第十一話 月殻蜃①
五枚目の赤紙は、澪が手を伸ばしても揺れなかった。
依頼板に吊られたほかの紙は、風がない日でもかすかに鳴る。骨紙は乾いた音を立て、硝子紙は小さく光り、赤紙は火のように震える。けれど月色の紙だけは、そこに貼りついた薄い殻のように動かない。板の前に立っているだけで、眠気に似た重さが目の奥へ落ちてきた。
ラウ婆は、澪の手首を杖の先で止めた。
「読むな」
「もう少し読める」
「読めるのが、よくない」
「倒すには読む」
「倒す紙ではない」
澪は赤紙を見た。
月色の半透明な面に、景色が浮かぶ。七瀬家に似た食卓。けれど椅子の数が違う。結衣の卵焼きに似たもの。けれど匂いがない。朱音の声に似たもの。けれど呼び方が違う。次に、星祭郷の茶屋が映る。夜湯の湯気、茶屋の娘、角の布を外した子供たち。こちらは本物に近かった。
だから、余計に嫌だった。
「帰ってこない紙」
澪は言った。
「そう」
「誰が?」
「近づいたもの」
「死んだ?」
「死んでは、いない者もいる」
「戻った?」
「体だけは」
ラウ婆の鈴は、まだ鳴らない。
依頼板の周囲には、村の者たちが集まっていた。三年の間に澪に慣れた者たちだ。茶屋の娘も、四本腕の鍛冶師も、素材屋の親子も、子供たちもいる。いつもなら澪の尻尾を見て小さく笑う子供も、今日は黙っていた。
黒い猫は、澪の足元に座っている。
二本の尾を膨らませていた。怒っているのか、警戒しているのか、澪には分からない。ただ、猫が赤紙から目を離さないのは珍しかった。
「場所」
澪が聞く。
「月殻浜」
「行ったことない」
「村の西。星戻りのあとだけ道が出る」
「今?」
「今、出ている」
「じゃあ行く」
村の空気が、さらに沈んだ。
ラウ婆はしばらく澪を見ていた。
「ミオ」
「なに」
「お前、ここに三年いる」
「うん」
「村の道を覚えた。夜湯の味も、子らの足音も、赤紙の色も」
「うん」
「だから効く」
「なにが」
「ここに残ってもよい、という声」
澪の尻尾が止まった。
ラウ婆は続ける。
「月殻蜃は、怖いものを見せぬ。痛いものも少ない。帰らなくてもよい道を見せる。休める場所を見せる。終わったと思える場所を見せる」
「偽物」
「偽物でも、長く見れば、足が止まる」
「止まらない」
「強さではない」
「でも行く」
「そう言うと思った」
ラウ婆は杖を下ろした。
「赤紙を取るなら、名を口にしろ」
「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」
「もう一度」
「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」
「もう一度」
「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ強くなる。
ラウ婆は頷いた。
「それを忘れたら、逃げろ」
「忘れたら、逃げることも忘れる」
「そうじゃ。だから、忘れる前に戻れ」
「分かった」
澪は月色の赤紙を外した。
紙は冷たかった。指に触れた瞬間、景色がまた変わる。知らない白い部屋。七瀬家の食卓。星祭郷の茶屋。水鏡湖。霧沼。星灯りの草原。全部が一枚の紙の中で重なり、すぐに消えた。
澪はそれを畳まず、インベントリへ入れた。
メイを手に取る。青白い鎌の刃には、水光、銀の縫い目、細い青火、霞を裂いた淡い光が重なっている。三年で、メイはさらに幻想的になっていた。黒緑の線は奥へ沈み、その間を星砂が流れる。刃を動かすと、湖底の鈴音と、遠い火の擦れる音が小さく残った。
