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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第五章

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第八話 星骨竜魚①


 星祭郷で半年が過ぎた。


 夜は、相変わらず遠くまで澄んでいる。空には大きすぎる星が浮かび、足元の黒い石道にも細かな星砂が埋まっていた。村の屋根には薄い布と骨飾りが吊られ、風がない日でも、骨飾りだけはかすかに鳴る。朝と呼ばれる時間になると、星の明るさが少し薄くなり、家々の灯籠に青い火が戻った。


 澪は、その音と匂いに慣れていた。


 最初は扉の隙間から覗くだけだった灰青の子供たちも、今では道端から手を振る。額の硝子角に小さな星灯りを宿した子供たちは、澪の猫耳を見るたびにまだ目を丸くする。けれど、触ろうとはしない。半年前、触ろうとしてメイの鎖に足元を軽く叩かれた子がいたからだ。


 茶屋からは、夜湯の匂いが流れてくる。甘い草と熱い石を混ぜたような匂い。湯気の中に星が浮かぶその飲み物を、澪はもう普通に飲むようになっていた。


「ミオ、夜湯」

 茶屋の娘が言った。

「今日は濃い。歩く日」

「うん」


 澪は皿の上に灯籠胎の膜片を置いた。薄い膜の端には、小さな火の粒がまだ残っている。茶屋の娘はそれを受け取り、黒い湯呑みを差し出した。澪が両手で持つと、指先から体の奥へ温かさが染みていく。


 マシロの襟元には、星灯りを閉じ込めた硝子粒の留め具がついている。村の子供にもらったものだ。暗い場所では淡く光り、澪が眠る時には勝手に少しだけ光を落とす。マシロはもう外そうとしない。白い服は、星祭郷の夜に少しだけ馴染んでいた。


 メイは椅子の横で鎌の形を取り、青白い刃を静かに沈めている。刃の奥には黒と緑の線が絡み、光の角度によっては銀色の粒が散った。これまでに倒してきたものの名残が、そこに重なっている。澪はそれを言葉にしない。


 黒い猫は、いつもの席で丸くなっていた。


 二本の尾を揃えて、湯呑みから上がる星の湯気を見ている。名前はまだない。村の子供たちは勝手に「ふたお」と呼ぶが、猫は返事をしない。澪が呼ばなくてもついてくるし、呼んでも来ない時は来ない。半年経っても、そこは変わらなかった。


 茶屋の外で、低い鈴が鳴った。


 ラウ婆の足音だ。


 灰青の肌。細い耳。額の硝子角に流れる星砂。肩には古い灯籠殻を縫いつけた布。背は低く、腰は曲がっているが、人間の老婆ではない。澪はもう、ラウ婆の言葉の癖にも慣れていた。星祭郷の者たちは、澪の言葉をそのまま理解しているわけではない。けれど半年も暮らせば、だいたいは通じる。分からない時は、見せればいい。素材も、道具も、傷も、敵も。


「ミオ」

「なに」

「赤い紙が起きた」

「クエスト?」

「クエスト。お前の言葉では、それ」


 澪は夜湯を飲み終え、立ち上がった。


 クエスト用紙は茶屋の外、鍛冶小屋と素材屋の間にある黒い板に吊られている。村の者は赤紙、骨紙、硝子紙と呼び分ける。澪はまとめてクエスト用紙と呼んでいた。黒い骨を平たく組んだ板には、薄い紙や骨札、硝子札が並び、それぞれに絵と短い言葉が刻まれている。


