君は誰を選ぶの?
藍里は、いつものように狼煙の火を見つめていた。
煙が細く空へ伸びていく。
最初の頃は違った。
これを見て、誰かが気づいてくれるかもしれない。近くを通った船が、この島を見つけてくれるかもしれない。
そんな希望を、毎日そこに込めていた。
けれど今は、もう違う。
狼煙を上げるのは祈りというより、ただの習慣だった。
藍里はぼんやりと海を見つめる。
日差しは強く、腕に落ちる光が痛い。
ふと自分の腕に目を落とせば、白かった肌はすっかり焼けてしまっていた。
ここへ来る前とは、何もかもが変わってしまったのだと思う。
そろそろ洞窟へ戻ろうと振り返りかけた、そのときだった。
水平線の向こうで、何かが動いた気がした。
藍里ははっとして目を凝らす。
遠い。波に揺れて、よく見えない。
けれど、確かにそこに何かある。
見間違いかもしれないと思っても、目が離せなかった。
細長い影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
一瞬、呼吸が止まる。
次の瞬間には、藍里は洞窟へ向かって走り出していた。
―――
「何か、何か海の向こうに……!」
洞窟へ飛び込むと、藍里は息を切らしたまま叫んだ。
うまく言葉にならない。
けれど、ただならない様子だったのだろう。
和泉が真っ先に立ち上がる。
「どこだ」
低い声が飛ぶ。
藍里が海の方を指さすと、和泉はすぐに外へ駆け出した。
佐伯と神谷も続き、藍里もそのあとを追う。
全員で海を見た。
水平線の向こう、白く光る海の上に、小さな影が浮かんでいる。
「……船、じゃないか?」
先に声を漏らしたのは佐伯だった。
船だった。
本当に、船だった。
和泉が真っ先に走り出す。
砂浜に落ちていた金属片を掴み上げると、それを佐伯へ向かって放った。
「狼煙だけじゃ気づかんかもしれん! 反射させろ!」
さらに声を張り上げる。
「全員、手を振れ! 叫べ!」
「助けてーっ!」
佐伯が真っ先に叫ぶ。
神谷も続き、藍里も慌てて足元に転がっていたガラス瓶を掴んだ。
太陽の光を受けて、瓶が鋭くきらめく。
夢中でそれを振り、何度も叫んだ。
「助けて!」
喉がひりつく。
息が苦しい。
それでもやめられない。
和泉は今度は洞窟の方へ駆け戻り、乾いた葉を抱えて戻ってきた。
それを狼煙の火へ一気に放り込む。
ぼっと音を立てて煙が増え、白い煙が勢いよく空へ伸びていった。
全員が叫ぶ。
手を振る。
必死だった。
気づいてほしい、その一心で。
やがて、遠くから低い音が響いた。
汽笛だった。
島じゅうに響くようなその音に、全員の動きが止まる。
船影が少しずつ大きくなっていく。
波を切って、まっすぐこちらへ向かってくる。
助かった。
そう思った瞬間、藍里は洞窟へ向かって走り出していた。
―――
「綾!」
洞窟へ飛び込むと、綾が床に倒れていた。
起き上がろうとして、そのまま崩れたのだろう。
驚いたように目を見開いてこちらを見ている。
藍里は慌てて駆け寄り、その体を抱き起こした。
「お姉ちゃん……?」
綾の目がみるみる潤んでいく。
それを見た瞬間、藍里の目にも涙が込み上げた。
「もう大丈夫」
声が震えて、うまく笑えなかった。
「助けが来たよ。もう終わるから……」
綾が泣き出した。
子供みたいに、声を上げて。
藍里もたまらず綾を抱きしめる。
腕の中の体は細くて軽いのに、ちゃんと温かかった。
涙が止まらなかった。
綾の背を撫でながら、藍里も一緒に泣いた。
―――
それからは慌ただしかった。
船員たちが島へ上陸し、和泉が代表して状況を説明する。
綾はすぐに担架へ乗せられ、藍里もそのそばについた。
神谷と佐伯も、それぞれ船員に支えられながら船へ向かう。
船はすぐ目の前にあった。
船の低いエンジン音が絶えず響き、船員たちの大きな声が飛び交っている。
ロープの擦れる音も、金属のぶつかる音も、何もかもがやけに騒がしく聞こえた。
ついさっきまで、聞こえるのは波と風の音ばかりだったのに。
人の声がこんなにうるさいものだったのかと、藍里はぼんやり思う。
綾の担架が運ばれていく。
藍里はその後を追いながら、まだどこか現実味のないまま、ただ綾から目を離せずにいた。
―――
船が動き出す。
窓の向こうで、島が少しずつ遠ざかっていった。
洞窟も、砂浜も、狼煙を上げ続けた場所も、みるみる小さくなっていく。
長く閉じ込められていたはずの場所なのに、離れていく景色はひどくあっけなかった。
あそこで過ごした時間まで、波の向こうへ置き去りにされていくような気がした。
藍里は船室のベッド脇に腰を下ろし、毛布に包まれたまま窓の外を見ていた。
綾もまた、ベッドの上からその景色を眺めている。
頬色はまだ悪いけれど、島にいたときよりずっと穏やかな顔をしていた。
藍里はそっと綾の手を握る。
温かい。
ちゃんと、生きている。
藍里は綾の手をもう一度握り直した。
そのとき、不意に扉が開いた。
顔を覗かせたのは佐伯だった。
「入っていい?」
「どうぞ」
佐伯はにっと笑って中へ入り、近くの椅子へ腰を下ろした。
「いやー……」
大きく息を吐く。
「マジで助かったんだな。これ、夢?」
藍里は小さく笑った。
「夢でたまるか」
「だよな」
佐伯が食い気味に頷く。
「ちゃんと現実だよ」
綾も笑って言った。
それからしばらく、三人で他愛もないことを言い合って笑った。
そんなふうに笑う時間さえ、島ではほとんどなかった気がする。
やがて笑いが落ち着いたころ、佐伯がふっと口元を緩めた。
「……で、こういうときに聞くのもどうかと思ったんだけどさ」
嫌な予感がして、藍里は顔をしかめる。
佐伯は楽しそうに身を乗り出した。
「藍里ちゃん、結局誰選ぶの?」
藍里は言葉に詰まった。
その瞬間だった。
「お姉ちゃんは私のだよ!」
綾が即答した。
一拍遅れて、佐伯が吹き出す。
「そっちが一番強敵だったか」
「当たり前でしょ」
綾が胸を張る。
藍里は思わず苦笑して、綾の手を握る力を少しだけ強めた。
佐伯はそれを見て、納得したように笑う。
「ま、そっか」
そう言って立ち上がる。
「じゃあ、待ってて」
「何を?」
「みんなの連絡先、聞いてきてあげるから」
藍里が呆れる間もなく、佐伯は扉へ向かった。
「もちろん俺のも後で教える!」
佐伯はそう言い残して、さっさと部屋を出ていく。
扉が閉まる。
綾が呆れたように笑った。
「もう」
藍里も笑った。
窓の外には海が広がっていた。
どこまでも青い水面が、光を跳ね返している。
もう、あの島へ戻ることはない。
それでも、あそこで過ごした日々が消えることはないのだと思った。
藍里は綾の手を握ったまま、静かに海を見つめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本編はこれにて完結となります。
次話からは分岐ルートとなり、神谷、佐伯、和泉、それぞれを選んだ場合の後日談を掲載します。
ぜひ、お好きなルートを楽しんでいただけたら嬉しいです。




