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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第十話 封鎖線の向こう

 朝になっても、言葉は消えなかった。


 ――待ってる。


 協会支部の保健室で目を覚ました澪は、白い天井を見ながら、まず自分の名前を思い出した。天瀬澪。探索者高校一年。探索者Lv46。左手首に固定具。腰に鉤鎖はない。藤堂に預けている。スマートフォンは朱音が持っている。第七環は封鎖中。今日は本部の聞き取りがある。


 ひとつずつ確認していくと、頭の奥に残っていた青白い光が少し薄くなった。


 夢は見た。


 青白い階段。黒い影。手招きはされなかった。ただ、階段の上にいて、澪が見上げるのを待っていた。声はなかった。けれど、文字だけが浮かんでいた。


 待ってる。


 夢の中で、澪は何も答えなかった。答えたら、何かがつながる気がしたからだ。だから黙って見ていた。見ているだけでも危なかったが、返事をするよりはましだと思った。


 隣で、朱音が眠っている。


 椅子に座ったまま、腕を組み、壁にもたれるようにして目を閉じていた。姿勢は固い。いつでも起きられるような眠り方だった。膝には制服の上着。手元には澪のスマートフォン。まるで没収品を守る見張りのようだった。


 澪が少し身体を起こすと、ベッド脇の見守り札が小さく鳴った。


 朱音の目が開いた。


「澪」


「起きた」


「起きた、じゃなくて。起き上がる前に声かけて」


「少しだけ」


「少しだけで行方不明になる人、いるから」


「私?」


「自覚あるならやめて」


 朱音は眠そうな顔のまま、澪の額、目、手首、足元を順番に確認した。最後にスマートフォンが自分の手元にあることも確認する。その動きがあまりに自然で、澪は少しだけ感心した。


「夢、見た?」


「見た」


 朱音の表情が硬くなる。


「階段?」


「うん」


「影も?」


「いた」


「何か言った?」


「待ってる」


 朱音は目を閉じ、長く息を吐いた。怒るためではなく、怖がりすぎないための呼吸だった。


「返事は?」


「してない」


 朱音の目が開く。


「本当に?」


「うん。返事したら、つながりそうだった」


 その答えに、朱音は少しだけ驚いた顔をした。それから、ほっとしたように肩の力を抜く。


「よかった。……いや、よくはないんだけど。返事しなかったのは、えらい」


「子どもみたい」


「子どもだよ。十五歳」


「探索者」


「十五歳の探索者」


 朱音はそう言って、澪の右手に紙コップを持たせた。水は冷たかった。澪はゆっくり飲む。夢の中の階段より、水の冷たさの方がはっきりしている。それだけで、少し現実が強くなる。


 扉が叩かれた。


「起きてる?」


 遥の声だった。朱音が返事をすると、遥、水瀬、凛の三人が入ってきた。遥は肩に簡易固定を巻いたまま、片手にコンビニの袋を持っている。水瀬は予備の眼鏡をかけ、いつもの端末ではなく紙のメモ帳を持っていた。凛は温かいスープのカップを二つ抱えている。


「朝ご飯。朱音が夜中に『澪にまともなものを食べさせたい』って送ってきたから」


「夜中に?」


 澪が朱音を見ると、朱音は少し気まずそうに視線を逸らした。


「起きてる時に思い出したから」


「寝てない?」


「ちょっと寝た」


「見張りみたいだった」


「見張ってたの」


 遥が袋を机に置きながら笑う。


「澪、今めちゃくちゃ有名人だよ。本人のスマホ没収されてるから知らないだろうけど」


「有名人?」


 澪が首を傾げると、水瀬がメモ帳を開いた。


「《九環》チャンネルは協会管理下で停止中ですが、昨日の映像の切り抜きがかなり出回っています。削除要請は進んでいますが、完全には消せていません」


 朱音の顔が嫌そうに歪む。


「朝からその話する?」


「本部聞き取りの前に、最低限は共有した方がいいです。本人だけ知らない状態で聞き取りに入ると、相手の質問に振り回されます」


 水瀬の声は静かだった。だが、昨日より少しだけ硬い。彼も眠れていないのだろう。予備眼鏡の奥の目元に疲れが残っている。


「今、外では三つに分かれています」


 水瀬は指を一本ずつ立てた。


「一つ目は、心配と警戒。『九環を保護しろ』『あれは配信事故ではない』という意見です。二つ目は、考察と騒ぎ。青白い階段、影、文字について、好き勝手な推測が流れています。三つ目は……便乗です」


「便乗?」


「《待ってるチャレンジ》というタグが発生しています」


 朱音が無言で顔を覆った。


 遥もさすがに笑わなかった。


「最悪ですね」


 凛が小さく言った。


 水瀬は頷く。


「はい。第一層第七環は封鎖されていますが、第一層六環近辺や、過去に澪さんが配信した場所へ行こうとする探索者が出ています。協会は注意喚起を出していますが、全員が聞くとは限りません」


 澪は紙コップを持ったまま、少し考えた。


「私のせい?」


 朱音がすぐに言った。


「違う」


「でも、私の配信」


「違う。悪いのは勝手に真似する人と、煽る人と、止めきれてない大人」


 朱音の声は強かった。けれど、水瀬は少しだけ言いにくそうに続ける。


「責任という話ではありません。ただ、影は澪さんを名指ししました。外部はそれを見ています。だから今後、澪さんの行動は、良くも悪くも他の探索者を動かします」


 それは、澪にとって少し嫌な話だった。


 自分が死ぬかもしれない場所へ行くのは、まだ分かる。自分の足で進み、自分の判断で間違え、自分の身体で代償を払う。だが、自分の配信を見た誰かが、よく分からない高揚で危ない場所へ向かうのは違う。澪はそれを望んでいない。


