神谷を選んだルート 後編 (遭難から1年後)
駅前のカフェは、昼下がりの光で白く滲んでいた。
「お姉ちゃんは、贅沢だと思うの」
向かいに座る綾が、身を乗り出す。
ストローの刺さったグラスが、カタンと小さく揺れた。
「卒業まで待ってから、ちゃんと神谷さんは告白して」
指先でテーブルを軽く叩く。
「遠距離なのに、まめに連絡もしてくれて」
もう一度、コン、と音が鳴る。
「デートだって、毎回お姉ちゃんが好きそうなお店を調べて連れてってくれるし」
一息ついてから、綾はぐっと拳を握った。
「理想の彼氏じゃん! 何が物足りないの!」
勢いよく言い切ると、そのまま藍里をじっと見つめる。
「……好きじゃないの?」
真っすぐ向けられた視線に、藍里は思わず身を縮こませた。
無人島で「神谷はやめた方がいい」と言っていた綾とは思えない勢いだった。
「……ちゃんと、好きだよ」
小さく答えると、綾はようやく張っていた肩の力を抜いた。
「じゃあ、どうして?」
その問いには、すぐに答えられなかった。
口を開きかけて、閉じる。
妹には言えない。
神谷が、付き合ってから一度もキスをしてくれないことが悩みだなんて。
―――
久しぶりの静岡だった。
駅に降り立った瞬間、藍里は胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
『神谷くんの家、行きたい』
数日前、電話でそう伝えたとき。
神谷は少し驚いたように黙って、それからすぐに「いいよ」と笑った。
「藍里ちゃん!」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
人混みの向こうで、神谷が軽く手を振っていた。
「遠くからありがとうね」
「いつもは神谷くんが東京まで来てくれるじゃん」
「たまたまだよ」
そう笑うと、神谷は藍里の荷物を自然な手つきで受け取る。
「行こっか。あっちに車、止めてるんだ」
神谷の運転する車に乗り込み、窓の外を流れる静岡の街並みをぼんやりと眺めた。
ほどなくして着いた神谷のマンションは、広くはないものの、余計な物がなくすっきりとしていた。
「ミニマリスト?」
部屋を見回しながら尋ねると、神谷は苦笑して首を振る。
「そんなんじゃないって。藍里ちゃんが来るから、慌てて片付けただけ」
冗談めかしたその言葉に、藍里の肩から少しだけ力が抜けた。
「ソファに座ってて。お茶、今用意するから」
勧められるまま腰を下ろす。
神谷がキッチンへ向かう背中を見送り、ふっと息をつく。
一人になると、ここが神谷の家なのだと改めて意識してしまう。
さっきまで抜けていた肩の力が、また少しだけ戻ってしまった。
ほどなくして、神谷は紅茶とケーキを運んでくる。
「ケーキありがとね。これ、有名なやつでしょ」
「神谷くん、前に気になってるって言ってたから」
「覚えててくれたんだ。ありがとう」
嬉しそうに笑う神谷を見て、藍里もつられて笑みを浮かべた。
ケーキをつつきながら、自然と近況の話になる。
仕事のこと。慣れない毎日で失敗したこと。同僚に助けられたこと。
ぽつぽつと話す藍里の言葉を、神谷は一度も遮らなかった。
相づちを打ちながら、穏やかに耳を傾けてくれる。
だから、つい話しすぎてしまう。
「最近さ、山登り始めてさ」
藍里がひと息つくと、今度は神谷が話し始めた。
「山登り?」
「うん。無人島で水汲むために登りまくったからね。大抵の山、楽に感じるよ」
神谷は肩をすくめて笑う。
「逞しいね」
藍里も思わず苦笑した。
ケーキを食べ終えると、神谷は皿とカップを片付けに立つ。
戻ってきて隣に腰を下ろしたのを見て、藍里はそっと息を吸った。
今日ここへ来たのは、このことを聞くためだった。
「神谷くんに、聞きたいことがあって」
「なに?」
返ってきたのは、いつもと変わらない優しい声だった。
藍里は少しだけ迷って、それでも言葉を飲み込まずに口を開く。
「どうして、私にキスしてくれないの」
神谷の笑顔が、ふっと止まった。
ほんの一瞬。
それから、困ったように眉を下げる。
「ごめん。不安にさせた?」
「少し」
藍里は素直に頷く。
「無人島で……私が泣いたからだよね」
神谷は頭をかいた。
「藍里ちゃんが悪いわけじゃないよ。俺が意気地なしってだけ」
一度言葉を切る。
「怖いんだ」
自嘲するように笑う。
「情けないよね」
笑っているのに、その視線は静かに落ちていた。
その一言で、あの夜がよみがえる。
あの時のキスは、安心したくて、自分から重ねたものだった。
けれど、その先にあった神谷の想いを、藍里は受け止めきれなかった。
「神谷くん」
呼ぶと、神谷が顔を上げる。
「貴方のことが好き」
その言葉に、今の気持ちをまっすぐ乗せる。
「私を、安心させてほしい」
あの夜とは、もう違う。
神谷は小さく息を吐いた。
「……君は、ずるいね」
藍里は小さく笑う。
「神谷くんは、そう言う私が好きなんでしょ」
「そうだよ」
神谷は困ったように笑った。
「君には敵わないな」
そう言って、神谷は少しだけ距離を縮めた。
藍里はそっと目を閉じる。
額に、軽く口づけが落ちた。
――そこじゃない。
そう思った途端、今度は目元に優しく触れる。
「神谷くん……」
名前を呼びかけた声を遮るように、頬へもう一つ。
さらに、そっと手を取り、指先へ優しく唇を寄せる。
思わず視線を上げる。
神谷と目が合った。
その瞳は、熱を宿しているのに、壊れ物に触れるように優しい。
胸が熱くなる。
神谷はゆっくりと顔を寄せた。
藍里は今度こそ、目を閉じる。
唇が重なった。
短く、それでも確かな口づけ。
名残を惜しむように唇が離れていく。
恥ずかしさに耐えきれず、藍里は両手で顔を覆った。
「……なんで、そんなにするの」
神谷は照れたように笑う。
「だって、ずっとしたいと思ってたから」
「そういうところ、ずるい」
小さく息をついて、それでも笑う。
「でも、好き」
その一言に、神谷は目を細めた。
自然とお互いに距離が縮まる。
唇が、もう一度重なった。




