第十八話 白鯨降臨
卵焼き最近よく作ります。何でだろう。
新しい家には、澪の部屋もあった。
七瀬家の家、というより、七瀬家と澪が一緒に暮らすための家だった。アークライン管理区画の内側に建つ、白と灰色の低い二階建て。外から見れば静かな住宅にしか見えないが、敷地の外周には三重の魔導防壁、地下には避難区画と医療連絡線、屋根には観測符、門の左右には常駐警備の小さな詰所がある。中庭は芝生ではなく、薄い石畳で広く空けられていた。澪が急いで帰ってきた時に、床や植木や車を壊さないためだと佐伯は言った。
澪はその説明を聞いて、少し首を傾げた。
「たまにしか壊さない」
「たまに壊すんだ」
結衣が笑う。
「急ぐと」
「そっか〜。じゃあ中庭必要だね!」
「うん」
「澪ちゃん用の着地場!」
「着地場」
「かっこいいでしょ〜?」
「ふぅん、いいじゃん」
七瀬家の暮らしは、そこで作り直された。結衣は澪の名前をもう確かめない。抜け落ちた記憶は戻っていないが、新しい記憶は積み上がった。朝、澪が眠そうに階段を下りてくること。メイがリビングの広い床で丸まりたがること。危ない時は澪がメイをインベントリへしまうと、しばらく足元が物足りなさそうになること。マシロが洗濯物を畳むのを手伝いたがること。澪は甘い卵焼きを待つ時だけ、世界一有名な探索者ではなく、ただの同居人みたいな顔になること。
半年の間に、地上の澪は少しずつ増えた。
朱音のブートキャンプ第2弾は、死亡前提ではなかった。高効率レベリング、久遠による槍の基礎修正、黒鉄旅団との合同訓練、朱音の《聖域》展開維持訓練。朱音は強くなった。強くなったが、久遠には勝てなかった。槍を振る前に重心を崩され、踏み込む前に間合いを潰され、白い翼を広げる前に槍の石突きが足首の横へ置かれる。
「七瀬、力は伸びた。だが、まだ前へ出る理由が雑だ」
「……はい」
「守りたい相手がいるのは悪くない。だが、守りたいから突っ込むのは違う」
「はい」
「もう一回」
「お願いします」
久遠は槍使いだった。探索者高校の訓練場で、久遠が槍を持つと空気が変わる。重心、間合い、歩幅、肩の開き。朱音が得た力を、久遠は力ではなく技でほどいた。その久遠に、澪が稽古をつける日もあった。見学席は生徒で埋まり、廊下まで人が溢れ、学校側は慌てて観覧制限をかけた。澪はメイをインベントリへしまったまま、手ぶらで立つ。久遠は訓練用の槍を構え、笑った。
「本当に素手でいいのか」
「うん」
「では、遠慮なく」
久遠の槍が走る。突きではない。突きに見せた払い。澪の膝を崩し、背後へ回り、踏み込みを封じるための連続。だが、澪は半歩だけ動いた。槍の穂先が白い髪をかすめる前に、澪の指先が柄へ触れる。久遠の槍が止まった。止められたのではない。次に動けば首を取られる位置へ、自分から入っていた。
「……参った」
「もう一回?」
「もちろんだ」
久遠は笑った。
「教師としては胃が痛いが、槍使いとしては楽しい限りだ」
その横で、朱音は膝に手をついて息を整えていた。
「私、まだ久遠先生にも勝てないんだけど」
「朱音先輩、強くなった」
「澪に言われると嬉しいけど、比較対象がおかしいのよ!?」
「おかしい?」
「うん。すごく……」
実演映像は、配信ではないのに学生端末の話題をさらった。
『久遠先生が笑って負けてる』
『澪ちゃん、手加減しすぎて逆に怖い』
『久遠先生、槍で朱音先輩を完封してたよね?』
『その久遠先生の槍が澪ちゃんに届かない』
『朱音先輩も強いのに相手が悪い』
『久遠先生「槍使いとしては楽しい」って言ってるの格好良すぎる』
『九環、学校に出していい戦力じゃない』
結衣の学校にも、一度だけ澪は行った。結衣が弁当を忘れたからだった。朱音は仕事、母は買い物、父は外出中。澪は弁当箱を見て、少し考えたあと、メイをインベントリへしまい、マシロに制服風の白い上着を作ってもらってから家を出た。
普通科高校の昼休み、校門前に白い少女が立った。