 凛がスープを澪へ渡す。


「食べながらでいいです。聞き取り、長くなると思うので」


「うん」


 澪はスープを飲んだ。温かい。胃が動き出す。温かいものを飲むと、少し考えがまとまりやすくなる気がした。


 朝食が終わる頃、久遠が保健室へ来た。


 昨日より顔が怖い。元から怖いが、今日は寝不足と苛立ちが上乗せされている。後ろには藤堂もいた。藤堂は工具箱を持っている。鉤鎖を直していたのだろうが、澪に渡す気配はない。


「天瀬。本部聞き取りだ。七瀬は同席。水瀬は記録補助。浅見と三枝は待機」


「私は?」


 遥が聞く。


「お前は待機だ。余計なことを言う」


「信用されてるのかされてないのか分かんないですね」


「信用しているから待機だ。必要なら呼ぶ」


「便利枠だ」


 遥は不満そうにしながらも、それ以上は食い下がらなかった。凛は澪の方を見て、少しだけ頭を下げる。


「何かあったら呼んでください」


「うん」


 澪はベッドから降りた。左足首は昨日よりましだが、痛みはある。手首は固定具のせいで動かしにくい。腰は軽い。鉤鎖がないだけで、身体の輪郭が少し違うように感じる。


 会議室へ向かう廊下は、昨日より騒がしかった。


 職員たちが走っている。封鎖線、切り抜き、観測班、問い合わせ、未成年、配信停止。そんな単語があちこちから聞こえる。澪が通ると、何人かが一瞬こちらを見る。すぐ視線を逸らす者もいれば、じっと見てくる者もいた。


 その視線の中に、敵意は少ない。


 けれど、面倒な重さはあった。


 会議室には、本部職員が三人いた。


 黒い協会制服の中年男性。異常事象調査課の柊と名乗った。若い女性職員は魔力汚染測定器を持ち、もう一人は画面越しの参加だった。画面には協会本部の紋章だけが映っている。


 澪は椅子に座る。右隣に朱音。後ろに久遠。水瀬は壁際で紙の記録を開く。電子端末は必要最低限しか使わないらしい。


 柊は最初から本題に入った。


「天瀬澪さん。昨日の大型モニターに表示された文言について確認します。表示は『待ってる』。あなたはそれを、どう受け取りましたか」


「誘い」


「命令ではなく?」


「命令じゃないです」


「理由は?」


「行かなくてもいい形をしているから。でも、行ってもいいと思わせる。だから嫌です」


 柊はペンを止め、澪を見た。


「嫌なのに、気になる?」


「はい」


「なぜ?」


「待っているものが何か知りたいから」


 朱音の指が、机の下で澪の袖を掴んだ。


 柊はその動きを見逃さなかった。


「七瀬朱音さん。あなたは天瀬さんを止める役割を?」


「役割というか、放っておけないだけです」


「なぜ?」


 朱音は少しだけ黙った。澪は隣を見る。朱音の横顔は硬い。けれど、逃げる顔ではなかった。


「澪は、危ないものを危ないと分かった上で見に行くからです。止めないと、たぶん本当に行く。でも、ただ止めるだけだと、黙って別の道を探す。だから、食べさせて、寝かせて、痛いなら言わせて、帰ってくる理由を増やすしかないんです」


 柊は頷いた。


「現実固定要因として有効ですね」


「専門用語は分かりません。でも、澪が変な方へ行きそうになったら、袖を掴むくらいはできます」


 朱音はそう言って、机の下で掴んでいる澪の袖を少しだけ引いた。


 澪は引かれるまま、姿勢を戻した。気づかないうちに、少し前のめりになっていたらしい。


 聞き取りは続いた。第七環で以前見た青白い階段。風裂き地帯で聞いた鐘のような音。空膜裂き変異個体が落ちた時に見えた黒い穴。大型モニターに映った複数の影。夢の内容。誘導残響の状態。


