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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第一章

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第九話 まってる

 ――まってる


 協会支部の大型モニターに浮かんだ文字は、ほんの数秒で消えた。


 それでも、その場にいた誰もすぐには動けなかった。警報音だけが鳴り続けている。負傷者の搬送が終わった安全区域の空気は、さっきまでの喧騒から切り離されたように冷えきっていた。青白い階段。いくつもの影。最初にこちらを見た人型の影。そして、澪の配信名を名指しした文字。


 九環。


 それは、澪が自分でつけた名前だった。第一層第九環《空葬原》へ行くための、ただの配信名。けれど今、その名は画面の向こうから呼ばれた。協会の回線でも、観測網でも、端末の不具合でもない何かが、澪の名前を知っていた。


 朱音の指が、澪の腕に食い込んでいる。痛い。だが、澪は振りほどかなかった。痛みがある方が、今は現実に戻りやすかった。


「全員、モニターを見るな!」


 久遠の声が支部内に響いた。


 職員たちがはっとして動き出す。大型モニターに遮断布がかけられ、さらに封印札が重ねられる。水瀬が自分の端末から支部端末へ接続し、物理回線の切断状況を確認していた。凛は職員の補助に入り、震える手で緊急記録のコピーを取っている。遥は床に座り込んだまま、まだ短剣を手放していなかった。


 澪は黒く覆われたモニターを見ていた。正確には、もう何も映っていないはずの布の向こうを見ていた。


「天瀬」


 久遠が目の前に立った。


「はい」


「今、どれくらい行きたい」


 変な質問だった。だが、必要な質問だと分かった。澪は少し考える。自分の中にある衝動を、量として測る。第七環へ行きたい。青白い階段を見たい。あの影が何なのか知りたい。変異個体がどこへ落ちたのか確認したい。だが、今すぐ走り出さなければならないほどではない。朱音に掴まれているからかもしれない。凛が泣きそうな顔をしているからかもしれない。あるいは、久遠が目の前にいるからかもしれない。


「五くらい」


「十段階でか」


「はい」


「普段のお前なら?」


「七」


 朱音がぎょっとして澪を見た。


「普段の方が高いの?」


「見たいだけなら、普段の方が強い。今は、変な感じが混じってる」


「変な感じ?」


「行けば分かる、って思わされる感じ」


 久遠の顔がさらに険しくなった。怒っているというより、何かを確信した顔だった。


「精神誘導だ。水瀬、記録」


「はい。対象名指し、視覚接触、誘導衝動。音声なし。文字表示あり」


 水瀬は淡々と復唱する。いつもの冷静さに見えるが、眼鏡の奥の目は疲れていた。彼もさっき、裂け目の刃に潰されかけたばかりだ。肩掛け鞄の金具は曲がり、肩紐は半分切れている。それでも、水瀬は記録を止めない。


