第七話 第三層第九環 《星祭郷》
配信画面は黒いままだった。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
その文字だけが、アークラインの配信枠に残っている。コメント欄は流れ続けていた。祈るもの、騒ぐもの、公式情報を待つもの、ただ名前を呼ぶもの。映像は戻らない。音もない。けれど、配信枠は閉じられていなかった。
『復旧まだ?』
『信号は完全に切れてないんだよな?』
『公式、続報ください』
『黒画面のままなのが一番怖い』
『澪ちゃん、今どこにいるんだ』
『第三層第九環の中だろ』
『それが怖いんだよ』
『アークライン公式:端末周期反応は極微弱ながら継続しています。映像・音声の復旧を試行中です』
『完全に切れてない』
『それだけで待てる』
『待つしかない』
白野詩乃は病室でその黒い画面を見ていた。
治療の熱はまだ体に残っている。指先は震える。けれど以前より少しだけ動く。画面の中に澪はいない。白い髪も、青白い鎌も、猫の耳も見えない。ただ黒い画面と、復旧を試す文字だけがある。
詩乃はゆっくりとコメントを打った。
『黒画面の端で、帰り道の余白だけを温めている』
送信してから、息を吐く。
今度は消されなかった。
黒い画面の向こうで、澪は夜の中に立っていた。
裂け目を越えた瞬間、足元の感覚が消えた。落ちる、と思った。けれど落ちなかった。澪の足は黒い石の道を踏んでいる。石の表面には細かな星の光が埋まっていて、踏むたびに淡く光った。上には夜空。足元にも夜空。村全体が、大きな星の海に浮いているようだった。
空気は冷たくない。火を焚いた匂いと、甘い果実を煮る匂いが混ざっている。どこかで金属を打つ音がした。水に熱いものを落とす音もする。家がある。道がある。窓には橙色の灯りがあり、屋根からは骨飾りや布の札が下がっていた。
澪は鎌を握ったまま、周囲を見る。
村だった。
ただし、人間の村ではない。
扉の隙間から、小さな顔が覗いている。肌は灰色がかった青で、耳は細長い。額には硝子のような短い角があり、その中に小さな星が灯っていた。別の家から出てきた大柄な者は、背中に古い灯籠の殻を背負い、腰から細い尾を垂らしている。子供らしい小さな影は、角の星を布で隠しながら澪を見ていた。
黒い猫は道の中央に座った。
二本の尾がゆっくり揺れる。
「ここ」
澪が言うと、猫は短く鳴いた。
その声に反応したように、村の奥からひとりの老婆が歩いてきた。
老婆、と見える。背は低く、腰は少し曲がっている。けれど人間ではない。灰青の肌は薄い夜の布のようで、額から生えた二本の硝子角には、細かな星砂が流れていた。耳は長く、肩には小さな灯籠の殻をいくつも縫いつけた布を羽織っている。瞳は黒く、その奥に青い光が点っていた。
老婆は澪の前で止まり、杖についた鈴を一度鳴らした。
「白い、こども」
老婆の声は少し掠れていた。日本語に聞こえる。けれど、言葉の形がところどころずれている。
「落ちた。歩いてきた。どちら」
「歩いた」
「裂け目から?」
「うん」
「なら、落ちたのと同じ」
澪は少しだけ首を傾ける。
「ここ、どこ」
「星祭郷」
「ほしまつりごう」
「そう。星を灯す村。祭りを続ける村。外の言葉なら、たぶん、それで足りる」
「第三層第九環?」
「その数え方は知らない。ここは星祭郷」
会話は通じる。だが、ぴったり噛み合ってはいない。老婆は澪の言葉を聞いて、村の言葉に置き換えて返しているようだった。澪はそれを面倒だと思わない。第三層で聞こえてきた偽物の声より、ずっと分かりやすい。
老婆の視線が、澪の鎌へ落ちた。
