだ。凛が怖がりながらも、自分の役目を探そうとしていることを知っているからだろう。


 その時、廊下の向こうから騒ぎが聞こえた。


 職員の声ではない。生徒の声。誰かが泣いている。もう一人が「見ただけだって」と言っている。久遠の顔が一瞬で険しくなった。


「何だ」


 職員が走ってきた。


「学校側から搬送です。生徒二名が、昨日の切り抜きを保存した端末を教室で再生。片方が映像の中に自分の名前を見たと訴えています」


 朱音が低く悪態をついた。


 普段なら言わないような、小さな、鋭い言葉だった。


「本当に、馬鹿じゃないの」


 怒りより先に、怖さが出ていた。澪はそれを聞いて、少しだけ朱音を見た。朱音は視線を返さず、口元を押さえている。


 久遠が職員へ言う。


「端末を封印。映像を見た者は全員、直接視認をやめさせろ。三枝と水瀬を記録に回す。七瀬、天瀬を保健室へ」


「はい」


 朱音はすぐに返事をした。澪の手を握ったまま、立たせる。


「澪、歩ける?」


「歩ける」


「じゃあ歩く。急がない。でも止まらない。変なものが見えたら私の背中だけ見て」


「朱音先輩の背中」


「そう。今日だけ特別に見放題」


「いつも見てる」


「そういうことを真顔で言うと、こっちが変な顔になるからやめて」


 朱音の言葉は少し早口だった。怖さを隠すために喋っているのだと、澪にも分かった。だから澪は黙って従った。


 廊下を進む途中、支部の一角で生徒が二人、職員に囲まれていた。一人は泣いている。もう一人は端末を取り上げられ、青ざめた顔で何度も「違う、俺じゃない」と繰り返している。


 端末の画面には封印布が貼られていた。もう何も見えない。


 それでも、澪のインベントリの奥で、四十七番目の枠が微かに震えた。


 ちりん。


 音は、澪にしか聞こえなかった。


 澪は足を止めなかった。朱音の背中を見る。黒い制服の肩。少し乱れた髪。真っ直ぐではないが、折れていない歩き方。


「拾わない」


 澪は小さく言った。


 朱音が振り返らずに答える。


「そう。落とし物じゃなくて罠だからね」


「うん」


「あと、澪のインベントリは後で私が整理表作るから」


「朱音先輩が?」


「そう。項目は、武器、薬、帰還、食べ物、捨てろ、何で入ってるの、の六分類」


「最後の二つ、分類?」


「澪専用分類」


 澪は少しだけ笑った。


 その小さな笑いで、四十七番目の鈴の音は少し遠くなった。


 保健室へ戻る直前、支部全体に緊急放送が入った。


『第一層第七環封鎖線より追加報告。空膜喰い群、風裂き地帯外縁で増加。大型反応一。犬に似た鳴き声を確認。封鎖線を後退します。繰り返します。封鎖線を後退――』


 放送が、そこで途切れた。


 ノイズ。


 青白い光が、支部の天井灯に一瞬だけ混じった。


 朱音が澪の手を強く握る。


 澪は目を閉じなかった。けれど、見上げもしなかった。


 放送の最後に、かすかな音が入った。


 犬の鳴き声ではなかった。


 低く、喉の奥で笑うような音。


 そして、ほんの一瞬だけ、文字が聞こえた気がした。


 ――もうすぐ。


 澪は朱音の背中を見たまま、息を吐いた。


「まだ」


 朱音が振り返る。


 その顔は怖がっていた。怒ってもいた。泣きそうでもあった。だが、口元だけは無理やり笑っていた。


「そう。まだ。勝手に予定を詰めてくる相手には、こっちから返信しないの。未読無視」


「未読無視」


「既読もつけない」


 澪は頷いた。


 その言い方は、少し分かりやすかった。


 支部の外で、遠く、鈴が鳴った。


 今度は一度では終わらなかった。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 まるで、どこかで扉が開き続けているようだった。






