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九環配信の澪 〜誰も帰らない絶景を〜  作者: 妄幽
第五章

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第六話 猫の案内


 二本の尾を持つ黒い猫は、水面の上を歩いていた。


 灯籠の光が足元を流れている。古い紙の内側で燃えるような淡い橙色の火だった。水は浅く見えるのに底がない。澪の影は足元から真下へ落ちず、水の奥へ引き伸ばされ、数秒遅れて揺れていた。


 黒い猫は振り返らない。


 片目だけが時々こちらを見る。金色の目ではなく、夜のように暗い方の目で見る。そのたび、澪の猫耳が小さく動いた。可愛いものを見ている反応ではない。近づきすぎたものを測るような、薄い警戒だった。


 メイは青白い鎌に戻っている。刃の奥には黒と緑の線が細く沈み、澪が歩くたびに冷たい光が薄く散った。先ほどの大剣の重さは、まだ手の中に残っている。澪は柄を握り直し、鎌の軽さと刃の流れを確かめた。


 鎌は、扱いやすい。


 振れば刃が伸びる。鎖が届く。離れたものも斬れる。足場の悪い場所では、こちらの方が呼吸を合わせやすかった。


『猫、まだ案内してる』

『罠なのか味方なのか分からない』

『水面の影が遅れてるの嫌すぎる』

『澪ちゃん、鎌に戻したな』

『大剣もやばかったけど鎌の方が自然に見える』

『メイの色、青白くて綺麗』

『黒と緑が少し混じってるのが不気味』


 水面の下で、何かが泳いだ。


 魚ではない。小さな灯籠の胎児のようなものだった。透明な膜の中に火があり、その火の周りを細い指の影が折り畳まれている。一つ、二つ、三つ。灯籠胎は水の中で増えながら、澪の影へ近づいてくる。


 澪は足を止めた。


 黒い猫も止まる。


 灯籠胎の膜が一斉に破れた。


 中から伸びたのは、白い糸だった。糸の先には小さな鈴が結ばれていて、鳴るたびに澪の足元の順番が薄れる。さっき踏んだ場所。今立っている場所。次に出す足。それらの並びが、鈴の音に合わせてほどけていく。


 澪は一歩下がろうとして、下がる場所を一瞬だけ見失った。


 マシロの裾が足首まで伸び、白い布が足裏の感触を押さえる。メイの鎖が水面を叩いた。澪は瞬きを一つ落とし、鎌を振る。


 青白い刃は灯籠胎に届く前に、薄い斬撃だけを水面へ飛ばした。


 水の上を、冷たい月の欠片が走る。


 離れた灯籠胎がまとめて裂け、白い糸が火の粉になって散った。さらに奥から糸が伸びる。澪は踏み込まず、鎌を二度、三度と振った。青白い斬撃が水面を低く滑り、灯籠胎の群れを遠くから切り開いていく。


『斬撃飛んだ?』

『相変わらず威力がバグ』

『水面走ってる』

『灯籠みたいなやつが裂けた』

『足場に触らせないのうまい』

『鈴の音で位置分からなくなるの怖い』


 黒い猫が鳴いた。


 短い声だった。催促に近い。澪は最後の糸を鎌の斬撃で払ってから、猫を見る。


「急ぐ?」

 猫はまた鳴いた。

「分かった」


 澪は水面を蹴った。


 足元に波紋が遅れて生まれる。白い姿が灯籠の列を抜け、灯籠胎の群れを置き去りにした。追ってくる白糸は鎖が弾き、遠くで膜が破れるたび、澪の鎌から飛んだ青白い弧が水面を渡った。


 配信画面に、公式の補足が重なる。


『アークライン公式解説/Noah Vale:The entities below the surface appear to interfere with positional memory. This does not confirm direct spatial displacement.(水面下の存在は位置記憶へ干渉しているように見えます。直接的な空間転移が確認されたわけではありません)』


