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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第五章

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第十二話 白い子


 白い子は、起きなかった。


 月殻浜から運ばれた夜、澪は茶屋の奥の小部屋に寝かされた。星砂を混ぜた黒い床の上に灰色の寝具が敷かれ、窓には骨飾りと小さな灯籠が吊られた。ラウ婆は枕元に座り、鈴を鳴らした。

茶屋の娘は夜湯を薄くして湯気だけを部屋へ流し、鍛冶師は扉の蝶番を強く打ち直した。子供たちは廊下から覗き、白い尻尾が布団の端から少しだけ出ているのを見て、誰も笑わなかった。


 澪の体に傷はなかった。


 月殻蜃の霧で濡れた白い服は、マシロがすぐに元へ戻した。髪の内側には星砂のような光が残り、猫耳の内側も時々淡く灯った。尻尾は布団の中で力なく丸まり、先端の青白い光だけが弱く揺れている。眠っているように見える。けれど、普通の眠りではない。呼びかけても、撫でても、鈴を鳴らしても、澪は目を開けなかった。


 メイは寝床の横にいた。


 鎌の形で床に沈み、青白い刃をほとんど光らせず、ただ鎖だけを澪の手首へゆるく巻いている。強く縛るわけではない。離さないためでも、閉じ込めるためでもない。ただ、そこにいると分からせるように、冷たい金属の輪が白い手首に触れていた。


 黒い猫は、窓枠に座った。


 二本の尾を下げ、月殻浜から持ち帰った白い欠片を前足の間に置いている。小指の爪ほどの小さな欠片だった。澪のものなのか、月殻蜃から剥がれたものなのか、ラウ婆にも分からない。ただ、それを離すと澪がもっと遠くへ沈む気がして、猫はずっと守っていた。


「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」


 ラウ婆は、澪が何度も口にした言葉を繰り返した。


 星祭郷の言葉ではない。意味を正しく分かっているわけでもない。けれど、澪がそれを大事にしていたことだけは、村の者にも分かっていた。だからラウ婆は毎朝それを言った。茶屋の娘も覚えた。子供たちも覚えた。うまく発音できない者もいたが、それでも白い子の枕元で同じ言葉を落としていった。


 一年目、子供たちは毎日のように小部屋へ来た。


 最初に猫耳を触ろうとしてメイに叩かれた子も、もう近づきすぎなかった。星飾りを置く子。灯籠胎の膜で作った小さな札を吊るす子。尻尾が布団から出ていると、そっと布を掛け直す子。澪は起きない。けれど子供たちは、いつか起きた時に退屈しないように、と言って小物を増やしていった。


 茶屋の娘は、夜湯を毎日替えた。


 濃すぎると眠りが深くなる気がして、薄くした。薄すぎると道が乾く気がして、星砂を少し足した。ラウ婆に何度も怒られながら、それでも毎日湯気を流した。澪は飲まない。口元へ運んでも、喉は動かない。だから湯気だけを部屋に満たす。夜湯の匂いは、やがて小部屋の匂いになった。


 三年目、茶屋の娘は母になった。


 小さな子を抱いて澪の部屋へ来る。赤子の額には薄い硝子角があり、その中で小さな星が頼りなく瞬いていた。赤子は澪の尻尾を見て手を伸ばした。メイの鎖がかすかに鳴る。娘は慌てて手を引っ込めさせ、笑った。


「だめ。ミオの尾、勝手に触らない」

 赤子は意味も分からず笑う。

「この子、村を守ったの。水鏡湖も、空橋も、草原も、霧沼も」

 娘は眠る澪を見る。

「だから、起きたら夜湯を出す。濃いやつ」


 澪は目を開けない。


 けれど、尻尾の先がほんの少しだけ揺れたように見えた。娘は息を止め、ラウ婆を呼びに行った。ラウ婆はゆっくり来て、尻尾を見て、澪の顔を見て、鈴を鳴らした。澪はその後、また動かなかった。


