第十四話 月殻蜃② 討伐
西の崖へ向かう道は、澪の知っている道と少し違っていた。
黒い石畳の継ぎ目が増えている。昔はなかった低い灯籠が、道の曲がり角に立っている。骨飾りの形も違う。澪が眠る前には空き地だった場所に、小さな布屋ができていた。閉じた戸の隙間から、灰青の子供が白い顔を覗かせている。
知らない。
でも、知っている。
夜湯の匂いが薄く流れている。星砂を踏む音が背中から追いかけてくる。遠くでラウ婆の割れた鈴が鳴る。二十年分の星祭郷は、澪の中にない。けれど、その間ずっと自分の名を呼んでいた声だけが、胸の奥に残っていた。
黒い猫は前を走っていた。
二本の尾を低く伸ばし、時々振り返る。澪が遅れると尾の先で空気を叩く。急げ、と言っているようだった。金の目は道を見て、夜の目は空の星鯨を見ている。
空では、星がまた一つ消えた。
星鯨の影が村を覆う。鳴き声は聞こえないのに、黒石の道が小さく震える。澪の耳の内側で星灯りが揺れた。体が覚えたばかりの立ち方を、少しだけ忘れかける。マシロの襟元が首に触れ、メイの鎌が手の中で鳴った。
「大丈夫」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
西の崖に着くと、白い階段が出ていた。
二十年前と同じ、貝殻の内側のような階段。だが、縁には月色の霧が厚く絡んでいる。ところどころに、星祭郷の者が打ち込んだ鉄杭や星鈴が残っていた。月殻浜に近づかないための印。何度も補修され、何度も霧に舐められた跡がある。
澪は足を止めた。
黒い猫が階段の一段目に立ち、振り返る。
「ここで、寝た」
澪が言う。
猫は鳴かない。
「二十年」
猫の尾が揺れる。
「長い」
黒い猫は、短く鳴いた。
澪は頷き、階段を下りた。
月殻浜は、変わっていなかった。
白い貝殻の干潟。浅い水。空にない月をいくつも映す水面。遠くの貝殻塔。淡い霧。二十年が星祭郷の家並みを変え、子供を大人にし、ラウ婆の鈴を割っても、この浜だけは眠る前と同じ顔をしていた。
それが、気持ち悪かった。
変わらないことが、優しさの形をしている。
「嫌い」
澪は鎌を構えた。
浜の中央で、月色の大きな殻が開いた。
《月殻蜃》
本人にしか見えない名前が浮かぶ。二十年前と同じ。半透明の殻。中に浮かぶ真珠。霧の中に映る景色。七瀬家に似た部屋。星祭郷の茶屋。澪が眠っていた小部屋。ラウ婆の鈴。ノアの手。ルルカの傷。メイの鎖。マシロの白い布。黒い猫の二本の尾。
今度は、知らない景色まで混じっていた。
二十年分の小部屋だ。
澪が見ていなかった時間を、月殻蜃は覚えている。ノアが窓枠を拭く姿。ルルカが狩りの前に声をかける姿。茶屋の娘が夜湯の湯気を運ぶ姿。ラウ婆が毎朝、割れた鈴を鳴らす姿。黒い猫が白い欠片をくわえ、澪の胸元へ置き、また持っていく姿。
澪の手が少し止まった。
覚えていないのに、胸が痛い。
月殻蜃の真珠に、眠る澪が映る。穏やかだった。傷もない。痛みもない。二十年、そこには戦いがなかった。白い服は汚れず、尻尾は布団の中で丸まり、メイは手首に鎖を巻き、マシロは布団を整え、黒い猫は窓枠にいた。
それは、それで幸せに見えた。
「違う」
澪は鎌を振った。
青白い斬撃が霧を裂く。月殻蜃の殻に当たり、薄い破片が散った。破片は水面へ落ちる前に霧へ変わり、また殻へ戻る。前と同じ。けれど、完全には同じではない。斬った場所に、細い傷が残った。
澪の胸元で、マシロが白く光っている。
月殻浜から黒い猫が持ち帰った白い欠片。二十年の間、戻らなかったもの。それが星鯨の鳴き声でようやく澪の中へ沈んだ。月殻蜃の殻に残る傷と、澪の胸の奥に戻った欠片が、同じ痛みで繋がっている。
「通る」
メイが鳴った。
