第十一話 鎖が鳴る
澪の鉤鎖が、作業台の上で鳴っていた。
ちりん。
それは鎖が立てる音ではなかった。金属同士が触れた硬い音でも、風縒り鉄が震える時の細い唸りでもない。もっと軽く、薄く、耳の奥ではなく胸の内側を叩くような音。封印箱の中に収められているはずの《空鈴片》と同じ音だった。
装備整備室の空気が、一気に冷えた。
作業台の上には、分解途中の《風縒り鉤鎖》が置かれている。藤堂が歪んだ節を外し、風縒り鉄の通りを確認していたところだった。鎖の一部は固定具に挟まれ、鉤刃は外され、短杭を接続する環も半分開いたままになっている。本来なら武器として使える状態ではない。にもかかわらず、鎖は自分で身じろぎするように震えていた。
淡い青白い光が、鎖の節から漏れている。
「全員、下がれ」
久遠の声が低く響いた。
朱音が澪の袖を掴んだまま一歩下がる。水瀬はすぐに記録用の紙を閉じ、凛を背中側へ回した。藤堂は作業台の横に立ち、工具箱から黒い封印布を取り出す。だが、布をかけるより早く、鎖がまた鳴った。
ちりん。
今度は音が、部屋の奥へ伸びた。
壁に掛けられた工具が小さく震える。魔力測定器の針が跳ねる。作業台の下に置かれていた素材箱の蓋が、かすかに浮いた。澪はその音を聞いた瞬間、背筋に冷たい線が走るのを感じた。呼ばれている。自分ではない。鎖が呼ばれている。あるいは、鎖を通して、自分の手の形を覚えようとしている。
「藤堂、布を」
「分かってる」
藤堂が封印布を広げた。布の内側には細かい式が縫い込まれている。魔力を遮り、対象の反応を鈍らせるためのものだ。彼は作業台へ近づき、鎖の上に布をかけようとした。
その瞬間、鉤鎖が跳ねた。
分解されているはずの鎖が、まるで生き物の尾のように作業台から持ち上がる。固定具が弾け、外れていた鉤刃が床を滑った。朱音が息を呑む。久遠が一歩前へ出る。藤堂は布を投げるようにして鎖へかぶせたが、鎖はその下でさらに強く震えた。
ちりん、ちりん、ちりん。
連続して鳴る。
部屋の中央に、青い線が走った。
壁ではない。床でもない。空気そのものに、細い亀裂が入っている。第一層の空膜が裂ける時の前兆に似ていた。だが、ここは協会支部の装備整備室だ。ダンジョン内ではない。厚い隔壁と封印壁に守られた、現実側の部屋だった。
それでも裂け目は開こうとしていた。
「空膜反応、室内に発生!」
水瀬が叫ぶ。声は落ち着いているが、早い。
「座標固定されていません。支部内の魔力線を引っ張っています!」
「全員、廊下へ出ろ!」
久遠の指示で凛が動く。朱音は澪の袖を引いた。澪も下がろうとした。だが、その時、鎖の先端が封印布の下から飛び出した。狙いは澪ではない。整備室の奥、壁際の棚。そこには昨日の救助隊から回収された装備が並んでいた。靴、帰還布、損傷した短剣、裂けた防護服。その中の一つ、青い札が貼られた帰還補助具に、鎖の端が絡みつく。
ちりん。
帰還補助具の札が、青白く光った。
水瀬の顔色が変わる。
「まずい。救助対象に付着していた残留反応です。共鳴が増えます!」
「切れ!」
久遠が言うより早く、朱音が槍を構えた。だが、狭い整備室では大きく振れない。遥はいない。藤堂は封印具を抱えたまま、鎖の根元を押さえようとしている。凛は廊下側で職員を呼んでいた。
澪は自分の腰へ手を伸ばした。
鉤鎖はない。短杭ホルダーも、保健室で外されたままだ。ただ、予備の短杭だけはインベントリに入っている。朱音に怒られるかもしれないと思ったが、今は取り出すしかなかった。
右手の中に、短い杭が落ちる。
水瀬がそれを見て、目を見開いた。
「澪さん、今は――」
「切るだけ」
澪は床を蹴った。
左足首に痛みが走る。手首も固定具の下で軋む。だが、距離は短い。鎖が帰還補助具へ絡みつき、青白い裂け目が広がる前に、その接続を断つ必要がある。澪は短杭を逆手に持ち、鎖が絡んだ札の根元へ突き立てた。
刺さった瞬間、冷たいものが指先から入ってきた。
空膜魔力。
澪の皮膚の下を、薄い空が這う。短杭を握る指の感覚が一瞬ずれた。手が遠くにあるような、骨の位置だけが少し横へずらされたような感覚。気持ち悪い。だが、離さない。
「澪!」
朱音の声。
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。けれど、今はそう言うしかない。