最初に気づいたのは、守衛だった。守衛は本人確認端末を見て、硬直した。次に、二階の窓際にいた生徒が気づいた。声にならない音を出し、隣の友人の袖を掴む。三人目が立ち上がり、四人目が叫び、十秒後には校舎全体が揺れた。
「結衣、あれ」
「え?」
「白い子」
「白い子?」
「違う、本物、本物だって!」
澪は校門から正面玄関へ歩いた。転移で教室に出ると怒られるから、門から入った。澪としてはかなり気を使っていた。だが、登録者数二十億を超える世界的配信者が、白い姿のまま普通科高校の昼休みに現れた時点で、もう静かに済むはずがなかった。
泣く生徒が出た。腰を抜かす生徒が出た。嬉しすぎて保健室へ運ばれる生徒も出た。制服を濡らしてしまい、友人に抱えられながら「見た、今、見た」と震える子もいた。教師は職員室から飛び出し、本人確認をしようとして端末を落とし、アークライン警備部から学校へ「澪さん本人です。危険行動ではありません。お弁当の届け物です」という連絡が入った。
校内放送が一度だけ鳴って、すぐ切れた。
『生徒の皆さん、落ち着いて行動を……落ち着けるか!』
誰か教師の本音が混じり、職員室で悲鳴が上がった。
澪は三年の教室前で立ち止まった。
「結衣ちゃん」
「澪ちゃん!?」
「お弁当」
「え、持ってきてくれたの?」
「うん」
「ありがとう! でも学校に来る時は連絡して!」
「門から歩いた」
「そこは偉いけど、そういう問題じゃない!」
その日、結衣のクラスは授業にならなかった。澪は弁当を渡してすぐ帰るつもりだったが、結衣の友人たちに囲まれ、マシロが結衣の机の埃を勝手に払ってさらに騒ぎになった。澪は淡々と「結衣ちゃんのお弁当」と言うだけだったが、その淡さが余計に生徒たちを泣かせた。
『結衣の知り合いって九環なの!?』
『知り合いじゃなくて同居って聞いたんだけど!?』
『同居!?』
『息できない』
『澪ちゃん、今こっち見た』
『保健室! 保健室呼んで!』
『保健室は呼べないよ!!!』
『弁当届けに世界登録者二十億が来るのおかしいだろ』
『結衣、前世で世界救った?』
『今世で澪ちゃんに卵焼き作ってる』
あとで朱音に叱られた。強くではなく、泣きそうな顔で、心配したんだよと抱きしめられた。澪は「門から歩いた」ともう一度言い、結衣に「そこじゃない」と言われた。
そんな半年だった。
ダンジョンの中ばかりで時間が過ぎていた澪に、地上の生活が増えていった。朝食、学校、稽古、警備、買い物、結衣の弁当、朱音の訓練、七瀬家のリビング。メイは新しい家の床を気に入り、マシロは家事を覚えた。澪はときどき深層へ行き、ときどき白鯨素材の整理を手伝い、ときどき何もせずに結衣の卵焼きを待った。
その朝も、キッチンには甘い匂いがしていた。
「砂糖、昨日より多め?」
結衣が聞く。
「多め」
「澪ちゃん、甘いの好きすぎ」
「うん」
「お姉ちゃんは?」
「私は普通で」
「澪用とお姉ちゃん用で分ける?」
「分ける」
澪が即答した。
「澪、そこは遠慮しないのね」
「甘いの、いる」
「はいはい」
朱音が苦笑し、結衣が卵を巻く。澪は椅子の上で両手を膝に置いて待つ。メイはリビングの床で丸まり、マシロは澪の袖を整えていた。
端末が鳴った。
音は短かった。だが、鳴った瞬間、メイの鎖が床から浮き、マシロの裾が止まった。朱音の顔から笑みが消える。澪は胸元のアークライン直通端末を見た。
『九環国際管理区北部、第一層第九環監視網に異常。旧封鎖設備が破壊されました。空葬系魔力流出、拡大中』
結衣はフライパンの火を止めた。
「仕事?」
「たぶん」
「卵焼き、あとで食べる?」
「うん」
「じゃあ取っておくね」
「うん」
澪は椅子から降りた。メイが足元へ寄る。澪は少しだけメイを見てから、危ない外へ出る準備としてインベントリへしまった。鎖が最後に床を小さく叩いた。少し不満そうだった。
「あとで」
澪が言うと、メイは消えた。
朱音も端末を確認する。表示を見て、顔色が変わった。
「九環国際管理区……半年経って、まだ残ってたの」
「旧レムリアス残党による封鎖装置破壊の疑い、だって」
結衣が読み上げてから、眉を寄せる。
「嫌がらせ?」
「嫌がらせで済めばよかったけどね」
