第十五話 星鯨②
星祭郷へ戻る道は、白く降る星屑に埋もれかけていた。
西の崖を駆け上がった澪の視界に、村の灯りが見える。半分は消え、残った灯籠も青から白へ色を変えて震えていた。屋根の骨飾りは鳴りっぱなしで、硝子角を押さえた住人たちが道端に膝をついている。子供の泣き声が聞こえる。狩り手たちの怒号も、鍛冶師が鉄を打つ低い音も、星鯨の影に押し潰されてひどく遠い。
澪は走りながら鎌を振った。
青白い斬撃が白い星屑の雨を裂く。雨粒のように落ちていた光が空中で砕け、細かな灰になって黒石道へ散った。灰に触れた星砂が一瞬だけ暗くなる。澪はそれを踏み越えた。
黒い猫が前を走る。
二本の尾が道の左右へ伸び、落ちてくる星屑を払った。猫の体は小さい。けれど星鯨の雨を嫌がる動きは鋭く、どこに落ちれば危ないのかを先に知っているようだった。澪はその後を追い、茶屋の前へ戻る。
村はまだ持っていた。
ルルカが屋根の上で星鈴を投げている。小さな鈴は空中で割れ、透明な音を出した。音の輪が広がった場所だけ、星屑の雨が少し薄くなる。ノアは夜湯器の芯を抱え、茶屋の前に置かれた大釜へ青い火を戻そうとしていた。四本腕の鍛冶師は屋根の骨に鉄杭を打ち込み、消えかけた灯籠を黒い鎖で繋いでいる。
ラウ婆は依頼板の前にいた。
割れた鈴を鳴らしている。音はもう澄んでいない。ひび割れた鈴の中で星砂が擦れ、低く濁った音が出る。それでも、その音が鳴るたび、依頼板に埋め込まれた赤紙の欠けがかすかに光った。水鏡湖の青。夜縫いの銀。忘れ火の青火。星霞の薄紫。月殻の淡い白。澪が鎮めたものの欠けが、村を支えている。
澪は屋根へ上がった。
星鯨は、さらに低くなっていた。
透明な鯨の腹が村の空を覆い、星環の骨格がゆっくり脈打っている。空の星を食べているだけではない。村の灯籠から細い光の糸が伸び、硝子角からも、黒石道の星砂からも、依頼板からも、全部が星鯨の腹へ吸い込まれていた。食われているのは空の星だけではない。
「村を、食べてる」
澪は呟いた。
星鯨の腹の中に、見覚えのある光があった。茶屋の灯籠。ノアが使っていた夜湯器の芯。ルルカの角に宿る星。ラウ婆の鈴に残った古い音。そういうものが小さな粒になって、鯨の体内をゆっくり回っている。
澪は鎌を振った。
斬撃は空へ走り、星鯨の腹を裂く。星環の骨格に青白い傷が入った。だが、その傷は浅い。腹の中を回っていた星が傷口へ寄り、すぐに埋める。鯨の体そのものを斬っている手応えがない。空を斬っているのに近い。
「違う」
澪は屋根を蹴った。
次の瞬間、姿が消える。
現れたのは、星鯨の尾に近い空中だった。視界にある星環の骨格を目印にして、そこへ跳んだ。メイの鎌が大剣へほどけ、青白い大刃が夜空を押し曲げる。澪は星環の尾へ向かって振り下ろした。
空が割れた。
尾の星環が砕け、無数の星が散る。衝撃は空から地上へ落ち、村外れの黒石原を半月形に沈めた。だが、星鯨は落ちない。砕けた尾は、村の灯籠から伸びる光を吸い上げてまた繋がった。骨格が戻る。腹の中の星が減らない。
その時、白い星屑の雨が澪の左腕に触れた。
痛みは遅れて来た。
左手首から先が裂ける。血が出るより先に、時間がずれた。皮膚が戻ろうとする。骨が戻ろうとする。だが、手の戻り方を体が間違えた。
手のひらの先から、足の指が生えた。
小さな足指。踵に似た骨。指であるはずの場所に、まったく違う形が戻ろうとしている。澪はそれを一瞬だけ見た。表情はほとんど変わらない。ただ、目だけが冷える。
「違う」
鎌が戻る。
澪は異型に戻りかけた左手首から先を、自分で切り落とした。落ちたものは血を散らさず、白い星屑になって崩れる。切断面から、今度は正しい手が生えた。骨、血管、肉、皮膚。戻る順番が少し遅い。だが形は合っている。
澪は新しく戻った指を握る。
動く。
それから、空の星鯨を見た。
「頭は、だめ」
同じことを頭でやられたら危ない。
胸もだめだ。心臓や肺の周りで戻り方を間違えれば、治る前に別の形へ寄る。澪の再生は強い。だが、星鯨の雨は傷を壊すのではなく、傷が戻る時間と形をずらす。治るから安全、ではない。