澪は短杭をひねった。札が裂ける。帰還補助具から青い光が漏れ、鎖が一度大きく跳ねた。その反動で澪の身体が横へ弾かれる。朱音が受け止めようとしたが、間に合わない。澪は作業台の角に肩をぶつけ、床を転がった。
痛み。
呼吸が詰まる。
それでも、接続は切れた。
鎖は帰還補助具から外れ、作業台の上へ叩きつけられる。藤堂がその隙を逃さず、黒い封印布を鎖ごと巻き込んだ。久遠がさらに上から封印札を三枚打つ。音が止まる。
止まった。
全員がそう思った。
次の瞬間、整備室の床下から鈴が鳴った。
ちりん。
空気が下へ抜けた。
作業台の下、床の継ぎ目。そこに青白い穴が開く。穴というより、床が薄い空へ変わった。第一層で見た空池に似ている。だが、その底が見えない。青いはずなのに、奥へ行くほど暗い。空葬原の空に近い、冷たい青。
封印布に包まれた鎖が、床の穴へ引きずられた。
「押さえろ!」
藤堂が叫ぶ。
久遠が鎖を布ごと掴む。藤堂も反対側を押さえた。朱音が澪を引き起こしながら、すぐに二人を支えようと動く。水瀬が式札を展開する。凛は廊下から職員を呼び戻し、封鎖扉を閉めるよう叫んでいた。
澪は立ち上がった。
鎖が引かれている。
自分の武器が、空の穴の向こうへ持っていかれようとしている。手放せばいい。今の鎖は危険だ。共鳴している。向こう側に覚えられている。藤堂なら、また別の武器を作るかもしれない。短杭でも戦える。短剣もある。鎖を失っても死ぬわけではない。
そう考えた。
考えたのに、足が動いた。
久遠がこちらを見た。
「天瀬、来るな!」
澪は止まらなかった。
なぜなら、鎖だけが引かれているのではなかったからだ。
作業台の向こう、床の穴の縁に、昨日回収された救助隊の帰還布が半分飲み込まれていた。さらにその布には、別の細い命綱が絡まっている。現場で使われた安全線。救助対象を引き戻すために使われたもの。そこにまだ、薄い赤い魔力反応が残っている。
完全に切れていない。
誰かの残留座標か、救助隊員の帰還記録か、あるいは昨日の未許可探索者の痕跡か。澪には正確には分からない。ただ、あのまま穴の奥へ引かれたら、何かがまた向こう側に持っていかれる。それだけは分かった。
「水瀬先輩、あの布」
「え?」
「残ってる」
水瀬が一瞬だけ目を凝らし、顔色を変えた。
「帰還座標の残滓……まだ切れてません! 引かれたら、昨日の救助対象へ逆流する可能性があります!」
久遠が短く舌打ちした。
「藤堂、鎖を離すな。七瀬、天瀬を止めろ!」
朱音が澪の腕を掴む。
「澪、駄目」
「止めるだけ」
「その止めるだけで何回死にかけたの!」
「今、離したらまずい」
「先生たちがやる!」
「間に合わない」
澪は朱音の手を振りほどかなかった。振りほどけば、朱音が傷つく。だから、一歩だけ前へ出た。朱音も引きずられるように動く。朱音は歯を食いしばり、それでも澪を離さなかった。
「じゃあ、私も――」
「駄目」
今度は澪が言った。
「朱音先輩は、こっち」
「澪!」
「引く方」
短い言葉だったが、朱音は理解した。澪を止めるのではなく、澪が戻るための側にいる。そういう役目。朱音の手が澪の腕から、腰のベルトへ移る。支える形に変わる。
澪は作業台へ飛びついた。
封印布越しの鎖を掴む。冷たい。だが、いつもの冷たさではない。鎖の向こうに、薄い空の流れがある。引けば引くほど、手首の固定具の下で痛みが走った。左手は使えない。右手だけ。歯を食いしばり、身体全体で鎖を引く。
空の穴が、澪を見た。
そんな気がした。
穴の奥で、青白い階段が一瞬だけ浮かぶ。階段の上に影はいない。ただ、道だけがある。待っている場所へ続く道。呼ばれているわけではない。けれど、鎖の先がそこへ落ちている。
ちりん。
音がした。
澪の視界の端に表示が走る。
――――――
状態変化:空膜魔力侵食 微弱 → 小
状態変化:誘導残響 微弱 → 小
――――――
朱音の声が背中から飛ぶ。
「澪、見ない!」
「見てない」
「嘘!」
「少し見た」
「少しも駄目!」
朱音が後ろから澪の身体を引く。久遠と藤堂が鎖の根元を押さえる。水瀬の式札が穴の縁に貼りつき、青白い空膜の揺れを鈍らせる。凛は廊下から予備の封印札を受け取り、震える手で水瀬へ渡していた。
全員が、こちら側へ引いている。
それでも、穴の向こうの力は強かった。