 澪は答えられる範囲で答えた。


 ただ、ユニークスキルについて尋ねられた時だけ、久遠が止めた。


「本人の固有技能に関する詳細開示は不要です」


 柊は顔を上げる。


「久遠先生。天瀬さんの成長速度は通常範囲を大きく外れています。今回の異常事象との関連を疑わないわけにはいきません」


「疑うのは自由です。だが、未成年探索者の固有技能を、本人の精神汚染対策より優先して掘る理由にはならない」


「本部判断が必要になります」


「正式手続きを取ってください。それまでは学校側保護情報として扱います」


 久遠の声は低く、揺れなかった。


 画面越しの本部参加者が、少し遅れて言う。


『現時点では、学校側の判断を尊重する。ただし、天瀬澪さんの単独探索、配信活動、第一層第六環以降への接近は、協会管理下に置く』


 澪は顔を上げた。


「第六環も?」


『当然です』


「五環まで?」


 朱音が呆れたように横を見る。


「澪、今そこ聞く?」


「大事」


 柊が少しだけ苦笑した。


「第一層第五環まで。監督者同伴。訓練目的に限ります」


「素材採取は?」


「禁止」


「配信は?」


「停止」


「帰還札を買うお金は?」


 会議室に一瞬、妙な沈黙が落ちた。


 柊は資料を確認する。


「協会管理により配信収益が停止しているため、最低限の探索用品と帰還札については補助が出ます」


「申請します」


「そこだけ返事が早いですね」


 朱音が小さく呟いた。


「帰還札は大事」


「うん、それは本当に大事」


 聞き取りが終わりかけた時、会議室の外が急に騒がしくなった。


 廊下を走る足音。職員の声。通信音。久遠が扉の方を見る。柊も眉をひそめた。


 次の瞬間、職員がノックもそこそこに扉を開けた。


「失礼します! 第一層第六環外縁で緊急事案です!」


 久遠の顔が変わった。


「第七環ではなく六環か」


「はい。封鎖線手前です。未許可の探索者グループが《待ってるチャレンジ》と称して六環外縁へ侵入。三名のうち二名は協会員が確保しましたが、一名が境界霧側へ逃走。その直後、配信映像が乱れました」


 朱音の手に力が入る。


 澪は動かなかった。動きそうになる前に、自分で膝に力を入れた。


 職員は続ける。


「映像に、文字が出ています」


 会議室の空気が冷える。


 柊が低く尋ねた。


「内容は」


「――九環が来るまで、待つ」


 澪の背筋に、冷たいものが走った。


 今度の言葉は、澪へ直接向けられたものではなかった。誰か別の探索者を使っている。第七環ではなく、第六環外縁。封鎖線の手前。澪が今なら行けるかもしれないと思ってしまう距離。


 朱音が澪の袖を強く掴んだ。


「澪、駄目」


「まだ何もしてない」


「顔が行く顔だった」


「……うん」


 澪は認めた。


 行く顔だった。助けに行かないと、と思った。自分の名前が出ている。自分の配信が原因で、誰かが六環外縁に入り、今、何かに捕まっている。行けるなら行くべきだと、一瞬で考えた。


 だが、その考え方そのものが、たぶん誘導だった。


 久遠が澪の前に立った。


「天瀬、お前は行かない」


「でも」


「お前が行けば、向こうの狙い通りだ」


「一人、残ってる」


「救助隊を出す。俺も行く」


 朱音が顔を上げる。


「先生が?」


「封鎖線手前なら俺で足りる。七瀬、お前は天瀬を見ていろ」


「私も――」


「駄目だ」


 久遠の声が鋭くなる。


「七瀬が動けば、天瀬も動く。お前の役目はここだ」


 朱音は悔しそうに唇を噛んだ。だが、反論はしなかった。自分が澪を止める役だと、さっき自分で言ったばかりだったからだ。


 水瀬が壁際から口を開く。


「現場映像は見ない方がいいです。特に澪さんは。文字が澪さんの行動を誘導する形になっています」


「分かっている」


 久遠は職員へ短く指示を出す。


「現場映像は封印布越し。本部へは救助隊派遣を通せ。藤堂を呼べ。六環外縁なら装備の助言がいる。浅見は支部待機だが、斥候情報だけ確認させろ。三枝には確保済み二名の聞き取り補助を」


