貴方と一緒だと安心する
朝、洞窟の外には潮の匂いが満ちていた。
海に仕掛けていた即席の網には、魚が数匹かかっている。
岩と漂流物を組み合わせただけの簡単な仕掛けだったが、どうやらちゃんと役に立ったらしい。
「……取れてる」
思わず呟くと、佐伯が砂の上へしゃがみ込み、網から魚を外した。
「お、マジで入ってるじゃん」
銀色の魚体が朝日に濡れて光る。
和泉はその様子を一瞥して、短く言った。
「これを干す」
足元にまとめてあった枝と葉を顎で示す。
「風の通る場所に吊るせ。保存できる」
「お、和泉先生、頼りになる」
佐伯が茶化すように笑う。
「茶化すな」
和泉は素っ気なく返しただけだった。
―――
食料は少しずつ形になり始めていた。
けれど、水の不安だけは消えない。
「俺、水汲みに行くね」
神谷が容器をまとめながら言った。
「……私も行く」
藍里はそう口にしてから、少しだけ間を置いた。
「任せっぱなしは良くないから」
神谷は一瞬目を瞬かせ、それからふっと笑う。
「助かるよ」
そのやり取りを聞いていた和泉が、綾の横たわる洞窟の奥へ視線を向けた。
「俺が見ておく」
藍里は迷ったあと、頷く。
「お願いします」
できるだけ丁寧に、けれど媚びるようにはならないように。
和泉には、そういう態度は逆効果な気がしていた。
「任せろ」
和泉は短く返す。
その横で、佐伯は火の前に魚を並べていた。
「干物ねぇ……面倒くさ」
「やれ」
「はいはい」
気のない返事をしながらも、佐伯の手は止まらなかった。
―――
山へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
海辺とは違う湿り気が肌にまとわりつき、足元の岩は思っていた以上に不安定だった。
最初は緩やかに見えた道も、少し進むだけですぐに傾斜を増していく。
「思ったよりきついね」
藍里は息を整えながら呟いた。
「島だからね」
前を行く神谷が振り返る。
そう言って先に岩場を登ると、上から手を差し出した。
「ここ、手出して」
藍里はその手を掴む。
ぐっと引き上げられ、身体が一段高い場所へ移った。
さっきまで見えなかった先の道が開ける。
「ありがとう」
「気にしないで」
神谷は軽く笑った。
そこからさらに進むと、岩場の向こうに細い水の流れが見えた。
陽の光を受けてきらりと光るそれを見た瞬間、藍里は思わず息を呑む。
「……あった」
「でしょ?」
神谷はどこか得意げに笑って、肩から下げていた容器を下ろした。
しゃがみ込んで水を汲み始める神谷に続き、藍里も膝をつく。
指先に触れた水は驚くほど冷たくて、その感触だけで張りつめていたものが少し緩んだ。
しばらくして、容器は水でいっぱいになった。
神谷がそれをまとめて持ち上げる。
見れば、彼の腕に下がっている容器の方が明らかに多かった。
「……ごめんね。ありがとう」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「気にしないで」
神谷は笑う。
「藍里ちゃんも火の管理してくれてるでしょ。あれがないと、俺ら普通に詰むし」
軽い冗談みたいな言い方だった。
けれど、それが藍里を気遣っての言葉だということは分かった。
本当に優しい人だと思った。
だからこそ、胸の奥が少しだけ重くなる。
けれど藍里は、水場までの道のりを思い出した。
汗と息切れ。足場の悪さ。
あの距離を、これから毎日往復しなければならない。
藍里は小さく息を吐いた。
神谷の優しさは、綾を生かすために使える。
胸を刺した痛みには気づかないふりをして、藍里はその考えを静かに飲み込んだ。
―――
帰り道は、行きより少しだけ余裕があった。
岩場を越えてしまえば、あとは比較的歩きやすい道が続く。
並んで歩くうちに、二人の距離は自然と近くなっていった。
藍里は、そっと半歩だけ神谷の方へ寄る。
そのときだった。
不意に草むらが大きく揺れ、がさりと音を立てた。
二人は同時に足を止める。
神谷が咄嗟に身構え、藍里も息を呑んだ。
けれど、次の瞬間に飛び出してきたのは、小さな獣だった。
ネズミのような影が足元をかすめ、そのまま茂みの奥へ消えていく。
「……びっくりした」
神谷がほっとしたように息を吐く。
藍里も肩の力を抜いて顔を上げた。
そのとき、自分たちの距離が思っていた以上に近いことに気づく。
「ごめん、今の――」
神谷がそれに気づき、少し離れようとした。
その前に、藍里は咄嗟に神谷の服の裾を掴んでいた。
「……また出るかもしれないし」
わざと少しだけ、縋るような声を出す。
神谷の動きが止まった。
「……そうだね」
それだけ言って、視線を逸らす。
再び歩き出したあとも、二人の距離はさっきより近いままだった。
触れようと思えば、すぐに触れられる。
隣を歩く神谷の呼吸が、わずかに乱れているのが分かった。
「神谷くんと一緒だと安心する」
藍里は何気ない調子を装ってそう言った。
「そうかな」
「そうだよ」
藍里は笑ってみせる。
好意があるように聞こえることを、分かったうえで。
神谷は黙り込み、それから照れたように口元を緩めた。
「そんなに褒めても、何も出ないよ」
軽い口調だった。
けれど、その耳は赤い。
藍里は間を置いてから、ぽつりとこぼした。
「明日も神谷くんが水汲みなんだよね」
神谷が藍里を見る。
「そのつもりだけど」
「そっか」
藍里は微笑んだ。
「じゃあ、安心」
神谷は眉を下げた。
「うん。任せて」
その返事を聞いて、藍里はそっと息を吐く。
これでいい。
神谷には、このまま頼っていけばいい。
そうすればきっと、綾の力になってくれる。
あとは――残りの二人だ。