鎖が軋む。
風縒り鉄の節が悲鳴のような音を立てる。分解途中の接続部が耐えきれず、ひとつ、弾けた。小さな金属片が澪の頬を掠める。血が出る。すぐに塞がる。だが、鎖の形が崩れたことで、引く力の流れが乱れた。
藤堂が叫ぶ。
「まずい、節が飛んだ! このまま引くと全部持ってかれる!」
「切るか」
久遠が言う。
「切ったら帰還座標も持ってかれる!」
水瀬の声。
澪は鎖を握ったまま、空の穴を見ないようにした。見れば引かれる。だから、感覚だけで探る。どこに力が集中しているか。どの節が穴の向こうとつながっているか。どこを外せば、鎖全体ではなく、絡まった帰還布だけをこちらへ戻せるか。
見えない。
まだ、見えない。
澪は短く息を吐き、目を閉じた。
空間を、感じる。
鎖の張り。朱音の手。久遠の力。藤堂の封印布。水瀬の式札。床の穴。帰還布に残った赤い魔力。青白い階段へ伸びる細い線。その中で、一本だけ違う感触があった。
命綱。
それだけは、こちら側へ戻ろうとしている。
澪はインベントリから予備の細鎖を取り出した。藤堂製ではない。市販の安物だ。戦闘用ですらない。だが、今は十分だった。右手で投げる。細鎖は床を滑り、帰還布の端に絡む。
「朱音先輩、引いて」
「分かった!」
朱音が澪の腰から手を離し、細鎖を掴んだ。久遠が一瞬だけ朱音を見る。だが、止めなかった。澪は封印布越しの鉤鎖を押さえ、朱音は細鎖を引く。役割が分かれた。
帰還布が、穴の縁から少し浮いた。
水瀬が叫ぶ。
「今です! 赤い反応、こちらに寄ってます!」
「凛、札!」
「はい!」
凛が投げた封印札を水瀬が受け取り、帰還布の端へ貼る。赤い魔力が一瞬だけ強く光った。誰かの座標が、こちらへ戻る。澪にはそれが、息を吹き返す小さな火のように見えた。
次の瞬間、穴の奥から細い刃が伸びた。
空膜の刃。
狙いは朱音の手だった。
澪は考えるより早く動いた。封印布から手を離し、朱音の前へ出る。左手は使えない。右手には短杭。刃を受けるには短すぎる。それでも、受ける場所を選べば逸らせる。
刃が短杭をかすめ、澪の右肩を裂いた。
深い。
熱い痛みではなく、冷たい痛み。肩の肉が裂けただけではない。右腕の位置が一瞬、身体からずれた。澪は膝をつく。短杭を落としそうになる。朱音が叫んだ。
「澪!」
「引いて」
「でも」
「引いて!」
澪が怒鳴ると、朱音は歯を食いしばって細鎖を引いた。帰還布が穴の縁から抜ける。水瀬の式札がそれを受け止め、凛が封印箱を押し出す。久遠が鉤鎖を押さえたまま、藤堂へ叫んだ。
「今だ!」
「切る!」
藤堂が工具を叩き込んだ。風縒り鉄の節ではない。空膜側に引かれていた仮接続部だけを切る。鎖が大きく跳ね、青白い火花が散った。穴の奥へ、砕けた節がひとつ吸い込まれる。
代わりに、鎖の大部分はこちら側へ残った。
空の穴が歪む。
水瀬の式札が一斉に燃えた。久遠が槍の石突で床を叩き、封印線を起動する。藤堂が黒布を穴へ押し込み、凛が扉の外から封鎖札を投げる。朱音は帰還布を抱えたまま、澪の肩に手を伸ばした。
穴が閉じる。
青白い光が細くなり、床の継ぎ目へ吸い込まれていく。最後に、鈴の音が一度だけ鳴った。
ちりん。
今度は遠かった。
整備室に静けさが戻る。
誰もすぐには動かなかった。
澪は床に膝をついたまま、右肩を押さえた。血は出ている。だが、再生は動いている。問題は、肩の位置がまだ少しずれている感覚だった。腕があるのに、腕の端が別の場所に置かれているような気持ち悪さ。動かそうとすると、痛みより先に吐き気が来る。
視界の奥に、表示が開く。
――――――
【天瀬 澪】
探索者Lv:46
状態:
疲労:軽度 → 中
左足首裂傷:回復中
左手首負荷:中
右肩裂傷:再生中 NEW
空膜魔力侵食:小
誘導残響:小
空間位置ずれ:微弱 NEW
精神汚染:微弱
ユニークスキル:
《適応》
通常スキル:
《身体強化》Lv5
《魔力操作》Lv7
《魔力強化》Lv4
《魔力感知》Lv4
《格闘術》Lv5
《短剣術》Lv3
《鎖術》Lv4
《投擲》Lv3
《再生》Lv8
《状態異常耐性》Lv4
《精神汚染耐性》Lv2
《風属性耐性》Lv1
《空間把握》Lv1 → Lv2
――――――
肩が気持ち悪い。腕の位置がずれている。再生が肉を塞いでも、位置の違和感が残る。これが九環の攻撃に近いものだとしたら、普通の再生だけでは足りない。
