神谷を選んだルート 中編(遭難から半年後)
店を出た瞬間、白い息がふわりとこぼれる。
藍里は首元に巻いたマフラーを少しだけ引き上げた。
「寒っ」
隣で神谷も肩をすくめる。
「さっきまであったかかったから余計に」
「ね」
藍里も息を吐く。
白い息が街灯の下にふわりと浮かび、夜の空へ溶けていった。
駅までの道を、二人で並んで歩く。
神谷が弟の用事で静岡から来ると聞き、ついでに会わないかと誘われた。
こうして会うのも、もう四回目だった。
最初は何を話せばいいのか分からなかったのに、今では肩を並べて歩く時間さえ、ごく当たり前のものになっていた。
「パンケーキ、美味しかったね」
神谷が満足そうに言う。
「気になってたんだけど、男一人じゃ入りにくかったから、助かったよ」
藍里は思わず笑った。
「ふわふわですごく美味しかったよね」
「うん」
「神谷くん、口に入れた瞬間、本当に幸せそうな顔してた」
「いや、あれはしちゃうよ」
「だね」
顔を見合わせ、二人で小さく笑った。
「このあと弟くんたちと合流するんだっけ」
藍里が尋ねると、神谷は頷いた。
「うん。向こうは向こうで用事済ませてるから、あとで俺がホテルまで行く予定」
「忙しいのに時間作ってくれてありがとう」
「いや、お礼を言うのは俺の方」
神谷は目を細める。
「せっかく東京に来たし、藍里ちゃんにも会いたかったから」
あまりにも自然に言われて、藍里は思わず足を止めそうになった。
そんなふうに言われるたび、まだ胸が慣れない。
「……そっか」
結局、それだけしか返せなかった。
神谷はそれ以上何も言わず、穏やかに笑った。
その笑顔を見ていると、熱くなった頬まで見透かされてしまいそうで、藍里は少しだけ視線を逸らした。
話しながら歩いていると、駅前の広場が見えてくる。
改札へ向かう人波に混ざった、そのときだった。
「兄ちゃん!」
少し離れた場所から、よく通る声が響く。
神谷の足がぴたりと止まった。
藍里もつられて顔を上げる。
通りの向こうから、二人の男の子がこちらへ駆けてくるのが見えた。
一人は大学生くらいの長身の青年。もう一人は中学生くらいの小柄な少年だ。
「お前ら……」
神谷は露骨に嫌そうな顔をした。
「何でそこにいるんだよ。ホテル戻るんじゃなかったの?」
青年が苦笑する。
「戻る前にコンビニ寄ろうと思って」
その隣で、少年の視線が藍里へ向く。
目が合った瞬間、ぱっと目を見開いた。
「え、誰?」
青年も藍里へ視線を向ける。
「兄ちゃん、彼女?」
「違う」
神谷が即答する。
けれど弟たちは、その返事をまるで聞いていなかった。
「兄ちゃんの彼女、レベル高くない?」
「兄ちゃん、奇跡じゃん」
「いや、だから違うって」
「兄ちゃん、口うるさいですよ」
少年が畳みかける。
「細かいし、すぐ説教するし、地味にしつこいし」
「あと結構嫉妬深いです」
青年まで悪びれもなく続ける。
「一回気にするとずっと引きずるタイプです。面倒くさいですよ」
「お前らさ」
神谷の声が一段低くなる。
「勝手なこと言うな」
あまりの勢いに、藍里は口を挟む隙もない。
三人のやり取りを、ただ呆然と見守るしかなかった。
「ホテル戻れって言っただろ」
「まだちょっと話したいんだけど」
「いいから行け」
「えー」
「藍里ちゃん困ってるだろ」
神谷は青年の背中を軽く押した。
「ほら、さっさと」
「痛い痛い」
今度は少年を睨む。
「お前も」
半ば追い立てるように二人の背中を押した。
弟たちは最後までぶつぶつ文句を言いながらも、人混みの向こうへ消えていった。
急にあたりが静かになる。
神谷は小さく息をつくと、額に手を当てた。
「ごめん。うるさかったでしょ」
「……ちょっと面白かった」
そう答えると、神谷が意外そうに顔を上げる。
「面白かった?」
「うん」
藍里は小さく笑った。
「意外だったかも。神谷くん、弟さんたち相手だとあんな感じなんだね」
神谷は一瞬だけ気まずそうに視線を逸らす。
「まあ、身内相手だとね」
そう言って苦笑したものの、その先は続かなかった。
何かを言おうとして、言葉を選んでいるようだった。
「藍里ちゃん、俺のこと優しいってよく言ってくれるけど」