 久遠は澪へ一歩近づいた。


「天瀬。今日からしばらく、第七環への単独探索を禁じる」


「しばらく?」


「期間未定だ」


「長い」


「当たり前だ。お前は今、名指しで呼ばれた。第一層第七環の未登録空間反応から、協会支部の大型モニターに向けてだ。普通なら隔離観察だぞ」


「普通なら?」


「俺がいるから、保健室で済ませる」


 それはたぶん、かなり譲歩された処置なのだろう。澪にも分かった。朱音はようやく少し息を吐き、掴んでいた手を緩めた。だが離しはしなかった。


「私も行きます」


「七瀬は治療を受けろ」


「受けます。澪の横で」


「邪魔になる」


「なりません」


「なる」


「なってもいます」


 久遠が黙った。朱音も黙らない。普段なら、教師にここまで強く出る人ではない。だが今の朱音は、澪の腕を掴んだまま引く気がなかった。


 遥が床から片手を上げた。


「先生、私も保健室行きたいです。普通に足が笑ってるので」


「浅見、お前は行け」


「水瀬くんも眼鏡割れてるし、行った方がいいと思います」


「僕は記録を――」


「あなたも行きなさい」


 凛が言った。


 水瀬が少し驚いたように振り向く。凛は自分で言ってから一瞬怯えた顔をしたが、すぐに唇を結んだ。


「記録は私が続けます。水瀬先輩は、今、手が震えてます」


 水瀬の指が止まった。


 確かに、震えていた。本人も気づいていなかったのかもしれない。端末を持つ指が、細かく揺れている。さっきまで平気な顔をしていたのに、身体はもう限界を訴えていた。


 水瀬は眼鏡の位置を直そうとして、割れていることを思い出したように手を止めた。


「……では、記録の仮保存だけお願いします。上書きせず、複製で。時刻同期は支部端末優先。映像干渉部分は触らないでください」


「はい」


「あと、僕の鞄の金具は、澪さんに壊されました」


「ごめん」


「命の値段としては安いです」


 水瀬はそう言って、小さく息を吐いた。


 保健室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。協会支部の内部は慌ただしい。封鎖指示、退避勧告、記録保全、協会本部への報告。職員たちの声が重なり、その合間に、何度も《九環》という言葉が聞こえた。澪が通ると、視線が集まる。好奇心ではない。警戒と心配と、少しの恐怖が混じった視線。


 澪はあまり気にしていないつもりだった。だが、朱音の手がずっと腕にあるので、自分が一人ではないことだけは分かった。


 保健室に入ると、消毒液と薬草の匂いがした。探索者高校の保健室より設備が多い。簡易ベッドが並び、魔力汚染を測る装置や、傷口の再生状態を見るための淡い光を放つ器具が壁際に置かれている。藤堂教諭が先に来ていた。白衣の袖をまくり、澪の《風縒り鉤鎖》を手に取って、鎖の節を一つずつ確認している。


「おう、帰ってきたか。鎖もお前も、だいぶ無茶した顔してるな」


「藤堂先生」


「まず座れ。武器は後で説教する。今は身体の方が先だ」


 澪はベッドの端に座った。朱音も隣に椅子を引き寄せる。遥は隣のベッドへ倒れ込むように腰を下ろし、水瀬は処置台の前で眼鏡を外した。片方のレンズに細い亀裂が入っている。


 藤堂は鎖を置き、澪の手首を見る。


「腱が熱持ってる。出力を上げすぎたな」


「水瀬先輩を引いた」


「見りゃ分かる。助けるなとは言わん。だが、この鎖はまだ三割運用のつもりで組んでる。お前、たぶん五割近く引いたぞ」


「戻りが速かった」


「だから言っただろ。こいつは敵を引く武器で、お前の腕を壊す武器にもなる」


 藤堂の声はきついが、手つきは丁寧だった。澪の手首に固定具を巻き、魔力の通りを確かめる。朱音が横から覗き込んだ。


「手首、どれくらい悪いですか」


「今日明日は使わせるな。探索も駄目。訓練も駄目。箸くらいなら持てる」


「箸は持てるんですね」


「飯は食わせろってことだ」


「任せてください」


「朱音先輩、任せるの早い」


「今の澪に任せたら、ゼリーだけ飲んで寝るから」


「楽」


「楽じゃない」


 朱音は本気で怒っていた。澪は少しだけ口を閉じる。藤堂はそのやり取りを見て、低く笑った。


「天瀬、お前、自分で思ってるより周りに心配かけてるぞ」


「知ってます」


「知っててこれか」


「減らす努力はしてます」


「なら今日は増やすな。大人しく検査受けろ」


 澪は頷き、視界の奥に表示を開いた。保健室の検査と、自分の状態表示を照らし合わせる。


 ――――――

 【天瀬 澪】


 探索者Lv:46


 状態:

 疲労:中

 左足首裂傷:再負荷

 手首負荷:中

 脇腹裂傷:回復中

 魔力消耗:中

 空膜魔力付着:軽微

 精神汚染:微弱

 誘導残響:微弱


 ユニークスキル:

 《適応》


 通常スキル:

 《身体強化》Lv5

 《魔力操作》Lv7

 《魔力強化》Lv4

 《魔力感知》Lv4

 《格闘術》Lv5

 《短剣術》Lv3

 《鎖術》Lv4

 《投擲》Lv3

 《再生》Lv8

 《状態異常耐性》Lv4

 《精神汚染耐性》Lv2

 《風属性耐性》Lv1

 《空間把握》Lv1

 ――――――


 誘導残響。


 見慣れない言葉だった。精神汚染とは別に表示されている。あの影に呼ばれた影響だろうか。強さは微弱。だが、残っている。


「誘導残響、微弱」


 澪が言うと、保健室の空気が少し固くなった。久遠は入口近くで腕を組んでいたが、その目だけが鋭くなる。水瀬はすぐに端末へ入力した。


「本人表示に誘導残響。精神汚染とは別枠ですね」


「澪、それ、どんな感じ?」


 朱音が聞く。


「青白い階段を思い出しやすい。あと、第七環って言葉を聞くと、少し足が前に出そうになる」


「今も?」


「少し」


 朱音が椅子ごと澪に近づいた。


「じゃあ、今日は第七環って言葉禁止」


「今言った」


「私のは最後。ここから禁止」


「風裂き地帯は?」


「それも禁止」


「青白い階段」


「もっと禁止」


 遥が隣のベッドで笑いかけて、脇腹を押さえた。


「痛っ……。でも朱音、それ全部言っちゃってる」


「うるさい。遥も寝て」


「はいはい」


 軽いやり取りが挟まったことで、少しだけ空気が戻った。けれど久遠の表情は変わらない。彼は澪の前に来ると、低い声で言った。


「天瀬。今から話すことは、脅しじゃない。事実だ」


「はい」


「ダンジョンには、強い者を呼ぶ場所がある。好奇心を餌にする場所もある。戦える奴ほど、知りたい奴ほど、深く進む。そして帰ってこない」


 久遠は少しだけ視線を落とした。どこか遠いものを見ているようだった。


「昔、第五層に遠征隊が入った。世界トップ級の六パーティー、三十人だ。剣聖もいた。盾王も、聖女も、星読みもいた。今の俺なんかとは比較にならない探索者たちだ」


 澪は久遠を見上げた。


 第五層。


 星を喰む廃園。


 協会の資料では、ほとんど詳しいことが書かれていない。第五層は危険。未開拓。世界上位以外進入禁止。そんな薄い言葉だけが並んでいる。けれど久遠の口から出た「三十人」という数は、妙に重かった。


「負けたんですか」


「負けた」


 久遠は短く言った。


「第六層には届いていない。第五層の浅い場所で壊滅した。生還者はいたが、探索者として戻った者はいない」


 朱音が息を飲む。遥も起き上がりかけ、水瀬は入力の手を止めた。藤堂も黙っていた。知っている話なのだろう。だが、何度聞いても軽くはならない話だった。


「何に負けたんですか」


 澪が聞くと、久遠は少しだけ眉を寄せた。


「それが分からない。魔物だけじゃない。罠だけでもない。第五層そのものに削られた。記憶、技能、帰還座標、仲間の認識。強い探索者ほど、あの層では星として目立つ。そして、第五層は星を喰う」


 星を喰う。


 綺麗な言葉なのに、胃の奥が冷えた。


「剣聖は、生きて戻った。ただし、右腕を失い、剣技の一部を忘れた。本人はこう言ったそうだ。俺は庭の枝を一本斬っただけだった。庭そのものは、こちらを見てもいなかった」


 誰も喋らなかった。


 澪はその言葉を頭の中で転がす。庭の枝。庭そのもの。強い敵を倒す話ではない。敵に認識されてすらいないのに、人類最高峰が壊されたという話だ。


「今日、お前を呼んだものが第五層級だとは言わない。だが、性質は近い。こちらの好奇心に触り、名前を呼び、来いと言った。こういう誘いに乗った探索者は、だいたい死ぬ」


「だいたい」


「ほとんど、だ」


 久遠は澪の目を見た。


「お前は強くなる。たぶんな。成長速度も、判断も、普通の学生ではない。だが、今のお前はまだLv46だ。存在進化もしていない。身体はよく戻るが、記憶を喰われたらどうする。戦い方を忘れたらどうする。帰る約束を忘れたらどうする」


 澪は朱音を見た。


 朱音は何も言わなかった。けれど、手はまだ澪の腕にある。掴む力は少し緩んでいるが、離れていない。凛も入口のところで立っている。目が赤い。たぶん、さっき本当に泣きかけたのだろう。


 帰る約束。


 それを忘れるのは、たぶん良くない。


「忘れたくないです」


 澪は言った。


 久遠の表情が、わずかに変わった。


「なら、今は行くな」


「はい」


 今度の返事は、さっきより早かった。


 朱音が小さく息を吐く。遥が「よかった」と呟き、水瀬がまた記録を再開した。藤堂は澪の鉤鎖を持ち上げ、傷んだ節を指で弾いた。


「武器も今日は預かる。いいな」


「駄目です」


「駄目ですじゃない。お前、鎖があると行くだろ」


「行かない」


「行かない奴は、武器預けても困らん」


 澪は少し黙った。


 理屈としては正しかった。鎖があると安心する。安心すると行けると思う。行けると思うと、青白い階段のことを考えてしまう。


「……預けます」


「よし」


 藤堂は満足そうに頷いた。朱音がなぜか勝ったような顔をする。


「澪、偉い」


「武器取られた」


「預けただけ」


「取られたのと似てる」


「似てない」


 凛が小さく笑った。その笑い声はすぐに引っ込んだが、少しだけ保健室の空気が柔らかくなる。


 その時、支部の職員が保健室へ駆け込んできた。顔色が悪い。


「久遠先生。本部から緊急通達です」


「読め」


「第一層第七環、風裂き地帯周辺を完全封鎖。第四環境界門も当面閉鎖。配信者《九環》に関する記録は本部預かり。外部流出映像は削除要請中。ただし、すでに切り抜きが複数拡散しています」