マシロの白い服は澪の体に沿って整う。襟元の星灯りが一度だけ強く光った。尻尾は、足の後ろへ隠れようとしている。澪はそれを見ないふりをした。
黒い猫が歩き出す。
今度は、ついてくる。
月殻浜へ向かう道は、星祭郷の西にあった。
普段は崖だけがある場所だ。黒い石が垂直に落ち、その下には星の霧が溜まっている。けれど星戻りのあとだけ、崖の途中に白い階段が現れる。階段は貝殻の内側のように滑らかで、足を置くと、遠くの波音がした。
村の灯りが背後で小さくなっていく。
崖を下るほど、空の星が大きくなった。頭上ではなく、横にある。星の光が白い階段に反射し、澪の猫耳の内側を淡く照らす。尻尾の先も青白く光った。黒い猫は階段の縁を歩き、二本の尾で時々、澪の進む先を払う。
やがて、浜が見えた。
月殻浜は、海ではなかった。
広い干潟のような場所だ。地面は白い貝殻が砕けてできていて、踏むと柔らかい音がする。浅い水が一面に張り、その水面には月がいくつも映っている。空に月はない。けれど足元には、大小さまざまな月が浮かんでいた。遠くには、貝殻でできた塔がいくつも立ち、塔の隙間を淡い霧が流れている。
美しかった。
水鏡湖とは違う。星灯りの草原とも違う。ここは静かすぎる。白い光に包まれて、音が遠くなる。足跡も、呼吸も、鎌の重さも、全部が柔らかくなる。疲れた体を横たえれば、そのまま眠っても許される気がした。
澪は足を止めた。
「だめ」
自分に言う。
黒い猫が鳴いた。
澪は頷き、浜へ進んだ。
浅い水が足首に触れる。冷たくはない。温かくもない。体温に近い水だった。白い服の裾はマシロが持ち上げ、水を吸いすぎないようにしている。メイの鎌は青白く光っていたが、その光も月色の霧の中で少し柔らかく見えた。
浜の中央に、大きな貝殻があった。
高さは澪の背の三倍ほど。第五層の巨獣のような巨大さではない。けれど、そこにあるだけで浜全体の明るさが変わる。殻は半透明で、月の光を固めたような色をしていた。内側から霧があふれ、霧の中にいくつもの景色が浮かぶ。
七瀬家。
星祭郷。
知らない草原。
澪が眠る小部屋。
朱音が笑っている顔。
ラウ婆が夜湯を置く手。
全部が静かで、優しい。
澪の視界に、本人にしか見えない名前が浮かんだ。
《月殻蜃》
殻が開いた。
中に、身はなかった。
代わりに、真珠のような白い球が一つ浮かんでいる。球の表面には、澪の知らない道がいくつも映っていた。帰れたかもしれない道。星祭郷に残ったかもしれない道。戦わずに眠ったかもしれない道。どれも、少しずつ本物に似ている。
澪は鎌を振った。
青白い斬撃が月殻蜃へ向かう。殻の縁が割れた。月色の破片が水面へ落ちる。だが、破片は音を立てずに霧へ変わり、また殻へ戻る。
「戻る」
澪は二撃、三撃と重ねた。
殻は割れる。戻る。真珠には届かない。鎖を伸ばす。霧に沈む。引くと、鎖に知らない景色が絡んでいた。白い部屋。柔らかい布団。何もしなくていい朝。澪は眉を寄せる。
「いらない」
鎖を振り払い、踏み込む。
月殻蜃の霧が広がった。
痛みはない。
水鏡湖のように傷の戻りを奪うわけでも、忘れ火の麒麟のように道を焼くわけでもない。ただ、体が軽くなる。戦わなくていい気がする。鎌を振る理由が薄くなる。メイの重さが、手に優しくなりすぎる。
澪は鎌を握り直した。
「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」
霧が揺れる。
七瀬家が浮かんだ。