九環国際管理区、旧レムリアス連邦北部。そこには第一層の管理門がある。世界中のダンジョンは同じ構造を持つ。第一層からそれぞれ九つの環。どの国にも第九環はあり、どの国の第九環にも、白鯨はいる。ただし、討伐した者は公的にはまだ澪だけである。
アークライン本部では、警報が赤に変わっていた。
「北部第九環、門前封鎖の四系統が破壊。監視網は半年前の改修前ログに偽装されていました」
「旧政権残党?」
「確度高。破壊痕が古い。半年以上前から遅延破壊を仕込んでいた可能性」
「隣接管理圏への魔力流出は」
「始まっています。サルヴィア辺境区、ノルグラント共同圏、双方で空葬系魔物を確認」
「被害は」
「レムリアス北部二都市が機能停止。サルヴィア側の物流拠点一つが壊滅。ノルグラント側、都市防壁が損傷」
「白鯨反応は」
「まだ門内です。ただし、大型魔力が上がり続けています」
「黒鉄旅団は」
「北部隊が前線入り。凛さんもいます」
佐伯はそこで一瞬だけ目を細めた。
「澪さんへ繋いでください」
通話が開く。
『澪さん』
「なに」
『九環国際管理区北部でスタンピードです。白鯨反応が上がっています』
「白鯨」
『はい。黒鉄旅団北部隊も前線に入っています。凛さんも現地です』
「凛ちゃん」
澪は少しだけ首を傾げた。
「いるなら、しゃあない」
『各国から出動要請も来ています』
「うん」
『初回現地入りのため、航空機移動が必要です』
「飛ぶ?」
『高高度機を用意します』
「しょーがないなぁ」
結衣が後ろで小さく笑った。
「お仕事気をつけてね!」
「うん」
公式災害配信は、アークラインと国際探索者協議会の共同名義で開かれた。画面には九環国際管理区北部の地図、隣接圏の避難線、前線の簡易映像が並ぶ。非公開警備対象の件は出ない。旧レムリアスの細かな処理も出ない。ただ、封鎖設備破壊により第九環スタンピードが発生したこと、複数管理圏が被害を受けていること、白鯨級反応が確認されたことだけが流れた。
『白鯨級反応って出た』
『世界中のダンジョンに白鯨いるんだろうけど、討伐例は九環だけだよな』
『討伐例っていうか、帰り道に狩るやつ』
『旧レムリアス残党、嫌がらせで封鎖壊したってこと?』
『隣国まで巻き込まれてるの最悪すぎる』
『サルヴィア物流拠点、機能停止』
『ノルグラント防壁損傷って出てる』
『黒鉄旅団いる?』
『北部隊いる。凛ちゃんもいるって』
『凛ちゃんいるなら澪ちゃん行くわ』
『凛ちゃんカード強い』
『大手クラン総動員してるぞ』
『それでも白鯨は無理だろ』
『九環呼べ』
『もう呼んでる』
『アークライン機、離陸』
『九環、出る』
『20億人が見てるぞ』
『災害配信の同接、もう国家人口超えてる』
『澪ちゃん来て』
『お願い来て』
レムリアス北部の荒地では、空が白く光っていた。
地面は乾き、草は灰になり、遠くの山並みは魔力霞で歪んでいる。大手クランの連合防衛線は、三つの丘を繋ぐ形で築かれていた。黒鉄旅団が中央を支え、サルヴィアの盾士隊が左翼、ノルグラントの魔術師団が右翼。海外大手クランが後方に控え、回復班と結界班が休む間もなく術式を張り替えている。
最初は持っていた。骨鳥の群れは落とせた。白鹿の突進も止めた。鐘持ち人型の音波も、結界を重ねれば耐えられた。どれも第九環の魔物だ。高レベル探索者を殺し得る。だが世界大手クランが集まれば、戦線は作れた。
凛は黒鉄旅団の中央線にいた。額から血が流れ、片腕の防具は砕けている。それでも目は死んでいない。大盾の後ろで通信符を握り、叫ぶ。
「中央、まだ下がらない! 右の魔術師団が詠唱終えるまで持たせて!」
「凛、次の白鹿が来る!」
「分かってる!」
白鹿の角が防壁に突き刺さる。凛の足が地面を削る。背後の探索者が押し返し、黒鉄旅団の槍隊が横から突く。白鹿が崩れる。歓声はない。次が来るからだ。
その時、門の奥から白い影が上がった。
全員が理解した。
あれは、戦線で止める相手ではない。
「Hold the line!(戦線を維持しろ!)」
サルヴィア側の指揮官が叫ぶ。