 久遠が舌打ちした。


「早すぎる」


「ネットでは、例の文字が広まっています。『九環』『まってる』の二つが検索上昇中です」


 朱音が頭を抱えた。


「最悪……」


 遥はベッドの上で端末を見ようとして、朱音に睨まれてそっと伏せた。水瀬は無言で自分の端末を操作するが、封印札が貼られているせいで画面は黒いままだった。


 澪は自分のスマートフォンを探した。ない。さっき朱音が回収していた。


「朱音先輩」


「駄目」


「まだ何も言ってない」


「端末見たいんでしょ。駄目」


「コメントだけ」


「もっと駄目」


「自分の配信」


「今日は配信者じゃなくて患者」


 朱音はきっぱり言った。澪は少しだけ不満だったが、反論しなかった。確かに、自分でコメント欄を見たら、たぶん余計にあの影のことを考える。


 久遠は職員へ指示を出す。


「本部には、天瀬を保護観察下に置くと伝えろ。尋問が必要なら明日以降だ。今日は治療と汚染検査を優先する。あと、七瀬にも同席を許可する」


「よろしいんですか」


「天瀬を一番止められるのは七瀬だ」


 朱音は少し驚いた顔をした。


「……先生、今の褒めてます?」


「事実だ」


「それ、褒めてます?」


「調子に乗るな」


「はい」


 朱音は少しだけ笑った。久遠はそれを無視して、澪へ視線を戻す。


「天瀬。明日、協会本部の聞き取りがある。お前が見たもの、感じたもの、全部話せ。ただし、ユニークスキルの詳細は言うな」


「はい」


「それと、第五層遠征の資料を一部見せる」


 澪は瞬きをした。


「いいんですか」


「本来は駄目だ。だが、お前はたぶん、止めろと言うだけでは止まらない。なら、何に近づいているのか先に見せた方がいい」


 朱音が不安そうに久遠を見る。


「先生、それ見せて大丈夫なんですか。澪、余計に行きたくなったりしません?」


「なるかもしれん」


「じゃあ駄目じゃないですか」


「知らないまま行くよりはましだ」


 朱音は言い返せなかった。澪も黙っていた。たぶん、久遠は澪のことをかなり正確に見ている。止められただけでは、いつか理由をつけて向かう。ならば、どれだけ恐ろしい場所なのか、どれだけ人が壊れてきたのか、見せた方がいい。


 怖いと思うことは、悪いことではない。


 前の世界でも、恐怖を失った者から死んだ。


「見ます」


 澪が言うと、朱音が眉を寄せた。


「澪」


「見て、怖かったら、ちゃんと怖がる」


「本当に?」


「たぶん」


「そのたぶんが信用できないって、何回言わせるの」


「じゃあ、努力する」


 朱音は困ったように息を吐いたあと、澪の腕を軽く叩いた。


「じゃあ、私も一緒に見る」


「七瀬」


 久遠が止めようとしたが、朱音は先に言った。


「澪だけに見せたら、澪だけで考えます。澪だけで考えると、だいたい危ない方に行きます。だったら私も見ます」


 遥が隣から手を上げる。


「先生、私も見たいです。というか、澪の監視係が朱音だけだと朱音が倒れます」


 水瀬も静かに続けた。


「僕も記録係として必要かと。三枝さんも、後方記録者として関係します」


 凛は目を丸くした。


「わ、私もですか?」


「嫌ならやめていい」


 久遠が言うと、凛は少し迷った後、小さく首を横に振った。


「見ます。怖いと思いますけど、知らない方がもっと怖いので」


 久遠は全員を見回し、深く息を吐いた。


「……分かった。許可が下りる範囲だけだ。見せるのは記録の一部。第五層の映像は長く見るな。あれは古い記録でも残る」


「映像にも汚染が?」


 水瀬が聞く。


「ある。弱いがな。だから本来は、学生に見せるものじゃない」


「それを見せるくらい、今の状況がまずいということですね」


「そういうことだ」


 澪は自分の手を見る。手首には固定具。指は動くが、いつものように鎖を握る感覚はない。武器は藤堂に預けた。第七環には行けない。配信端末もスマートフォンも見られない。できることは、待つことと、知ることだけ。