「了解!」


 職員が走り去る。


 会議室に残された澪は、椅子の上で拳を握った。左手首が痛む。固定具の下で、腱が熱を持つ。武器はない。行けない。行くべきではない。分かっている。


 それでも、胸の奥がざわつく。


 九環が来るまで、待つ。


 自分の名前で、誰かが待たされている。


「澪」


 朱音の声がした。


「見ない。行かない。返事しない」


 澪はその三つを聞いて、ゆっくり頷いた。


「見ない。行かない。返事しない」


「もう一回」


「見ない。行かない。返事しない」


 言葉にすると、少しだけ足が重くなった。動かないための重さだった。悪くない。


 久遠は会議室を出る直前、澪を見た。


「天瀬。助ける方法は、現場に行くことだけじゃない」


「何をすればいいですか」


「思い出せ。お前が見た階段、影、空膜裂きの動き。今回の文字と似ている点、違う点。水瀬に話せ。救助隊へ渡す」


 澪は顔を上げた。


 行くな、だけではなかった。


 ここでできることがある。


「はい」


 久遠は頷き、部屋を出ていった。


 朱音はまだ澪の袖を掴んでいる。水瀬が紙のメモ帳を開き直した。柊も表情を変え、調査官ではなく現場職員の顔になっている。


「天瀬さん。話してください。今回の文言は、昨日の『待ってる』と同じものだと思いますか」


 澪は目を閉じた。


 青白い階段。影。待ってる。第六環外縁。九環が来るまで、待つ。


 同じではない。


 昨日の言葉は、澪を直接呼んでいた。待っている、とだけ言っていた。こちらの意思に触れる形だった。


 今回の言葉は、少し違う。


「焦らせてる」


 澪は言った。


「昨日のは、急がせてなかった。でも今回は、私を焦らせてる。誰かを人質みたいにしてる」


 水瀬がすぐに書き取る。


「対象の行動誘導が直接的になっている?」


「うん。でも、たぶん本体じゃない」


「理由は?」


「昨日より雑。言葉が人間っぽい。昨日の影は、もっと静かだった」


 柊が眉を上げる。


「人間っぽい方が雑、ですか」


「はい」


 澪は目を開けた。


「たぶん、昨日の影そのものじゃない。空膜裂きの残りか、映像を見た人の反応を使ってる。私が助けに行くと思って、そういう言葉にした」


 朱音が低く言う。


「つまり、澪の性格を少し読んでる」


「うん」


「最悪」


 水瀬は紙に線を引きながら言った。


「救助対象の周辺に、空膜系残留反応があるか確認すべきですね。文字は影本体ではなく、残留片か、昨日の接続に引き寄せられた副次現象の可能性がある」


 柊がすぐに通信をつなぐ。


「現場救助隊へ共有。空膜系残留反応、映像誘導、対象を餌にした行動誘導の可能性。配信映像は直接視認禁止。救助対象の名前を呼ぶ際は、九環という語を使わないこと」


 澪は拳を少し緩めた。


 行かなくても、情報は渡せる。


 それが役に立つかもしれない。


 会議室の外で、支部が一気に動き始める音がした。救助隊の装備確認。藤堂の怒鳴り声。遥が「私も見るだけならできるって!」と言い、久遠に一言で黙らされる声。凛が確保された二人の学生らしき探索者へ水を渡す声。


 現場には行けない。


 でも、現場は動いている。


 澪は水瀬の質問に答え続けた。空膜裂き変異個体の攻撃前の魔力の膨らみ。青白い階段の周囲にあった鐘のような音。影が手招きしなかったこと。文字が画面ではなく、こちらの視線の奥に残る感覚。


 話している間、朱音はずっと袖を離さなかった。


 やがて、通信が入った。


『こちら救助隊。対象を発見。意識混濁あり。空膜残留片、三。封鎖布で視界遮断。回収に入る』


 会議室の全員が息を止める。


 続いて、藤堂の声が混じった。


『足元を見るな! 青い膜は踏ませるな、迂回しろ! 久遠、右だ!』


 金属音。


 風を裂くような音。


 久遠の低い声。


『残留片を落とす。対象を引け』


 短い沈黙。


 そして、通信が戻る。


『対象、回収。救助隊、撤退する』


 朱音の手から少しだけ力が抜けた。


 澪も息を吐いた。自分が息を止めていたことに、その時気づいた。


 だが、終わりではなかった。


 通信の向こうで、救助隊員の一人が叫んだ。


『待ってください、地面に文字が――』


 久遠の声が即座に飛ぶ。


『見るな!』


 ノイズ。


 柊が立ち上がる。


「音声を切れ!」


 水瀬が紙のメモ帳を閉じる。朱音が澪の耳を塞ごうとする。だが、その前に通信から小さな声が漏れた。


 それは救助対象の声でも、隊員の声でもなかった。


 近くも遠くもない、薄い声。


『まだ、待てるよ』


 通信が切断された。


 会議室は、痛いほど静かになった。


 澪は自分の膝を見ていた。袖を掴む朱音の手が震えている。水瀬のペン先が紙の上で止まっている。柊の顔から血の気が引いていた。


 まだ、待てるよ。


 さっきの声は、昨日の影そのものだったのか。残留片が真似たのか。分からない。だが、ひとつだけはっきりしている。


 待つ、という言葉は、もう優しい形ではなかった。


 距離を測っている。


 こちらがどこまで耐えられるか、確かめている。


 澪はゆっくりと息を吸った。


「見ない。行かない。返事しない」


 朱音が隣で、同じ言葉を繰り返す。


「見ない。行かない。返事しない」


 今度は、凛も遥もいない。久遠も現場にいる。藤堂も通信の向こうだ。会議室にいるのは、澪と朱音と水瀬と本部職員だけ。


 それでも、言葉は効いた。


 澪の足は動かなかった。


 数分後、救助隊は全員帰還した。


 未許可探索者三名は命に別状なし。ただし、逃走していた一名は、青白い階段の夢を見たと証言した。現場には空膜裂きの残留片が三体。いずれも久遠たちが処理した。第七環封鎖線はさらに拡大され、第一層六環外縁も一時閉鎖となった。


