もし、ここじゃなかったら。好きになっていたかもしれない
夜。
藍里は綾の背中を濡らした布でそっと拭いていた。
熱はだいぶ下がってきている。
それでもまだ本調子ではなく、綾の肌にはうっすら汗が滲んでいた。
「お姉ちゃん」
不意に呼ばれて、藍里は顔を上げる。
「ん?」
「神谷さんのこと、どう思ってるの」
布を動かす手が、ほんのわずかに鈍った。
綾は目を逸らさないまま、じっと藍里を見上げている。
「何それ」
藍里はできるだけ軽い声で笑った。
「急にどうしたの」
誤魔化すように、背中へ布を当て直す。
けれど綾は、小さく唇を噛んだあと、ぽつりと続けた。
「私のせいだよね……ごめん」
弱い声だった。
「でも……神谷さんは、やめておいた方がいいと思う」
その言葉に、藍里は思わず綾を見た。
不安そうに眉を寄せた綾が、こちらを見返している。
何を言いたいのか、分からないわけじゃなかった。
けれど、ここで認めるわけにはいかない。
藍里はいつも通りの声を作る。
「考えすぎ。何もないよ」
綾はそれ以上何も言わなかった。
ただ、納得していないように視線を伏せる。
藍里は濡れた布を絞った。
落ちた雫が、ぽたりと地面を濡らした。
―――
翌朝。
「俺、水汲みに行くね」
朝の支度をしながら、神谷がいつものようにそう言った。
けれど、その言葉に和泉がすぐ口を挟む。
「ローテーションにした方がいい。お前だけ負担が大きい」
淡々とした口調だった。
けれど、反論を許さない響きがある。
神谷は一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑するように目を伏せた。
「じゃあ今日はやめます」
和泉は短く頷き、そのまま立ち上がる。
「俺が行く」
それだけ言って水汲み用の容器を手に取った。
神谷は小さく肩をすくめる。
「じゃあ俺、野草探してくるよ」
そう言う声は、もういつもの調子に戻っていた。
「じゃあ俺、今日は藍里ちゃんと火の番でもいい?」
横から佐伯が口を挟む。
軽い調子だったのに、その場の視線がそちらへ集まった。
藍里は、神谷の目がわずかに動いたのを見逃さなかった。
「佐伯くん」
「ん?」
藍里は間を置かずに口を開く。
「綾と火の番、お願いしていい?」
佐伯は一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの調子で頷いた。
「了解」
藍里はそのまま神谷へ向き直る。
「私も野草探してくる。任せっぱなしはよくないし」
綾は何も言わなかった。
ただ、藍里と神谷のやり取りを見ていた。
神谷は藍里に目を向け、いつものように柔らかく笑った。
「ありがとう」
―――
山へ入ると、頭上の葉の隙間から朝の光がまだらに差し込んでいた。
足元に生えた野草を摘みながら進んでいくと、思っていたより種類も量も多い。
気づけば、藍里が持つ袋はすぐにずしりと重くなっていた。
「結構取れたね」
神谷が手元の袋を軽く持ち上げながら、満足そうに笑う。
「うん」
藍里も小さく頷いた。
「今日は少し寄り道して戻ろうか」
神谷はそう言って森の奥へ足を向ける。
藍里が遅れないように、歩幅を少しだけ緩めながら進んでいく。
その背を追ってしばらく歩くと、不意に視界がぱっと開けた。
崖の上に出た瞬間、藍里は思わず足を止めた。
いつも洞窟の近くで見ている海とは、まるで違って見えた。
高い場所から見下ろす海はどこまでも広く、陽の光を受けてきらきらと揺れている。
「……綺麗」
思わず零れた声に、神谷が隣で小さく笑う。
海を見つめたまま、ぽつりと言った。
「俺、海見るの好きなんだよね」
その横顔は穏やかだった。
けれど、肩をくすめながら続けた声には、苦笑が混じっていた。
「でも今はさ。救助来てないから、ちょっと複雑」
藍里もつられるように口元を緩めた。
「そうだね。でも、綺麗」
風が吹き抜け、藍里の髪をさらった。
「藍里ちゃんは」
海を見たまま、神谷がふいに言った。
「何が好き?」
藍里はすぐには答えられなかった。
何かを探すみたいに少し黙ってから、ようやく口を開く。
「綾がイルカ好きで、水族館によく行ってた」
神谷は何も言わずに続きを待った。
「買い物も好きだし、旅行も好きで。綾がはしゃぐのを見るの、私も結構好きだった」
そこまで言ってから、藍里はようやく気づく。
自分の口から出てくるのが、綾のことばかりだということに。
そのまま、言葉が途切れた。
神谷はそんな藍里を見て、ふっと目を細めた。
「ほんとに大事なんだね」
責めるでも、呆れるでもない声だった。
ただ、当たり前のことみたいに言われて、藍里はうまく言葉を返せなかった。
「……うん」
短く頷く。
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がっていく気がした。
「戻ろっか」
神谷がそう言って、崖沿いの細い道へ視線を向けた。
足元は思った以上に悪く、少し気を抜けば滑りそうだった。
先に一歩踏み出した神谷が、途中で振り返る。
そして、当然みたいに藍里へ手を差し出した。
「気をつけて」
藍里は一瞬だけその手を見つめたあと、何も言わずに指先を重ねた。
神谷の手に引かれるようにして、一段下へ足を下ろす。
けれど、着地してもその手は離れなかった。
指先がほどけることなく、そのまま絡んでいる。
あたたかい、と思う。
ただ、それだけだった。
胸は驚くほど静かで、何も揺れない。
藍里は繋がれた手を見下ろして、そっと目を伏せた。
もし、ここじゃなかったら。
違う場所で出会っていたなら。
この人のことを、好きになっていたかもしれない。
けれど、今は違う。
藍里はその考えごと、胸の奥へ静かに押し込めた。
繋がれた手にあるのは、ただ温度だけだった。
そこに、何かを返すことはできなかった。