「澪、見せて!」
朱音が膝をつき、澪の肩を確認する。手が震えていた。澪はそれを見て、少しだけ申し訳なくなる。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない。右肩、深い。あと顔色悪い。何か変な感じある?」
「腕の位置が、少し違う」
「違うって何」
「右腕が、右腕だけど、少し遠い」
朱音の顔が青ざめる。
「先生!」
「分かってる」
久遠が近づき、澪の肩を見た。藤堂も鎖を布で包んだまま、険しい顔で言う。
「空膜刃にやられたな。肉より位置をずらすタイプだ」
水瀬が記録を取りながら、声を落とす。
「澪さんの表示に、空間位置ずれが出ているそうです。微弱ですが、新規状態異常です」
「保健室へ運ぶ」
久遠が言うと、澪は首を横に振りかけた。歩ける。そう言おうとした。だが、朱音に睨まれてやめた。
「運ばれる」
「最初からそう言って」
朱音は泣きそうな顔で怒っていた。
藤堂は作業台の上に残った鉤鎖を見た。黒布の下で、もう音はしない。だが、鎖は明らかに変わっていた。節が一つ失われ、風縒り鉄の一部に青白い傷が残っている。危険物として封印するべき状態だ。武器としては、もうそのままでは使えない。
「鎖、直る?」
澪が聞くと、藤堂は苦い顔をした。
「直すだけならな。だが、同じ形には戻らん」
「使えるならいい」
「お前はすぐそう言う」
藤堂はため息を吐き、黒布をさらに巻いた。
「こいつは、もう普通の鉤鎖じゃない。空鈴片に呼ばれた。向こうの穴に節をひとつ持っていかれた。たぶん、何かを持ち帰ってもいる」
澪は鎖を見た。
ちりん。
音は鳴らなかった。けれど、澪の中にだけ、その余韻が残っている。
凛が帰還布を抱えたまま、小さく言った。
「戻せたんですよね」
水瀬が帰還布の赤い反応を確認し、頷いた。
「はい。座標残滓は安定しています。昨日の救助対象への逆流は、たぶん防げました」
凛の肩から力が抜ける。朱音も目を閉じた。久遠は澪を見た。
「天瀬。今の判断は、間違いではない」
澪は顔を上げる。
「だが、無茶だ」
「はい」
「分かっているならいい。説教は治療後だ」
「短めでお願いします」
「長めにする」
朱音が即答した。
澪は少しだけ眉を下げた。朱音は本気だった。
その後、澪は担架で保健室へ運ばれた。歩けると言う前に、朱音が「運びます」と宣言したせいだった。久遠も止めなかった。藤堂は鎖を封印箱へ収め、水瀬は帰還布と空鈴片の反応記録をまとめ、凛は職員に付き添われて一度休憩室へ下がった。
保健室で肩の処置を受けながら、澪は天井を見ていた。
右肩の違和感。空間位置ずれ。微弱。番犬と戦う前から、こんな状態異常が出る。九環にいる本物たちは、これをもっと強く、もっと自然に使うのだろう。
勝てる気はしない。
そう思った。
それなのに、怖さの奥で、ほんの少しだけ別の感情も動いていた。
知りたい。
このずれを、どう直すのか。
どう耐えるのか。
どう使うのか。
朱音がベッド脇で澪を見下ろしていた。
「今、変なこと考えてる」
「少し」
「何」
「右腕、遠いから、近づける方法」
「それは医者と先生が考えること」
「私の腕」
「今は患者の腕」
澪は少し黙った。
「朱音先輩、最近強い」
「澪が弱ってる時だけね」
「いつも強い」
朱音は一瞬だけ言葉に詰まり、それから怒ったように視線を逸らした。
「そういうこと言う余裕があるなら、寝て」
「うん」
澪は目を閉じた。
眠りに落ちる前、遠くで鈴の音がした気がした。
ちりん。
だが、今度は夢の中ではなかった。
協会支部の奥、封印箱の方角。
それに重なるように、黒布で包まれた鉤鎖が、もう一度だけ微かに震えた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな音で鳴った。
ちりん。
右腕が、自分のものではないようだった。
保健室のベッドに横たわった澪は、天井を見上げたまま、指先を動かそうとした。動く。五本とも動く。感覚もある。痛みもある。だが、右肩から先だけが、身体の表面からほんの数センチずれた場所に置かれているような気持ち悪さが残っていた。肉は繋がっている。骨も折れていない。再生は正常に働いている。それでも、腕の位置が合わない。