 澪は会議室から出ることを許されなかった。


 ただ、久遠が戻ってきた時、彼の袖には青白い傷跡が増えていた。藤堂は工具箱を床に置き、疲れた顔で澪を見た。


「行かなくて正解だ」


 それだけ言った。


 澪は頷いた。


 行かなくてよかった。

 だが、何もできなかったわけではない。


 それが少しだけ、救いだった。


 その日の夕方、協会本部は正式に通達を出した。


 第一層第六環外縁から第七環風裂き地帯にかけて、広域封鎖。

 《九環》関連映像の無断拡散禁止。

 《待ってる》関連の模倣配信、挑発行為、封鎖線接近を厳罰対象とする。


 だが、噂はもう広がっていた。


 掲示板の片隅で、誰かが書き込む。


『九環が行かないと、あれずっと待ってるのか?』


 別の誰かが返す。


『行かせるな。あれは呼んでるんじゃない。試してる』


 さらに別の書き込み。


『でも、救助された奴、言ってたらしいぞ』


『何を?』


『階段の上の影、九環が来ないって分かったら笑ったって』


 澪は、その書き込みをまだ知らない。


 スマートフォンは朱音の手の中にあり、鉤鎖は藤堂の作業台の上にある。第七環への道は閉じられ、六環外縁さえ封鎖された。


 それでも、澪は分かっていた。


 封鎖線は、道を閉じるものだ。


 けれど、向こうから伸びてくるものを完全に止めるものではない。


 夜、保健室へ戻る途中、澪は窓の外を見た。支部の外には普通の街灯が並んでいる。空は暗く、雲の隙間に星が少しだけ見えた。


 星。


 第五層の映像を思い出し、澪はすぐに視線を落とした。


 朱音が隣で聞く。


「大丈夫?」


「うん」


「何考えた?」


「星は、あまり見ない方がいいかも」


「今日はね」


「うん。今日は」


 朱音はそれ以上聞かなかった。


 保健室のベッドに戻ると、見守り札がまた淡く光った。澪は横になり、右手で布団を引き上げる。左手首はまだ痛い。足首も少し疼く。身体は重い。けれど、眠れないほどではない。


 目を閉じる前に、澪は小さく呟いた。


「まだ、行かない」


 朱音が隣の椅子から答える。


「うん」


「でも、いつか行く」


「……それは、今は聞かなかったことにする」


「うん」


 澪は目を閉じた。

 夢の中に、青白い階段は出てこなかった。


 代わりに、遠くで鐘の音が鳴っていた。

 一度だけ。

 澄んでいて、冷たい音だった。






 翌朝、澪は学校へ連れていかれた。


 自分の足で歩いているのに、連れていかれた、という感覚の方が近かった。右には朱音。少し後ろには久遠。協会支部から探索者高校へ向かう車の中でも、澪のスマートフォンは朱音の鞄の中にあり、鉤鎖は藤堂の作業台の上にあった。左手首には固定具。足首には薄い補助包帯。寝不足の頭の奥には、まだ昨夜の鐘の音がひとつ、冷たく残っている。


 夢の中で階段は出なかった。


 それはいいことのはずだった。けれど、代わりに鐘が鳴った。一度だけ。遠く、澄んで、冷たい音。第一層第七環で聞いた鐘に似ている。空膜裂きの裂け目の奥で感じた気配にも、少し似ていた。澪は目を覚ました後、その音を朱音に報告した。朱音は三秒ほど黙り、それから「報告してくれてえらい」と言った。褒め方が完全に子ども相手だったので、澪は少し不満だったが、報告したこと自体は間違っていなかったらしい。


 探索者高校の校門前には、いつもより人が多かった。


 生徒ではない。協会職員と、警備担当の教員。校門脇には小型の魔力測定器が置かれ、登校する生徒たちの端末にも、昨日の封鎖通達が改めて送られている。第一層第六環外縁および第七環への接近禁止。《九環》関連映像の無断拡散禁止。《待ってる》を模倣した配信、挑発行為、封鎖線接近の禁止。


 澪が校門をくぐると、視線が集まった。


 昨日までの視線とは違う。噂の中心を見る目。危ないものに触れた人間を見る目。心配もある。好奇心もある。少しの恐怖もある。澪はそのどれも正面から受け止めるのが面倒で、朱音の半歩後ろを歩いた。


「隠れてる?」


 朱音が前を向いたまま言った。


「少し」


「珍しい」


「見られるの、面倒」


「それはまともな反応」


「まとも?」


「うん。今の澪、ちょっとまとも」


 褒められているのか分からなかった。澪が首を傾げると、朱音は少しだけ笑った。


「嫌なものを嫌って思えるのは大事ってこと」


「朱音先輩、昨日からそればっかり」


「何回でも言うよ。怖い、嫌だ、面倒、疲れた。そういうのをちゃんと言える方がいいの」


「眠い」


「それも大事。でも授業は出る」


「厳しい」


「出席日数、本当に危ないから」


 朱音がいつもの調子で言ったので、少しだけ周囲の空気が軽くなった。久遠は後ろで黙っている。だが、彼の視線はずっと周囲を見ていた。澪ではなく、澪を見ている生徒たち、掲示板の通知を開いている端末、校舎の窓、廊下の奥。いつもの教師の顔ではなく、現場の探索者の顔だった。


 教室に入ると、ざわめきが少し止まった。


 凛が席から立ちかけ、すぐに座り直す。どう声をかけるか迷ったのだろう。水瀬は教室の後方で端末ではなく紙のノートを開いている。遥は机に頬杖をつき、澪を見ると片手を上げた。


「おはよ、有名人」


「有名人、嫌」


「だよね。じゃあ、不運な人?」


「それも嫌」


「じゃあ、澪」


「うん」


 遥の雑な会話に、凛が少しだけ笑った。クラスの空気も、ほんの少し戻る。けれど、完全には戻らない。澪が席につくと、近くの生徒が何か言いたげにこちらを見て、結局何も言わずに前を向いた。


 久遠が教壇に立った。


 その瞬間、教室の空気が変わった。いつもの実技説明や注意喚起ではない。久遠の顔が、本気で怖かったからだ。


「昨日の映像を見た者は、正直に手を挙げろ」


 沈黙。


 それから、教室のあちこちで手が上がった。少なくない。半分近い。凛も迷いながら手を上げた。彼女は支部側の記録担当だったから、見たというより見えてしまったのだろう。水瀬も手を上げる。遥も、朱音も。澪は少し考えて、右手を上げた。


