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何も言わない。それなのに、不思議と落ち着く

 翌朝。

 神谷が、いつものように水汲み用の容器を手に取った。

「俺、今日も行ってくるね」

 いつもと変わらない明るい声だった。

 けれど、その声を聞いた和泉が、すぐに口を開いた。

「少し無理してないか」

 神谷は笑って首を振る。

「大丈夫ですよ。これくらい」

 和泉はすぐには返さなかった。

 数秒だけ黙り込み、それから短く言う。

「なら俺も行く」

 その一言に、神谷が目を瞬かせた。

「え、いいんですか?」

「水は重要だ。偏るのは良くない」

 和泉はそれだけ言って立ち上がる。

 神谷は肩をすくめて笑った。

「じゃあ、行ってきます」

 藍里はそんな二人を黙って見送った。

 洞窟の外へ出ていく背中は、いつの間にか見慣れたものになりつつあった。


「じゃあ俺は、網見てくる」

 佐伯が伸びをしながら立ち上がった。

「魚、取れてるといいけどな」

 どこか飄々とした口ぶりだった。

 けれど、その目だけは藍里を見ている。

 藍里は何も言わずに頷き、洞窟の入り口まで見送った。

 そのまま行ってしまうのかと思ったが、佐伯はふいに足を止める。

 振り返った顔には、いつものように笑みが浮かんでいた。

「最近さ、神谷ばっかじゃん」

「……何が?」

「ずるくね?」

 藍里の眉がわずかに動く。

 佐伯は肩をすくめた。

「俺にも、もうちょい愛想よくしてくれてもよくない?」

「何それ」

 怪訝そうに見返すと、佐伯はますます楽しそうに口元を緩めた。

「じゃあさ」

 そう言って、自分の頬を指で示す。

「ここにキス。それくらいしてくれたら頑張れるかも」

 藍里は一瞬、返す言葉を失った。

 頬が引きつるのが自分でも分かった。

 けれど、佐伯は冗談めかした調子を崩さないまま、ただ藍里を見ていた。

 ここで拒んで、佐伯が今みたいに動いてくれなくなったら困る。

 そう分かっているのに、もうその先を考える気力がなかった。

 どうにでもなれと思った。

 藍里は小さく息を吐くと、佐伯の前まで歩み寄った。

 少し背伸びをして、その頬にそっと唇を触れさせる。

 音もない、短い接触だった。

 すぐに離れる。

 佐伯は目を丸くした。

 数秒遅れて、吹き出すように笑う。

「……本当にやるんだ」

 藍里は軽く睨んだ。

「ふざけないで」

「いや、冗談だったんだけど。ラッキー」

 佐伯は楽しそうに肩を揺らす。

「美人さんがそんな顔すると台無しだって」

「……早く行って」

「はいはい」

 ひらひらと手を振りながら、佐伯は砂浜の方へ歩いていく。

 藍里はその背中を見送った。

 途端に、どっと疲れが押し寄せる。

 思わず、小さく息が漏れた。


 けれど、休んでいる余裕はなかった。

 藍里は気持ちを切り替えるように息を吐き、洞窟の中へ戻る。

 その瞬間、空気の違いに気づいた。

 綾の呼吸が荒い。

 頬も赤い。

「綾?」

 慌てて駆け寄り、額に手を当てる。

 触れた瞬間、熱さに息を呑んだ。

「……熱」

 藍里はすぐに布を水で濡らし、綾の額へ当てた。

 ぬるくなるたびに取り替え、額や首筋の汗を拭う。

 綾がうっすら目を覚ませば体を支え、水を口元へ運んだ。

「少しでいいから、飲んで」

 飲み込むのを見届けて、また横にならせる。

 それを何度繰り返しても、熱は下がる気配を見せなかった。


 洞窟の外では、波の音が絶え間なく続いている。

 けれど藍里の意識は、綾のかすかなうめきにばかり引き寄せられた。

 焦りばかりが胸の奥に積もっていく。

 何ひとつ良くならないまま、時間だけが過ぎていった。


―――

 