「No one falls back without my mark!(俺の合図なしに下がるな!)」
「結界班、上だ! 上から来るぞ!」
「白鯨魔力、臨界!」
「Brace! Brace now!(衝撃に備えろ、今すぐだ!)」
空が落ちた。
白鯨の魔法は、光ではなく質量に近かった。白い帯が空から降り、丘の結界に直撃する。三重の防壁が割れ、四重目が軋み、五重目が白く燃えた。回復班が倒れ、魔術師が吐血し、黒鉄旅団の前衛が膝をつく。
「もう一枚張れ!」
「無理です、魔力が足りない!」
「Then steal it from me! Take my reserve, all of it!(なら俺から持っていけ! 予備魔力を全部使え!)」
「隊長、死にます!」
「Better me than the city!(街が死ぬより俺が死ぬ方がいい!)」
二発目が来た。
右翼が崩れた。ノルグラントの魔術師団が吹き飛び、地面に長い白い溝が刻まれる。防衛線の後ろには避難できていない町がある。さらに後ろには、サルヴィアとノルグラントを繋ぐ物流線がある。そこが抜かれれば、三つの管理圏が連鎖的に止まる。
『右翼決壊!』
『白鯨本体、門外へ出ます!』
『大型反応、完全露出!』
『アークライン機はまだか!』
『到着予定、三分!』
『三分も持たない!』
凛が通信へ叫んだ。
「中央線、伏せる準備! 九環が来たら巻き込まれる!」
「まだ来てない!」
「来る! 澪ちゃんは来る!」
黒鉄旅団の隊員が、血まみれの顔で笑った。
「信頼が重いな!」
「本人は軽く来るよ!」
白鯨が門を抜けた。
空を泳ぐ鯨。骨を食むような白い口。喉奥に光る器官。第一層第九環《空葬原》の王。《墓喰白鯨》。世界中の第九環に存在しながら、澪以外の誰も倒せなかったボス。
白鯨が鳴いた。音は聞こえない。けれど魔力が震えた。砂が浮き、折れた結界杭が空へ引き上げられる。前線の探索者たちが一斉に膝をつく。重い。空気そのものが押し潰してくる。
「撤退線を開け!」
「無理だ、後ろが詰まってる!」
「市街防壁に直撃コース!」
「All units, fall back to the last ridge! Move, move, move!(全隊、最終丘陵まで下がれ! 動け、動け!)」
最終丘陵の上に、黒い機体が降りた。
エンジン音が荒地に響く。アークラインの高高度機だった。扉が開く。白い布が風に揺れ、澪が荒地に立った。メイはまだ出ていない。けれど、澪が一歩を踏み出しただけで、前線の空気が変わる。
白い髪。白い深層戦闘服。眠そうな目。戦場に似合わない軽い足取り。
誰かが呟いた。
「Kyu-kan……?(九環……?)」
「本物だ」
「九環が来た!」
「She is really here. God help us, she is here.(本当に来た。神よ、彼女が来た)」
災害配信のコメント欄が爆発した。
『来たあああああああ』
『白い』
『本物』
『九環だ』
『九環が来た』
『前線、下がれ!』
『メイ出るぞ!』
『伏せろ!』
『九環の前に立つな!』
『巻き込まれるぞ!』
『何に?』
『知らんけど伏せろ!』
『凛ちゃん生きてる!?』
『中央にいる! 生きてる!』
『澪ちゃん来たから大丈夫』
『この安心感なに』
『この安心感よ』
『白鯨終了のお知らせ』
『旧レムリアス残党、見てる〜?』
『喧嘩売る相手じゃないんだよ』
澪は白鯨を見た。
「あ、白鯨」
声は軽かった。半年ぶりに見た知り合いみたいな声だった。周囲の探索者たちは、その温度差に理解が追いつかない。彼らが総力で止められなかった災害を、澪はただの白鯨として見ている。
朱音は機体から降りると、すぐに後方医療区画へ向かった。白い翼と光輪が広がり、《聖域》が後方拠点を包む。倒れた探索者の出血が止まり、震えていた魔術師の呼吸が戻り、凛の腕の出血も緩む。朱音も半年で変わっていた。前へ出て死ぬためではない。大規模戦の核として、後ろを支えるために。
「七瀬さんの聖域、入った!」
「回復が戻る!」