 五年目、依頼板の場所が変わった。


 茶屋の横にあった黒い骨板は、星戻りの大風で半分割れた。新しい板は鍛冶小屋の前に立てられた。四本腕の鍛冶師が、星骨竜魚の残り骨を細く削って枠にした。澪が鎮めた赤紙の欠けも、板の裏側に埋め込まれている。水鏡湖の青、夜縫いの銀、忘れ火の青火、星霞の薄紫。板は夜になると静かに光った。


 鍛冶師は、澪の部屋にも時々来た。


 彼は口数が少ない。澪が起きていた頃も、ほとんど話さなかった。だが、メイを見る目だけは変わらなかった。青白い鎌の刃に混じる色が、年を追うごとにほんの少し深くなっている。戦っていないのに、澪の枕元にいるだけで、メイは何かを待っているようだった。


「まだ、鈍らぬな」

 鍛冶師は低く言った。

 メイは答えない。

「よい刃だ。怖い刃だ」

 鎖が床を軽く叩く。

「怒るな。褒めておる」


 鍛冶師は部屋の扉を直し、窓の骨飾りを替えて帰っていった。


 七年目、最初に澪へ星飾りを置いた子供が、狩り手になった。


 名はルルカという。小さかった頃は、角に布を巻いて澪の尻尾を遠くから見ていた。今は背が伸び、硝子角の中の星も強く光る。腰には短い刃を下げ、足音も軽い。初めて狩りに出る前、ルルカは澪の小部屋へ来た。


「ミオ」

 返事はない。

「赤紙じゃない。小さいやつ。星喰いの子」

 ルルカは少しだけ胸を張った。

「倒してくる。ミオが起きたら、話す」


 メイの鎖が小さく鳴った。


 ルルカはびくっとしたが、逃げなかった。三年眠る澪しか知らなかった子供が、七年眠る澪の前で狩り手になった。帰ってきた時、ルルカは腕に大きな傷を負っていた。傷は治るが、痕が残る。彼女はその痕を澪に見せた。


「倒した」

 澪は起きない。

「だから、ミオも起きて」


 答えはなかった。


 黒い猫が、窓枠からルルカを見ていた。


 猫は、この部屋の誰よりも変わらなかった。二本の尾も、金の目も、夜の目も、月殻浜から帰ってきた日と同じだった。村の者は猫にも名をつけようとした。ふたお、夜尾、ミオの猫。どれにも猫は返事をしない。澪が名をつけなかったからだと、いつしか皆が思うようになった。


 猫は毎夜、白い欠片をくわえて澪の胸元へ置く。


 欠片は澪へ沈まない。マシロの布の上で淡く光り、朝になるとまた猫がくわえて窓枠へ戻す。何度も試した。ラウ婆も、茶屋の娘も、鍛冶師も、星読み石も、夜湯器の芯も使った。だが欠片は戻らない。澪の意志のどこかへ続く扉が閉じている。


 猫は諦めなかった。

 十年目、ラウ婆の鈴にひびが入った。


 星戻りの夜、鈴を鳴らした時だった。低い音が途中で割れ、細い不協和音になった。ラウ婆はしばらく鈴を見ていた。灰青の手は、以前より細くなっている。硝子角を流れる星砂も、流れが遅い。


「古くなった」

 茶屋の娘が言う。

「替えましょう」

「これは替えぬ」

「でも」

「ミオが覚えておる音じゃ」


 ラウ婆はひびの入った鈴を、そのまま杖につけ続けた。


 澪の枕元で鳴らすと、音は少し濁る。それでもラウ婆は毎朝鳴らした。


「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」


 十年目の澪は、変わらない。


 白い髪は伸びすぎない。マシロが整えるからだ。白い服は汚れない。尻尾も、耳も、眠る前と同じように見える。ただ、耳の内側の星灯りは少し落ち着き、ゆっくり呼吸するように光るようになった。尻尾は時々、夢を見るように揺れる。


 澪の中にも、何かは残っていた。


 深い、深い水の底。


 澪は、白い小部屋を見ている。


 布団がある。窓がある。夜湯の匂いがする。誰かが名前を呼ぶ。ミオ。ミオ。ミオ。別の声が、違う名を呼ぶ。朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る。どれが自分の声なのか分からない。どれが外から来ている声なのかも分からない。