 最初は、絵と模様にしか見えなかった。今は簡単なものなら読める。星の数、灯りの向き、線の切れ方。読めない字も多いが、危険な依頼ほど色が濃い。


 今日は、板の中央に赤い紙があった。


 紙というより、赤い水を薄く固めた膜に近い。表面には、黒い湖と、その中を泳ぐ長い骨の影が描かれていた。影の体には星が流れ、頭の奥に小さな光がいくつも浮いている。


 澪は依頼文を読む。


 水鏡湖の星骨が起きた。

 湖面を渡る者、戻らず。

 傷の戻りを失う。

 刃の手を失う。

 鎮めた者に、奥門札ひとつ。夜湯器の芯。湖底星砂。


 澪は最後の行を指でなぞった。


「奥門札」

「村の奥へ行く札」

「いる」

「たぶん、いる」

「じゃあ、受ける」


 澪は赤い紙を外した。


 周囲の音が少しだけ止まる。


 鍛冶小屋の四本腕の男が槌を下ろした。素材屋の娘が棚の奥に引っ込む。角に布を巻いた子供たちが、親の後ろから澪を見た。誰も、やめろとは言わない。けれど、見送る目ではなかった。危ないものに近づく白い子を、止められない目だった。


 ラウ婆が杖の鈴を鳴らす。


「水鏡湖は、きれいだ」

「うん」

「きれいなものほど、よく取る」

「何を」

「戻る形。持つ手。歩く前。そういうもの」

「分かりにくい」

「戦えば分かる」

「なら、行く」


 ラウ婆は少しだけ笑った。


「その答え、半年で変わらんな」


 澪は赤い紙を畳んでインベントリへしまい、メイを手に取った。鎌の柄が手に馴染む。マシロの裾が足元で揺れ、白い服の襟元の星灯りが淡く点った。黒い猫は一足先に歩き出している。


 水鏡湖は、星祭郷の外れにある。


 村の灯りを抜けると、道はゆるやかに下っていく。黒い石畳の隙間には、細い水が流れていた。その水は空の星を映し、時々、小さな魚のような光が泳ぐ。道の左右には、半透明の草が生えている。葉の中に夜空が透け、触れると星砂がこぼれた。遠くには、村の屋根が小さな橙色の点になって浮かんでいる。


 澪は何度もこの道を通った。


 素材を取りに行く時。星灯りの草を摘む時。黒い猫を追って迷った時。けれど、今日の道はいつもより静かだった。虫の声がない。草の星砂も落ちない。湖の方から、低い水音だけが聞こえている。


 坂を下りきると、水鏡湖が見えた。


 湖は、地上の水とは違う。黒く、浅く見えて、底がない。水面には夜空が映っている。けれど空よりも星が多い。湖の中の星は、ゆっくり流れていた。湖岸には白い骨のような木が並び、枝先に丸い灯りをつけている。風もないのに、灯りは水面へ向かって揺れていた。


 美しい場所だった。


 村の子供たちが近づきたがらない理由も分かる。あまりに静かで、綺麗で、ここに座っていれば何か大事なことを忘れても許されるような気がする。帰ることも、戦うことも、傷つくことも、全部が遠くなる。


 澪は湖岸で足を止めた。


 黒い猫は、少し離れた骨木の上へ跳んだ。二本の尾を丸め、そこで座る。


「来ない?」

 猫は鳴かなかった。

「分かった」


 澪は湖へ近づいた。


 水面に、白い少女が映っている。白い髪。猫耳。青白い鎌。星祭郷の留め具がついた白い服。半年で少し馴染んだ姿。それでも、そこに映る澪はどこか遠い。


 水面の下を、長い影が横切った。


 澪の視界に、本人にしか見えない名前が浮かぶ。


《星骨竜魚》


 次の瞬間、湖面が割れた。


 長い骨の竜魚が、水面の夜空から跳ね上がる。肉はない。透明な硝子骨が頭から尾まで連なり、骨の隙間を星砂が川のように流れている。鰭は薄い水膜で、揺れるたびに湖面と空が同じ形に歪んだ。眼球はない。頭蓋の奥に、小さな星がいくつも灯っている。