医療担当の職員が、魔力測定器を澪の肩に当てている。淡い緑の光が皮膚の上を走り、傷口の周囲で青く濁った。職員は眉を寄せ、結果を藤堂へ見せる。藤堂は腕を組んだまま、低く唸った。
「肉体損傷は戻ってる。問題は空膜側のずれだな」
「治療薬じゃ駄目?」
澪が聞くと、藤堂は即答した。
「駄目だ。薬で肉を治しても、位置のずれは残る。お前の身体が右腕を『ここにある』と認識している場所と、実際に魔力の通っている場所が微妙に食い違ってる」
「腕が遠い」
「言い方は変だが、たぶんそれが一番近い」
朱音がベッド脇で澪の右手を見ていた。触れたいのに、触れると悪化するのではないかと迷っているような顔だった。結局、指先にそっと触れる。澪にはその感触が、少し遅れて届いた。
「今、分かった?」
「分かった。でも、遅い」
「どれくらい?」
「半拍くらい」
朱音の顔が青くなる。
「全然大丈夫じゃないじゃん」
「動く」
「動くから大丈夫、じゃないの」
澪は少し考えた。確かに、これは大丈夫ではないのかもしれない。戦闘中に半拍遅れる腕など、敵に差し出しているようなものだ。鎖を投げるにも、短杭を打つにも、掴むにも、半拍の遅れは致命的になる。
水瀬は壁際の椅子に座り、紙の記録に線を引いていた。電子端末は必要最低限しか使っていない。昨日から、映像や端末を経由した干渉への警戒が強くなっていた。
「空間位置ずれ、という本人表示はかなり重要ですね。通常の裂傷や神経損傷ではなく、身体座標の不一致として扱われています。外部測定でも、右肩から先の魔力流路がわずかに外側へ膨らんでいます」
「戻せる?」
朱音が聞く。
「理屈の上では、本人の魔力操作で補正できるはずです。ただし、今の澪さんにやらせると、また変な方向へ適応しそうで怖いです」
「怖いならやらせないで」
「やらせない場合、ずれが固定化する可能性があります」
朱音は黙った。怒りたいが、怒る相手がいない顔だった。
久遠は保健室の入口近くに立っている。腕を組み、壁に背を預けていたが、目はずっと澪と藤堂を見ていた。昨日の救助、今日の共鳴事故、そして今の負傷。ほとんど休んでいないはずだが、疲れを表に出さない。
「藤堂。鎖は」
「封印箱に入れた。だが、完全には眠ってない。空鈴片と同じ部屋に置くのは論外だな。共鳴する。支部地下の断絶庫へ移す」
「安全か」
「普通の装備ならな。だが、あれはもう普通の鉤鎖じゃない。節をひとつ向こう側に持っていかれた。代わりに、こっちには空膜の傷が残ってる。封じるだけならできるが、あのまま放置すると、鎖の中で勝手に道が育つ」
「道?」
澪が顔を向けると、藤堂は苦い顔をした。
「お前の鎖が、向こうとこっちを覚え始めてるってことだ。良い意味でも悪い意味でもな」
良い意味。
その言葉に、澪の意識が少し引っかかった。藤堂はすぐに気づき、太い指で澪の額を軽く弾いた。
「今、良い方を考えただろ」
「少し」
「考えるな。少なくとも、今日の段階では危険物だ。武器じゃない」
「いつ武器に戻る?」
「俺が決める」
「長い?」
「お前が急かすなら長くする」
朱音が即座に頷いた。
「長くしてください」
「朱音先輩」
「だって澪、戻った瞬間使うでしょ」
「たぶん」
「ほら」
藤堂は呆れたように息を吐いたが、その目には少し別の光があった。職人の目だ。危険だと分かっている。扱いづらいとも分かっている。それでも、素材として、武器として、何かが変わり始めているのを見てしまっている。澪はその目を知っていた。前の世界の鍛冶師にも、同じ目をする者がいた。
保健室の外から、低い警報音が一度だけ鳴った。
全員が動きを止める。
久遠が扉の外へ顔を向けた。
「何だ」
廊下を走る足音が近づき、職員が保健室へ駆け込んできた。
「久遠先生、藤堂先生。封印箱を地下へ移送中、断絶庫前で反応が出ました」
藤堂の顔が険しくなる。
「鎖か」
「鎖です。空鈴片ではありません。封印箱内で微弱な鳴動。箱の外側に青白い霜のようなものが出ています」
「霜?」
「はい。ただ、温度低下ではなく、空膜結晶に近い反応です」
藤堂が工具箱を掴む。
「久遠」
「行くぞ」
二人がすぐに動こうとする。澪も起き上がろうとした。朱音の手が、迷いなく肩を押さえる。
「澪は寝てる」
「鎖」
「寝てる」
「私の」
「今は危険物」