 手を伸ばそうとする。

 でも手がない。

 歩こうとする。

 でも足がない。


 帰る、と思おうとすると、その言葉だけが月色の殻の内側で丸くなり、眠ってしまう。澪はそれを見ている。届きそうで、届かない。


 時々、鎖の音がした。


 それだけは、遠くない。


 十一年目、茶屋の娘の子が、澪の部屋を掃除する係になった。


 名はノア。地上の誰かと同じ音だが、星祭郷では別の意味を持つらしい。ノアは生まれた時から澪が眠っているのを知っている。だから、澪が起きていた姿を知らない。話に聞くだけだ。水鏡湖を沈めた。空橋を割った。草原の麒麟を追った。霧沼で目を閉じて水母を斬った。白い尾がかわいいと言うと怒る。


 ノアは、信じていなかったわけではない。

 ただ、眠っている澪しか知らないので、動いている姿を想像できなかった。


「ミオ、本当に戦ったの?」

 ノアは小さな布で窓枠を拭きながら聞いた。

 澪は答えない。

「メイは怖いけど」

 鎖が床を軽く叩いた。

「ごめん」

 ノアはすぐ謝る。

「でも、ミオはずっと寝てる。起きたら、どういう声なの」


 その時、澪の尻尾が少しだけ動いた。

 ノアは目を丸くした。


「動いた」


 その日、ノアは茶屋中に言って回った。ミオの尾が動いた。絶対に動いた。寝返りではない。尻尾が返事した。ラウ婆は笑わなかった。ただ、澪の部屋へ行き、鈴を鳴らした。


 澪は起きなかった。

 それでもノアは、それから毎日話しかけるようになった。


 十五年目、星祭郷の西の崖に、新しい骨橋が架かった。


 月殻浜へ続く階段は、普段は消えている。だが、その周辺の霧が年々濃くなっていた。月殻蜃は倒されていない。五枚目の赤紙は、依頼板の奥に封じられている。表には出していない。それでも、月色の気配は時々村の西へ滲み、夜湯の湯気に知らない部屋を映すことがあった。


 村の狩り手たちは、西へ近づく者を減らした。


 ルルカは狩り手のまとめ役になっていた。小さい頃に澪へ星飾りを置いた子供は、もう若い者たちへ指示を出す側になっている。腕の傷痕も増えた。彼女は月殻浜へ向かう霧を見るたび、澪の小部屋へ寄った。


「ミオ」

 彼女は昔より低い声で言う。

「まだ、あれはいる。たぶん待ってる」

 返事はない。

「私たちだけでは、近づけない」

 メイの鎖が鳴る。

「分かってる。だから、起きてほしい」


 澪は起きない。

 黒い猫だけが、窓枠で夜の目を細めていた。


 十八年目、ラウ婆は歩くのが遅くなった。


 それでも、澪の枕元へ来ることだけはやめなかった。茶屋の娘はもう娘と呼ぶには落ち着いた顔になり、ノアは背が伸び、夜湯の湯加減を任されるようになった。子供だった者が大人になり、大人だった者が老い、いくつかの店は看板を替えた。依頼板の黒骨も、何度か補強された。


 澪の小部屋だけは、ほとんど変わらない。


 変わらないように、皆が手を入れていた。布団は替えられた。窓の骨飾りも新しくなった。灯籠も何度も交換された。それでも配置は同じ。夜湯の匂いも同じ。澪が目を覚ました時、知らない部屋だと思わないように。


 ラウ婆は、その日も鈴を鳴らした。


 ひび割れた鈴は、もう綺麗な音を出さない。けれど、澪の耳はかすかに動いた。


 ラウ婆は目を見開く。


「ミオ」


 猫耳の内側が、淡く光った。

 だが、それだけだった。

 澪は目を開けない。

 ラウ婆は鈴を握ったまま、長く息を吐いた。


「まだ、遠いか」


 二十年目の星戻りは、いつもと違った。


 空の星が低く降りてくる夜。星祭郷の屋根が光り、硝子角に古い灯りが戻るはずの夜。村の者たちは、朝から灯籠を磨き、骨飾りを整え、夜湯の大釜を出していた。ノアは茶屋の前で湯気を見ていた。ルルカは狩り手たちを村の外へ散らし、ラウ婆は澪の部屋で鈴を鳴らした。