『位置記憶って何』

『足場の感覚をずらされてる?』

『空間そのものじゃなくて、こっちの認識を触ってるのか』

『どっちでも嫌だわ』

『公式が断言しない時ほど怖い』


 月下詩人の一文が、流れの底に沈む。


『足跡を忘れる水底で、鎖の鳴る位置だけを抱えて沈みたい』


『また変なの流れた』

『でも分かる』

『抱えて沈むな』

『病み上がりなんだから浮いてろ』


 澪は猫を追い、水面の道を抜けた。


 行き止まりのように見えた先に、半分沈んだ鳥居があった。黒い猫は鳥居の上へ跳び、二本の尾で空を払う。水面に映っていた夕暮れが、布をめくるように裏返った。


 景色が変わる。


 水の匂いが消え、古い木と火薬の匂いがした。澪は石畳の上に立っている。左右には屋台が並んでいた。串焼きの煙も、飴細工の光も、金魚鉢の水も、その場で止まっている。遠くでは太鼓が鳴っていた。さっきまで聞こえていた祭囃子より近い。音が、胸の内側を叩く。


 黒い猫は屋台の屋根へ上がり、そこから澪を見下ろした。


「ここ」

 澪が言うと、猫は一度だけ瞬きをした。


 道の奥に、子供が立っていた。


 浴衣姿の子供だった。背は低く、顔には丸い白面をつけている。手には綿飴の棒。けれど、綿飴は雲のように膨らみ、その内側で小さな星が瞬いていた。子供は澪へ棒を差し出す。


「たべる?」


 声は幼い。だが、澪の喉の奥が一瞬だけ冷えた。


「いらない」

「おいしいよ」

「いらない」

「おなか、すいてるでしょ」

「すいてない」

「うそ。白い子、ずっと歩いてる」


 子供の面が傾く。


 屋台の明かりが増えた。誰もいなかったはずの通りに、人影が浮かび始める。浴衣の人々。面をつけた老人。手を繋いだ親子。笑い声。焼けた醤油と甘い砂糖の匂いが混ざり、腹の奥を柔らかく撫でてくる。


 澪はインベントリの中の弁当包みを思い出した。


 結衣が持たせてくれたもの。


 それを食べるのは、ここではない。


「いらない」

 澪はもう一度言った。


 子供は綿飴を引っ込めなかった。


「たべたら、いたくないよ」

「いらない」

「たべたら、かえらなくていいよ」

「いらない」

「たべたら、まってるひとも、まってたことも、やさしくなるよ」


 澪の目が少しだけ細くなった。


 優しくなる、という言い方が嫌だった。


 戻れないことを、柔らかく包んでいる。


『屋台出てきた』

『綿飴の中に星ある』

『食べたらだめなやつ』

『結衣ちゃんの弁当思い出した?』

『帰る理由あるの強い』

『この祭り、歓迎してる感じが逆に怖い』


 月下詩人のコメントが流れた。


『帰らなくていい祭りほど、灯りが甘い』


 子供が笑う。


 面の奥で、口だけが動いた気がした。


「じゃあ、あそぼう」


 屋台の金魚鉢が割れ、中から硝子の魚が飛び出した。魚は空中で薄い刃へ変わる。飴細工の鳥ではなく、飴細工の月が割れ、破片が針の雨になった。串焼きの煙は黒い縄になり、澪の腕ではなく、鎌の軌道へ絡みつく。


 澪は鎌を振る。


 遠くの煙縄が青白い斬撃で裂ける。硝子魚の刃が視界の端で跳ね、澪の頬を浅く切った。血が流れる。すぐ塞がる。マシロの襟元が揺れ、白い服についた赤だけを吸い取った。


 子供は笑いながら後ろへ下がる。


 距離が伸びる。歩いているのに近づかない。屋台の列が増え、同じ店を何度も通る。赤い提灯、金魚鉢、綿飴、射的、飴細工の月。さっき斬ったはずの煙縄が、また別の屋台から伸びる。


 澪は一度、足を止めた。


 鎌の斬撃は届く。だが、届いた先が遠ざかる。


 澪はメイを握り直す。


 鎌の刃がほどけ、大剣へ変わった。青白い大刃が屋台の灯りを浴び、黒緑の筋が深く沈む。澪は大剣の切っ先を石畳に置き、祭りの通りを見た。


「伸びるなら」


 澪は大剣を横へ振った。


 屋台の列がまとめて割れた。


 飴細工の月も、金魚鉢も、提灯も、煙も、距離を伸ばしていた通りの近くにあるものすべてが、青白い刃に押し潰される。祭りの音が乱れ、子供の姿が初めて近くに戻った。面の奥から、驚いたような息が漏れる。