青白い刃。刃の奥に沈む黒と緑の線。鎖の形。老婆は目を細め、少しだけ体を引いた。
「その刃、たくさん覚えている」
「メイ」
「名がある刃」
「うん」
「なら、乱さない。村の中では、刃を眠らせる。できるか」
「敵がいなければ」
「正しい」
老婆は頷いた。
その時、黒い猫が老婆の杖を尾で叩いた。老婆は猫を見下ろし、深く息を吐いた。
「お前が連れてきた」
猫は鳴く。
「やはり」
猫はもう一度鳴く。
「分かった。白い子。腹は空いているか」
「空いてない」
「体ではなく、道が空く。ここへ来たものは、みな道が乾く」
「帰る」
「今は帰れない」
「やってみる」
澪は左手を少し動かした。
転移の感覚を伸ばす。アークライン本部。七瀬家。朱音。結衣。弁当包み。知っている場所へ繋ごうとする。だが、伸ばした感覚は夜空の途中でほどけた。壁に当たるのではない。穴がない。向こうへ続く形そのものが、ここにはまだ見つからない。
魔力も足りない。
澪は手を下ろした。
「今は、無理」
「今は、そう」
「あとで帰る」
「なら、夜を覚える。星祭郷で迷わないことから始める」
老婆はそう言って、道の横にある小さな店を指した。
店先には板が並び、その上に小瓶、布、骨片、透明な石、 dried meat のようなものが置かれている。値札の代わりに、小さな皿があった。皿には魔物の爪、鱗、角の欠片、光る砂が少しずつ入っている。品物ごとに置かれている素材が違う。
澪はそれを見て、何となく理解した。
ここでは、素材を置いて物と交換する。
「素材」
澪が言うと、老婆は頷く。
「魔のかけら。獣の残り。灯りを持つ骨。そういうもの」
「ある」
「少し出す。大きすぎるものは出さない。村が騒ぐ」
澪はインベントリの中を確認した。
出せるものはいくつもある。だが、どれがこの村にとって大きすぎるのか分からない。澪は一度、第三層で倒した灯籠胎の膜片を出した。薄い透明な膜で、端に小さな火の粒が残っている。
老婆はそれを見て、店先の皿を指した。
「それで湯。寝床は、もう一つ」
「これ?」
「足りる」
「じゃあ、湯」
澪が膜片を皿へ置くと、店の奥から灰青の肌をした若い女が出てきた。角の中に淡い星が二つ灯っている。女は澪をちらちら見ながら、木の湯呑みを差し出した。
中には黒い湯が入っていた。
湯気が、夜空のように見える。小さな星が湯気の中で瞬き、湯呑みの縁から淡い光がこぼれている。澪が少し口をつけると、温かかった。味は薄い。けれど喉を通ると、足元の揺れが少しだけ静かになる。
「これ、いい」
「夜湯」
老婆が言う。
「道が乾いた時に飲む」
「もっとある?」
「湯を出す器がある。ずっと出る。高い」
「高い」
「星喰いの杯、三つ。灯籠胎の膜なら山ほど」
「ふぅん」
澪は店の奥を見た。
棚には不思議なものが並んでいた。手のひらほどの絵。絵の中には夜空と小さな家だけが描かれている。見ていると胸の奥がふわりと軽くなる。澪はすぐに目を逸らした。
「それ」
「笑い絵」
「危ない?」
「見すぎると、笑ったまま眠る。起こすのが大変」
「いらない」
「賢い」
別の棚には、小さなポットがあった。腹の丸い黒い器で、注ぎ口からは何も出ていないのに、周囲だけが少し温かい。老婆が指で叩くと、中から星の混じった湯気が漏れた。
「夜湯の器。旅に使う」
「便利」
「高い」
「あとで」
澪は頷いた。
そこで、何を出せば買えるのか知りたくなった。大きすぎるものは駄目だと言われている。だが、どれくらいが大きいのか分からない。澪は少し迷ってから、白鯨の骨片をほんの小さく削って出した。爪の先より小さい欠片だった。
