第十三話 星鯨①
茶屋の扉を開けた瞬間、星祭郷の夜が崩れていた。
空の一部が暗い。夜が暗いのは当たり前なのに、そこだけは違った。星がない。星砂の薄い流れも、屋根の灯籠に映る小さな光も、道の黒石に沈んだ粒も、その影の下ではまとめて色を失っていた。
星鯨が村の上にいた。
肉のある鯨ではない。空に描かれた骨格だった。透明な体の内側で星が流れ、輪郭だけが白い星環で形を取っている。頭はゆっくり村へ傾き、腹の中へ吸い込まれた星が尾の先から細い光になってこぼれる。美しい。あまりにも美しいのに、通り過ぎた場所から灯りが消えていく。
家々の窓が暗くなる。
硝子角を押さえてうずくまる子供がいる。角の中の星が吸われて、淡い光が細く空へ伸びていた。狩り手たちが屋根へ上がり、星鈴を投げ、火を放ち、骨弓を引く。届かない。矢は星鯨の腹に触れる前に光を失い、黒い灰になって落ちる。
澪は茶屋の前に立った。
二十年ぶりの外だった。
石畳の位置が少し違う。茶屋の看板も変わっている。向かいの素材屋は大きくなり、知らない布屋が増えている。昔、子供たちが座っていた段差には、知らない子供たちが震えていた。澪を見て目を丸くする。白い尻尾。猫耳の内側の星灯り。青白い鎌。
何人かが、泣きそうな顔で言った。
「ミオ」
「白い子」
「起きた」
澪は、全員を知らない。
知らないのに、声だけが胸の奥をこすった。眠っている間に何度も聞いた声だ。名前を呼ばれた気がする。夜湯の匂いと一緒に落ちてきた声。遠い水底で、何度も何度も繰り返された言葉。
朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る。
澪は鎌を握った。
「避けて」
声は大きくなかった。
それでも、近くの村人たちが息を呑んで道を開けた。三年間の澪を知る者は、その声を知っていた。二十年前までの澪を知らない者も、鎌の青白い光と、白い尻尾の後ろに一瞬重なる薄い二本目の影を見て、何も言わずに下がった。
黒い猫が澪の横に並んだ。
二本の尾は低く構えられている。金の目は星鯨を見て、夜の目は澪を見ていた。月殻浜から戻った白い欠片は、もう猫の前足にはない。欠片はマシロの胸元に沈み、澪の奥でまだ熱を持っている。
「猫……ありがと」
猫は一瞬だけ耳を動かした。
それから、そっぽを向いた。
星鯨が鳴いた。
音はない。
けれど、村が沈む。体ではなく、記憶が膝を折るような感覚だった。屋根の骨飾りが一斉に震え、黒い石道の星砂が空へ抜けていく。茶屋の大釜から湯気が消え、夜湯がただの黒い水になる。ラウ婆が杖をつき、倒れそうになったところをノアが支えた。
澪の耳の内側が強く光る。
頭の中で、何かが引かれた。
二十年の眠りでまだ薄い場所。月殻蜃に沈められていた場所。星鯨の鳴き声は、そこへ触れてくる。帰る理由ではなく、星祭郷で積まれた二十年分の声を吸おうとしていた。澪が覚えていない声。澪のために残された声。
澪は眉を寄せた。
「それ、だめ」
メイが鳴る。
鎌の刃が青白く伸びた。水鏡湖の水光、夜縫いの銀線、忘れ火の青火、星霞の淡い光、月色の傷跡。その全部が刃の奥で重なり、黒緑の線の間に星砂が流れる。二十年動かなかった刃は、鈍っていない。むしろ静かに澄んでいた。
澪は跳んだ。
白い足が黒石の道を蹴る。尻尾が体勢を取り、マシロの裾が風を受けるように広がる。茶屋の屋根へ上がり、骨飾りを足場にさらに跳ぶ。星鯨は遠い。空にいる。普通なら届かない。けれど澪は鎌を振った。
青白い斬撃が夜空へ走る。
星鯨の腹に触れた。
ーー 触れたはずだった。
斬撃は透明な体を抜け、星環の骨格だけを浅く擦った。星が二つ、腹の中で弾ける。星鯨は揺れたが、傷と呼べるほどではない。手応えが薄い。星骨竜魚より薄い。骨があるのに、骨を斬っている感じがしない。
「遠い」
距離ではない。
そこにいるのに、届かない。
澪は屋根の上に着地した。屋根瓦が二十年前と違う形で、少しだけ足が沈む。知らない家。知らない匂い。でも村だ。星祭郷だ。澪は鎌を握り直す。
星鯨の尾が動いた。
尾というより、星環の帯が空を撫でた。そこから、白い星屑が雨のように降る。美しい雨だった。触れた屋根は光り、骨飾りは澄んだ音を立てた。次の瞬間、光ったものから記憶が抜ける。
家の灯りが、自分の火のつけ方を忘れる。
骨飾りが、鳴り方を忘れる。
硝子角の星が、持ち主の名を忘れる。
村人たちがふらついた。
澪の肩にも星屑が触れた。
体が、立ち方を一瞬忘れた。
屋根の上で膝が落ちる。マシロの裾が屋根に広がり、澪の体を支える。メイの鎖が軒先へ絡み、落下を止める。澪は歯を噛んだ。
「また」
月殻蜃の眠りに似ている。
けれど違う。優しくはない。休ませるためではなく、消していくための白さだった。星鯨は澪の意志ではなく、場所に溜まった星と記憶を食べている。澪が二十年眠った小部屋も、ラウ婆の鈴も、ノアが掃除した窓枠も、ルルカの狩り傷も、全部を同じように腹へ吸い込もうとしている。