「ずるい」

「そっちも」

「おまつり、こわすの?」

「帰る」


 澪は大剣を引き戻し、次の瞬間には鎌へ戻していた。


 大剣で近くの空間ごと押し潰し、鎌で遠くへ逃げる首を取る。


 青白い刃が弧を描き、子供の白面を斬った。


 面が割れる。


 中に顔はなかった。代わりに、小さな黒い星が一つ浮いている。星は震え、逃げようとする。メイの鎖が伸びて星を絡め取った。星は鈴のような音を立てて砕け、屋台の灯りが一斉に消える。


 祭りの人影も消えた。


 残ったのは、割れた白面と、灰色に崩れた綿飴だけだった。


 澪の視界の端に、本人にしか見えない文字が浮かぶ。


《レベルが133→134》


 澪は少しだけ頷いた。口には出さない。コメント欄は、戦闘が終わったことだけを見て騒いでいた。


『祭り消えた』

『大剣で近くの屋台ごと潰したのか』

『鎌に戻して仕留めた』

『大剣は近距離高火力って感じ?』

『鎌は斬撃飛ぶし広い範囲に対応できる』

『使い分けがはっきりしてきた』

『澪ちゃん、説明しないのに動きで分かるの怖い』

『アークライン公式解説/Noah Vale:The large blade was used after the apparent distance extension began. This does not prove that distance itself was destroyed.(見かけ上の距離延長が始まった後、大剣が使用されました。距離そのものが破壊されたと証明するものではありません)』

『距離そのものではない』

『でも近くのものは全部消えた』

『つまり近づかせたら終わり』

『あの大剣、近距離で振らせたらだめなやつ』


 アークライン本部の観測室では、澪の配信映像とは別に、刻差計のログが並べられていた。


 第三層第七環の奥で、地上時間と澪の周囲魔力周期にわずかな差が生じ始めている。大きなものではない。だが、差は増えていた。観測担当者は数値を保存し、佐伯へ報告を送る。


「第八環境界、想定より早いです」

「進行速度だけですか」

「いえ。境界の揺らぎがこちらへ寄っています」

「記録を継続してください」

「はい」


 大画面では、黒い猫が屋台の屋根から降り、割れた白面の前で一度だけ匂いを嗅いでいた。それから、また先へ歩き出す。


 地上の別室では、第三次オークションの入札者認証が進んでいた。画面には国名も企業名も出ない。代理コードと保証額だけが無機質に並び、桁だけが現実味を失っている。担当者たちは黙って認証を続けていたが、その端末の隅では、澪の配信が音を絞って流れていた。誰も、それを閉じなかった。


 第四層へ向かう遠征隊では、短い報告だけが届いた。


 澪、第三層第七環奥を突破。第八環境界接近。


 朱音はその文字を読んで、しばらく黙った。映像は開かない。小夜に止められているし、自分でも分かっていた。見れば、今やるべきことが揺れる。


「進んでるんですね」

「うん」

 小夜が柔らかく言った。

「澪ちゃんは進んでるよ」

「……はい」

「朱音さんも、ちゃんと休んでから進もうね」

「はい」


 朱音は端末を伏せ、槍に額を寄せた。


 澪はそんな地上を知らない。


 祭りの通りを抜けると、景色は急に静かになった。


 石畳が途切れ、足元に古い畳が現れる。屋外のはずなのに、畳の匂いがした。左右には襖が並び、開いているものも、閉じているものもある。襖の向こうからは、それぞれ違う音が聞こえた。雨。赤ん坊の泣き声。学校のチャイム。鍋の煮える音。知らないはずの誰かの笑い声。


 黒い猫は畳の廊下を歩く。

 澪は少しだけ歩調を落とした。

 襖の一つが、ひとりでに開く。


 中には、七瀬家の食卓によく似た部屋があった。似ているだけだ。椅子の位置が違う。照明の色も少し違う。匂いも違う。それでも、テーブルの上には卵焼きに似たものが置かれていた。


 澪は立ち止まる。

 黒い猫も止まった。


 卵焼きに似たものは、湯気を立てている。甘い匂いがした。けれど、結衣のものではない。そう思った瞬間、澪はなぜ違うと分かるのか、少しだけ分からなくなった。


 マシロの袖が引く。

 メイの鎖が畳を軽く叩いた。

 澪は息を吸う。


「違う」


 襖の中の部屋が、紙のように薄くなる。


 テーブルも、椅子も、湯気も、卵焼きに似たものも、すべてが透けていく。奥から何かが覗いていた。目ではない。記憶の穴のような黒い丸。澪が一歩下がると、襖は音もなく閉じた。