「中央、立て直せ!」
「she is holding the rear! Do not waste it!(彼女が後方を支えている! 無駄にするな!)」
澪は一歩前に出た。
「下がって」
その一言で、凛が叫ぶ。
「全員、伏せて! 通り道を空けて!」
海外クランの指揮官も即座に重ねた。
「You heard her! Everyone, down!(聞こえただろ! 全員伏せろ!)」
反応は早かった。意味を理解したわけではない。だが九環が来た。白鯨を斬れる存在が来た。その事実だけで、全員が地面に伏せた。凛も大盾を倒し、黒鉄旅団をまとめて押し伏せる。
澪の横に、メイの鎖がほどけるように現れた。インベントリから出た鎖が地面に触れ、刃が白い光を受けて弧を描く。メイは嬉しそうでも、怒っているようでもあった。リビングの床で丸まっていた時とは違う、戦うための形だった。
白鯨が三発目の魔法を放つ。
白い帯が空から降りる。都市防壁へ向かう軌道。防衛線が割れた今、誰も止められない一撃。澪はメイを振った。
一振りだった。
鎖が鳴る。刃が空をなぞる。音は遅れて来た。先に、世界が割れた。
飛んだ斬撃は白鯨の魔法を正面から裂き、そのまま空を泳ぐ巨体へ届いた。白い腹が上下に割れ、背の骨が砕け、喉奥の光る器官が二つに分かれる。白鯨は鳴く暇もなかった。左右へずれた巨体の向こうで、荒地がまっすぐ裂けていく。丘を越え、干上がった川床を越え、黒い岩盤を越え、地平の霞の向こうまで、一本の斬撃痕が残った。
数十キロ。
後に測量班がそう記録する距離を、澪の一振りが切り開いた。
白鯨の半身が落ちる。もう半身が遅れて崩れる。魔力の圧が消え、浮いていた砂が雨のように降った。誰も動かなかった。誰も声を出さなかった。大手クランの盾士も、黒鉄旅団の前衛も、海外の指揮官も、ただ割れた荒地を見ていた。
澪はメイを下げた。
「終わり」
コメント欄が、一瞬だけ止まった。
『……』
『は?』
『一振り』
『一振りだった』
『後ろの荒地まで割れてる』
『数十キロいってない?』
『白鯨って世界中の大手クランが総動員して止められなかったやつだよな?』
『止められなかった』
『九環は止めるんじゃなくて斬った』
『魔法ごと斬った』
『地平線斬った』
『もう災害じゃなくて素材になった』
『喧嘩売る相手じゃない』
『喧嘩売る相手じゃない』
『喧嘩売る相手じゃない』
『世界、これ覚えような』
『本人じゃなく周りに手出して国消えて、半年後に白鯨も一振り』
『教科書に載せろ』
『凛ちゃん生きてる?』
『凛ちゃん笑ってる』
『いや泣いてるかも』
『メイちゃんえぐい』
『マシロちゃんまっしろ』
『朱音先輩も後方全部支えてる』
『九環組、完成してきてない?』
海外クランの指揮官が立ち上がった。砂まみれの顔で、澪を見る。彼は翻訳端末を切らずに、そのまま英語で言った。
「My God…… she cut the horizon.(神よ……彼女は地平線を斬った)」
別の女探索者が震える声で続ける。
「We were fighting a disaster. She treated it like a branch in the road.(私たちは災害と戦っていた。彼女は道端の枝みたいに払った)」
黒鉄旅団の凛が、盾にもたれながら笑った。
「澪ちゃん、遅い」
「ごめん」
「嘘。来てくれて助かった」
「うん」
「あと、相変わらずやりすぎ」
「ちょっと?」
「かなり」
「ふぅん」
以前のさん呼びが、今ではちゃん呼びになっていた。
澪は荒地の斬撃痕を見て、少しだけ首を傾げた。
「メイ、やりすぎた?」
鎖が、ちり、と鳴る。
「うん。ちょっと」
鎖が不満そうにもう一度鳴る。
「でも、えらい」
メイは足元で丸まった。
アークラインの回収班は、白鯨の残骸が消えきる前に動き始めていた。喉奥の器官、骨片、白い脂、魔力を帯びた皮膜、周辺に降った白鯨由来の結晶。すべて保全箱へ。誰も不用意に触らない。白鯨素材は不老薬等のあらゆる研究の中心になる。