 久遠はそれを見渡し、低く言った。


「今、手を挙げなかった者の中にも、切り抜きや文字だけを見た者がいるはずだ。後で個別に申告しろ。怒るためじゃない。精神汚染と誘導反応の確認だ」


 何人かの生徒が気まずそうに目を伏せた。


「昨日の件を、配信事故だと思うな。怪談でもない。祭りでもない。流行りのタグでもない。ダンジョン内の異常が、探索者の端末、配信、好奇心、罪悪感を使って、こちら側に触ってきた事案だ」


 教室の中が静まり返る。


「《待ってる》という言葉は、優しい言葉に見える。命令ではない。脅迫でもない。だから危険だ。来いと言われれば拒める。殺すと言われれば逃げられる。だが、待っていると言われると、人間は自分から理由を探し始める。行く理由、助ける理由、確かめる理由だ」


 澪は机の上で右手を軽く握った。


 昨日、まさにそうだった。第六環外縁に取り残された探索者。自分の名前が出た文字。九環が来るまで、待つ。あれを聞いた瞬間、澪は行く理由を組み立てかけた。助けに行くべきだと思った。実際、救助は必要だった。だが、澪が行く必要はなかった。


 久遠の視線が一瞬だけ澪へ向いた。


「探索者に必要なのは勇気だけじゃない。行かない判断、見ない判断、返事をしない判断も必要だ。特に昨日の件に関しては、好奇心で近づいた時点で負けに近い」


 久遠は黒板に大きく書いた。


 視認禁止

 応答禁止

 単独判断禁止


「これを覚えろ。第一層第六環外縁から第七環は、当面封鎖だ。違反者は探索停止。学生なら停学。配信目的なら協会登録停止もあり得る。軽い気持ちで触れるな。昨日、未許可で六環へ入った三人は命こそ助かったが、ひとりはまだ夢に階段を見ると言っている」


 凛が小さく肩を震わせた。


 澪はそれを見た。凛の顔色は悪い。昨日、確保された二人の聞き取り補助に入ったのだ。たぶん、怖い話を直接聞いたのだろう。


 授業というより、緊急講義だった。


 久遠はさらに、Lv50の存在進化についても触れた。予定されていた実技説明を繰り上げた形だった。探索者はLv50で一次存在進化を迎える。進化候補は多種多様で、何になるかは本人の性質と言われている。武器、技能、戦闘スタイル、精神性と噛み合わない進化は、むしろ弱体化につながる。


 その説明の間、クラスの何人かが澪を見た。


 澪はLv46。存在進化目前だ。しかも、今まさにダンジョン側の異常に名指しされている。誰かがそれを関連づけたとしても、無理はなかった。


 久遠はそれも見越していたのだろう。


「存在進化前の探索者は、不安定だ。身体も技能も、次の形を探し始める。だから、強い異常に触れるな。進化先を歪められる可能性がある」


 教室がざわついた。


 澪も顔を上げた。


 進化先を歪められる。


 その言葉は、澪にとって新しかった。Lv50の存在進化は、自分の積み重ねから候補が出る。そう聞いていた。だが、今この時期に青白い階段や影や空膜異常へ触れすぎれば、その候補に何かが混じるのかもしれない。


 朱音が後ろの席から、小さく澪の椅子を蹴った。


 振り返るなという意味ではない。聞いてるよね、という確認だった。澪は振り返らず、机の下で右手を少しだけ上げた。聞いている、の合図。朱音はそれで納得したのか、それ以上は蹴ってこなかった。


 講義が終わる頃には、教室の空気は重くなっていた。けれど、必要な重さだった。


 休み時間になると、凛が澪の席に来た。


「あの、澪さん」


「うん」


「昨日、確保された人の一人が、澪さんに謝りたいって言ってました」


 朱音の顔がすぐに険しくなる。


「会わせるの?」


「久遠先生の許可があれば、短時間だけって。本人はまだ隔離観察中なので、直接ではなく、支部の遮蔽室越しです」


 澪は少し考えた。


「会う」


「澪」


 朱音が止める。


「謝るだけなら、聞く」


「謝るだけで済まないかもしれない」


「朱音先輩も一緒」


「それは当然」


 朱音はため息をついた。駄目と言いたいが、完全に止める理由もないのだろう。未許可で侵入したのは相手が悪い。けれど、澪の配信と名前が絡んでいるのも事実だ。澪が会わないままでいると、たぶん余計に考え込む。


 昼前、澪たちは協会支部の遮蔽室へ向かった。


 学校から支部までは近い。協会職員の車で移動し、久遠と朱音が同席した。遥も来たがったが、久遠に「待機」と言われて机に突っ伏していた。水瀬は記録担当として同行し、凛は昨日の聞き取り補助をした関係で一緒に来た。


 遮蔽室は、厚い硝子と封印布で仕切られた部屋だった。


 向こう側に、少年が座っている。年齢は澪たちより少し上。十八か十九くらいだろう。探索者ライセンスを持っているが、学生ではないらしい。顔色は悪く、目の下に濃い隈がある。両手は膝の上で固く握られていた。首元には精神汚染測定用の護符。足首にも、何かを封じるための細い札が巻かれている。


 少年は澪を見ると、椅子から立ち上がろうとした。だが、職員に止められ、座り直す。


『すみませんでした』


 遮蔽室越しの音声は、少し遅れて聞こえた。


『俺、いや、僕……その、配信で見て。軽い気持ちで。六環なら第七環じゃないし、封鎖線の手前なら大丈夫だと思って』


 朱音が低く呟いた。


「一番危ない考え方」


 少年には聞こえていない。澪は黙って見ていた。


『コメントで、誰かが言ったんです。九環が見た場所、封鎖される前に近くまで行けたら伸びるって。俺、配信始めたばかりで、全然人いなくて。昨日、九環の切り抜きがすごく伸びてて。だから、少しだけならって』


