自分にだけ、使えるもの。最低だ
朝、目が覚めた。
洞窟の入り口から差し込む朝日が、岩肌を白く照らしている。
藍里は反射的に綾へ目を向けた。
静かな寝息が聞こえる。
呼吸は落ち着いていた。
それを確かめて、ようやく息を吐き出す。
「起きたか」
不意に声がして、藍里は顔を上げた。
洞窟の入り口には和泉が立っている。
外では神谷と佐伯が荷物をまとめ、出発の支度をしていた。
「水を探してくる」
和泉はそれだけ告げる。
昨日と変わらない落ち着いた口調だった。
「火は絶やすな。煙は救助の目印になる」
藍里は黙って頷いた。
「遭難って本当に狼煙やるんだな」
佐伯が苦笑する。
「ドラマだけかと思ってた」
「現実だけどね」
神谷は困ったように笑うと、藍里へ向き直った。
「すぐ戻るから」
その一言に、肩の力が少しだけ抜けた。
「無理しないで下さいね」
藍里がそう言うと、神谷は笑って手を振る。
三人は歩き出した。
「遭難二日目で山登りか。ハードモードすぎるだろ」
先頭を行く和泉の背中へ向けて、佐伯がぼやく。
軽口のはずなのに、誰も笑わない。
三人はそのまま山へ入っていった。
藍里は、その背中を見送り続ける。
水が見つからなければ、生きていけない。
そんな考えが、何度も胸をよぎる。
やがて三人の姿は木々の向こうへ消えた。
それでも藍里は、しばらくその場を動けなかった。
三人の話し声が聞こえなくなると、島は驚くほど静かだった。
藍里は振り返る。
火はまだ赤く燃えていた。
消えないよう枝を足す。
綾は静かな寝息を立てていた。
それを確かめてから海岸へ向かう。
洞窟の火種を使い、浜辺に積んだ流木へ火を移した。
白い煙が空へ伸びていく。
藍里は煙を追うように空を見上げた。
青空には、何もなかった。
ゆっくり海へ目を落とす。
飛行機も。
船も。
見えなかった。
―――
綾が目を覚ましたのは昼頃だった。
「……お姉ちゃん」
声はかすれていた。
藍里は弾かれたように駆け寄る。
「綾!」
綾は目を開いたものの、すぐに眉を寄せた。
「足、痛い?」
「……我慢できるよ」
声には力がない。
藍里は唇を噛む。
「ごめん」
綾は申し訳なさそうに目を伏せた。
「だから謝らなくていいって」
綾は小さく頷く。
その表情を見ているだけで、胸の奥がざわつく。
もし、この怪我が治らなかったら。
もし、綾が――。
藍里は強く首を振った。
その先だけは、想像したくなかった。
黙り込んだ藍里を、綾がそっと見上げていた。
何度か口を開きかけては、閉じる。
数秒ためらったあと、綾はようやく声を絞り出した。
「……お姉ちゃん」
「なに?」
綾は視線を逸らした。
「トイレ……」
洞窟の外まで連れて行くだけ。
そう思っていた。
肩を貸し、ゆっくり立ち上がらせる。
その瞬間、綾の顔が苦痛に歪み、小さく息をのんだ。
「痛いよね、ごめん」
「……大丈夫だよ」
本当は大丈夫なわけがない。
一歩。
また一歩。
綾の体は軽い。
それでも、藍里の腕はすぐに震え始めた。
転ばせないよう支え、歩幅を合わせるだけで精一杯だった。
洞窟の外までのわずかな距離が、ひどく遠く感じた。
ようやく洞窟へ戻る頃には、息が上がっていた。
額を流れる汗を拭う余裕もない。
綾をそっと横に寝かせると、自分もその場へ座り込む。
たったこれだけ。
たったこれだけのことで。
自分の力だけでは足りない。
そう思い知らされた。
―――
それからは、待つことしかできなかった。
綾は眠っている。
火は維持できている。
狼煙も上がっている。
それでも、時間だけが過ぎていく。
藍里は膝を抱えた。
考えたくないのに、考えてしまう。
綾は一人では生きていけない。
藍里一人では守りきれない。
誰かの力が必要だった。
和泉、神谷、佐伯。
三人はみんな、自分より役に立つ。
水を探し、火を起こし、荷物も運べる。
生きる力がある。
じゃあ、自分には何がある。
力はない。
知識もない。
綾を支えることさえ満足にできない。
それでも、何かあるはずだった。
喉の奥が嫌なふうに詰まる。
――自分にだけ、使えるもの。
思い至った瞬間、藍里は唇を噛んだ。
最低だ。
そんなことを考えるなんて。
けれど、綾を守るためなら。
藍里は強く拳を握った。
―――
夕方になって、ようやく人影が見えた。
山道の向こうから、三人が戻ってくる。
佐伯が大きく手を振った。
「戻ったー!」
藍里は思わず立ち上がった。
肩の緊張が少しだけほどける。
和泉は洞窟に入るなり、肩から下げていた容器を下ろした。
「水は見つかった」
その言葉に藍里は息を呑む。
「本当ですか」
「ああ」
和泉は頷く。
「山の奥だが、湧き水がある」
助かった。
そう思った、その直後だった。
「遠い」
藍里は反射的に顔を上げる。
「往復でかなり時間がかかる。毎日運ぶ必要があるな」
その言葉が胸の奥に沈む。
綾の分の水は、どうするのだろう。
考えるまでもなかった。
誰かが余分に持つしかない。
毎日。
これから先も、ずっと。
その現実が、急に重くのしかかった。
喉の奥が乾いた。
「綾ちゃんの様子はどう?」
不意に声をかけられ、藍里は振り向いた。
神谷だった。
黒髪は汗で少し額に張り付いている。
それでも、柔らかな目元は変わらない。
「……昨日と同じ」
神谷は心配そうに眉を下げた。
「これ、二人の分」
水の入った容器を差し出す。
藍里はそれを受け取った。
「ありがとう。大変だったでしょ」
「何てことないよ」
神谷は笑った。
気を遣わせないような笑い方だった。
藍里は容器を握る。
綾の分の水。
それを運んだのは神谷だ。
優しい人だと思った。
頼まれれば断れない。
困っている人を放っておけない。
だから――。
そう考えた瞬間、言葉が勝手にこぼれた。
「神谷くん、本当に頼りになるね」
一瞬、神谷の手が止まる。
それから照れたように笑った。
垂れ気味の目が細められ、その表情はどこまでも人が良さそうだった。
「そう言われると、頑張りたくなる」
冗談のような口調だった。
けれど、その言葉が妙に耳に残った。
藍里は視線を落とす。
神谷は、こういう言葉に弱いのかもしれない。
そう感じてしまった自分に、わずかな違和感が走る。
でも、その違和感をすぐに飲み込んだ。