 そうしているうちに、夕方になって水汲みから神谷と和泉が戻ってきた。

「ただいまー……って」

 洞窟へ入ってきた神谷の声が、途中で止まる。

 綾の様子に気づいたのだろう。

 和泉もすぐに視線を向け、短く息を吐いた。

「……熱か」

 低い声でそう言うと、和泉は綾のそばへ歩み寄る。

 額に手を当てて熱を確かめ、それから藍里を見た。

 藍里は濡れた布を握ったまま、小さく頷く。

「さっきから、ずっとこんな感じで……」


 神谷は綾の赤い頬を見つめ、それから自分たちが運んできた水の容器へ視線を落とした。

「今夜の分は足りるだろうけど、熱あるなら水は多い方がいいよね」

 そう言うなり、神谷は踵を返しかけた。

「俺、もう一回行ってくる」

「待て」

 和泉の声は低く、重かった。

 神谷が足を止める。

「今日はやめろ」

「でも」

「焦っても変わらん」

 その一言で、神谷は口を閉ざした。

 言い返したい気持ちはあるのだろう。

 けれど結局、何も言えないまま唇を引き結ぶ。


 誰も次の言葉を口にしないまま、洞窟の中には重たい沈黙が落ちた。


―――


 夜になっても、綾は苦しそうに眠っていた。

 藍里はその横に座ったまま、何度も額の布を替えていた。

「……休め」

 低い声に顔を上げると、少し離れた場所に和泉が立っていた。

「無理です」

 返事は、考えるより先に口をついていた。

 和泉は何も言わず、一度だけ視線を落とす。

 それから藍里のそばへ来て、水の入った容器を差し出した。

「なら、少し飲め」

 藍里は一瞬ためらったが、黙ってそれを受け取った。

 喉は乾いていたはずなのに、うまく飲み込める気がしない。

 それでも少しだけ口をつける。

 和泉はそれ以上何も言わず、少し離れた場所に腰を下ろした。


 洞窟の中には、火のはぜる音だけが響いていた。

 藍里は濡れた布を握りしめたまま、綾の顔を見つめた。

 熱は下がらない。

 苦しそうな息は、少しも落ち着かない。

 何もできていない気がした。

 看病しているつもりで、ただ時間をやり過ごしているだけなんじゃないかと思えてくる。

 視界が、にじんだ。

「……ごめん」

 漏れた声に、自分で驚く。

 藍里は慌てて口元を押さえた。

 綾を起こさないようにと思ったのに、いったん溢れた涙は止まらなかった。

 ぽろぽろと頬を伝い、肩が小さく震える。

 和泉は何も言わなかった。

 慰めることも、気づかないふりをすることもなく、ただ黙って藍里のそばにいた。

 泣くなとも、大丈夫だとも言わない。

 それでも、藍里が泣き終わるのを待つように、静かな眼差しだけが向けられていた。

 そのことが、今の藍里には少しだけ救いだった。


 やがて涙は少しずつおさまり、藍里は袖で乱暴に目元を拭った。

「……すみません」

 掠れた声でそう言うと、和泉は短く返す。

「いい」

 それだけだった。

 けれど、和泉の視線はまだ藍里から外れない。

 藍里は落ち着かない気持ちになって、視線を逸らした。

「寝ろ」

 ようやく和泉がそう言った。

 藍里は少しだけ迷ったあと、小さく頷く。


 焚き火の明かりが和泉の横顔をぼんやり照らしている。

 顎には薄く無精髭が伸びていた。

 この島に来てから、そんな変化に気づく余裕もなかったのだと、今さら思う。


 神谷は優しい。

 佐伯は話しやすい。

 けれど、和泉はそのどちらとも違った。

 多くを語らないし、何を考えているのかも分からない。

 ただそこにいて、必要なときだけ手を差し出す。

 それなのに、和泉のそばにいると不思議と落ち着く瞬間があった。


 藍里は小さく息を吐く。

「……寝ます」

 和泉は短く頷いた。

 藍里は横になり、静かに目を閉じた。

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