星鯨の腹が震えた。
白い雨が増える。
澪はもう一度転移した。次は村の骨塔の上へ戻るつもりだった。だが、着地したはずの足元がなかった。転移先の骨塔が、星を失って目印ではなくなっている。一拍前には見えていた場所が、今は役目を忘れている。
澪の体が空中で崩れる。
メイの鎖が伸び、屋根の骨飾りへ絡んだ。マシロの裾が広がり、体の向きを整える。澪は茶屋の屋根へ落ちるように戻った。瓦が割れ、左肩を強く打つ。骨が砕ける。すぐ戻る。だが、戻りかけた肩の骨が一瞬だけ余分に伸びた。
「いらない」
澪は鎌の柄で自分の肩口を押し潰すように叩いた。余分に伸びた骨が砕ける。再生がもう一度走り、今度は正しい形へ戻った。痛みはある。けれど、痛みよりも厄介なのは、さっき自分がどこへ転移しようとしたのかが薄くなっていることだった。
澪は屋根の上で息を吐く。
「目だけだと、だめ」
星鯨は、見えている場所の役目を食う。灯籠は灯籠でなくなり、道は道でなくなり、足場は足場でなくなる。そこを目印に転移すると、澪の移動もずれる。
メイの鎖が足元で鳴った。
澪は頷く。
「刺してから」
メイの鎖が村中へ走った。茶屋の屋根、骨塔、依頼板、黒石道の大きな割れ目、鍛冶小屋の鉄杭。鎖は光を目印にしない。手応えを覚える。そこに引っかかっている重さ、硬さ、澪の手に返ってくる震え。それを転移の足場にする。
澪は、鎖の先へ転移した。
今度はずれない。
鍛冶小屋の屋根に現れ、すぐに鎌を振る。白い雨を裂き、消えかけた灯籠を守る。そのまま鎖の別の先へ跳ぶ。依頼板の前。ラウ婆の横。次に骨塔の上。さらに茶屋の大釜の前。転移のたび、メイの鎖が短く鳴り、澪の体が確かな場所へ落ちる。
星鯨が、低く鳴いた。
今度は音が少し聞こえた。
胸の奥を押すような、深い鳴き声。村の灯りが震える。住人たちの足が止まる。名前を呼ぼうとした口が動かなくなる。星鯨は、村から伸びる光の糸をさらに太くした。
澪は光の糸を見た。
村から鯨へ伸びている、細い星の流れ。さっき鎌で斬ろうとした時は滑った。糸は光であって、物ではない。水でも、霧でも、縫い目でもない。
ノアの抱えていた夜湯器の芯から、白い糸が強く伸びている。
ノアの硝子角の星が、すっと細くなった。膝が落ちる。自分が何をしていたのか忘れたように、大釜の前で手が止まる。
澪は転移した。
茶屋の大釜の前へ現れ、ノアの前に立つ。星屑の雨を大剣で払う。衝撃で大釜の周囲の黒石が砕けたが、夜湯器の芯は守った。ノアはぼんやりと澪を見上げる。
「……ミオ?」
「火」
「火?」
「つけて」
「どうやって」
ノアの目が揺れている。
火のつけ方を忘れている。
澪は一瞬だけ黙った。
そして、自分の指先に小さな火を灯した。忘れ火の麒麟を倒した時に得た、澪が微妙な顔をした小さな火。戦闘では役に立たないと思っていた火。
その火を、夜湯器の芯へ移す。
青い火ではない。最初はただの赤い火だった。けれど芯の内側に残っていた星砂がそれを飲み込み、すぐに淡い青へ変える。ノアの目に光が戻った。
「火」
「うん」
「私、火を」
「思い出した?」
「思い出した」
ノアは震える手で芯を押さえた。
大釜から夜湯の湯気が戻る。湯気は空へ上がらず、茶屋の前に広がった。星鯨へ伸びていた糸が少しだけ薄くなる。澪はそれを見た。
「切るんじゃない」
奪われる前に、戻す。
そうすれば糸は細くなる。
星鯨が村の灯りを食べるなら、灯りが自分の役目を思い出せばいい。食われているものをただ切るのではなく、灯りを灯りとして戻す。星鈴を星鈴として鳴らす。道を道として光らせる。村を村として立たせる。
ラウ婆が、澪の顔を見た。
「分かったか」
「少し」
「言え」
「灯りを戻して。糸が薄くなる。そこを斬る」
「聞こえたか!」
ラウ婆の声が村へ響く。
「灯りを戻せ! 名を呼べ! 役を忘れさせるな!」
村が動いた。
ルルカが屋根の上で叫ぶ。
「角の星を押さえるな、呼べ! 自分の名を言え! 家の灯りを呼べ!」
