第十七話 九環王国
この物語はフィクションです。
物語内の国は実在しません。
レムリアス連邦という国名は、その日の昼まで探索者用の地図に残っていた。
一般地図から国境線が消えたわけではない。首都の名前も、空港も、港も、山脈も、国旗も、画面の上にはまだあった。けれど探索者が使う管理地図では違った。ダンジョン管理色が変わっていた。第一管理区域から第四管理区域まで、灰色と青に塗り替えられている。国際探索者協議会の暫定管理、アークライン主導監査、隣接管理圏との共同監視。昨日までレムリアスの色だった部分は、どこにも残っていない。
国家はそこにある。ダンジョン国家としては、もう死んでいた。
「最大クランの全支部、登録抹消を確認」
「旧探索者庁上層、通信権限停止。関係端末は押収済み」
「国外逃亡支援網、残存十二地点を封鎖」
「資金源第四系統、最上位到達。企業連合側の理事会が解散を発表」
「連邦府関係者三名、保護要請。受理圏なし」
「レムリアス北部第九環監視網に不自然な欠損。旧政権側の隠蔽ログを復元中」
「後で詳しく。今は管理移行を優先してください」
アークライン本部の地下会議室で、佐伯は壁一面の地図を見ていた。眠っていない。けれど声は乱れない。壁にはレムリアス連邦の輪郭と、国内ダンジョンの管理区域が重ねられている。線が多すぎて、もはや国土ではなく血管の図に近い。金融、素材、薬剤、装備、通信、護衛情報、クラン登録。すべてが一つの襲撃に繋がっていた。
榊原が公式発表の文面を読み上げる。
「旧レムリアス連邦ダンジョン管理区域の一部を、国際探索者協議会暫定管理下へ移行。アークラインは提携各機関と連携し、深層素材流通、探索者安全保障、関連被害補償の安定化に協力する」
「旧レムリアス連邦、ではなく」
法務責任者が口を挟んだ。
「現時点では国名として残っています」
「探索者管理上は旧扱いで構いません」
佐伯は言った。
「この地図で生きていない国を、探索者社会が国として扱う理由はありません」
誰も反論しなかった。法務責任者も、それ以上は言わない。現実の国境線より先に、ダンジョンの管理地図が変わる。この世界では、それだけで歴史が変わる。
「新名称は」
「九環国際管理区。第一稿ではそうしています」
「通りますか」
「通します」
神楽坂が壁の地図を見上げた。灰色と青で塗られた旧レムリアスの中央に、暫定名称が表示される。
九環国際管理区。
その文字を見た瞬間、会議室の何人かがわずかに息を止めた。澪の配信名。誰も帰らない絶景を歩く少女の名。その名が、一つの国の跡地に置かれている。
「澪さんの許可は」
ミナトが言った。
「政治的主体ではありません。管理区名称です」
「本人は嫌がりそうですが」
「嫌がるでしょうね」
佐伯は初めて、少しだけ疲れたような顔をした。
「ですが、世界には分かりやすい名前が必要です。澪さんの周辺に手を出した結果、国の管理名が変わった。その事実を隠さない方がいい」
榊原の端末が震えた。公式発表が流れた直後だった。
「コメント欄、反応が早いです」
「監視を」
「はい」
『九環国際管理区?』
『名前やば』
『旧レムリアス、国じゃなくて管理区扱いになってる』
『国境は残ってるけどダンジョン管理色が消えた』
『実質終わりじゃん』
『九環の名前ついたぞ』
『九環王国じゃん』
『王国とか言うな怖い』
『いやもう九環王国だろ』
『王、本人絶対知らなそう』
『澪ちゃん今たぶん病院でぼーっとしてる』
『国消してる間に本人が卵焼きの話してそうなのが一番怖い』
『澪に喧嘩売ると地図変わるの、もう世界常識だな』
『本人じゃなくて周辺に手を出してこれ』
『じゃあ本人に手を出したら何が起きるんだよ』
『考えるな』
『考えた国が消えた』
榊原が目を細めた。
「九環王国、という呼称が伸びています」
「止めますか」
「止めなくていい」
佐伯は壁の地図を見たまま答えた。
「正式名称ではありません。ですが、勝手に広がる通称ほど抑止力になるものはありません」
旧レムリアス連邦の首都では、発表から十分で銀行前に人が集まり始めた。一般市民はまだ何も理解していない。国が消えたわけではない。店は開いている。電車も動いている。役所の建物もそこにある。だが、探索者関連の窓口だけはすべて閉じていた。国内最大クランの本部ビルには、もうクラン名が表示されていない。壁面の巨大な紋章は黒く消灯し、入口には国際探索者協議会の封鎖札が貼られていた。
そのビルの地下で、一人の男が叫んでいた。