鎌の刃に、月色の細い線が浮かぶ。水光、銀線、青火、霞。その奥に、二十年前につけた月殻の傷跡が淡く光った。澪は踏み込む。浅い水が足首で跳ね、尻尾が体勢を取る。
月殻蜃の霧が広がった。
痛みはない。
やはり、ない。
代わりに、体が軽くなる。鎌を握る必要が薄くなる。走らなくてもいい、戦わなくてもいい、戻らなくてもいい。白い部屋で眠っていれば、誰かが呼んでくれる。夜湯の匂いがする。猫がいる。メイがいる。マシロがいる。なら、それでいいのではないか。
霧が囁く。
澪は足を止めかけた。
黒い猫が、澪の尻尾に噛みついた。
「いたい」
澪は即座に鎌を振った。
月色の霧が裂ける。真珠の表面にひびが走った。猫はすぐ離れ、澪の足元を走る。二本の尾で霧を払いながら、殻の裏へ回ろうとしている。
猫は、二十年この霧を見てきた。
近づけば眠くなる。見れば楽になる。考えるほど足が止まる。だから猫は考えすぎない。白いのを守る。白い欠片を守る。冷たい刃の近くで寝る。白い布に怒られる。割れた鈴を聞く。小さい者が大きくなるのを見る。白いのが起きないのを見る。待つ。
待った。
待ったから、今は噛む。
黒い猫は月殻蜃の殻へ飛びかかった。爪は深く通らない。霧に滑る。それでも、二本の尾が殻の縁に絡み、ほんの少しだけ動きを止めた。
澪はその隙に近づいた。
真珠が景色を変える。
今度は、朱音がいた。
七瀬家に似た台所。ポニーテールの背中。皿の上の卵焼き。結衣が笑っている。澪の知らない、けれど知っているはずの場所。声が聞こえた。
澪。
優しい声。
帰ってきたね、と言っている。
澪の足が止まる。
月殻蜃は、二十年前より上手くなっている。星祭郷の二十年を覚え、澪の中に戻った欠片を覗き、地上の名前と村の声を混ぜてくる。どちらかを選べと言っているのではない。もう選ばなくていい、と言ってくる。
ここが帰る場所。
あそこも帰る場所。
だから眠っていれば、どちらも失わない。
澪は、朱音の背中を見た。
次に、茶屋の小部屋を見た。
ノアが掃除している。ルルカが狩りの傷を見せる。ラウ婆が鈴を鳴らす。黒い猫が欠片を置く。二十年、澪が知らなかったもの。失っていたもの。
「覚えてない」
澪は言った。
真珠の中の景色が揺れる。
「でも、なくさない」
鎌を握る。
「帰る。戻る。助ける。寝ない」
言葉は短い。
それで十分だった。
メイの鎖が真珠へ走る。月殻蜃の霧が鎖を包む。白い部屋が絡みつく。眠りの匂いがする。鎖が鈍る。そこでマシロの白い布が澪の腕を締め、手首の角度を固定した。澪が握り方を忘れても、手が外れないように。
澪は鎌を大剣へ変えた。
青白い大剣が月殻浜に現れる。刃の縁に水光が走り、銀線が真珠のひびへ伸び、青火が霧を焼き、霞の淡い光が幻を散らす。月色の傷跡が、刃の中心で細く開いた。
澪は大剣を振り下ろした。
浜が沈んだ。
白い貝殻の干潟が半円状に砕け、浅い水に映っていた無数の月がまとめて割れる。月殻蜃の外殻に大剣が食い込み、半透明の殻が大きく歪んだ。二十年前は戻った。今度も戻ろうとする。破片が霧になり、元の形へ戻ろうと集まる。
だが、傷跡が閉じない。
澪の胸に戻った白い欠片が、同じ傷を内側から引っ張っている。
月殻蜃が震えた。
真珠から細い白い糸が伸びる。二十年前、澪の芯を抜いた糸。今度も額へ向かってくる。痛みはない。触れられれば、また眠るかもしれない。戻る意志が抜かれるかもしれない。
黒い猫が飛んだ。
糸に噛みつく。
猫の体が霧に包まれる。二本の尾が月色に染まり、金の目が一瞬だけ暗くなる。猫は、それでも離さない。噛んだ糸を引きちぎろうと、足を水面に突っ張る。
「猫」
澪は大剣を捨てるようにほどき、鎌へ戻した。
鎌なら速い。
手に馴染む。
澪は一歩で距離を詰め、猫ごと糸を斬らないぎりぎりの位置で刃を滑らせた。青白い刃が白い糸だけを断つ。夜縫いの羽衣で覚えた縫い目を切る感覚。星霞水母で覚えた霧の流れ。月殻の傷跡が、白い糸の芯を見つける。