澪は反論しようとして、右肩のずれを思い出した。身体を起こしただけで、腕の感覚が遅れる。戦える状態ではない。だが、鎖が鳴っている。自分の武器が、また呼ばれている。いや、呼んでいるのかもしれない。どちらにしても、無視するのは難しかった。
藤堂はそれを見て、眉間に皺を寄せた。
「天瀬、お前は来るな」
「でも」
「来るなと言ってる。鎖がお前に反応している以上、お前が近づくと悪化する可能性が高い」
「遠くからなら」
「遠くから見ても反応するかもしれん」
「目を閉じる」
「屁理屈を言うな」
藤堂の声は厳しかった。澪は口を閉じる。
久遠が短く言う。
「七瀬、天瀬を見ていろ。水瀬はここで状態記録。外部映像は開くな。職員からは音声だけ受けろ」
「はい」
朱音と水瀬が同時に返事をした。
久遠と藤堂が保健室を出ていく。扉が閉まる。足音が遠ざかる。澪はベッドの上で、天井を見る。何もできない。そう思うと、右肩の違和感が余計に強くなった。腕が遠い。鎖も遠い。けれど、どちらも自分に繋がっている気がする。
水瀬が音声通信を紙の記録機につないだ。電子画面は開かない。小さなスピーカーから、地下へ向かう職員たちの声が流れる。
『封印箱、断絶庫前で停止。外装に青白い結晶。鳴動は三十秒前から断続』
『周囲職員、退避完了。封印線、起動準備』
藤堂の声。
『箱を開けるな。外から押さえる。黒布を二重にしろ』
久遠の声。
『空膜反応は』
『微弱ですが増加傾向。床面に薄い青膜あり』
澪は目を閉じた。
音だけで想像する。地下断絶庫前の廊下。封印箱。青白い結晶。床面の薄い空膜。鎖は箱の中。封印布で包まれている。藤堂が外側から押さえ、久遠が封印線を張る。職員が距離を取る。
その場にいないのに、少しだけ見える気がした。
いや、見えているのではない。空間把握が、音と記憶を勝手に組み立てている。現実と想像の境目が曖昧になる。澪は目を開けた。
朱音がすぐに気づく。
「どうしたの」
「少し、見えそうだった」
「見ない」
「うん」
澪は深く息を吐く。右肩が疼いた。腕のずれが、鎖の方角へ引かれている気がする。地下。断絶庫。封印箱。自分の鎖。青白い音。
スピーカーから、鈴の音がした。
ちりん。
保健室の空気が止まる。
水瀬がすぐに紙へ書き込む。朱音が澪の手を掴む。今度は右手ではなく、左手の指先。固定具の邪魔にならない場所を選んでいる。
『鳴動確認。封印線、第一層起動』
藤堂の声が続く。
『結晶が増えてる。箱の外側からじゃない。内側で何かが削れて――』
ノイズ。
久遠が叫ぶ。
『下がれ!』
金属が割れる音がした。
澪は反射的に起き上がろうとした。朱音が全力で押さえる。右肩に激痛が走る。いや、痛みではなく、腕が一瞬どこかへ引かれた。澪は歯を食いしばる。
「澪!」
「鎖が」
「行かない!」
「行かない。けど、引かれてる」
「何が?」
「腕」
朱音の顔が変わった。
水瀬が測定器を澪の肩へ向ける。緑の針が跳ね、青く染まる。
「右肩の空間位置ずれ、増大。封印箱側の反応と同期しています。澪さんの身体が、鎖の反応に引っ張られています」
「どうすればいいの」
「遠ざけても意味がないかもしれません。繋がりが座標ではなく、装備同調側に残っています」
スピーカーから、久遠の声が流れる。
『藤堂、箱を押さえろ! 中から出るぞ!』
『無理だ、鎖じゃない! 何か噛んでやがる!』
噛んでいる。
その言葉で、澪の中に嫌な映像が浮かんだ。
箱の中、封印布に包まれた鉤鎖。その失われた節。向こう側へ持っていかれた金属片。その切断面に、何かが噛みついている。犬のような牙。空膜の奥から、こちら側の鎖を味見するように噛んでいる。
まだ番犬ではない。
だが、その気配に似た小さなものがいる。
澪はベッドの柵を握った。右腕の感覚が遅れてついてくる。痛い。気持ち悪い。だが、そのずれの中に、薄い線が見えた。自分の右肩から地下へ伸びる線。鎖へ続く線。鎖の向こう側で、何かが噛んでいる場所。
「水瀬先輩」
「はい」
「箱の中、鎖の切れた節を噛まれてる」
水瀬が一瞬だけ止まる。
「見えたんですか」
「感じた」
朱音が澪の手をさらに強く握る。
「見てない?」
「見てない。感じただけ」
水瀬はすぐに音声へ割り込んだ。
「地下班へ。澪さんから推定情報。封印箱内、鎖の欠損節付近に噛みつき型の接続あり。空膜獣、または残留片の可能性」