『今の部屋、七瀬家?』

『いや知らん』

『卵焼きみたいなのあった』

『澪ちゃん止まった』

『偽物出してくるの悪趣味すぎる』

『似せた灯りは、帰る場所の影だけを盗む』


 澪は襖の前を通り過ぎた。

 次の襖から、朱音の声が聞こえた。


「澪」


 澪は止まらない。

 その次は結衣の声。


「澪ちゃん」


 澪は止まらない。

 さらに次は、自分の声。


「もう、いいよ」


 澪は鎌を振った。


 青白い斬撃が襖の列を遠くまで裂く。中にあった部屋も、声も、匂いも、すべてが紙片になって舞い上がった。紙片の向こうに、ひときわ大きな門が現れる。


 第三層第八環。


 門というより、巨大な時計の骨だった。文字盤の外枠だけが空中に浮き、針はない。数字もない。ただ、輪郭の内側で無数の記憶の断片が回っている。雨の廊下。祭りの灯。骨の鐘。朱音の白い翼。結衣の弁当包み。黒樹の匂い。白鯨の影。どれも一瞬だけ見えて、すぐに消える。


 黒い猫は門の手前で座った。

 澪は猫を見る。


「まだ行く?」

 猫は目を細めた。

「そう」


 澪は門をくぐった。


 空気が変わる。


 音が消えた。祭囃子も、コメントの通知音も、メイの鎖の小さな鳴りも、すべてが一瞬だけ遠ざかった。配信映像には細かいノイズが走り、コメント欄の流れが大きく遅れる。


『第八環?』

『今、門くぐった?』

『音消えた』

『コメント反映遅い』

『澪ちゃん聞こえてる?』

『第八環入ったっぽい』

『ここからさらに奥が九環か』

『アークライン公式:配信遅延が増加しています。視聴者側の表示と現地進行に差が生じている可能性があります』

『遅延増加』

『今見てる澪ちゃん、もう少し先にいるかもしれないってこと?』

『怖いこと言うな』


 第八環は、道ではなかった。


 空中に畳、石畳、水面、墓標、木の根、階段、屋根瓦がばらばらに浮いている。それらが繋がって道になり、数歩進むたびに順番が変わる。上下の感覚も薄い。澪が一歩踏み出すと、足元の畳が壁になり、次の石畳が天井から降りてくる。


 澪は落ちない。


 メイの鎖が浮いた足場を繋ぎ、マシロの裾が風を受けるように形を変えて体の向きを整える。澪は鎌を手に、ばらばらの道を進んだ。


 敵は形を持ちすぎていた。


 砂時計の腹を持つ人形。開くたびに別の部屋を見せる襖面。足の代わりに文字列を引きずる影。体の中で小さな祭りを灯している硝子の箱。どれも澪の記憶や時間へ触れようとしてくる。


 澪は鎌で斬った。


 離れた襖面には青白い斬撃を飛ばし、文字列の影は鎖で縫い止める。硝子の箱が近くで膨らんだ時だけ、大剣へ変えた。青白い大刃が近距離の空間を重く塗り潰し、箱ごと祭りの灯を砕く。大剣は細かな動きには向かない。だが、近づいたものを逃がさない。


 澪は何度も傷ついた。


 砂時計人形の砂が肩を削る。文字列の影が脇腹を裂く。襖面の奥から伸びた紙の刃が太腿を切る。血は散る。傷はすぐに塞がる。痛みと疲労だけが積もっていく。マシロの布は白い服に散った血を吸い、破れた袖を何度も整えた。


 澪は止まらない。


『戦闘密度おかしい』

『敵の形が全部嫌』

『鹿とか鳥より意味分からん』

『砂時計の人形、斬られた後も砂だけ動いてたぞ』

『鎌は離れた敵に強い』

『大剣は近くに来たやつを消す』

『澪ちゃん血出てるけどすぐ塞がってる』

『痛そうなのに動き変わらない』

『マシロの服がずっと直ってる』

『アークライン公式解説/Noah Vale:Multiple hostile forms are visible. The current footage does not support a stable route map.(複数の敵対形態が確認できます。現在の映像は、安定したルートマップを作成できるものではありません)』

『地図作れないのか』

『道が道じゃないもんな』

『澪ちゃんが進めてるだけ』


 コメントが少しずつ遅れていく。


 澪が敵を斬ってから、コメントが反応するまでの間が長くなる。今見ている映像が、数秒前なのか、数十秒前なのか、分からない。配信は続いている。けれど、第三層の奥が地上の時間から少しずつ離れていく。