店の空気が止まった。
若い女が湯呑みを落としかける。老婆の角の中の星砂が一瞬だけ逆流した。近くの家から覗いていた子供が、親に引っ張られて奥へ消える。店先の皿に乗っていた小さな素材が、欠片の方へ吸い寄せられるように震えた。
老婆は澪の手を布で覆った。
「しまう」
「小さい」
「小さいが、重い。ここでは、見せるものではない」
「買える?」
「たくさん。よくないほど」
「そう」
「白い子、それは夜の底の骨。軽く出すと、悪い目が集まる」
澪は骨片をインベントリへ戻した。
村の空気が少しずつ動き出す。だが、視線はもう澪から離れなかった。白い少女。猫耳。青白い鎌。夜の底の骨を、小石のように取り出す客。星祭郷の住人たちは、警戒と好奇心の混ざった目で澪を見ていた。
「小さいのにする」
「そうしろ」
「寝床」
「案内する」
老婆が歩き出そうとした時、村の端で鐘が鳴った。
低い音だった。
それまで家の窓から漏れていた橙色の灯りが、一つ消えた。次に道端の星が消える。黒い染みが、村の端からゆっくり広がっていた。
老婆の表情が変わる。
「星喰い」
「敵?」
「灯りを食べる。家の火も、道の星も、眠る子の夢も」
「倒す?」
「狩人を呼ぶ」
「どこ」
「向こうの棟。来るまでに、三つは食われる」
澪は湯呑みを置いた。
「行く」
「白い子、客は」
「邪魔」
「何の」
「帰る準備」
老婆はそれ以上止めなかった。
澪は走った。
村の端に、細長いものがいた。蛇に似ている。だが鱗はない。体は夜そのもので、輪郭だけが星の欠片で縁取られていた。頭は透明な杯のような形をしていて、中にはいくつもの小さな灯りが閉じ込められている。灯りは揺れ、消えかけていた。
星喰いが口を開く。
口の中には、さらに暗い空があった。
澪は鎌を振った。
青白い斬撃が飛び、星喰いの輪郭を裂く。閉じ込められていた灯りの一つが外へこぼれた。だが、体の奥までは通りにくい。星喰いは夜へ溶け、裂けた輪郭をまた繋げる。遠くから削れる。けれど、決め手にならない。
星喰いの尾が振られた。
暗さの塊が澪の脇腹をかすめる。白い服に黒い煤のような跡がつき、皮膚が裂ける。血が流れる。傷はすぐ塞がった。だが、冷たい痛みが残る。マシロの布が煤を吸い、白い服の表面を整えた。
「汚い」
澪は低く言った。
メイの鎌が鳴る。
鎖が地面に沈み、道に埋まった星の光を拾うように走る。澪は星喰いの動きに合わせて斬撃を重ねた。星喰いの輪郭が削れる。だが、また繋がる。離れたままでは長引く。近づけば、あの口に吸われる。
澪は踏み込んだ。
星喰いの口が開く。口の中の空が、澪の鎌を吸おうとした。刃の青白い光が歪み、黒緑の線が口の奥へ引かれる。澪は抵抗せず、さらに一歩だけ近づいた。
鎌がほどける。
大剣が現れた。
青白い大刃が星喰いの口の前で重く落ちる。吸い込もうとする暗さごと、刃の質量が押し返した。澪は柄を両手で握る。細い腕には大きすぎる。けれど、刃は動いた。
大剣が振り下ろされる。
近い距離で、夜が割れた。
星喰いの頭が杯ごと砕け、中に閉じ込められていた灯りが一斉に飛び出した。橙、青、白、薄紅。小さな光が村の屋根へ戻り、窓へ戻り、道の星へ戻っていく。星喰いの体はまだ逃げようとした。澪は大剣を鎌へ戻し、逃げる夜の胴を青白い刃で裂いた。
星喰いは声もなく崩れた。
夜の体は黒い砂になり、透明な杯の破片だけが地面に残る。澪はそれを拾い、少し見た。破片の中で、さっきの灯りが一つだけまだ瞬いている。
澪の視界の端に、本人にしか見えない文字が浮かぶ。
《レベルが134→135》
澪は何も言わなかった。