 待つのは苦手だった。


 だが、知らずに進むよりはいい。


 保健室の外では、まだ警報が鳴っている。協会支部の人々が走る足音。遠くで誰かが《九環》の名前を呼ぶ声。封鎖指示のアナウンス。全部が混じって、現実の音になっていた。


 澪は目を閉じた。


 青白い階段が浮かぶ。


 影が手を上げる。


 ――まってる。


 その言葉を思い出すと、胸の奥に小さな疼きが生まれる。行きたい。見たい。知りたい。けれど、その疼きの上に、朱音の手の感触が重なった。凛の泣きそうな顔。水瀬の震える指。遥の疲れた笑い。久遠の低い声。藤堂が預かった鎖の重さ。


 澪はゆっくり息を吐く。


「ひとりでは、行かない」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 だが、朱音がすぐに答えた。


「うん。絶対ね」


 澪は目を開け、頷いた。


 協会支部の保健室で検査を終えた後も、澪はその文字を何度も思い出していた。


 青白い階段。ぼやけた人影。画面越しにこちらを見ていた影。


 待ってる。


 誰が。どこで。何のために。


 分からない。分からないから、見たいと思う。見たいと思うから、危ない。澪は自分の中にあるその動きを、少し離れた場所から眺めるようにしていた。自分の好奇心と、外から混ぜられた誘導の境目が曖昧になっている。完全に自分の意思ではない、と言い切るには、元から自分がそういうものを見に行きたがる人間すぎた。


「澪」


 隣から朱音が呼んだ。


 澪は顔を上げる。協会支部の奥、封印記録閲覧室へ続く廊下は、普段の学校や支部とは少し空気が違った。壁には遮音と遮光の札が埋め込まれ、床には魔力の流れを逃がすための細い銀線が走っている。窓はない。廊下の先にある重い扉だけが、淡い灰色の光を帯びていた。


「今、考えてたでしょ」


「うん」


「第七環のこと?」


「階段のこと」


「同じ」


「少し違う」


「そういう違いを大事にし始めると危ないの」


 朱音はそう言いながら、澪の左手首に巻かれた固定具を見た。藤堂に武器を預けたせいで、澪の腰にはいつもの鉤鎖がない。軽い。動きやすいはずなのに、どこか落ち着かない。朱音はそのことにも気づいているのだろう。澪が無意識に腰へ手を伸ばすたび、朱音の視線が少しだけ厳しくなる。


「待ってる、って言われたからって、待たせておけばいいからね」


「待たせる」


「何年でも待たせる」


「何年は長い」


「長くていいの。向こうが勝手に待ってるんだから」


 朱音の言い方が少し乱暴で、澪は小さく頷いた。そういう考え方もあるのか、と思った。待っている相手がいるなら、急がなくていい。急いで行く必要はない。待っていると言ったのは向こうだ。なら、こちらが準備を終えるまで待たせればいい。


 廊下の前方で、久遠が扉の前に立っていた。藤堂もいる。遥は肩に簡易固定を巻かれ、水瀬は予備の眼鏡をかけている。凛は少し緊張した顔で記録端末を抱えていた。


「全員、もう一度確認する」


 久遠が低く言った。


「これから見るのは、第五層《星を喰む廃園》の記録映像だ。再生時間は三十七秒。古い映像だが、汚染が完全に消えているわけではない。直接見続けるな。気分が悪くなったら即座に目を逸らせ。音声にも注意しろ。聞こえた言葉が日本語に聞こえても、意味を追うな」