今度は、よくできていた。椅子の位置も、照明の色も、結衣の卵焼きの皿も、前に襖の向こうで見た偽物よりずっと本物に近い。朱音が台所に立っている。ポニーテール。背中。澪、と呼ぶ声。
澪は止まった。
声が、似ていた。
似すぎていた。
月殻蜃の霧から、透明な殻片が飛んだ。澪の脇腹を裂く。血が流れる。傷はすぐ塞がる。今度は再生を乱されない。痛みも浅い。だが、止まった一瞬は大きい。
メイの鎌が鳴った。
澪は我に返り、鎌を振る。
殻片をすべて砕く。鎖で殻の縁を縛り、大剣へ変えた。青白い大刃が月殻浜の白い光を受ける。刃の周囲で空気が歪み、浅い水の月が波打った。澪は両手で柄を握り、月殻蜃へ向かって振り下ろす。
大剣が空を割った。
白い干潟が沈む。
月が映った水面がまとめてひび割れ、半径数百メートルの貝殻浜が丸く陥没した。貝殻の塔が倒れ、月色の霧が吹き飛ぶ。衝撃は殻へ届き、月殻蜃の外殻を大きく割った。真珠が見える。
「そこ」
澪は大剣を鎌へ戻し、走った。
月殻蜃は逃げない。
真珠の表面に、また景色が映る。
今度は星祭郷だった。
茶屋の娘が夜湯を置く。子供たちが澪の尻尾を見て笑う。ラウ婆が鈴を鳴らす。黒い猫が窓枠にいる。メイは部屋の隅で青白く沈み、マシロは布団を整えている。そこに澪がいる。白い尻尾を抱いて眠っている。
穏やかだった。
あまりにも、穏やかだった。
澪は足を止めない。
鎌を振る。
真珠へ届く直前、霧の中の澪が目を開けた。
その澪は言った。
「もう、帰ったよ」
刃が止まった。
メイが、止まったのではない。
澪の手が止まった。
帰った。
どこへ。
星祭郷の小部屋。夜湯の匂い。ラウ婆の鈴。子供たちの足音。三年分の道。三年分の夜。三年分の名前。
ここも、帰る場所になっていた。
その事実を突かれた。
月殻蜃の真珠から、細い白い糸が伸びた。糸ではない。霧より薄い何か。澪の額に触れる。痛みはなかった。冷たさもない。ただ、胸の奥から何かが抜ける感覚がした。
帰る。
その言葉が、軽くなる。
朱音先輩。
名前は残る。だが、遠い。
結衣ちゃん。
名前は残る。匂いも残る。けれど、そこへ向かう足が動かない。
メイ。
手の中にある。
マシロ。
着ている。
でも、なぜ立っているのかが分からなくなる。
澪は鎌を下ろした。
メイが鳴る。
強く鳴る。
鎖が水面を叩く。青白い刃が震える。マシロの袖が澪の口元に触れる。黒い猫が叫ぶように鳴く。どれも聞こえている。聞こえているのに、そこへ手を伸ばす理由が薄い。
「……つかれた」
澪は小さく言った。
月殻蜃の殻が、ゆっくり開く。
真珠の表面に、白い小部屋が映る。柔らかい布団。星祭郷の夜。何も痛くない場所。戦わなくていい場所。誰も怒らない場所。誰も泣かない場所。
澪の体が一歩進んだ。
メイの鎖が足に絡む。
止める。
澪はそれを見る。
「メイ」
名前は出る。
でも、その先がない。
なぜ止めるのか。なぜ進んではいけないのか。分かるはずのものが、霧の向こうへ沈んでいる。
マシロの布が肩を包む。白い服が澪を後ろへ引こうとする。だが、澪の意志がない。体は強い。再生もする。レベルも上がった。存在進化もした。けれど、動かす芯を抜かれると、強さはその場に立つだけの重さになった。
澪は鎌を落とした。
メイが地面に沈むように重く鳴る。
黒い猫が飛びかかった。二本の尾を膨らませ、月殻蜃の真珠へ爪を立てる。だが、爪は霧をかくだけだった。猫の体が白い霧に包まれ、数歩弾き飛ばされる。
澪はそれを見た。
