神谷を選んだルート 前編(遭難から3ヶ月後)
「ねえ、お姉ちゃん。神谷さん、元気かな」
何気ない綾の一言だった。
それなのに、その名前を聞いただけで胸の奥が小さくざわつく。
「……さあ」
そう答えるしかなかった。
綾は少しだけ言いにくそうに視線を落とす。
「私、余計なこと言ったのかなって思っててさ」
「別に」
藍里はすぐに首を振った。
「綾のせいじゃないよ」
けれど綾は、どこか納得していないようだった。
「でもさ。一回ちゃんと会った方がいい気がして」
その言葉に、藍里の視線が反射的に机の上のスマートフォンへ落ちる。
神谷くん。
連絡先は残ったままだ。
メッセージを開いては閉じて、文章を打っては消して。
そんなことを、この三か月で何度繰り返したか分からない。
今日もまた、スマートフォンを手に取って、結局、何もできずに握り直した。
そんな藍里を見て、綾が小さく息をつく。
「ちょっと貸して」
「え?」
返事をするより早く、スマートフォンがひょいと奪われる。
「ちょ、綾――」
止める間もなかった。
軽い送信音が部屋に響く。
「……送っちゃった」
「は?」
思考が一瞬止まる。
綾は悪びれもせず肩をすくめた。
「お姉ちゃん、こういうの絶対やらないから」
慌ててスマートフォンを取り返す。
画面には、もう『既読』の文字がついていた。
あまりにも早くて、現実味がない。
藍里はスマートフォンを握ったまま、その場から動けなかった。
―――
綾が勝手に送ったメッセージをきっかけに、少しずつ連絡を取るようになった。
神谷が東京へ来る用事に合わせて、三人で食事をすることになった。
待ち合わせの店の前で、藍里は小さく息を吐く。
握りしめたスマートフォンが、少しだけ汗ばんでいた。
「お姉ちゃん、緊張しすぎ」
隣で綾が呆れたように笑う。
「してない」
「してる」
即答だった。
「してないって」
言い返した、そのときだった。
「ごめん、待った?」
聞き慣れた声に、藍里ははっと顔を上げる。
神谷が立っていた。
遭難中より少し短くなった髪。
見慣れた穏やかな笑顔。
けれど、きちんとした私服姿を見るのは初めてだった。
服が違うだけなのに、どこか知らない人みたいで。
それなのに、笑った顔は何も変わらなかった。
一瞬、言葉が出てこない。
「神谷さん!」
綾が先に手を振る。
神谷も笑って手を振り返した。
「久しぶり」
「……久しぶり」
藍里もようやく笑って答えた。
「遠くから来てもらっちゃって、ごめんね」
神谷は少し首を振って笑う。
「ちょうど東京に来る用事があったから。気にしないで」
三人は店の中へ入った。
綾の希望で選んだのは焼肉だった。
席に着くなり、綾は嬉しそうにメニューを開く。
「病院食ばっかだったからね」
綾は胸を張るように言った。
「今日はいっぱい食べる」
「ほどほどにしなよ」
神谷が笑う。
「神谷さんも食べてください」
「俺も結構食べる方だよ」
そんなやり取りをしながら注文を済ませる。
ほどなくして運ばれてきた肉を網へ乗せると、じゅっと音を立てて香ばしい匂いが立ちのぼった。
「仕事はどう?」
藍里が尋ねると、神谷は苦笑した。
「大変だった」
「やっぱり?」
「遭難者としてニュース出たから」
「確かに」
綾が吹き出す。
「戻ったら書類の山だったよ」
「うわぁ……」
「休んでた分、全部積まれてた」
神谷は肩を落とした。
「社会人って大変なんですね」
「大変だよ」
そう言いながらも、神谷は笑っていた。
今度は綾が身を乗り出す。
「今度、沖縄行こうと思ってるんです」
綾が続ける。
「沖縄?」
「遭難する前に行く予定だったので」
「ああ」
神谷は思い出したように頷いた。
「今度こそ行こうって」
藍里も笑う。
「予約も調べてるところ」
すると神谷が苦笑した。
「俺、もうしばらく飛行機乗れないな」
「それはそう」
綾が吹き出す。
「でも今度こそ行くって決めたんです」
「私もまだちょっと怖いね」
藍里も頷く。
遭難を思い出す話のはずなのに、気づけば三人とも笑っていた。
―――