 凛の喉が小さく鳴った。遥が隣で軽く肩を叩く。


「大丈夫。怖くなったら私の方見ていいよ。私も怖かったら朱音見るから」


「そこで私なの?」


「朱音は怖い時ほど顔が真面目になるから、見てると落ち着く」


「褒めてる?」


「たぶん」


「澪みたいな返事しないで」


 わずかな笑いが生まれた。だが、すぐに消えた。扉の向こうから漏れる灰色の光が、全員の顔を薄く照らしている。


 久遠は澪を見た。


「天瀬。お前は特に、見すぎるな。興味を持った場所ほど目を逸らせ」


「難しい」


「難しくてもやれ」


「はい」


 藤堂が腕を組んだまま言う。


「映像の中で武器が壊れても、構造を追うな。素材が見えても考えるな。第五層の記録は、興味を入口にして入り込んでくる。職人にも探索者にも、研究者にも効く」


「藤堂先生も見たことあるんですか」


「ある。三秒で吐いた」


 藤堂は平然と言った。


「だから今日は、俺は画面を見ない。お前らの反応を見る。情けないと思うか?」


「いいえ」


「よし。怖がれる奴は長生きする」


 久遠が扉に手を当てた。封印札が一枚ずつ剥がれ、低い音を立てて扉が開く。


 閲覧室は、思ったより狭かった。


 中央に机。正面に大きな黒い画面。その前に、観測用の薄い布が何枚も吊られている。直接画面を見るのではなく、幾層もの遮蔽布を通して映像を見る構造らしい。椅子は八脚。壁際には魔力汚染を測る装置があり、小さな針が静かに揺れている。


 澪は朱音の隣に座った。朱音は当然のように澪の右側を取る。左手首は固定具がある。右側に朱音がいれば、澪が立とうとした時にすぐ止められる。そういう位置取りだった。


 水瀬は記録端末を机に置き、凛はその隣に座る。遥は椅子の背に片肘をかけ、けれど足はいつでも動けるように床へ置いていた。久遠は立ったまま。藤堂は画面に背を向け、全員の表情が見える位置に立つ。


「再生する」


 久遠が言った。


 画面が点いた。


 最初は黒だった。


 次に、白い点がいくつも浮かんだ。星のようだった。だが、澪はすぐに違うと分かった。あれは空にあるのではない。地面から伸びた細い蔓の先に、星の形をした実が成っている。夜空を逆さまにして庭に植えたような光景だった。


 映像は揺れている。撮影者は走っているらしい。息が荒い。誰かの声が入る。


『第二班、応答しろ!』


 ノイズ。


『帰還陣、位置が違う! さっきまでここに――』


 声が途切れ、代わりに金属が軋む音がした。


 画面の端を、巨大な盾が横切った。盾の表面には星光がこびりつき、塗装のように見えた。だが、その光は少しずつ盾の内側へ沈んでいる。盾を持つ男の腕が震えていた。大柄な探索者。おそらく盾役。だが、彼の顔は画面に映った瞬間、白くぼやけた。


 凛が小さく息を呑む。


「顔が……」


「追うな」


 久遠が即座に言った。


 澪も見ないようにした。顔がぼやけたのではない。記録から顔という情報だけが抜け落ちている。誰だったのか。どんな表情だったのか。映像がそれを保持できていない。


 次の瞬間、画面の中央に剣が走った。


 速い。


 澪は思わず息を止めた。斬撃そのものは見えない。見えたのは、星の蔓が切り払われる瞬間と、切られた空間が一拍遅れて開く様子だけだった。剣を振るった男は、背中しか映っていない。白銀に近い髪。右手に長剣。全身に細かい傷。だが立ち姿は崩れていない。


 先代剣聖。


 名前は表示されない。声もない。だが、画面の中で彼だけが、まだ人の形を保っていた。


『剣聖、後退を!』


 誰かが叫ぶ。


 剣聖は答えなかった。代わりに、もう一度剣を振るう。星光をまとった獣の群れが、横一文字に裂けた。獣は鹿にも狼にも鳥にも見えた。形が定まらない。死骸になった瞬間、体内から細い光が噴き出し、周囲の空気へ溶けていく。


 水瀬が小さく呟く。


「死骸から汚染が拡散している……倒すほど悪化するのか」


「記録するな。今は見るだけだ」


「はい」


 水瀬は端末へ伸ばしかけた手を止めた。


 映像の奥で、何かが歩いていた。


 庭師。


 そう呼ばれていた存在。


 人の形に近い。だが、輪郭が一定しない。長い鋏を持っているようにも見える。枝切り鋏にも、槍にも、腕そのものにも見える。頭部は黒い。顔はない。鹿の角のような枝が生えているが、それも星の蔓が絡んでいるだけかもしれない。


 庭師は走らない。


 ただ歩く。


 歩くたびに、遠征隊の進路が変わる。右にあったはずの道が左に移る。帰還陣の光が薄くなり、星の蔓に巻き取られる。誰かが叫び、別の誰かが自分の名前を繰り返している。


『私は――私は、第三班、浄化担当――名前、名前は――』


 朱音が目を逸らした。


 澪も少し遅れて視線を落とす。声だけが耳に残る。名前を失う声。自分を確認しようとして、できなくなっていく声。


 怖い、と思った。


 肉が裂けるより、骨が折れるより、ずっと嫌だった。


 自分の名前が分からなくなる。武器の握り方を忘れる。帰る理由が消える。そうなったら、自分はまだ自分なのだろうか。前の世界からこの世界へ来て、名前も身体も変わった。それでも澪は、どうにか自分でいられた。だが、第五層が喰うのは、たぶんそこだ。