 少年はそこで言葉を詰まらせた。


『馬鹿でした』


 それは本当にそうだった。だが、澪は何も言わなかった。


『六環外縁に入って、最初は何もなかったんです。普通の空膜の揺れだけで。でも、途中で鈴が鳴って』


 澪の指が少し動いた。


 水瀬がすぐにメモを取る。久遠も目を細めた。


『小さい音でした。ちりん、って。配信のコメントにも聞こえたって流れて。俺たち、音の方へ行った。そしたら、地面に青い欠片が落ちてました。硝子みたいで、鈴みたいな形で……拾ったわけじゃないんです。ただ、見ただけで』


 少年は自分の足首に巻かれた札を見た。


『気づいたら、靴底にくっついてた』


 凛が小さく息を呑む。


『そこから、道が分からなくなりました。来た方向が違って見えて、友達の声が遠くなって、配信画面に文字が出ました。九環が来るまで、待つって。俺、何でか、それを見て安心したんです。九環が来るなら大丈夫だって。会ったこともないのに』


 朱音の手が、澪の袖を掴む。


『でも、途中で思ったんです。これ、俺を助けるためじゃないなって。俺を待たせてるんじゃなくて、俺を使って誰かを呼んでるんだって。そう思ったら、急に怖くなって……そこからは、よく覚えてません』


 少年は深く頭を下げた。


『すみません。あなたのせいにするつもりはないです。俺が馬鹿でした。でも、もし本当に来てたら、たぶん俺、喜んでたと思います。助けが来たって。そう思うのも、怖いです』


 遮蔽硝子のこちら側で、誰もすぐには喋らなかった。


 澪は少年を見ていた。怒りはあまりなかった。呆れはある。馬鹿だとも思う。だが、それ以上に、嫌な寒さがあった。


 九環が来るなら大丈夫。


 その考えは、危ない。


 澪は強いかもしれない。未進化としては異例かもしれない。だが、何でもできるわけではない。昨日、澪が行っていたら、少年を助けられたとは限らない。むしろ、向こうの望み通りになっていた可能性が高い。


 澪はマイクの前に立った。


「助かってよかった」


 少年が顔を上げる。


「でも、次は行かないで」


『はい』


「私も行かない」


 少年の表情が少し歪んだ。安心したような、申し訳なさそうな顔だった。


『はい』


「待ってるって言われても、待たせていい」


 少年はその言葉を聞いて、目を閉じた。しばらくしてから、小さく頷く。


『待たせて、いい』


 声が震えていた。


 遮蔽室での面会は、それだけで終わった。長く話すのは危険だと久遠が判断したからだ。少年は再び職員に付き添われて奥の検査室へ戻っていく。足首の札が、歩くたびにかすかに青く光っていた。


 藤堂はその足首を見て、顔をしかめた。


「やっぱり残ってるな」


「何が?」


 澪が聞くと、藤堂は別室を指した。


「お前にも見せる。ただし、直接見るな。布越しだ」


 支部の素材封印室には、問題の欠片が置かれていた。


 透明な封印箱の中に、さらに薄い布で包まれた小さなものがある。布越しなので形ははっきり見えない。ただ、輪郭は鈴に似ていた。指先ほどの大きさ。硝子の破片のようでもあり、小さな空の雫が固まったもののようでもある。


 澪が部屋に入った瞬間、それは鳴った。


 ちりん。


 耳で聞いた音ではない。けれど、全員が反応した。朱音が肩を跳ねさせ、水瀬が目を細め、凛が口元を押さえる。久遠はすぐに澪の前へ半歩出た。


 藤堂が封印箱の外側に札を一枚追加する。


「やっぱり天瀬に反応する」


「私だけ?」


「いや、全員に聞こえた。だが鳴ったのは、お前が入った瞬間だ」


 澪は布越しの欠片を見る。見すぎないように、焦点を少しずらした。


 視界の奥で、簡易鑑定が反応した。


 ――――――

 【簡易鑑定】


 名称:不明

 通称候補:空鈴片

 分類:空膜系残留物 / 呼応片

 危険度:B+〜A

 状態:封印中

 備考:視認・聴取制限推奨

 ――――――


「空鈴片」


 澪が呟くと、藤堂が片眉を上げた。


「鑑定に出たか」


「通称候補」


「こっちの仮称と同じだな。まあ、形が鈴だからな」


 水瀬が封印箱を直接見ないようにしながら聞く。


「呼応片、というのは?」


「本体じゃない。欠片だ。だが、ただの残留物でもない。特定の相手や条件に反応して鳴る。鳴ると、空膜の薄い場所を呼びやすくなる」


「つまり、目印?」


「目印であり、呼び鈴だな」


 呼び鈴。


 その言葉が、澪の中に重く落ちた。


 待っている相手が、鈴を落とした。誰かに踏ませ、持ち帰らせ、澪の近くで鳴らす。直接来いとは言わない。急がせない。けれど、少しずつこちら側へ鈴を置く。


「届け物ですね」


 水瀬が静かに言った。


「救助対象は、本命ではなく運搬役にされた可能性が高い」


 朱音が唇を噛む。


「最悪」


 藤堂は封印箱の札を確認しながら、さらに言った。


「こいつ自体は、今すぐ爆発するようなもんじゃない。だが、同じものが増えるとまずい。複数の鈴片が共鳴すれば、薄い空膜を引っ張る。最悪、支部内や学校内で小さな裂け目が開く」


