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君が頼ってくれるから、頑張れる気がする

 救助は、数日経っても来なかった。

 海は相変わらず静かで、空の色も大きくは変わらない。

 洞窟の中の空気は重く、時間が経つほど口数だけが減っていく。


「魚、減ってきてるな」

 網を見ながら、和泉が淡々と言った。

 その足元には、今朝かかった魚が数匹だけ転がっている。

「場所変える。もう少し沖側を試す」

 藍里は一瞬ためらってから、口を開いた。

「何かお手伝いできることありますか?」

「いや、ひとりでいい。妹の側にいてやれ」

 返事は短かった。

 取りつく隙もない。

「……ありがとうございます」

 そう返すのが精一杯だった。

「じゃあ俺、水汲みに行くよ」

 立ち上がったのは佐伯だった。

 その声に、神谷もすぐ続く。

「俺も行く」

「藍里ちゃん、火の管理お願いね」

 もう何度か繰り返したやり取りだった。

「うん」

 藍里は頷いた。

 そうするしかない、と自分に言い聞かせるように。


―――


 洞窟の中で、藍里は綾の体を濡らした布でそっと拭いていた。

 肌に触れると、ひやりと冷たい。

 汗と潮でべたついた腕を、できるだけ優しくなぞっていく。

「お姉ちゃん」

 不意に呼ばれて、藍里は手を止めた。

「なに」

 綾はすぐには答えなかった。

 少しだけ視線を逸らし、唇を噛んでから、小さな声を落とす。

「私……お荷物だよね」

 一瞬だけ息が詰まった。

 けれど、すぐに藍里は首を振った。

「そんなこと思ってない」

 強く言い切るつもりだったのに、声は思ったより掠れていた。

 それでも、藍里は続ける。

「綾がいるから、私も頑張れてる」

 それは慰めでも、その場しのぎでもなかった。

 綾がいなければ、藍里はとっくに折れていたかもしれない。

 綾の腕がそっと藍里の背に回った。

 その肩が小さく震えているのが分かる。

 藍里は目を閉じた。


―――


 洞窟の外へ出ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。

 藍里は火のそばに腰を下ろし、狼煙を絶やさないよう枝をくべる。

 立ちのぼった煙は、青い空へ細く伸びて、そのまま溶けるように消えていった。


「ただいま」

 声に振り向くと、水汲みから戻った神谷が立っていた。

 手にしていた容器を下ろし、そのまま藍里の隣へ腰を下ろす。

「佐伯は和泉さんのところ寄ってから戻るって」

「そっか」

 藍里が頷くと、神谷は微笑んだ。

 けれど、その笑みには少し疲れが滲んでいる。

 砂のついた指先は赤く荒れていて、水を運ぶたびに手が傷んでいるのが分かった。


「神谷くんばっかり頼ってるね」

 藍里が小さく言うと、神谷は首を振った。

「気にしないでって」

「俺、こう見えて丈夫だし」

 神谷は軽く笑ってみせる。

 けれど、その目の奥には薄く疲れが滲んでいた。

 無理を隠そうとしているのが、かえって分かる。

 藍里は何も言えず、視線を海へ向けた。

 神谷も隣で同じように海を見る。

 波の音だけが、同じように繰り返していた。


「俺さ」

 不意に、神谷が口を開いた。

「長男なんだよね」

 藍里が顔を向けると、神谷は少しだけ笑った。

「頼られるの、結構好きなんだ」

「兄弟がいるの?」

 藍里が聞くと、神谷は頷いた。

「いるよ。弟が二人。歳が離れてるんだ」

「そうなんだ」

 神谷は懐かしむように目を細めた。

「下はまだ中学生でさ。二人とも手のかかる悪ガキで、毎日うるさいし、何回怒っても同じことするんだよ」

 困ったように笑いながらも、その声音はどこか楽しそうだった。

「でも」

 神谷は海を見たまま続ける。

「放っとけないんだよね」

 その言葉に、綾を気にかけてくれていた神谷の姿が重なった。

 藍里は静かに頷いた。

「いいお兄ちゃんなんだね」

 そう言うと、神谷は少し視線を逸らして笑った。

「そんな立派なもんじゃないよ」


 指先についた砂を払ってから、神谷は小さく息をつく。

「だからかもしれない」

 藍里が顔を上げると、神谷がゆっくりとこちらを見た。

「藍里ちゃんが頼ってくれると、頑張れる気がする」

 軽い調子の言葉だった。

 けれど、藍里には小さな期待が滲んでいるように聞こえた。

 真っ直ぐな視線から逃げるように、藍里は目を伏せる。

 視界に入ったのは、砂の上に置かれた神谷の手だった。

 少し荒れた指先に、藍里は自分の指をそっと重ねた。

 神谷の肩がわずかに揺れる。

 けれど、手は引かれなかった。

 そのまま、短い沈黙が落ちる。

「……洞窟、戻ろっか」

 神谷は立ち上がりかけて、ふと迷うように動きを止めた。

 それから藍里へ手を差し出す。

 藍里はその手を取った。

 掌は思っていたよりずっと温かい。

 見上げると、神谷が目を細めて笑っていた。

 長い睫毛の影が頬に落ちている。

 少しだけ、救われたような顔だった。


 藍里は神谷の手を引かれるまま立ち上がった。

 そのまま手を繋いで、二人で洞窟へ戻る。

 指先から伝わる体温は、ひどく優しかった。

 歩くたびに、その温かさが胸の奥に小さな痛みを残していく。

 ――これでいい。

 そう思う。

 そう思わなければ、進めなかった。


 洞窟に着くころには、手は自然に離れていた。

 藍里は誰にも気づかれないよう、そっと拳を握った。

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