数秒の沈黙。
藤堂の声が返る。
『……合ってる。布越しだが、鎖の欠けた部分に牙みたいな結晶が食い込んでる』
朱音の手が冷たくなった。
久遠が言う。
『対処は』
『噛んでる部分だけを切り落とす。だが、鎖の本体を残すなら、内側から魔力を抜く必要がある』
『お前がやれ』
『この鎖、俺の魔力を弾く。天瀬に馴染みすぎてる』
藤堂の苦々しい声。
『天瀬本人がやれば早いが、連れてくるな。来た瞬間に反応が跳ねる』
保健室が静まり返る。
澪は朱音を見る。朱音は首を横に振った。まだ何も言っていないのに、全力で拒否する顔だった。
「来ないでやる」
澪が言うと、朱音の眉が寄る。
「何を?」
「魔力だけ通す」
「そんなことできるの?」
「分からない」
「分からないことを今やらないで」
水瀬が測定器を見たまま、慎重に言った。
「理論上は、装備同調が残っているなら遠隔で魔力を流せる可能性があります。ただし、澪さんの右肩のずれを経由することになる。悪化する危険があります」
「どれくらい?」
朱音が聞く。
「分かりません」
「じゃあ駄目」
「でも、何もしない場合、鎖を丸ごと破棄するか、断絶庫ごと封印することになります」
藤堂の声が通信から続いた。
『天瀬。聞こえてるか』
「聞こえてる」
『無理なら鎖は捨てる。いいな』
澪は黙った。
捨てればいい。そう考えるべきだった。武器より命が大事。朱音ならそう言う。久遠もそう言う。藤堂もたぶん本心ではそう思っている。だが、その鎖はただの武器ではない。澪が何度も生き延びるために使ってきたものだ。変異種の肉へ食い込ませ、風裂き地帯で支え、空膜裂きの足場を読み、水瀬を引き戻した。壊れても、危険でも、もう澪の戦い方の一部になっている。
それに、捨てれば終わるとは限らない。
向こう側に噛まれたまま捨てれば、その繋がりは別の形で残るかもしれない。断絶庫ごと封じても、支部の奥でずっと鳴り続けるかもしれない。
「捨てない」
澪は言った。
朱音が目を閉じた。
「言うと思った」
「ごめん」
「謝るくらいなら、ちゃんと戻って」
「ここにいる」
「今の澪、ここにいるのに遠くへ行くから嫌なの」
澪は少しだけ言葉に詰まった。
右腕が遠い。鎖も遠い。自分の一部が、少しずつ別の場所へ引かれている。それを朱音は感じているのかもしれない。
「戻る」
澪は短く言った。
「腕も、鎖も」
朱音は何か言いたげだったが、結局、澪の左手を握ったまま頷いた。
「私が呼んだら、すぐ止めて」
「うん」
「痛かったら言って」
「うん」
「変な声が聞こえたら?」
「返事しない」
「よし」
水瀬が藤堂へ通信する。
「遠隔同調を試します。澪さんの右肩から鎖へ魔力を通し、噛みつき部分の魔力だけを緩める。地下班は切断準備を」
『了解。無理なら即中止しろ』
久遠の声も入る。
『天瀬。限界を見誤るな。違和感が増えたら止めろ』
「はい」
澪はベッドの上で目を閉じた。
右肩のずれに意識を向ける。気持ち悪い。自分の腕の輪郭が、身体から半歩外側へ外れている。その外れた輪郭を辿る。痛みを避けない。遅れて届く感覚を、逆に道として使う。
肩。腕。指先。鎖を握った時の感覚。風縒り鉄の冷たさ。鉤刃の重み。短杭を打つ環の位置。節の一つひとつ。壊れた節。向こう側へ持っていかれた欠片。噛みついている牙。
あった。
鎖の切断面に、小さな顎のようなものが食い込んでいる。犬ではない。獣の形をした空膜の残り。番犬の仔、と呼ぶにはまだ曖昧な、牙だけの影。噛んで、引いて、味を覚えようとしている。
澪はそこへ魔力を流した。
押し返すのではない。引き抜く。鎖の内側に残っている自分の魔力を、牙の周囲から薄く剥がす。鎖と牙が混ざっている部分を探し、境目を作る。
境目。
その言葉が、頭の奥に沈む。
自分と鎖。鎖と空膜。こちらと向こう。肉体と位置。痛みと動き。全部が少しずつ混ざっている。混ざったままだと引かれる。なら、境目を作る。切るのではなく、分ける。
右肩が焼けるように痛んだ。
「痛い」
澪が言うと、朱音の手が強くなる。
「止める?」
「まだ」
「澪」
「まだ、大丈夫」
牙が震えた。
ちりん。
音が頭の中で鳴る。階段は見ない。影も見ない。返事もしない。ただ、鎖の中に境目を作る。噛んでいるものと、噛まれているものを分ける。