澪は立った。
鎌がほどけ、大剣になる。
青白い大剣が屋根の上で現れた瞬間、周囲の空気が沈んだ。刃の縁が星鯨の影を受け、夜空が少しだけ曲がる。村人たちが息を呑む。二十年の間に語られてきた大剣を、初めて見る者も多かった。
澪は大剣を振った。
空を切る。
星鯨の尾の下、空間が歪んだ。大剣そのものは届かない。だが、刃が通った場所の星屑がまとめて吹き飛び、村へ降る白い雨が途切れる。衝撃は空へではなく、地上へ落ちた。村の外れの黒い石原が丸く沈み、星砂が噴き上がる。半径数百メートルの地面が低く落ち、そこに散っていた星屑が青白い火で焼かれた。
村が、少し息をした。
ルルカが叫ぶ。
「灯りを戻せ! 白い子が雨を払った!」
狩り手たちが動き出す。ノアが夜湯器の芯を抱え、茶屋の者たちが火を戻す。鍛冶師が星鈴を屋根へ打ちつける。村は死んでいない。澪が空の雨を断った一瞬で、皆が自分の手順を取り戻す。
星鯨が、澪を見た。
目はない。
だが、澪は見られたと分かった。
星鯨の腹の中で、吸い込まれた星が回る。その中に、小さな白い部屋が映った。澪が眠っていた部屋。二十年の間、皆が保ち続けた小部屋。次に、朱音の家に似た部屋が映る。結衣の卵焼きに似た皿。星祭郷の茶屋。月殻浜。全部が混ざる。
澪の手が止まった。
月殻蜃の傷が、まだ残っている。
星鯨は、それを見つけた。
腹の中の星が白く回り、月色の霧が一筋だけ落ちる。ありえた帰り道ではない。もっと単純なもの。二十年眠っていたままでよかった、という声。起きなければ、痛くなかった。起きなければ、知らない村を見なくて済んだ。起きなければ、戦わなくてよかった。
澪は大剣を持ったまま止まる。
「……寝る」
言葉が漏れた。
ラウ婆が叫んだ。
「ミオ!」
声が届く。
でも遠い。
メイの柄が震える。マシロの襟元が澪の首元を締めるように整う。黒い猫が屋根へ跳び、澪の尻尾に噛みついた。
「いたい」
澪は瞬きをした。
猫がもう一度噛んだ。今度は少し強い。
「いたい」
戻った。
澪は星鯨を見る。月色の霧がまだ落ちている。自分の奥に、月殻蜃に触れられた場所が残っている。そこを塞がないまま星鯨と戦うのは危ない。そう思う。思えた。
「月殻」
澪は呟いた。
星鯨は村を食べている。
けれど、澪の中で一番危ない穴は、月殻蜃のものだ。あれを残したままだと、星鯨の鳴き声でまた止まる。眠る。立てなくなる。
黒い猫が、澪を見た。
金の目と夜の目が、月殻浜の方を向く。
「先に、あれ」
澪は大剣を鎌へ戻した。
星鯨の尾がもう一度揺れる。星屑の雨が降る。澪は鎌を横へ振り、雨を裂いた。メイの斬撃に月色の傷跡が光る。さっきより少しだけ霧が切れる。完全ではない。でも、通り始めている。
ルルカが屋根の下から叫んだ。
「ミオ、どこへ行く!」
「月殻浜」
「あれを、今?」
「うん」
「星鯨は!?」
「あと」
「あとって」
澪は屋根から降りた。
ラウ婆の前に立つ。二十年前より小さくなったラウ婆を、改めて見る。知っているラウ婆と違う。けれど、ラウ婆だ。
「寝てた?」
「二十年」
「……長い」
「長い」
「ごめん」
「謝ることではない」
「でも」
「帰ってきた」
ラウ婆は、ひび割れた鈴を持ち上げた。
「まず、お前を取り戻せ」
「うん」
「月殻を鎮めろ。星鯨は、村が持たせる」
「持つ?」
「少しだけじゃ」
「無理しないで」
「それは、お前が言うな」
澪は黙った。
ノアが夜湯器の芯を差し出した。二十年前、澪が報酬で得たものの一つと同じ型だ。そこに濃い夜湯が満たされている。
「飲んで」
「誰」
「ノア」
「掃除の」
「そう。掃除の」
「ありがとう」
澪は夜湯を飲んだ。
味が違った。
二十年前の茶屋の娘の味ではない。ノアの味。少し濃く、星砂が多い。喉を通ると、足元が落ち着く。澪は湯呑みを返した。
「おいしい」
ノアは泣きそうな顔で笑った。
「起きたら、言ってほしかった」
「今、言った」
「うん」
星鯨がまた鳴く。
村の奥で灯りが消える。狩り手たちが星鈴を鳴らし、鍛冶師が屋根へ駆ける。持つと言っても長くはない。澪は分かっている。だから、戻る必要がある。すぐに。
メイの鎌が青白く伸びる。
マシロの白い服が戦闘の形へ整う。
尻尾がふわりと揺れ、その後ろに薄い二本目の影が重なった。猫耳の内側が星灯りで光る。黒い猫が先に走り出す。二本の尾が西の崖へ向いている。
澪はその後を追った。
二十年ぶりの星祭郷の道を、白い子が走る。
知らない家がある。
知らない店がある。
知っている匂いがある。
覚えていない二十年分の声が、背中を押している。
星鯨の影が村を覆う中、澪は月殻浜へ向かった。
澪は眠る前の約3年間?で村に多大な功績を残してます。
英雄的扱いです。