「登録が消えただけだろうが! 俺はレベル百三十八だぞ!」
男は旧レムリアス最大クランの副団長だった。二次進化済み。国内では英雄扱い。過去に二度、都市防衛を成功させている。政治家は彼の機嫌を取り、企業は彼に装備を献上し、庁の幹部は彼と同じ席で酒を飲んだ。
その端末は黒かった。所属も、資格も、素材売買権も、ダンジョン入場許可も、すべて消えている。
「ここは俺の拠点だ。俺の装備を返せ」
「封鎖対象です」
黒鉄旅団の隊員が答える。
「誰の命令だ」
「共同措置です」
「俺と戦う気か」
「抵抗と判断します」
男は剣を抜こうとした。その瞬間、床が沈んだ。重力系の拘束符、影縫い、神経阻害の短槍、遠隔結界、そして背後から踏み込んだ別の大手クランの剣士。どれも単独では男を止められない。だが、十二人が一拍もずらさず重ねた。男の膝が砕けるように床へ落ち、剣は鞘から半分も抜けずに止まった。
「ふざけるな……俺は、この国を守ってきた……」
「その国は、もうあなたを守りません」
隊員は淡々と言った。
男は初めて、周りを見た。同じクランの幹部たちは誰も助けない。助けるどころか、目を逸らしている。彼の背後にある資金経路が、非公開警備対象への攻撃支援網に繋がった時点で、彼は高レベル探索者ではなく処理対象になっていた。
地位も、実績も、レベルも、庇護も、何も残らなかった。
別大陸の港湾都市では、レムリアス系の情報屋がホテルの一室で端末を叩き割っていた。
「住所を売っただけだ。護衛の周期を流しただけだ。殺すなんて聞いてない」
狭い部屋だった。窓の外には濡れた路地が見える。偽名の予約、偽造身分証、暗号資産の予備口座、逃亡用の別端末。全部用意してあった。これまで何度もそれで逃げてきた。
今回は、何も動かなかった。口座は開かない。偽名は照合で弾かれる。連絡役は応答しない。いつもなら保護を売る相手が、今回は最初に切った。情報屋は端末の残骸を踏みつけ、荷物を掴んで部屋を出ようとした。
扉の外に、誰もいなかった。
それが一番怖かった。追手がいない。怒鳴り声もない。足音もない。ただ、ホテルの鍵が開かない。エレベーターが動かない。非常階段の扉も開かない。窓の外に見える路地には、人通りがない。
自分だけが、世界から切り離されていた。
壁のスピーカーが鳴った。
『あなたの身柄は、国際探索者安全保障案件として保全されています。抵抗しないでください』
「ふざけるな。俺は誰も殺してない」
返事はなかった。
情報屋はその場に座り込んだ。誰も買わない。誰も匿わない。誰も名前を呼ばない。住所を売っただけの男は、住所を持たない者になった。
アークライン本部の医療区画では、結衣が卵焼きの話をしていた。
「甘いやつね」
「うん」
「砂糖多め?」
「多め」
「お姉ちゃん、甘すぎるの苦手じゃなかった?」
「澪用ならいいよ」
朱音が言う。
「お姉ちゃん、澪ちゃんに甘い」
「結衣にも甘いでしょ」
「うん。でも澪ちゃんには、もっと甘い」
「それは……うん」
結衣は楽しそうに笑った。澪は椅子の上で膝を抱え、少しだけ首を傾げている。結衣は、澪のことをほとんど思い出していない。けれど、名前はもう自然に呼べる。昨日よりも怖がらない。袖も掴む。マシロが動いても笑う。メイが鳴っても驚くだけで、離れない。
それで十分だった。
引きずり続けるものではない。欠けたものはある。でも、今ここで新しく積むことはできる。澪はそれを、少しずつ理解し始めていた。
佐伯が入ってきたのは、その少し後だった。表情は整っているが、目元の疲労は隠しきれていない。朱音が立とうとすると、佐伯は手で制した。
「そのままで構いません」
「進展が?」
「主要系統は消えました。残りは追跡と監査です」
「消えた?」
結衣が聞き返す。
佐伯は一瞬だけ言葉を選んだ。
「二度と同じことができない状態になりました」
「そっか」
結衣はそれ以上聞かなかった。朱音が教えたからだ。外の怖い話を、ここに持ち込みすぎない。澪ちゃんが怖い顔になるから、と。
澪は佐伯を見た。
「国」
「九環国際管理区になります。正式には暫定管理名です」
「ふぅん、そっか」
「世間では、すでに別の呼び方が出ています」
「なに?」
「九環王国、と」
「いらない」
即答だった。
結衣が目を丸くして、それから笑った。
「澪ちゃんの国?」
「いらない」
「王様?」
「しない」
「でも、名前ついてるんでしょ?」
「知らない」
「王様、卵焼き食べる?」
「食べる」