 凛の顔が青ざめた。


「学校内で……?」


「可能性の話だ。だから今、支部中の持ち込み品を検査してる。昨日現場に出た救助隊の靴底、装備、帰還布、全部だ」


 澪は封印箱を見ていた。


 ちりん、とまた音がした。


 今度は全員が動かなかった。藤堂の札が効いているのか、音はすぐに消える。だが、澪には一瞬だけ、青白い階段の端が見えた気がした。封印箱の中ではない。視界の奥。夢の残りのような場所。


 朱音が澪の袖を引く。


「見すぎ」


「うん」


 澪は視線を外した。


 藤堂は封印箱を黒い布で完全に覆う。


「今日はここまでだ。天瀬、これ以上近づくな」


「分かった」


「素直だな」


「近づくと鳴る」


「分かってるならいい」


 その時だった。


 封印室の外で、別の音が鳴った。


 ちりん。


 封印箱ではない。


 全員が振り返る。


 藤堂の顔から、表情が消えた。


「……作業台だ」


 澪の胸の奥が冷える。


 作業台。


 そこにあるのは、澪の《風縒り鉤鎖》だった。


 藤堂が扉を開け、廊下へ飛び出す。久遠が続く。朱音は澪をその場に残そうとして、しかし澪が一歩も動かないことを確認してから、袖を掴んだまま一緒に進んだ。


 装備整備室の扉は閉まっていた。


 中から、また音がした。


 ちりん。


 澪の鉤鎖が、作業台の上で震えていた。


 鎖の節のひとつ、風縒り鉄を組み込んだ部分が、淡く青白く光っている。鈴片はそこにはない。封印箱の中にある。なのに、鎖が鳴っている。


 藤堂が低く呻いた。


「共鳴してやがる」


 水瀬が息を呑む。


「風縒り鉄が、呼応媒体になっている……?」


 澪は自分の鎖を見た。


 武器。


 自分の手に馴染み始めたもの。何度も命をつないだもの。昨日、水瀬を引いたもの。藤堂が直してくれていたもの。


 それが今、向こう側の鈴と同じ音で鳴っている。


 ちりん。


 三度目の音がした時、鎖の影がほんの少しだけ伸びた。


 青白い影だった。


 久遠が即座に言った。


「全員、下がれ」


 藤堂が封印工具を掴む。


「天瀬、絶対に触るな」


 澪は頷いた。


 触りたいとは思わなかった。


 ただ、鎖の音を聞いた瞬間、ひどくはっきりと分かった。


 向こうは、澪だけを待っているのではない。


 澪が進むためのものを、ひとつずつ覚え始めている。


 鎖がもう一度、微かに鳴った。


 ちりん。


 その音は、昨日夢で聞いた鐘よりも、ずっと近かった。





<Tips>

探索者は、レベル上昇によって肉体と魂の性質が少しずつダンジョンに適応していく。


その大きな節目が、存在進化である。


存在進化は、探索者が好きな種族を選ぶものではない。

エルフになりたいからエルフになる、竜人になりたいから竜人になる、ということはできない。


進化先は、その探索者の性質によって自動的に決定される。


本人の戦い方。

使ってきた武器。

鍛えた技能。

受けてきた傷。

恐怖への向き合い方。

何を求めてダンジョンへ潜ったか。

何を守り、何を捨て、何を繰り返してきたか。


そうした積み重ねが、存在進化の形になる。


そのため、存在進化は祝福であると同時に、探索者にとって最初の大きな試練でもある。

Lv50 一次存在進化

Lv100 二次存在進化

Lv150以降 理論上の領域。第三進化の噂はあるが、公式確認例はほとんどない。


一次存在進化は、探索者が人間の枠から一歩外れる段階。

多くの上位探索者が経験するが、誰にとっても安全なものではない。


二次存在進化は、世界上位探索者の領域。

この段階になると、種族的な性質がさらに濃くなり、人間としての原型から大きく離れる者もいる。


三次存在進化は、存在そのものが伝説に近い。

協会の公式資料では、確定した進化段階としては扱われていない。



一次存在進化は、Lv50に到達した探索者に発生する。


この時、探索者は自分の性質に応じた種族系統へ進化する。


ただし、これらは本人が選べる候補ではない。

協会の鑑定上、進化前に複数の「傾向」が見えることはあるが、それは選択肢ではなく、進化先がまだ確定しきっていない揺らぎにすぎない。


最終的にどの種族系統へ進化するかは、本人の積み重ねによって自動的に決まる。


剣士を名乗っていた者が、実際には敵を避け続けてきた結果、影系や逃走特化の種族へ進化することがある。

仲間を守るために戦ってきた者が、盾や甲殻を持つ重装種へ進化することがある。

美しい魔法使いに憧れていた者が、毒や寄生に適応した昆虫系へ進化することもある。

強大な竜人になりたかった者が、地味な鉱人系へ進化することもある。


進化は願望を叶えるものではない。

その探索者の実態を暴くものに近い。

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