 大きさは、白鯨のような圧倒的な巨体ではない。


 それでも長い。十数メートルの骨が、空中でしなり、水面に映った星をまとっている。竜魚は音もなく澪へ向きを変えた。


 澪は鎌を振った。


 青白い斬撃が竜魚の頭蓋を裂く。硝子骨が砕け、星砂が散った。普通なら、それで致命傷に見える。だが、手応えが薄い。砕いた感触はある。殺した感じがない。


 星骨竜魚は砕けた頭蓋を水面へ落とし、落ちた骨を湖の星砂で拾い直した。


 骨が戻る。


「戻った」


 澪は二撃目を放つ。


 今度は胴を裂いた。骨が何本も割れ、鰭の水膜が破れた。だが、割れた骨は湖面へ沈み、水面に映った同じ骨が浮かび上がる。竜魚の体は、何もなかったように繋がった。


 星骨竜魚が尾を振った。


 水が来る。


 ただの水ではない。薄い星光を含んだ水の刃だった。澪は横へ跳ぶ。避けたはずだった。だが、足が一拍遅れた。足首が、どう動けばいいのかを忘れたみたいに、石を蹴る力を失う。


 水刃が腹を裂いた。


 血が散る。


 傷は塞がろうとした。いつも通り、肉が戻り、血管が繋がり、皮膚が閉じるはずだった。だが、途中で止まった。皮膚だけが先に寄り、内側が戻りきらない。腹の奥に熱い痛みが残る。

澪は一瞬だけ息を詰めた。


「……変」


 マシロの布が血を吸う。白い服はすぐに整う。だが、体の内側までは服では直せない。澪の再生は遅れて、数秒後にようやく腹の奥を思い出したように塞いだ。


 その数秒で、竜魚が迫っていた。


 硝子骨の顎が開く。澪は鎌を合わせようとした。手首が動かない。握り方を一瞬だけ見失う。鎌の重さをどう扱えばいいのか、頭から抜ける。


 メイの鎖が鳴った。

 足元の黒い石を叩く、小さな音。

 澪は握り直す。


「メイ」


 戻った。


 顎が左肩に食い込む。骨の歯が肩を砕き、血が跳ねた。澪は痛みの中で鎌を逆手に回し、竜魚の頭蓋へ刃を突き立てる。青白い刃が骨を割る。頭蓋の奥の星を狙う。だが、星は水面へ沈んだ。刃は空を切り、竜魚の体は湖の反射の中へ逃げる。


 澪は肩を押さえた。


 砕けた骨が戻る。肉が戻る。だが、戻る位置が一瞬ずれた。肩の骨が少しだけ違う角度で繋がりかけ、澪は顔をしかめる。再生がすぐに修正する。痛みだけが残る。


 湖面から、竜魚が三方向に映った。


 本体は一つ。だが、映りは三つ。どれも骨があり、星砂が流れ、鰭が揺れている。澪は目を細めた。鎌を振る。三つとも斬る。青白い斬撃が湖岸を横切り、映りをまとめて割った。


 だが、割れたのは映りだけだった。

 背後から水音。

 澪は振り返る前に、胸を貫かれた。


 竜魚の尾骨が、槍のように伸びている。白い服の胸元が赤く染まった。心臓の横を通っている。少しずれていたら、たぶん止まっていた。止まっても戻る。戻るはずだ。だが、今はその戻り方が乱される。