狩り手たちは星鈴を投げるのをやめ、まず屋根の灯籠へ走った。消えかけた灯籠に触れ、家の名を呼ぶ。茶屋。鍛冶小屋。素材屋。布屋。子供たちが隠れている家。名前を呼ぶたび、灯籠の火が少しだけ青へ戻った。
四本腕の鍛冶師が鉄杭を打つ。
「この音は鍛冶の音だ! 鳴れ!」
鉄と骨がぶつかる重い音が村に響く。星鯨の腹へ伸びていた光の糸が一本、細くなった。澪は鎖の先へ転移し、屋根から屋根へ、骨塔から依頼板へ、依頼板から黒石道へ飛ぶ。青白い鎌が光の糸へ触れた。
今度は通った。
糸が切れる。
星鯨の腹の中で、小さな星が一つ弾けた。鯨の体が震える。空に浮かぶ星環の骨格が、一瞬だけ濃くなった。澪は目を細める。
「そこ」
糸を切ると、本体が近づく。
星鯨は空にいるが、村から星を食べる時だけ、村と繋がっている。その繋がりを戻し、切れば、鯨は空だけの影ではいられなくなる。
星鯨がまた鳴いた。
白い線が村全体へ伸びる。
灯籠へ、硝子角へ、依頼板へ、黒石道へ、茶屋の小部屋へ。澪が二十年眠っていた部屋にも、細い線が伸びていく。澪はそれを見た瞬間、転移した。
小部屋の窓枠へ。
懐かしい匂いがした。夜湯。白い布。猫の毛。二十年分の声。白い線が布団へ触れる寸前、澪は鎌でそれを裂いた。糸は半分だけ切れ、残りが澪の胸元へ向かう。
月殻蜃から取り戻したばかりの場所。
二十年分の声が入った場所。
澪は鎌を合わせた。
白い線が刃に触れる。
重い。
ただの光ではない。星鯨は村だけでなく、澪の中に戻った二十年の欠片も食べようとしている。ノアの声、ルルカの声、ラウ婆の鈴、猫の足音。澪が覚えていないのに、ようやく受け取ったもの。
「だめ」
澪は鎌を押し返す。
白い線が増える。
一本、二本、三本。澪の胸へ向かって伸びる。メイの鎖が線へ絡むが、線は鎖の役目まで薄めていく。鎖が何を縛るものだったのか、形が揺らぐ。マシロの白い布が胸元を覆う。布も白い線に触れ、白さが一瞬だけ空っぽになりかけた。
黒い猫が窓から飛び込んだ。
二本の尾で白い線を叩く。完全には消えない。それでも、線の向きがずれる。猫は澪の胸元へ向かう線だけを執拗に払った。二十年守ったものを、また食わせる気はないと言っているようだった。
澪は息を吸った。
守るものが多すぎる。
地上へ帰る。朱音に会う。結衣に会う。メイを離さない。マシロを着ている。星祭郷も消させない。猫もいる。ノアも、ルルカも、ラウ婆も、茶屋も、二十年分の声も。
全部を抱えたままでは、腕が足りない。
けれど、捨てるものではない。
「メイ」
鎌が鳴る。
「大きいの」
鎌がほどけた。
大剣ではない。
今までの大剣より、さらに重い形だった。青白い刃が広がり、黒緑の線の奥を星砂が強く流れ、水光と銀線と青火と霞と月色が刃の中で重なった。剣というより、夜空から切り出した巨大な刃に近い。澪の体では到底支えられない大きさ。だが、メイの鎖が茶屋の屋根、骨塔、依頼板、黒石道へ伸び、村そのものを支点にした。
村が、刃を支える。
ラウ婆が叫んだ。
「灯りを集めろ!」
村の者たちが、一斉に動いた。
灯籠を消さないためではない。今度は、灯りを澪の刃へ向ける。茶屋の青火。鍛冶小屋の赤い火。素材屋の星砂灯。布屋の白い灯籠。子供たちの硝子角の小さな星。全部が、細い光になってメイの刃へ集まっていく。
星鯨へ食われる前に、村が自分で澪へ渡した。
澪は重さに膝を折りかける。
マシロが体を固定する。尻尾が地面を叩き、薄い二本目の影がはっきり重なる。黒い猫が澪の足元に立ち、二本の尾を大きく広げた。
星鯨の体が、初めてはっきり濃くなった。
村の灯りを奪えなくなった腹が、空で重く沈む。透明だった輪郭に星の骨格が浮かび、胸の奥に大きな星が見えた。心臓のようなもの。星環の中心で、食べた星を回している核。
澪はそれを見た。
「見えた」
星鯨が身をよじる。
白い線が澪へ殺到する。星屑の雨が降る。村の灯りが揺れる。澪は巨大な刃を構えたまま、動かない。動けない。けれど、狙いは定まっている。
ラウ婆の割れた鈴が、最後に一度だけ鳴った。
澪は刃を振り上げる。
空が、重く沈んだ。
星鯨の巨大な影が、村の上へ落ちてくる。