回収も保全もアークラインが行う。だが、所有者は澪だ。白鯨を斬ったのも澪なら、素材の取得権も澪にある。現地の大手クランも、国際探索者協議会も、そこを疑わなかった。疑う方がおかしい。目の前で誰にも倒せなかった白鯨を一振りで斬ったのだから。
佐伯が現地通信で確認した。
『澪さん、素材の保全と回収をアークラインで進めます。取り分の指定はありますか』
「いらない」
『保全はしますが、所有権は澪さんにあります』
「うん」
『使用予定は』
「必要なら、また取りに行く」
『……承知しました。記録上は澪さん所有、アークライン管理保全で処理します』
「うん」
その会話も、災害配信に乗った。
『いらない???』
『白鯨素材を???』
『いや所有権は澪ちゃんなんだよな』
『必要ならまた取りに行く、じゃないんだよ』
『世界中誰も取れないやつなんですが』
『九環にとってはコンビニ感覚』
『アークライン、今の音声わざと乗せた?』
『抑止力として完璧すぎる』
『白鯨素材を「また取りに行く」は世界観壊れる』
『壊してるのは白鯨じゃなくて九環』
『九環王国、資源国どころじゃない』
『王国名乗る理由が増えてしまった』
『本人はいらないって言う』
『言う』
『でも世界は呼ぶ』
後方拠点では、朱音の《聖域》がまだ広がっていた。倒れていた探索者たちが起き上がり、医療班が走り回り、サルヴィアの指揮官が何度も礼を言っている。
「Miss Nanase, your field saved my people. I will not forget this.(七瀬さん、あなたの場が私の部下を救いました。この恩は忘れません)」
「いえ、私だけじゃありません」
「No. I know what I saw. You held the back line. She cut the front. That is how we lived.(いいえ。私は見ました。あなたが後方を支え、彼女が前を斬った。だから我々は生きています)」
朱音は言葉に詰まり、少しだけ頭を下げた。
空はまだ白く濁っている。九環国際管理区北部と隣接圏の被害は大きい。壊滅した町も、機能を失った物流拠点も、戻らない命もある。嫌がらせで壊された封鎖設備は、半年後に国境を越えて牙を剥いた。
けれど、白鯨はもういない。
地上に出た世界初の白鯨級スタンピードは、澪の一振りで終わった。
その日の夜、九環王国という通称は、冗談ではなくなった。旧レムリアスを消した管理名。白鯨を討伐できる唯一の少女。九環国際管理区を守るアークライン。世界は、その三つを同じ意味で見始めた。
澪本人だけが、それに興味を持たなかった。
帰還後、七瀬家の新しい家で、結衣が温め直した卵焼きを出した。
「冷めちゃったけど」
「おいしい」
「まだ食べてないよ」
「おいしい」
「澪ちゃん、適当」
「適当じゃない」
澪は箸で卵焼きを取って、口に入れた。甘い。少しだけ冷めている。でも、ちゃんと甘い。結衣が緊張した顔で見ている。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん」
「よかった」
結衣が笑う。朱音は疲れた顔でお茶を置き、マシロは澪の口元についた卵の欠片をそっと拭った。メイはリビングの広い床で満足そうに丸まっている。
外では、世界が今日も澪を新しい名前で呼んでいる。九環。白い第九環踏破者。九環王国の王。白鯨を斬った少女。
けれど、この家の中では、澪はただ、卵焼きを食べに帰ってきた家族だった。
第4章完了です。
ご視聴頂きありがとうございました。
正直書きたい内容の半分くらいです。
スタンピード編やテロ編、世界会議編など、本当はそれだけで章を書けるくらいなのですが、個人的にダンジョン物はダンジョン潜ってる時がいちばん面白いと思うので長くは書きません。4章もパパっと終わらせようと思ったのですが思いのほか長くなりました。
5章からは第3層攻略に向けて動きます。
明日に投稿予定です。
ダンジョン出来たらぜひクラン作りましょう。
引き続きよろしくお願いいたします。




