ごめんね。今のままで十分だから
目が覚めたのは、まだ夜中だった。
洞窟の奥では火が小さく揺れ、赤い明かりが岩肌をぼんやり照らしている。
綾の隣を見ると、そこにいたはずの和泉の姿はもうなく、代わりに神谷が腰を下ろしていた。
どうやら火の番と看病を交代したらしい。
藍里はゆっくりと身を起こす。
泣いて、そのまま眠ってしまったせいか、頭の中は少しだけ静かだった。
「……神谷くん」
声をかけると、神谷がすぐに顔を上げた。
「あ、起きた?」
藍里は小さく息を吐く。
「ごめん。変わるね」
「いいよ。もう少し寝てなよ」
穏やかな声だった。
けれど、火に照らされた横顔には疲れが滲んでいる。
目の下にはうっすら影が落ちていて、それでも神谷は藍里の様子を気にするように、まっすぐこちらを見ていた。
「……大丈夫?」
藍里が聞くと、神谷は軽く笑った。
「俺は平気」
そう答えたあと、少しだけ間を置いてから、神谷は続ける。
「何か、力になれることないかな」
ただ気遣っているというより、確かめるような声だった。
自分にできることを探しているというより、藍里に求めてもらえるものがあるかを探っているように聞こえた。
藍里は胸がわずかに重くなるのを感じた。
「神谷くんは」
藍里は一度言葉を切る。
何を言えばいいのか分からなかった。
踏み込ませたくはない。
けれど、突き放したいわけでもない。
黙ったままでいることはできなくて、ようやく口を開く。
「今のままでいいよ」
神谷の動きが、ほんのわずかに止まった。
それから視線が落ちる。
「……そっか」
小さな声だった。
その反応を見た瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
違う。そういうふうに傷つけたいわけじゃない。
けれど、じゃあ何が違うのかと問われたら、うまく答えられない。
何か言わなければと思うのに、言葉にならなかった。
気づけば藍里は、神谷の肩へそっと身体を預けていた。
「ごめん。今のままで十分だから」
神谷が息を吐く気配がした。
「ああ……よかった」
張りつめていたものがほどけたような声だった。
迷うように、神谷の手がゆっくり藍里の背中へ回る。
抱き寄せるというより、ただそこに置くような、遠慮がちな手だった。
その温度だけが、静かに背中へ伝わってくる。
二人はしばらく、そのまま動かなかった。
火の音だけが、洞窟に小さく響いていた。
「神谷くん、もう寝て」
藍里がそう言うと、神谷は藍里の背中からそっと手を離した。
「明日も、頼るかもしれないから」
その言葉に、神谷は少しだけ目を細める。
「それ、ずるいな」
困ったように笑いながら立ち上がった。
寝床の方へ向かいかけて、ふと思い出したように振り返る。
「無理しないでね。疲れたら、いつでも起こしていいから」
それだけ言い残して、神谷は布の方へ戻っていった。
―――
神谷が寝た後、藍里は深く息を吐いた。
胸の奥に、重いものが沈んでいる。
神谷が嫌なわけじゃない。
むしろ、優しすぎるくらいだ。
こちらを疑わず、手を伸ばせばためらいなく応えてくれる。
あのまっすぐな優しさに触れていると、張りつめていたものが少しだけ緩む。
ほっとしてしまう自分がいた。
だからこそ、そんな相手の好意を利用していることが、藍里には苦しかった。
ただ綾を守るために、神谷の好意を利用する。
その気にさせても、そこに自分の気持ちまで乗せるつもりはなかった。
そう割り切っていたはずだった。
けれど、さっき神谷が傷ついたように目を伏せた瞬間、胸の奥がひやりとした。
離れていかれるかもしれないと、ほんの一瞬、そう思った。
だから引き止めるようなことをしたのかもしれない。
自分でも、よく分からない。
それでも、もう戻れなかった。
綾を守るために始めたことを、今さらなかったことにはできない。
藍里はゆっくり視線を上げた。
綾は静かに眠っている。
熱に浮かされたままの、苦しさの残る寝息が聞こえた。
藍里は小さく呟く。
「……ごめんね」
その言葉が、綾に向けたものなのか、神谷に向けたものなのか、自分でも分からなかった。