村の住人たちは、誰もすぐには声を出さなかった。扉の隙間から、窓の奥から、屋根の上から、無数の目が澪を見ている。怖がっている者もいる。助かったと分かっている者もいる。小さな子供は、隠れながらも角の布を少しだけ上げて、澪を見ていた。
老婆が遅れて歩いてきた。
杖の鈴が、さっきより静かに鳴る。
「白い子」
「なに」
「強い」
「うん」
「だが、痛む」
「少し」
「強いものも、寝る」
「寝る」
「よい」
老婆は星喰いの杯の破片を指した。
「それ、二つに分ける。ひとつは村。ひとつは白い子」
「使う?」
「灯りを溜める。道で役に立つ」
「分かった」
澪は破片を二つに割った。片方を老婆に渡し、片方をインベントリへしまう。老婆は受け取った破片を布に包み、胸元の灯籠殻へ入れた。殻の中に小さな火が灯る。
黒い猫が足元で鳴いた。
澪は猫を見る。
「まだ先」
猫は尾で村の奥を指した。
「今日は?」
猫は黙った。
「寝る」
猫は目を細めた。
老婆が頷いた。
「今夜は、白い子に小部屋を貸す。星が三つ落ちるまで外へ出るな」
「星、落ちる?」
「見れば分かる。三つ落ちる前に歩くと、昨日と今日が混ざる」
「面倒」
「ここでは普通」
茶屋の奥に、小さな部屋が用意された。
床は木ではなく、黒い石を薄く磨いたものだった。中に星の粒が混ざっている。布団に似たものは灰色で、触ると温かい。窓の外には村の屋根と夜空が見えた。遠くで、さっき消えた灯りを戻す歌が続いている。低く、静かで、眠気を誘う歌だった。
澪はインベントリから結衣の弁当包みを取り出した。
包みを開く。
卵焼きがある。
甘い匂いがした。星祭郷の料理ではない。祭りの綿飴でも、夜湯でも、星喰いの灯りでもない。地上の匂い。結衣が作った匂い。
澪は一つ食べた。
「おいしい」
小さく言ってから、少しだけ黙る。
おいしいと分かる。好きだとも分かる。けれど、なぜここまで安心するのか、言葉にしようとすると薄くなる。澪はもう一つ食べず、弁当を包み直した。マシロの袖が、澪の口元を軽く拭う。
メイは鎌の形のまま、部屋の端に青白い光を落としている。黒い猫は窓枠に座り、二本の尾を揺らしていた。まだ名前はない。
澪は布団に横になった。
目を閉じる直前、窓の外で星が一つ落ちた。
地上では、黒い画面が続いている。
『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』
『まだ戻らない』
『信号は?』
『公式、更新して』
『アークライン公式:端末周期反応は継続中。映像信号の復旧を試行しています』
『完全に切れてないなら待つ』
『澪ちゃん、今どこで何してるんだろ』
『寝ててくれ』
『それが一番いい』
『怪我してても治るけど、疲れはあるだろ』
『戻ってきてくれ』
白野詩乃は、黒い画面を見ながら、もう一度だけコメントを打った。
『黒い画面の奥で、白い子が眠れる余白だけは残っていてほしい』
送信する。
コメントは流れて、すぐに見えなくなった。
アークライン本部では、佐伯が観測室の椅子に座ったまま夜を越していた。信号は切れていない。だが映像にはならない。音声にもならない。ただ、周期反応だけが、細く、遠く、途切れそうで途切れずに残っている。
「澪さん」
佐伯は誰にも聞こえない声で呟いた。
「記録だけは、残してください」
星祭郷の小さな部屋で、澪は眠っている。
黒い猫は窓枠から夜空を見ていた。
二本の尾は、まだ村の奥を指している。
今回の9環は友好的な存在がいます。
そして転移で帰ることが出来ません。
もちろん帰還札も使えないです。
引き続きよろしくお願いいたします。