Tips ダンジョン用語説明集

≪空膜≫


第一層《零れ空の庭》に多く見られる、空間の薄い膜のようなもの。


地面、壁、空中、植物の表面などに発生し、場所によっては透明な水膜や硝子の皮膜のように見える。

通常は触れてもすぐに危険があるわけではないが、傷ついたり歪んだりすると、足場の不安定化、空間の裂け目、魔物の出現につながる。


第一層の異常現象の多くは、この空膜の乱れから始まる。


≪空膜崩落≫


空膜が支えを失い、地形ごと崩れる現象。


見た目は床や壁が壊れるだけに見えるが、実際には空間の薄い部分が抜け落ちている。

普通の穴と違い、落下先が下とは限らない。別の場所、別の環、あるいは未確認の空間につながることもある。


第四環以降で発生しやすく、第六環以降では危険度が大きく上がる。


≪空膜裂け≫


空膜に生じる細い裂け目。


小さいものなら自然に閉じるが、周囲の魔力や魔物の干渉によって広がることがある。

裂け目の周辺では、足場が薄くなったり、視界が歪んだり、空膜系の魔物が出現したりする。


空膜裂けが広がると、空膜崩落に発展する。


≪空膜魔力≫


空膜に含まれる特殊な魔力。


通常の魔力よりも薄く、広がりやすく、空間や足場に影響を与える。

体内に入り込むと、傷の治りが遅れる、身体の位置感覚が狂う、精神的に引っ張られるなどの症状が出ることがある。


澪のように空膜に何度も触れた探索者は、徐々に感覚で空膜の歪みを読めるようになる場合がある。


≪空滴≫


第一層の空から落ちる、水滴に似た青白い粒。


水ではなく、空膜と魔力が混じった小さな粒。

触れてもすぐに危険ではないが、魔物によってはこれを破裂させたり、目くらましに使ったりする。


空雫鼠などの小型魔物が利用する。


≪空池≫


地面や窪地に空が溜まったように見える場所。


水たまりのように見えるが、実際には空膜と空間の歪みが重なったもの。

浅い空池は美しい景色として知られるが、深い空池は落下事故や転移事故につながる。


初心者は近づきすぎないよう指導される。


≪空裂き≫


空膜が縦に裂け、空そのものに傷が入ったように見える現象。


第一層外縁でまれに見られる。

裂け目の向こうには別の環や異常空間が見えることがあり、澪が第一層第九環《空葬原》を初めて見たのも、この空裂きに近い現象だった。


安易に覗き込むと精神誘導や視覚汚染を受けることがある。


≪風裂き≫


第一層第七環付近に多い、風によって空膜が切り裂かれる現象。


普通の風ではなく、空膜に沿って走る刃のような風。

直接受けると皮膚や装備を裂くだけでなく、傷口に風属性魔力が残り、再生や治療を妨げる。


風縒り鉄の生成にも関係している。


≪風縒り鉄≫


風裂き地帯で採れる希少素材。


風と空膜の歪みを長い時間受けた金属質の素材で、軽く、しなやかで、魔力を通すと独特の戻りを持つ。

鎖、ワイヤー、軽量武器、可動部品に向く。


澪の《風縒り鉤鎖》にも使われている。


≪空鈴片≫


空膜系の異常から発生した、鈴の欠片のような残留物。


見た目は小さな硝子片や鈴片に近い。

音を鳴らすことで空膜を震わせ、裂け目や空膜系魔物を呼び寄せることがある。


澪の鉤鎖と共鳴し、支部内に空膜喰いを発生させた。


≪インベントリ≫


探索者の1割弱が、最初のレベルアップ時に獲得する特殊技能。


特殊な亜空間に物資を収納できる。

この技能を獲得できるかどうかで、探索者としての将来が大きく変わると言われている。


インベントリを持つ探索者は、武器、薬品、素材、食料、帰還札などを安全に持ち運べるため、長時間探索や素材回収に強い。

特に単独探索者にとっては、生命線に近い技能である。


収納容量は探索者レベルに比例する。

基本的には、探索者Lvと同数の収納枠を持つ。


現在の澪は探索者Lv46のため、四十六枠分の物資を収納できる。

ただし、澪本人は現段階ではインベントリの重要性をあまり理解しておらず、中には予備の短杭、古い薬品、栄養ゼリー、素材袋、使いかけの護符など、雑多なものしか入っていない。


収納できるのは、本人が触れて認識した物に限られる。

生物の収納はできない。

また、強い異常性を持つ素材や、空膜系の残留物、呪性を帯びた物品などは、収納が不安定になることがある。


深環や空間異常の強い場所では、インベントリの出し入れに遅れが生じる場合がある。


≪アイテムボックス≫


インベントリに似た空間収納系の技能。


ただし、こちらは探索者の初期技能ではなく、明確なスキルとして扱われる。

澪には現時点では発現していない。


アイテムボックスは、インベントリと違い、レベルを上げていくことにより個数制限や重量制限が緩和されていく。

そのため、一見するとインベントリの完全上位互換のように思われる。


しかし、アイテムボックス内では時間が経過する。

そのため、食料を入れれば腐るし、薬品も劣化する。

生鮮品や時間経過で性質が変わる素材の保存には向かない。


また、収納空間の内部が広すぎるため、入れた物を正確に把握していなければ取り出せない。

使いこなすには、本人の認識力や整理能力が必要になる。


澪の転生前の持ち物の一部は、このアイテムボックス内に残っている。

しかし、澪本人にはまだアイテムボックスのスキルが発現していないため、その存在に気づいていない。


今後、何らかのきっかけでアイテムボックスが発現した場合、澪は前世の持ち物と再会する可能性がある。


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