 黒い猫は時々現れ、時々消えた。


 澪が足場を選び損ねそうになった時だけ、灯籠の上や逆さの屋根の端に座っている。二本の尾が揺れ、その先へ行けと示す。澪は猫を追った。信用しているわけではない。ただ、猫は澪を止めようとはしていなかった。


 第八環の奥で、空が割れていた。


 夕暮れの空に、縦の裂け目がある。裂け目の向こうには夜が見えた。星がある。だが、地上の星ではない。大きすぎる星、近すぎる星、瞬きではなく呼吸する星。その夜の下に、遠く、街の灯りのようなものが見えた。


 澪は足を止めた。

 黒い猫が、裂け目の前で座っている。


 そこには門がなかった。鳥居も、時計の骨も、階段もない。ただ空が裂け、向こう側が見えている。第三層第九環。誰も到達したことのない場所。ダンジョンの奥に沈んだ、別の世界の入口。


 配信映像が大きく乱れた。


『なにあれ』

『星?』

『夜?』

『第九環?』

『街の灯りみたいなの見えた』

『画面止まる』

『コメント遅延やばい』

『澪ちゃん、聞こえてる?』

『行くの?』

『待って』

『公式、何か言って』

『アークライン公式:第三層第九環と思われる境界を確認。通信状態が不安定です。以後の映像・音声は欠落する可能性があります』

『やめて』

『欠落って』

『ここで切れるのか』

『澪ちゃん』

『帰ってきて』

『切れる前の一秒に、白い背中の輪郭だけを縫い留めたい』


 その次に、もう一つ。


『月下詩人:黒画面の内側に貼りついた未送信の脈になって、帰還ログが点るまで白い喪失を温め続けたい』

このコメントは削除されました。

『今の見えた?』

『見えた』

『何言ってるか分からんけどやばかった』

『削除早い』

『詩人ニキ飛ばすな』

『でも戻ってきた感じはある』

『いや今はそれどころじゃない』


 澪は知らない。


 コメントはもう、ほとんど届いていない。端末の音が遠い。刻差計の文字盤は三つとも違う速さで震えている。マシロの襟元が小さく動き、白い服が首元まできちんと整う。メイの鎌は、青白く静かに光っていた。


 黒い猫が裂け目の向こうへ跳んだ。

 澪は一度だけ後ろを見た。


 夕暮れの道。第八環の浮いた足場。割れた舞台。祭りの灯。襖の声。全部が遠い。地上はもっと遠い。朱音も、結衣も、アークラインも、コメント欄も、すべてが薄い膜の向こうにある。


 それでも、消えてはいない。

 澪は鎌を握り直した。


「行く」


 白い足が、裂け目を越えた。

 映像が崩れる。


 夜空が広がる。星の海。黒い猫の二本の尾。遠くに浮かぶ灯り。誰かの歌声。そこまで映って、配信画面は大きく歪んだ。


『深層干渉により映像信号を喪失しました。復旧を試行しています。』


 その表示だけが、黒い画面に残った。


 アークライン本部の観測室では、誰もすぐには声を出さなかった。画面には、黒いノイズと復旧試行中の表示だけが残っている。佐伯は端末の縁を握り、深く息を吐いた。


「記録は」

「直前まで保存済みです」

「端末信号は」

「完全消失ではありません。極微弱ですが、周期反応があります」

「切らさないでください」

「はい」


 第四層へ向かう遠征隊では、遅れて届いた短い報告を小夜が受け取った。朱音はその顔を見て、何かを察した。


「澪ですか」

「うん」

「何がありました」

「第三層第九環に入ったみたい」

「配信は」

「映像信号を失ったって」


 朱音は息を止めた。


 槍を握る手に力が入る。泣きそうになるより早く、小夜がそっと手を重ねた。


「朱音さん」

「……はい」

「今は、ここで崩れないことだよ」

「分かっています」

「うん。澪ちゃんは進んだ。だから朱音さんも、帰るために進もうね」

「……はい」


 朱音は目を閉じた。

 澪は帰ると言った。

 なら、自分も帰る場所を守る。


 黒い画面の向こうで、澪はもう第三層第九環にいる。

一般モンスター倒しただけでもポンポンレベル上がりますね。まぁ…そゆことです。

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