 その時、空の星が一つ消えた。


 誰も最初は気づかなかった。


 二つ目が消えた時、骨飾りが一斉に鳴った。


 三つ目が消えた時、村の灯籠の火が青から白へ変わった。


 星祭郷の空を、巨大な影が横切っていた。


 鯨だった。


 ただし、白鯨ではない。肉のある巨体でも、黒樹龍のような重い生命でもない。夜空そのものに星の骨格を浮かべた、透明な鯨だった。体は空に溶け、輪郭だけが星環で描かれている。泳ぐたびに、空の星が腹の中へ吸い込まれ、尾の先から淡い光になってこぼれた。


 村の誰かが、震えた声で言った。


「星鯨」


 その名は、古い話にだけ残っていた。

 赤紙ではない。

 依頼板に吊るされるものではない。

 星祭郷の空が薄くなりすぎた時、星を食べに来るもの。村の灯りも、道の星砂も、家々の硝子角に宿る小さな星も、すべてを夜へ戻すもの。倒す相手ではなく、過ぎ去るのを祈る相手だと、ラウ婆は昔そう言った。


 けれど、その夜の星鯨は過ぎ去らなかった。

 村の上で、ゆっくり腹を下ろした。

 星鯨が鳴いた。

 音は聞こえない。


 それなのに、村中の灯りが震えた。子供たちが耳を押さえ、硝子角の星が一瞬暗くなる。夜湯の大釜から湯気が消え、依頼板に埋め込まれていた赤紙の欠けが一斉に光った。水鏡湖の青。夜縫いの銀。忘れ火の青火。星霞の薄紫。そして、奥に封じていた五枚目の月色。


 月色の欠けが、割れた。

 茶屋の奥で、黒い猫が跳ね起きる。

 白い欠片が、強く光っていた。


 猫は欠片をくわえ、澪の胸元へ飛び乗った。いつものように置くだけではない。二本の尾を大きく広げ、欠片をマシロの白い布へ押しつける。欠片は今まで拒むように浮いていた。けれど星鯨の鳴き声が村を揺らした瞬間、白い布の上に沈んだ。


 マシロが強く光る。


 メイの鎖が、二十年で一番大きな音を立てた。


 ラウ婆は息を呑み、杖を突いて立ち上がる。鈴を鳴らす。ひび割れた鈴が、最後の力で音を出した。


「朱音先輩」

 ラウ婆が叫ぶ。

「結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」


 ノアが部屋へ駆け込んでくる。


 茶屋の者も、ルルカも、狩り手も、子供たちも、廊下に集まった。二十年の間に何度も聞いた言葉。意味をすべて知る者は少ない。それでも、白い子を繋ぐ言葉だと皆が知っている。


「朱音先輩」

 ノアが言う。

「結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」


 ルルカも続けた。


「「「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」」」


 村の者たちの声が重なる。


 澪の意識の底で、ずっと眠っていた言葉が揺れた。


 白い小部屋。


 月色の殻。


 遠い鈴。


 鎖の音。


 布の感触。


 猫の鳴き声。


 誰かが何度も呼んでいる。知らない声もある。知っている気がする声もある。ラウ婆。茶屋の娘。ノア。ルルカ。知らない。知っている。分からない。でも、その奥にもっと古い声がある。