糸が切れた。
黒い猫が浅い水へ転がる。
澪は片手で猫を拾い、マシロの布で包んだ。猫は不満そうに鳴いたが、すぐに澪の腕から飛び降りた。まだ戦うつもりらしい。澪は少しだけ目を細める。
「強い」
猫はそっぽを向いた。
月殻蜃の真珠に、大きなひびが入っている。
ひびの奥に、白い光があった。
二十年前に奪われたもの。黒い猫が持ち帰った欠片では足りなかった残り。帰る意志。動く理由。痛くても立つ芯。澪が澪として自分を動かすためのもの。
澪は鎌を構えた。
真珠は最後の景色を見せた。
眠る澪。
二十年間の小部屋。
その周りにいる村人たち。
誰も責めていない。誰も怒っていない。皆がただ待っていた。待って、老いて、成長して、声をかけ続けていた。だからこそ、眠っていてもいいと囁く。待ってくれる者がいるなら、眠っていても許される、と。
澪の尻尾が下がった。
そして、ゆっくり上がった。
「待たせたから、起きる」
鎌が振り下ろされた。
青白い刃が真珠を裂く。
今度は戻らなかった。
月殻蜃の殻が内側から白く光る。霧がほどける。浜に映っていた無数の月が、一つずつ消えていく。貝殻の塔が音もなく崩れ、浅い水は黒い砂へ変わった。真珠のひびから白い光がこぼれ、澪の胸元へ流れ込む。
息が止まる。
痛みではない。
重さだった。
二十年分の声が、澪の中へ落ちてくる。全部は入らない。全部を覚えられるわけではない。だが、ノアが窓を拭いていたこと。ルルカが狩り傷を見せたこと。茶屋の娘が夜湯の湯気を替えたこと。ラウ婆の鈴が割れても鳴っていたこと。黒い猫が欠片を守っていたこと。
断片だけが、確かに残る。
澪は膝をつきそうになった。
マシロが支える。
メイの鎖が手首へ戻る。
黒い猫が澪の足に体を押しつけた。
視界の端に、本人にしか見えない文字が浮かぶ。
《レベルが171→176》
《スキルオーブを獲得しました》
《夢見 NEW Lv1》
澪は、少しだけ見た。
「夢見」
眠っていた二十年のあとに、それが来る。
澪はしばらく黙った。
「……遅い」
黒い猫が鳴いた。
笑ったように聞こえたので、澪は猫を見た。猫はもうそっぽを向いている。
月殻浜は、静かになっていた。
五枚目の赤紙は、鎮まった。
澪は立ち上がる。胸の奥に、まだ白い熱が残っている。寝床の匂い。夜湯の湯気。割れた鈴。知らない声。知っている声。地上の名前。星祭郷の名前。どれも混ざっている。混ざっているが、もう眠りにはならない。
空で星鯨が鳴いた。
遠いのに、月殻浜の黒い砂が震える。星祭郷の方向で、また灯りが消えたのが分かった。澪は顔を上げる。
「戻る」
メイが鎌から大剣へ一瞬だけ形を変え、また鎌に戻った。
マシロが白い服の裾を整える。
尻尾がふわりと揺れる。後ろに薄い二本目の影が重なり、猫耳の内側が淡く光った。
黒い猫が先に走る。
澪は月殻浜を振り返らなかった。
白い階段を駆け上がる。
星祭郷の村が見える。空に巨大な透明の鯨がいる。腹の中に星を溜め込み、尾の先から淡い光をこぼしている。村の灯りは半分ほど暗くなっていた。だが、まだ消えていない。屋根の上で星鈴が鳴っている。ルルカたちが持たせている。ノアが夜湯器の芯を抱えて走っている。ラウ婆の鈴がかすかに聞こえる。
澪は走りながら、短く言った。
「待たせた」
黒い猫の尾が揺れる。
澪は鎌を握る。
「次、上」
星を食う鯨が、村の空でゆっくり身を翻した。
《Tips》
月殻蜃の倒し方。……以下略。
月殻蜃 討伐。
スキルについては戦闘に有用なものもあれば、絶対にいらないだろってものもあります。
20年間、メイは取り込んだ月殻蜃の1部を解析してました。それがなかったら討伐は不可能でした。