 自分でいられる芯を、少しずつ抜いていく。


「澪」


 朱音の声がした。


「見すぎ」


「うん」


 澪は頷き、画面の下を見る。遮蔽布越しでも、星光が瞼の裏に残る。


 映像の中で、剣聖が庭師へ踏み込んだ。


 その一歩だけで、空気が変わった。背後にいた探索者たちが下がる。誰かが帰還陣を再起動する。盾役が倒れた仲間を引きずる。聖女らしき女性が、両手を合わせて白い光を広げる。だが、その白い光も端から星色に染まっていく。


 剣聖の剣が、庭師の腕を斬った。


 確かに斬った。


 黒い腕が宙を舞う。澪にも見えた。斬撃は届いていた。剣士としての技量も、速度も、判断も、何も間違っていない。人間が振るう剣としては、ほとんど完成形に近いと感じた。


 だが、落ちた腕は地面につく前に蔓になった。


 蔓は星の実をつけ、そこから新しい鋏が生えた。


 庭師は立ち止まることすらしない。


 次の瞬間、剣聖の右腕が消えた。


 切られたのか、喰われたのか、映像では分からなかった。ただ、剣が回転しながら宙を舞い、星の草むらへ落ちる。剣聖は左手で傷口を押さえなかった。右腕を失ったまま、左足で剣を蹴り上げ、左手で掴む。


 遥が息を呑んだ。


「化け物……」


 それが剣聖のことなのか、庭師のことなのか、誰も聞かなかった。


 剣聖は左手で剣を振った。


 不完全な斬撃。だが、それでも星獣の群れを裂き、撤退路を一瞬だけ開いた。


『今だ! 戻れ!』


 誰かが叫ぶ。


『剣聖!』


『戻れって言ってるだろうが!』


 剣聖の声が初めて入った。


 怒鳴っている。けれど、その声には恐怖も焦りもあった。人類最高峰と呼ばれる者が、必死に怒鳴っていた。仲間を逃がすために。自分の腕を失っても、剣技を削られ始めても、まだ前に立っていた。


 庭師が、初めて剣聖の方を向いた。


 顔はない。


 だが、見られた、と澪は思った。


 その瞬間、映像が白く焼けた。


 音が消える。


 星の光だけが残る。


 最後に、剣聖の声が小さく入った。


『……庭じゃねえ。胃袋だ、ここは』


 映像はそこで終わった。


 閲覧室に暗闇が戻る。


 誰もすぐには喋らなかった。


 澪は自分の手を見ていた。指はある。名前も分かる。天瀬澪。朱音が隣にいる。久遠が前にいる。藤堂が背後にいる。遥、水瀬、凛。ここは協会支部。第五層ではない。


 確認しないと、少しだけ心もとなかった。


「天瀬」


 久遠が言った。


「感想は」


 澪はゆっくり息を吸った。言葉を選ぶ。強い。怖い。綺麗。嫌だ。見たい。見たくない。いくつもの感情が混じっている。


「剣聖は、強かったです」


「ああ」


「でも、相手は戦ってなかった」


 久遠の目が細くなる。


「そう見えたか」


「はい。庭師は、剣聖と戦っていたんじゃなくて、庭の手入れをしていました。邪魔な枝を切るみたいに、進路を変えて、帰還陣を消して、強い人から削ってた」


 藤堂が小さく息を吐いた。


「嫌な見方するな」


「そう見えました」


「合ってる。たぶんな」


 水瀬は額に汗を浮かべていた。記録端末には何も入力していない。手を置いたまま、じっと画面を見ないようにしている。


「第五層は、戦闘の勝敗以前に、探索条件そのものを破壊するんですね。帰還、認識、隊列、技能、名前。冒険者として成立する前提を崩してくる」


「そうだ」


 久遠が頷く。


「だから世界トップが負けた。弱かったからじゃない。戦いに持ち込む前に、探索そのものを壊された」


 朱音はずっと黙っていた。膝の上で握った拳が白くなっている。澪がそれを見ると、朱音は気づいて少しだけ手を開いた。


「澪」


「うん」


「行きたい?」


 真っ直ぐな質問だった。


 遥が朱音を見る。凛も顔を上げる。久遠は止めなかった。


 澪は答えるのに時間をかけた。


 第五層へ行きたいか。いつかは見たい。星を喰む廃園。世界トップ三十人が壊滅した場所。剣聖が腕と剣技を失った庭。怖い。だが、見たい気持ちはある。


 ただ、今すぐではない。


 今の澪が行けば、たぶん何もできずに喰われる。再生は肉を戻せる。傷も塞がる。けれど名前を喰われた時、自分がどうなるか分からない。帰る約束を忘れたら、朱音の声も届かない。