 澪は息を吸えなかった。


 血が喉に上がる。視界が白く揺れる。胸の穴が塞がろうとして、また止まる。体が、どこから戻せばいいのか迷っている。


 マシロの襟元の星灯りが強く光った。


 メイの鎖が竜魚の尾骨へ絡む。澪はそれを頼りに、胸に刺さった骨を掴んだ。引き抜く。血が噴く。すぐ塞がらない。痛い。息ができない。


 澪は膝をつきかけた。

 湖面に、七瀬家の食卓が映った。

 結衣の卵焼き。朱音の声。温かい部屋。帰っていい場所。

 それが、一瞬だけ夜湯の湯気に変わる。

 澪の目が揺れた。


「ちがう」


 声は掠れていた。


「朱音先輩。結衣ちゃん。メイ。マシロ。帰る」


 順番に口に出す。


 胸の穴が塞がる。今度は止まらない。澪は立った。白い服の血はマシロが吸い、胸元を整える。痛みは残る。けれど、呼吸は戻った。


 星骨竜魚が湖面の上を泳ぐ。


 今度は、澪の足元の影が動いた。水鏡湖は湖だけではない。湖に映る夜空も、湖に映る澪も、竜魚の通り道になっている。影の中から骨の鰭が出る。


 澪は飛ぶ。

 間に合わない。


 鰭が右脚を裂いた。太腿から膝までが開く。再生が走る。だが、脚が蹴り方を忘れた。骨も筋肉も戻っているのに、足が地面を踏まない。澪の体が傾く。


 竜魚の顎が迫る。

 澪は鎌を大剣へ変えようとした。

 形がほどけかけて、止まった。

 変え方が、一瞬抜けた。


「……大きいの」


 言葉にしても、手が思い出さない。


 竜魚の顎が迫る。透明な骨の歯が、澪の頭ごと噛み砕こうとしていた。


 メイが鳴る。

 一度ではない。


 鎖が何本も湖岸へ走り、黒い石へ食い込んだ。青白い刃の奥で、黒緑の線が深く沈む。その間に、ほんのわずか、湖の水光に似た色が混じった。澪はそれを見た。


「……そう」


 手が思い出す。

 鎌がほどけた。


 青白い大剣が現れる。澪の体より大きな刃。刃の周囲で湖面の夜空が曲がり、竜魚の顎がわずかに逸れた。澪は両手で柄を握り、踏み込む。踏み込んだ足がまだ少し遅れる。それでも振る。


 大剣が空を切った。

 空と湖面が同時に歪む。


 竜魚の顎、首、胴。まとめて大剣に押され、湖岸へ叩きつけられた。衝撃が地面へ落ちる。黒い石が割れる。星砂が噴き上がり、湖面の一部が丸く沈んだ。半径数百メートルの水鏡湖が、すり鉢のように陥没する。


 骨木が折れ、灯りが散る。

 湖面に映っていた夜空が歪み、星が雨のように落ちた。


 星骨竜魚の体は砕けた。


 頭蓋も、胴も、尾も、硝子骨のほとんどが粉々になって水面へ沈む。澪は息を切らし、大剣を支えにして立つ。胸も、腹も、肩も、脚も治っている。だが、全部が痛い。体が何度も治り方を迷ったせいで、内側が疲れている。


 湖は静かになった。

 数秒だけ。

 沈んだ湖面の底で、星砂が流れた。

 砕けた骨が、一つずつ浮かび上がる。

 澪は目を細める。


 骨が戻る。頭蓋が戻る。鰭の水膜が張り直される。竜魚は、さっきより少し細くなっていた。だが、まだ泳いでいる。頭蓋の奥の星は減っていない。


「まだ」


 澪は大剣を握り直す。

 湖面の夜空に、竜魚が映る。


 映った竜魚と、空中の竜魚と、沈んだ湖底の骨影。三つが同時に動いた。どれが本体か分からない。そもそも、本体というものがあるのかも分からない。


 黒い猫が遠くで鳴いた。


 ラウ婆たちは湖岸のさらに外から見ている。近づけない。半径数百メートルの湖岸が抉れ、星砂が熱い霧のように舞っている。村の狩り手たちは、澪が立っていることに息を呑んでいた。


 澪は、竜魚を見た。


 青白い大剣の刃に、ほんの薄く水光が走っている。さっきまではなかった色だ。黒緑の線の間に、湖面の星が一つだけ沈んだように見えた。


 澪は小さく呟く。


「次」


 メイが鳴る。


 星骨竜魚が、また泳ぎ出す。


 湖面に映った夜空の中から、無数の骨影が澪へ向きを変えた。

第三層第九環 最初のボスです。

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