 朱音先輩。


 結衣ちゃん。


 メイ。


 マシロ。


 帰る。


 帰る、という言葉が、月色の殻の内側で初めて目を開けた。


 星鯨が、もう一度鳴いた。


 村の灯りがいくつも消える。依頼板が割れ、遠くで骨橋が崩れる音がした。茶屋の窓が震え、夜湯の大釜が倒れる。子供が泣く。狩り手が外へ走る。ルルカが叫ぶ。


 その騒ぎの中で、澪の尻尾が動いた。

 最初は小さく。

 次に、はっきりと。


 白い尾の先に青白い光が戻る。猫耳の内側が星のように灯る。マシロの白い布が、二十年分の眠りを払うように襟元を整えた。メイの鎖が手首からほどけ、柄の形を作る。


 澪の指が動いた。

 ラウ婆は鈴を握りしめる。

 黒い猫は枕元で、金の目と夜の目を大きく開いた。

 澪が、目を開けた。

 白い瞳が、天井を見る。


 星祭郷の茶屋の天井。二十年前と同じ形に保たれた天井。けれど骨飾りは少し違う。灯籠も違う。匂いも、少しだけ違う。知らない足音がたくさんある。


 澪は瞬きをした。


「……ここ」


 声は、かすれていた。

 部屋の中の誰も、すぐには答えられなかった。


 ノアが泣き出す。ルルカが口元を押さえる。茶屋の娘は膝をつき、ラウ婆は鈴を鳴らそうとして、音が出ないことに気づいた。


 黒い猫が、澪の胸元へ前足を置く。

 澪は猫を見る。


「……猫」


 二本の尾が、震えた。


「まだ、いた」


 猫は鳴いた。


 メイが澪の手元で鎌になる。青白い刃には、水光、銀線、青火、霞、そして月色の薄い傷跡が沈んでいる。二十年、戦っていないのに、刃は鈍っていない。澪は柄を握る。手が覚えている。


 マシロの袖が、澪の口元を拭った。

 澪はゆっくり体を起こそうとした。


 体は動く。筋肉は弱っていない。眠っていたはずなのに、立てる。けれど頭の中が白い。二十年は澪の中にない。眠る前の月殻浜が、ついさっきのことのようでもあり、遠い夢のようでもある。


 ラウ婆を見た。

 小さくなっていた。


 澪の知るラウ婆より、ずっと細い。硝子角の星砂の流れも遅い。杖の鈴には、深いひびが入っている。


「ラウ婆」

 澪は言った。

 ラウ婆の目が濡れた。


「ミオ」


 澪は茶屋の娘を見る。


 知っている。けれど、少し違う。顔に年がある。その隣に立つノアを見て、澪は首を傾けた。


「……だれ」


 ノアは泣きながら笑った。


「ノア。ずっと、掃除してた」

「掃除」

「ミオの部屋」

「そう」


 澪はまだ分かっていない顔をしている。


 ルルカが一歩前へ出た。澪が知っている小さな子供ではない。狩り手のまとめ役になった女が、震える声で言う。


「ミオ。私、ルルカ」

「ルルカ」

「昔、星飾り置いた」

「……小さい子」

「もう小さくない」


 澪は少し黙った。


「大きい」


 ルルカは泣いた。

 星鯨が、三度目に鳴いた。


 茶屋の壁が軋み、窓の外で空の星がさらに消える。村が悲鳴を上げている。澪はゆっくり窓の方を見た。空に、透明な鯨がいる。星環の骨格。夜を泳ぐ尾。腹の中へ吸い込まれていく星々。


 澪の目が細くなる。


「なに」

「星鯨」

 ラウ婆が言った。

「星を食う。村が、消える」


 澪は、まだ少しぼんやりしていた。


 けれど、村が消える、という言葉は届いた。


 茶屋。夜湯。ラウ婆。ノア。ルルカ。黒い猫。小部屋。二十年分の声。自分が覚えていない時間。けれど、向こうが覚えている時間。


 澪は布団から足を下ろした。


 尻尾がふわりと揺れる。白い尾の後ろに、薄い二本目の影が重なった。猫耳の内側が淡く光る。マシロは白い服を戦える形へ整え、メイは鎌の刃を青白く伸ばす。


 澪は立った。

 ほんの少しふらついた。

 黒い猫が足元に並ぶ。

 ラウ婆が言う。


「ミオ、まだ」

「起きた」

「起きたばかりじゃ」

「うん」

「戦えるのか」

「分からない」


 澪は空の星鯨を見る。

 喉の奥に、二十年眠っていた言葉が戻ってくる。


「でも、邪魔」


 メイが鳴った。

 星祭郷の夜が、激しく揺れている。

 白い子が、二十年ぶりに茶屋の外へ出た。

おはよう。澪

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