気分、少しは晴れた?
翌朝。
綾の熱は、少しだけ下がっていた。
「よかったよかった」
佐伯が干物をひっくり返しながら笑う。
「これでひとまず安心だな」
綾は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました……」
「いいのいいの」
佐伯は軽く手を振る。
その様子を見て、神谷が小さく笑った。
「一番看病してない人が一番軽いな」
「ひどっ」
佐伯が笑い返す。
洞窟の空気は、昨夜より少しだけやわらいでいた。
「俺、また水汲んでくるね」
神谷が立ち上がる。
そう言いながら向けられた視線に、藍里は息を詰めた。
優しい眼差しだった。
けれどその奥には、昨夜の熱がまだ消えずに残っている気がした。
「気をつけて」
藍里がそう返すと、神谷は小さく頷き、そのまま洞窟の外へ出ていった。
「ねえ」
綾が小さく口を開いた。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「神谷さんに頼りすぎちゃってるね」
藍里は一瞬だけ言葉に詰まり、それからすぐに笑ってみせた。
「神谷くん、頼りになるからね」
軽く返すと、綾はそれ以上何も言わず、どこか気まずそうに視線を伏せた。
「じゃあ俺たちはこっち」
その空気を断ち切るように、佐伯がひょいと藍里の肩に腕を回した。
「魚取り行こうよ」
「ちょ、離して」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
抗議する間もなく、そのまま外へ引っ張られる。
洞窟を出ると、朝の光が思ったより眩しかった。
「どこ行くの?」
「川」
「また?」
「そこにいるからな、普通に」
佐伯は笑いながら、先に立って歩いていく。
―――
川に着くと、佐伯はすぐに動いた。
細く削った木の槍を手に、水面をじっと見つめる。
ふざけた様子は消えていて、その横顔は驚くほど真剣だった。
揺れる水の下を走る影を追い、一瞬の隙を狙って腕を振り下ろした。
次の瞬間、突き刺さった槍の先で魚がばしゃりと跳ねる。
「……すご」
藍里は思わず呟いた。
「才能あるんだよ」
佐伯が肩をすくめる。
「和泉さんも言ってたじゃん」
「信じてなかったの?」
「いや……」
藍里は視線を落とした。
「ちょっと」
「ひどっ」
佐伯が笑う。
藍里も見よう見まねで槍を構えた。
水面の揺れに目を凝らし、魚影を見つけて突き出す。
けれど、槍先は水を切るだけで、魚はするりと逃げていった。
もう一度、今度こそと狙いを定めて突き出す。
それでも外れた。
「難しい……」
思わず零したそのとき、足元がつるりと滑った。
「え――」
体勢を立て直す間もなく、そのまま川へ倒れ込む。
ばしゃりと大きな水音が立ち、冷たい水が一気に胸元まで押し寄せた。
「っ……!」
藍里が顔を上げると、佐伯が一瞬ぽかんとしたあと、盛大に吹き出した。
「はははは!」
「笑うな!」
「いや無理だろそれ!」
腹を抱えて笑っている。
藍里はびしょ濡れのまま睨みつけた。
「最悪」
「ごめんごめん」
佐伯はまだ笑いを堪えきれないまま、藍里に手を差し出した。
「ほら、手出して」
藍里はその手を掴む。
次の瞬間、思いきり引っ張った。
「え?」
佐伯の体がぐらりと傾く。
そのまま踏ん張る間もなく、ばしゃんと大きな音を立てて川に落ちた。
「うわっ」
神谷や和泉ほど体格がいいわけでもないのに、妙に派手な水しぶきが上がる。
あっという間に全身びしょ濡れだった。
一瞬、沈黙が落ちた。
けれど次の瞬間、佐伯は濡れた髪をかき上げながら口元を歪める。
「……やってくれたな」
呆れたような声とは裏腹に、その顔は笑っていた。
子どもみたいに無邪気で、本気で楽しそうな笑い方だった。
ひとしきり笑ったあと、二人はようやく川から上がった。
濡れた服が肌に張りついて気持ち悪い。
「水浴びの手間省けたな」
岸に上がるなり、佐伯が肩をすくめる。
その気の抜けた言い方に、藍里は思わず息を吐いた。
「あんたのせいでしょ」
「はいはい」
呆れたように返すと、佐伯は軽く笑った。
互いに濡れた服を絞れば、ぽたぽたと水が足元へ落ちていった。
「気分、少しは晴れた?」
横目でそう聞かれて、藍里はふと気づく。
さっきまで張りついていた重さが、少しだけ薄れていることに。
それに、自分がちゃんと笑えていたことにも。
「……かもね」
小さく答えると、佐伯は満足そうに口元を緩めた。
「じゃ、帰ろっか」
魚の入った袋を背負い、何でもないような顔で歩き出す。
その背中を見ながら、藍里もゆっくりあとに続いた。
―――
洞窟へ戻ると、焚き火のそばで和泉が黙々と魚を焼いていた。
藍里と佐伯の濡れた姿を見た瞬間、わずかに眉をひそめる。
「……何やってる」
呆れたような声だった。
その声に反応したのは神谷だった。
すぐに立ち上がると、焦ったように藍里のもとへ歩み寄ってくる。
「風邪引くよ」
そう言って藍里の手を取り、そのまま焚き火の前へ座らせた。
「こっち」
濡れた手を包み込むように握られる。
体温を確かめるみたいに、指先までそっと触れられて、藍里は思わず視線を落とした。
近い。そう思ったときだった。
「神谷さーん」
背後から佐伯の気の抜けた声が飛んできた。
「俺の手も取ってー」
「取るか」
神谷は振り返りもせずに即答した。
「どうせお前のせいだろ」
「違うよ。藍里ちゃんだって」
「嘘つけ」
間髪入れずに返されて、佐伯がけらけら笑う。
藍里はなんとなく居心地が悪くなって、そっと視線を逸らした。
そんな藍里の反応を見て、佐伯はますます楽しそうに口元を緩める。
「ほらね」
神谷はわずかに目を瞬かせたあと、藍里の手を包んでいた指をゆっくり離した。
「ちゃんと温まって」
それだけ言って立ち上がる。
空いた焚き火のそばへ、佐伯が当然のような顔で腰を下ろした。
―――
焚き火の熱で、濡れた服が少しずつ乾いていく。
藍里がぼんやり火を見つめていると、隣から佐伯の声がした。
「また硬い顔してる」
顔を上げると、佐伯が頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「さっきみたいに笑えばいいじゃん」
「……そんなに硬い?」
「硬い硬い。もっとテキトーに力抜いて生きようぜ」
藍里は小さく息を吐く。
「佐伯くんは力抜きすぎ」
「えー」
「本気出したら凄そうなのに。勿体無い」
何気なく口にしたその言葉に、佐伯が目を丸くした。
「……褒めてる?」
「褒めてる」
藍里がそう返すと、佐伯は一度だけ視線を伏せた。
珍しく、言葉が途切れる。
けれどすぐに顔を上げると、いつもの調子で口元を緩めた。
「じゃあ今日はその言葉で飯三杯いける」
佐伯はけらけらと笑いながら立ち上がる。
「でも飯はないから、魚焼こ」
焚き火の向こう側で魚を焼いている和泉の隣へ移っていった。
佐伯と入れ替わるように、神谷が藍里の隣へ腰を下ろした。
何か言うでもなく、ただ静かに藍里を見る。
その距離は、さっきより少しだけ近かった。
藍里は火を見つめたまま、小さく息を吐いた。
それでも、隣から注がれる視線だけは、いつまでもそこに残っている気がした。