店を出ると、夜風が火照った頬を心地よく撫でた。
三人で並んで駅まで歩く。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、静かな時間が流れていた。
「じゃあ、私帰るね」
綾が改札へ向かって歩き出す。
藍里も当たり前のように足を踏み出した。
「お姉ちゃん」
綾が藍里を呼び止める。
「え?」
「ダメだよ」
意味が分からず目を瞬く。
「いや、でも」
「ダメ」
綾は有無を言わせない口調で言い切ると、そのまま神谷へ向き直った。
「神谷さん」
「はい?」
「終電までには解放してあげてくださいね」
「努力します」
神谷が苦笑すると、綾は満足そうに頷いた。
「よろしくお願いします」
そう言い残して手を振ると、綾は一人で改札を抜けていった。
さっきまで三人で笑っていたのに、急に何を話せばいいのか分からなかった。
気まずいわけではない。
それでも、二人きりになった途端、沈黙だけが静かに流れる。
神谷が困ったように笑った。
「とりあえず、どこか入る?」
「……うん」
神谷に案内されたのは、夜でも営業している落ち着いたカフェだった。
思っていたより肩肘張らなくて済みそうな店で、藍里は小さく胸をなで下ろす。
ほどよく照明が落とされた店内は落ち着いた空気が流れていて、二人は窓際の席へ腰を下ろした。
メニューを眺めていると、神谷が口を開く。
「ここ、締めパフェ美味しいんだよね」
藍里は思わず顔を上げた。
「締めパフェ?」
「知らない?」
「初めて聞いた」
「じゃあ試してみて」
藍里は苺のパフェと紅茶を、神谷はピスタチオのパフェと珈琲を頼んだ。
運ばれてきたパフェは想像していたより小ぶりで、食後でもちょうどいい大きさだった。
藍里はパフェをひと口運ぶ。
甘さが口いっぱいに広がり、自然と頬が緩んだ。
「美味しい」
「でしょ」
神谷は嬉しそうに笑い、自分のパフェにもスプーンを入れる。
一口食べた途端、目尻がふっと下がった。
そのあまりにも満足そうな表情に、藍里は思わず笑ってしまう。
「神谷くんって、甘いもの好きなんだね」
「うん。結構好き」
「意外かも」
「よく言われる」
少し照れくさそうに笑ってから、神谷は肩をすくめた。
「でも普通に好きだよ。ケーキとかパフェとか、たまに食べに行く」
「私も好き。ケーキも焼き菓子も好きだし」
「だと思った」
「何それ」
藍里が笑うと、神谷もつられるように笑った。
肩の力が抜ける。
さっきまで感じていたぎこちなさが、少しずつ消えていくようだった。
「あと、紅茶もよく飲むかな」
何気なく続けると、神谷が興味深そうに顔を上げる。
「どんなの飲むの?」
「いろいろ。アールグレイとかダージリンも飲むし、フレーバーティーも好き」
「へえ」
「この前は白桃のやつ買った」
神谷は少し目を細めた。
「紅茶、そんなに好きなんだね」
その言葉に、藍里はふと無人島でのことを思い出した。
好きなものはあるかと聞かれて、うまく答えられなかった日。
あのとき頭に浮かんだのは、自分のことではなく綾のことばかりだった。
自分が何を好きで、何を楽しみにしていたのか。
考える余裕すらなかった。
でも今は違う。
こうして、自分の好きなものを自然に話している。
それが少しだけ、不思議だった。
「うん。好き」
そう答えて顔を上げると、神谷と目が合った。
その眼差しは、あの日と変わらず優しかった。
ふと、言葉が途切れる。
紅茶と珈琲の香りだけが、静かに二人の間に漂う。
神谷は藍里を見つめたまま、小さく息をついた。
「今度はさ」
その声は、とても穏やかだった。
「本当に期待してもいい?」
藍里は神谷を見つめ返す。
あの日は、向き合えなかった。
でも、今は違う。
ゆっくりと頷く。
そのまま、目を逸らさずに。
神谷は何も言わなかった。
ただ、本当に嬉しそうに笑う。
その笑顔は、無人島で一度も見たことがないくらい穏やかで、幸せそうだった。
それを見た瞬間、藍里の胸の奥が、じんわりと熱くなる。
あの日、踏み出せなかった一歩を、ようやく踏み出せた気がした。