「今は、行きたくない」


 朱音の肩から力が抜けた。


「今は?」


「将来は、分からない」


「そこは嘘でも行かないって言ってほしい」


「嘘は駄目」


「知ってる」


 朱音は困ったように笑った。けれど、その目は少し赤かった。


「でも、今は行きたくないって言えたから、今日はそれでいい」


「うん」


 凛が小さく手を上げた。


「あの、私は……第五層も怖いですけど、さっきの『待ってる』の方が怖いです」


 全員の視線が凛に向いた。凛は怯んだが、言葉を続ける。


「第五層の映像は、怖いって分かりました。でも、さっきの影は、優しそうに見えたんです。命令じゃなくて、待ってるって言うのが……澪さんが行きたくなる言い方に見えて、それが嫌です」


 朱音が静かに頷いた。


「私も、それが嫌」


 遥も頬を掻いた。


「ひとりで来い、なら怒れるんだけどね。待ってる、はずるいよ。なんか、こっちが行かないと悪いみたいになる」


「悪くない」


 澪は言った。


 自分に言い聞かせるような声になった。


「待ってるって言ったのは、向こう。だから、待たせていい」


 朱音が澪を見た。


 久遠も、藤堂も、少しだけ表情を変えた。


 それは、さっき朱音が廊下で言った言葉だった。澪はそれを覚えていた。覚えて、使った。自分の中に残る誘導に対して、外からもらった言葉を重ねる。


 待ってるなら、待たせればいい。


 今は行かない。


 ひとりでも行かない。


 澪はその二つを、心の奥で何度か繰り返した。


 閲覧室の汚染測定器が、小さく鳴った。藤堂が針を確認する。


「軽微。許容範囲だ。ただ、今日はこれ以上は見るな」


 久遠が頷いた。


「全員、退出。天瀬はこの後、保健室へ戻る。七瀬も一緒でいい。水瀬、三枝、記録は明日まとめろ。浅見、お前は寝ろ」


「私だけ雑じゃないですか」


「一番顔色が悪い」


「え、嘘」


「本当です」


 水瀬が言うと、遥は少しだけ不満そうに口を尖らせた。


 閲覧室を出る時、澪は一度だけ黒い画面を振り返った。


 もう何も映っていない。


 星の庭も、剣聖も、庭師もいない。


 それでも、画面の奥に何かが残っているような気がした。第五層の映像ではない。第一層第七環の青白い階段でもない。もっと曖昧な、境界の向こうからの視線。


 待ってる。


 澪はその言葉を思い出し、今度は小さく首を横に振った。


「まだ」


 声に出すつもりはなかった。


 けれど朱音が聞いていた。


「うん。まだ」


 朱音はそう答えた。


 その夜、澪の配信チャンネル《九環》は、協会の緊急管理対象になった。


 外部に流出した映像は削除され続けたが、完全には消えなかった。青白い階段。黒い人影。最後に浮かんだ文字。


 ――まってる。


 その短い言葉は、切り抜きと噂の中でひとり歩きし始めた。


 掲示板では、誰かが書き込んでいた。


『九環って、何に待たれてるんだ?』


 別の誰かが答えた。


『知らん。でも、あれは人間を待つ目じゃなかった』


 さらに次の書き込みが続く。


『違う。あれ、九環だけを待ってた』


 澪はその書き込みを、まだ知らない。


 スマートフォンは朱音に没収され、鉤鎖は藤堂に預けられ、保健室のベッドには協会の見守り札が貼られている。


 だから澪は、その夜、久しぶりに何も持たずに眠った。


 夢の中で、青白い階段が見えた。


 階段の上に、影がいる。


 影は手招きしない。


 ただ、そこに立っている。


 澪が見上げると、影は声のない声で言った。


 ――待ってる。


 澪は夢の中で答えた。


「待ってて」


 影が、少しだけ笑った気がした。



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