「じゃあ王様じゃなくて、お客さんだね」
「うん」
朱音が吹き出しかけて、口元を押さえた。佐伯も、わずかに目を伏せる。笑ったわけではない。ただ、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「それと、住居の件です」
佐伯が続けた。
「七瀬家には、保護対象住居への移転を提案します。場所はアークライン管理区画内。外周三重警備、地下避難路、魔導防壁、医療連絡線、直通連絡用の開けた中庭があります」
「費用は」
朱音が言いかけたところで、澪が答えた。
「買う」
「澪」
「買う」
「いや、待って。家って、そんな簡単に」
「危なかった」
「それは、そうだけど」
「新しい家、いる」
「でも」
「お金、ある」
澪の声はいつも通りだった。自慢でもない。気負いもない。コンビニで水を買うくらいの温度で言っている。
佐伯が補足した。
「澪さん個人資産、および澪さん名義の安全保障基金から支出可能です。基金の設立目的は、澪さんおよび周辺保護対象の安全確保です。用途としては適合します」
「基金って、家を買うものなんですか」
「今回は安全施設です」
「家ですよね」
「安全施設です」
佐伯は真顔で言った。
結衣が手を上げた。
「キッチンありますか」
「あります。広いです」
「卵焼き作れますか」
「作れます」
「じゃあ賛成」
「結衣」
「だって、お姉ちゃん。また襲われたら嫌だし。澪ちゃんも怖い顔になるし」
「……それは」
「あと広いキッチン、ちょっと見たい」
「そこが本音でしょ」
「半分」
澪は結衣を見て、小さく頷いた。
「キッチン、いる」
「いるよね」
「うん」
「甘い卵焼き作るから」
「うん」
朱音はしばらく黙っていた。受け取っていいものなのか分からない。家族を守るために必要だと分かっていても、澪から家を買ってもらうという事実が重すぎる。けれど、結衣が笑っている。父と母も安全な場所を必要としている。自分一人の遠慮で断れる話ではなかった。
「……ありがとう、澪」
「うん」
「ちゃんと、返せるものは返すから」
「いらない」
「そこは言わせてよ」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
メイの鎖が、澪の足元で小さく鳴った。マシロの裾が、なぜか少し誇らしげに揺れている。結衣がそれを見て笑った。
「マシロちゃんも新しい家、楽しみ?」
白い裾がふわりと広がる。
「楽しみっぽい」
「メイちゃんは?」
鎖がちり、と鳴る。
「楽しみ?」
「たぶん、広い床」
「床が好きなの?」
「絡まる」
「絡まるんだ!?」
医療室の外では、まだ世界が動いていた。旧レムリアスのダンジョン管理区は九環国際管理区へ変わり、コメント欄では九環王国という言葉が広がり続けている。旧政権の関係者は保護を失い、大手クランは名簿から消え、情報屋は世界から切り離された。誰かが助けようとしても、その手ごと処理対象になる。だから、誰も手を伸ばさなかった。
『九環王国、公式じゃないのに定着早すぎ』
『旧レムリアス、探索者地図だともう国名出ない』
『澪ちゃん本人は多分いらないって言う』
『言いそう』
『王様というより白い鎌持った災害対策本部』
『喧嘩売る相手じゃなくて草』
『周りに手を出す相手でもない』
『今回で世界中が分からせられたね』
佐伯は医療室を出る前に、一度だけ振り返った。
澪は結衣と卵焼きの話をしている。朱音は疲れた顔で、それでも二人を見ている。マシロは白いまま、ベッドの端を整えている。メイは床で丸まり、時々小さく鳴る。
外の地図は変わった。だが、ここにあるものは変えさせない。
佐伯は扉を閉め、廊下へ出た。端末には新しい報告が届いている。旧レムリアス北部第九環、封鎖記録欠損。監視網破壊の痕跡。旧政権残党による嫌がらせの可能性。緊急性は、まだ低いと表示されていた。
佐伯はその報告を見て、眉を動かした。
「監視を増やしてください」
『承知しました』
「第九環関連は、低緊急として扱わないでください」
『はい』
通信を切る。
廊下の窓の向こうには、朝の光が差していた。医療区画の白い床に、細い光が伸びている。長い夜は終わった。けれど、夜が残したものは、まだ世界のあちこちに沈んでいる。
その一つが、半年後に牙を剥くことを、この時点ではまだ誰も知らなかった。
澪は王様だね。みおーさま?
ただ本人は全く興味ないので、多分もう出てこないです。
…たぶん?