視界の奥に表示が走った。
――――――
《魔力操作》Lv7 → Lv8
――――――
澪はそれを見る余裕がほとんどなかった。痛みで呼吸が浅くなる。右腕の位置がさらに遠くなる。朱音が名前を呼ぶ。水瀬が測定値を読み上げる。通信の向こうで藤堂が何か叫ぶ。
『今だ、切る!』
金属を断つ音。
いや、金属だけではない。薄い膜と牙を一緒に断ち切る音がした。
澪の右肩から、何かが抜けた。
痛みが一瞬で軽くなる。腕の位置が戻る。完全ではないが、さっきより近い。澪は大きく息を吸い、そのまま咳き込んだ。朱音が背を支える。水瀬の測定器が小さく鳴った。
「空間位置ずれ、低下。増大止まりました。右肩の魔力流路、戻り始めています」
通信の向こうで、藤堂が荒く息を吐く。
『噛みつき結晶、切断。鎖本体は残った。……おい、久遠。床に何か落ちてる』
『触るな』
『分かってる。だが、これは……骨か?』
骨。
澪は目を開けた。
通信だけで見えない。だが、なぜか輪郭が浮かぶ。白い、小さな、曲がった骨片。牙の欠片にも見える。鎌の刃の先にも見える。空膜の青い光を薄くまとった、軽い骨。
藤堂の声が低くなる。
『封印布越しに鑑定する。……名称不明。分類、九環由来残骸。形状、骨刃片。危険度、未確定』
久遠が言う。
『保管しろ。天瀬には近づけるな』
藤堂は短く笑った。
『近づけるなって言ってもな。たぶん、向こうから来るぞ』
その言葉の意味を、澪はすぐには理解できなかった。
数秒後、保健室の空気がまた冷えた。
何もないはずの床の上に、小さな白い欠片が落ちていた。
朱音が澪を抱えるようにして身構える。水瀬が椅子を蹴って立ち上がる。職員が悲鳴を上げかけ、久遠の通信越しの声が飛んだ。
『何が起きた』
水瀬が震える声で答える。
「保健室内に、骨片が転移。澪さんのベッド脇です」
白い欠片は、床の上で静かに転がっていた。
指先ほどの大きさ。曲がった骨。刃のように薄い片側。青白い光はほとんど消えている。だが、澪には分かった。これは、さっき鎖に噛みついていたものの欠片だ。藤堂が地下で切り落としたはずのものが、なぜか澪の近くへ落ちている。
朱音が低く言う。
「触らないで」
「触らない」
「絶対」
「うん」
澪は本当に触る気はなかった。だが、目は離せなかった。
簡易鑑定が、勝手に開く。
――――――
【簡易鑑定】
名称:空骨片
分類:九環由来残骸
状態:微弱反応
備考:空膜に干渉しやすい。武器素材として利用可能。
――――――
武器素材。
その文字に、藤堂の沈黙が通信越しに伝わった気がした。
澪は床の欠片を見て、ゆっくり息を吐く。
勝ったわけではない。敵を倒したわけでもない。むしろ、噛まれ、引かれ、ずらされ、ようやく牙の欠片を切り落としただけだった。
それでも、何かを持ち帰った。
右肩の違和感はまだ残っている。だが、腕は少し近くなった。鎖も残った。骨片もある。
視界の奥に、状態表示が更新される。
――――――
【天瀬 澪】
探索者Lv:46
状態:
疲労:中
左足首裂傷:回復中
左手首負荷:中
右肩裂傷:再生中
空膜魔力侵食:小
誘導残響:小
空間位置ずれ:微弱
精神汚染:微弱
ユニークスキル:
《適応》
通常スキル:
《身体強化》Lv5
《魔力操作》Lv7 → Lv8
《魔力強化》Lv4
《魔力感知》Lv4
《格闘術》Lv5
《短剣術》Lv3
《鎖術》Lv4
《投擲》Lv3
《再生》Lv8
《状態異常耐性》Lv4
《精神汚染耐性》Lv2
《風属性耐性》Lv1
《空間把握》Lv2
《空膜耐性》NEW Lv1
――――――
その数字を見た瞬間、朱音が澪の顔を覗き込んだ。
朱音は何か言おうとして、やめた。喜ぶ場面ではない。だが、悪いことだけでもない。表情が複雑に揺れ、結局、深く息を吐く。
澪は少し考えた。
「怖い」
朱音の目がわずかに見開かれる。
澪は床の空骨片を見たまま、もう一度言った。
「でも、見たい」
「知ってる」
朱音は疲れたように笑った。
「だから、私が止める」
「うん」
「それでも行く時は?」
澪は答えなかった。
今はまだ、行かない。けれど、いつか行く。それを朱音も分かっている。だからこそ、今の問いは難しかった。
床の空骨片が、かすかに光った。
鈴の音はしなかった。
代わりに、澪の右肩の奥で、ほんの少しだけ空が揺れた。