助ける、と思う前に、その言葉が沈んだ。
月殻蜃の霧が澪を包む。
傷はない。
痛みもない。
ただ、澪の目から焦点が消えていく。尻尾が力なく下がる。猫耳の内側の星灯りが弱くなる。マシロの白い布は必死に澪の体を包み、汚れ一つない姿を保とうとする。メイは足元で鎖を伸ばし続ける。
それでも、澪は動かない。
月殻蜃の真珠に、小さな白い光が映った。
澪の形をした光だった。
その光が、真珠の中へ沈んでいく。
月殻蜃は殻を閉じ始めた。
その時、浜の遠くから鈴の音が聞こえた。
ラウ婆だった。
村の狩り手たちもいる。星読み石を持った茶屋の娘、四本腕の鍛冶師、素材屋の者。誰も浜へ入れないはずなのに、黒い猫が残した足跡を追ってきたのだろう。ラウ婆の鈴が、今度は鳴っていた。低く、強く、何度も。
「ミオ!」
ラウ婆の声が霧を裂く。
澪は振り返らない。
振り返る理由が、もうない。
村の狩り手たちが星鈴を投げた。鈴が浜に落ち、月色の霧を少しだけ払う。四本腕の鍛冶師が投げた鉄杭が殻へ刺さる。茶屋の娘が夜湯器の芯を割り、黒い湯気を広げる。どれも月殻蜃を止めるには足りない。
だが、澪の体を完全に飲ませる前に、メイの鎖が動いた。
澪を縛るのではなく、月殻蜃の殻を縛る。青白い鎖に水光、銀線、青火、霞の光が走る。月殻蜃の殻が閉じきる寸前、鎖が真珠の表面を深く傷つけた。
白い光がひとつ、真珠からこぼれる。
澪ではない。
澪の全部ではない。
けれど、何かの欠片だった。
黒い猫がそれに飛びつき、口にくわえる。猫はそのまま浜を駆けた。二本の尾が白い霧を裂き、ラウ婆の方へ走る。
月殻蜃が、初めて怒ったように霧を震わせた。
その隙に、狩り手たちが澪の体へ駆け寄る。
澪は立っていなかった。
浅い水の上に膝をつき、白い服を月色の霧に濡らし、鎌の柄から手を離している。目は開いている。息もある。傷はない。尻尾も、耳も、そこにある。けれど、視線は何も見ていなかった。
「ミオ」
ラウ婆が頬に触れる。
澪は瞬きもしない。
「名を呼べ」
ラウ婆が言う。
「朱音。結衣。メイ。マシロ。帰る。ミオ、呼べ」
澪の唇は動かない。
メイの鎖が、澪の手首へ絡む。
マシロの袖が、澪の口元を拭う。
黒い猫が、くわえていた白い欠片をラウ婆の足元へ置いた。欠片は小さく震えている。何の欠片なのか、誰にも分からない。ただ、それが残っていなければ、澪はもっと遠くへ沈んでいたのだと、誰もが分かった。
月殻蜃は、霧の奥で殻を閉じた。
完全には倒れていない。
五枚目の赤紙は、鎮まらなかった。
澪の体だけが、村へ運ばれた。
白い服は汚れを吸い、血も霧も水も残さない。体は傷を治し、呼吸を保つ。髪の内側の星砂も、猫耳の淡い光も、尻尾の先の青白さも消えない。
けれど、澪は戻らなかった。
その夜、星祭郷の茶屋の奥に、白い子の寝床が作られた。
メイは寝床の横で青白く沈み、鎖を澪の手首へゆるく絡めている。マシロは布団の中で澪の体を包み、少しの皺も許さないように白を整え続けた。黒い猫は窓枠に座り、二本の尾を下げていた。
ラウ婆は、澪の枕元で鈴を鳴らす。
「朱音先輩」
ラウ婆は、澪が何度も口にした名を真似た。
「結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」
澪は目を閉じている。
返事はない。
月殻浜で奪われたものは、傷ではなかった。
記憶だけでもなかった。
動こうとする芯。戻ろうとする意志。痛くても立つ理由。
それが、月殻蜃の真珠の中へ沈んだ。
澪。完全敗北です。