ぽつりと漏れた声に、藍里は神谷を見る。
「別に、そんなできた人間じゃないよ」
「細かいし、気にしいだし、嫉妬もするし」
苦く笑って、肩をすくめる。
「弟たちが言ってたこと、そんなに間違ってない」
神谷は一度言葉を切った。
「多分、藍里ちゃんが思ってるより、ずっと面倒くさい性格してる」
そう言って、おそるおそる藍里の表情をうかがう。
「……嫌になった?」
その言葉に、藍里は小さく首をかしげた。
嫌になる。
そんなこと、一度も思わなかった。
むしろ、逆だった。
藍里が知っている神谷は、いつだって優しかった。
面倒見がよくて、気が利いて、困っている人を放っておけない。
そんな姿に何度も助けられ、安心してきた。
けれど、今目の前にいる神谷は、それだけじゃない。
弟には容赦なく怒る。
格好悪いかもしれない部分まで、取り繕わずに見せてくれる。
それが、不思議と嬉しかった。
「……全然」
藍里は小さく首を振った。
「むしろ、ちょっと安心したかも」
「安心?」
神谷が意外そうに目を瞬く。
「うん」
藍里は少しだけ視線を落とした。
胸の中にある気持ちを、ゆっくりと言葉にする。
「神谷くんって、ずっと優しくて、ちゃんとしてて、あんまり崩れないから」
「そういうところに、ずっと安心してた」
そこまで言って、少し照れくさくなる。
「でも、今みたいなところを見せてもらえる方が……なんか、嬉しい」
言い終えて顔を上げると、神谷は何も言わずに藍里を見つめていた。
少し目を見開いたまま、それからふっと眉を下げるように笑う。
「そっか」
その声は、心の底から安堵したように優しかった。
「それなら、よかった」
少しだけ照れくさい空気のまま、二人は並んで歩く。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、ここで」
「うん。今日はありがとう」
「こっちこそ」
神谷が少しだけ笑う。
「気をつけて帰ってね」
「神谷くんも、弟さんたちと喧嘩しないでね」
「善処します」
真面目な顔で返されて、藍里は思わず吹き出した。
手を振って別れる。
改札を抜け、ホームへ向かう。
電車に乗り込み、座席へ腰を下ろしたところで、藍里はようやく小さく息をついた。
窓の外を眺めながら、さっきの出来事を思い返す。
弟たちの勢いに押されていたときは、恥ずかしくて、それどころではなかった。
――兄ちゃんの彼女。
突然そんなふうに言われて、どう返せばいいのか分からなかった。
それなのに。
思い返してみれば、藍里は一度もその言葉を否定していなかった。
「……嫌じゃ、なかったな」
小さくこぼれた声に、自分でも少し驚く。
窓に映る頬は、まだ少しだけ熱を帯びていた。
もう、あの無人島で戸惑っていた頃の自分とは違う。
流れていく夜景が、今日は少しだけ眩しく見えた。
―――
それからも、神谷とは何度か会った。
甘いものを食べて、他愛もない話をして、一緒に笑って。
そんな時間を重ねるたび、神谷は少しずつ藍里の中で特別な存在になっていった。
もう、その気持ちを否定しようとは思わなかった。
大学の卒業式の日だった。
袴姿のまま校門を出ると、少し離れた場所に神谷が立っていた。
「……駅で待ち合わせだったよね」
「迎えに来た」
そう言って、神谷は少し照れたように笑う。
手には小さな花束があった。
「卒業おめでとう」
不意打ちみたいに差し出されて、藍里は目を瞬く。
花束を受け取ると、ふわりと優しい花の香りが漂った。
「ありがとう」
「うん」
神谷は藍里をまっすぐ見つめたまま、小さく息を吸う。
「藍里ちゃん」
「なに」
「前に、期待してもいいかって聞いたでしょ」
藍里は静かに頷いた。
「ちゃんと、改めて言うね」
「俺は藍里ちゃんのことが好きです」
その眼差しは、どこまでも真剣だった。
「よかったら、俺と付き合ってください」
胸の奥が、静かに熱くなる。
藍里は花束を抱えたまま、小さく笑った。
「……うん。よろしくお願いします」
神谷がほっとしたように笑う。
その笑顔を見て、藍里はようやく実感した。
ああ、私は。
神谷くんのことを、ちゃんと好きになれたんだ。




